体の隅々を冷やしつくしては痛めつけ、俺の思考機能の約9割を奪うほどまでに猛威を振るった姿の見えない誰かさんは弱くなった。対照的に、体の芯から指先まで暖めてくれて、俺の思考回路を蝶々が飛び交う一面花畑に変えてしまうこれまた姿の見えない誰かさんが強くなった。前者は衰退し出し、後者は前線に出てきた。
 これだけでは何が何だか分からない方もおられることであろう。前者と後者の正体はまったく同じものである。余計分からなくなったか。
 端的に言えば、その正体は風である。前者と後者の違いは吹き時期にずれが生じているのと、寒暖の差があることである。となればもう簡単だ。冷たい風ではなく、暖かい風が街を疾駆し出したのだ。春の訪れを告げる暖かい風がな。
 散歩をするには絶好の季節、とはまだ言えない。暖かくなってきたとは言え、コートを手放すことはできないからだ。しかし、逆に言えば、コートを着ていれば、寒さなんて取るに足らないものとなる。よし、ちょっくら散歩でもしてくるか。


 俺は駅の西側にある小川沿いの道を歩くことにした。俺の他にも家族連れやカップルの姿がちらほらと見受けられる。どうやら考えることはみんな同じらしい。訪れる風と共に、白く可愛い梅の花が咲き誇っている。桜の花の蕾も膨らみ始めていて、今か今かと開花の時を待ち望んでいる様にも思えた。本格的に春が訪れると、この辺りはピンク一色に染まるのだろうな。別にいやらしい意味ではない。
 春は出会いの季節とも言われている。四月になれば俺も進級できるはずだ。クラス替えが行われて、一度も話したことのなかった女の子とお近づきになれる可能性がグンと上昇するのだ。そして、うまくことを運べば、今までの男ばかりのむさ苦しい学園生活に別れを告げることができ、可愛らしい女の子と華やかな学園生活を送ることができると言うわけだ。俺の脳内はピンク色になった。これは先程のピンク色とはまったくの別ものであることを言っておきたい。
 春は予想もしていなかった人物に出会うことができる。その人物が自分に幸せをもたらすか、不幸を突きつけてくるのを決めるのはお前の行動次第だ。ふと、親父がそんなことを言っていたのを思い出した。



「キョン」
 散歩を楽しんでいると、肩に手を掛けられ、背後から毎日嫌でも耳にする単語が聞こえてきた。人違いだろうか。いや、人違いにしか考えられない。キョンなんて呼ばれている奴はこの世にしか一人しかいないだろうからな。そして、俺はその人物が誰なのかよく知っている。
「こんにちは、キョン。どうやらキミは暇を持て余しているようだね。キミの身なりから散歩中であることがうかがえるよ。これは奇遇だな。実を言うと、僕も散歩中なのさ。どうかな? 御一緒に」
 人違いだったけど、人違いでは無かった。そんな感じだ。俺を呼び止めたその人は、俺のよく知る人物で、何回か話もしたこともある。少し変な性格をしているが、悪い人ではない。むしろ、よくできた人だ。才色兼備と言うにふさわしい女性である。
 俺はその人の方に向き直り、軽く会釈をして挨拶をする。
「こんにちは。こんないい天気ですからね。散歩をしたくなるのも当然ですよ」
 俺がそう言うと、その人はくっくっと喉を鳴らす、独特の笑い方をした。その笑い方は嫌味なところが無く、彼女が醸し出す、ミステリアスな魅力をさらに強調した。
「そんな畏まった言い方は止してくれ。キミにその物言いは似合わない。いつも通り、いやキミにしたらいつも通りではないのかもしれないけど、敬語なんてものは使わずに話してくれ。そう、まるで親友同士みたいにね。だからと言ってはなんだけど、僕もキョンと呼ばしてもらうよ」
 ようするに敬語は使うな、と。いつにもまして変な頼みだ。これまでにも何度か頭を捻らせられるようなことを言われたが、今回のはこれまで以上だ。彼女の意図がまったく理解できない。しかし、理解できないことを理由に、彼女の頼みを拒否することはできない。昔から、俺はこの人に頭が上がらないんだ。それに、俺をキョンという理由はやはり……。
「分かりまし、違う。分かった。じゃあ、せっかくだし一緒に散歩でもしようか。佐々木」
「御同伴させてもらうよ。キョン」



 美しい女性と肩を並べて歩くことは、男子高校生にとっての夢であり、希望であるだろう。で、俺はその夢とやらを図らずも実現させてしまったという状況にある。
 先程まで疎ましく思っていたカップルも、今では哀れみの目を送ることができる。それほどまでに、俺の隣にいる女性は美しかったのだ。もしかしたら、恋に落ちてしまうこともあるかもしれない。それが絶対無いことは分かっている。でも、そんな気持ちを錯覚させてしまうほどに、彼女は美しかったのだ。
「学校の調子はどうだい? 油断しているとすぐに成績が下がってしまうよ。キミはやればできる子だ。成績が芳しくないのは、キミが努力していないだけだ。授業中はしっかり起きていないとね」
 学校、もしくは家にカメラや盗聴器といった類の物が仕掛けられているのだろうか? 俺は彼女に学校でのことなんか一言も話していない。なのに、何故彼女はここまで的確に俺の学校生活を当ててしまうことができたのだろうか。
「何でそこまで詳しく知っているんだ?」
 俺がそう言うと彼女は再び喉を鳴らし笑い出した。まるで、その質問を予期していて的中したことに驚き、そして喜んでいるといった感じであった。
「運命もここまでくると、笑うしかできないようだ。僕は出鱈目のつもりで言ったんだ。もしやと思っていたけどここまでとはね」
 俺にはさっぱり意味が分からない。彼女に真意を訊こうとも、彼女は答えてくれそうにない。こういう人なんだ。俺の知りたいことは教えてくれなくて、どうでもいいことばかり話してくる。それに、現在、彼女は笑うのに必死で話せる状態じゃない。やれやれ。
 しばらくしてようやく落ち着いたのか、彼女はベンチにでも座ろう、と提案してきた。俺は少しばかし疲れていたので、断る理由もなく、それを了承した。
 俺は先に一つのベンチを確保し、彼女が来るのを待つ。彼女は少し遅れて、俺の座るベンチに到着する。手には二つの温かい缶コーヒーを持って。奢りらしい。
 貰った缶コーヒーで悴んだ指を温める。春が近いといえ、まだまだ寒いことには変わりない。
「どうして訊かないんだい?」
 彼女はベンチに座り、そう質問してきた。
 俺は敢えてそちらの方には向かず、目線は正面を向いたままで答える。
「何をだ?」
「僕がキミをキョンと呼ぶ理由だよ。キミはキョンであって、キョンではない」
 なんとなくだが、俺はその理由に気付いていた。彼女は俺を俺として見ていない。
「訊く必要が無いと思った。俺の予想は多分当たっているから」
「そうか……」
 彼女の表情が少し暗くなった。この時に、気の利いた言葉の一つや二つを掛けることができたら良かったんだが、いかんせん、俺にはそんなことはできない。ただ黙っていることしかできなかった。
「怒っているだろう?」
 ここで誤魔化す必要は無い。俺は本音で答えることにした。
「怒ってはいない。でも、佐々木のことは情けないと思う」
「情けない?」
 俺は彼女の方に顔を向けた。同様に、彼女もこちらに顔を向けた。
「佐々木は未練がましいんだ。過去のことを今の今までずるずると引きずっている。それはきっと佐々木が弱いからだ。自分の殻に閉じこもってしまい、本当の自分を押しつぶしているんだ。俺は知っているよ。佐々木は強い人だって」
 言ってから少し後悔した。十年やそこらしか生きてないクソガキが何を偉そうに言っているんだ。俺の人生経験なんて彼女に比べたら取るに足らない。本当は何も知らないのに、あたかも全てを知っているかのように話す奴なんて馬鹿だ。そして、俺はその馬鹿に該当する。
 彼女はきっと俺の話を聞いて不快に思ったはずだ。今度は俺が「怒っているだろう?」、と訊かなければいけないかもしれない。
 しかし、幸いにも杞憂に終わったようで、彼女は不快には感じなかったようだ。むしろ、数分前とは違って、心なしか表情に暖かみが戻っているように思えた。
「キミも言うようになったね。そうさ。確かに僕はキミの言うとおり情けないのかもしれない。いや、きっとそうだろう。僕は弱い人間だ」
 そこで彼女は一息置く、
「そしてもう一つ。僕はキミを買い被り過ぎていたようだ。やはりキミはまだまだ子供だ。分かっているようで、分かっていない。僕は過去のことに対して未練なんかこれぽっちも抱いていない。過去は僕が僕であるということを記した軌跡なんだ。それが良かれ悪しかれ、後悔するようなんてことは無い。僕は今と言う時間を大切にしている。そして、その時間が存在しているのも過去が存在していたからだからね」
 彼女はくっくっと笑いながら続ける。
「キミは僕は殻に閉じこもっていると言った。それは間違っていない。間違っているのは殻のことだ。僕は過去と言う殻ではなく、現在と言う殻に閉じこもっているのだろうね。きっと」
 俺には彼女が何を言っているのか訳が分からなかった。殻に違いなんてあるのか? そもそも現在の殻って何なんだ? 現在の彼女から判断して、閉じこもっているようには見えない。
「その殻をぶち破ろうとは思わないのか?」
 取り敢えず言うだけ言ってみた。
「そうだね。いつまでもこうしてはいられない。季節も春が近い。心機一転、新たなスタートを切るには打って付けの季節だ。僕もそろそろ歩き出さないといけないな。一緒に歩いてくれるかい、キョン?」
 俺の意思に関係なく、どう返事するかは決まっていたのだろう。俺はその答えに異論など無い。
「ああ。どこまでも一緒に歩いてやるよ」
 俺ははっきりとそう答えた。後悔なぞするわけがない。
 最後に彼女は微笑みながら言った。その微笑みはあと少しで拝むことができる満開の桜よりも数段と華やかで、気高く、美しいものだった。
「キョン、キミは年上の女性には興味があるかい?」



 ベンチでの会話の後、俺は彼女と別れ、帰路についた。家によって行かないかと誘ってみたが、俺の両親に迷惑が掛かるからと言って、断られた。俺の両親が人が一人や二人来たからといって、迷惑だと思うことなんかないのにな。
 家に帰ると、休日を利用して体を休めていた親父が話しかけてきた。
「お? 今帰ったのか。どこ行ってたんだ?」
 親父はソファの上で寝転がり、やらせくさいバラエティ番組を見ている。
「ただの散歩だ。お袋はどこだ? 腹が減ってんだが」
「ハルヒか? ハルヒは長門と二人で夕食を食べに行くと言って、昼過ぎには出かけて行ったぞ。出前でも取っとけってさ」
 父親はぐーたら寝ていて、母親は旧友と共に遊びに行ったのか。まったく、二人には是非佐々木さんを見習ってもらいたいもんだ。
「一人で散歩に行っていたのか? 女の子くらい誘ってみろよ」
 親父はテレビを消し、ソファから降り、伸びをしながら言う。
 どうやら親父は俺を見くびっているようだ。そうはいかんぜよ。
「一人なわけないだろ。女性と一緒だ。それも飛びっきり美人の。お袋と良い勝負だな」
 そう言った瞬間、親父の目が大きく見開いた。俺の言葉を予想していなかったらしい。そりゃそうか。俺もこんなことがあるなんて予想していなかった。
「それは同級生なのか? どういう奴なんだ詳しく教えろ。お前如きにハルヒみたいな上玉を手にすることができるわけ無いだろ。確認してやる。その娘の写真でも持って来い!」
 変なところで息子に対抗意識を燃やすのは勘弁してくれ。親父がお袋にぞっこんなのは重々承知しているが、端から見ればただの変態親父だ。
 ここで佐々木さんの名前を面白くない。少し困らせてやろう。
「写真なんて必要ない。親父もよく知っている人だ。というか、親父の方がその人に詳しいはずだ」
「はあ? お間は何を言ってるんだ? さっぱり分からん」
 それでいい。もっと困ってろ。
 不意に、部屋内にピリリと電子音が鳴り響く。発信源は親父のケータイだ。
「何だよ、こんな時に。んとっ、メールか。……佐々木からだ」
 親父はケータイの画面を見て、言葉を漏らす。
 佐々木さんって、タイミングが良いのか悪いのか……。
「佐々木さんは何て送ってきたんだ?」
 やはり状況が状況なだけに内容が気になる。俺は親父に訊いた。
「何でお前がそんなことを。まあいい。えっーと、


『キミの御子息の容姿は奥方そっくりだ。とても美しい容姿をしている。女性と言っても何人かの男性は騙されるだろう。しかし、内面的な要素はキミの生き写し。キョンそっくりだ。彼と話していると、キミの面影がどうしてもちらついてしまう。容姿は月とすっぽんなのにね。運命は恐ろしいものだよ』、


 だとさ。おい、これはどういう意味だ? お前、まさか佐々木と?」
 嫌な雰囲気が出てきた。早めに退散した方が賢明だな。
「じゃあな、親父。俺は部屋で寝てるから、ピザでも寿司でもいいから出前取っとけよ!」
 俺は一目散に自分の部屋を目指した。
「待て! どういうことか説明してから行け!」 
 親父の叫ぶ声が後ろから聞こえる。やれやれ。大人気ない親父だな。
「それは禁則事項だよ!」
 俺は部屋に入ると、鍵をしっかりと掛けた。


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