不思議なことに、その日、その瞬間……数ヶ月ぶりに立ち寄った生まれ育った街で、駅前の喫茶店の窓際の席に座り、注文したコーヒーを待ちながら携帯電話のモニタに目をやった、その瞬間まで。僕は涼宮ハルヒの事を綺麗サッパリ忘れてしまっていた。
 どうして今、涼宮ハルヒの事を思い出したのか、その理由は分からない。恐らく其処には理由や原因や経緯といったものは存在していないのだと思う。
 
 或いはそれは運命によって定められていた、やや理不尽な筋書きであったのかもしれない。

 僕はこの日、たまたま訪れた故郷の駅前の喫茶店で、涼宮ハルヒの事を思い出す。この世界の台本を覗き見してみたら、今日この日のページに、そんな注釈がされているのかもしれない。
 付箋か何かで記しが付けられていて……
 
 しかし、そんなものを運命付けたことで、この世界にどんな変化が齎されると言うのだろう。
 この世がこの世である為には、僕が今日、涼宮ハルヒを思い出さなくてはならなかった。
 僕が涼宮ハルヒを思い出すことによって、世界は世界たる所以を失わずに済み、全ての物事が、これからしばらくの間上手くいき続ける。
 そういうことだろうか?
 そういうことかもしれない。
 僕が涼宮ハルヒを思い出すという事がらが、世界の回転に関わるほどの大きな価値を持っているのだろうか?
 僕の脳が考える限り、そんな事はありえないと思う。涼宮ハルヒは、何者でもない、ただのすこし変わった女性であり、僕という人間はそれ以上に何者でもない、本当にただの男でしかないのだ。
 しかし、恐らくだけど、この世界の成り立ちや経緯のうちで、僕の脳が考えて納得できるような要素は多分一つとして存在していないと思う。
 僕は何者でもない、ただの湿気たソーダクラッカーのような男なのだから。
 それゆえに、例えば僕が涼宮ハルヒを思い出すと言う事が世界にとってとても重要な出来事であったとしても、僕は驚かないし、その可能性を否定する筋も無い。世界は常に、僕の想像をどれほども超越した次元で回っているのだから。
 
 コーヒーが僕の手元に届く頃には、僕はもう、涼宮ハルヒを探す手段を考え始めていた。
 何故僕が涼宮ハルヒを探し出そうとする必要があるのか。何故そんな事を思いついてしまったのか。

 僕には分からない。多分、これも世界が勝手に決めたことなのだろう。
 
 
     ◆
 
 
 僕が涼宮ハルヒの下へとたどり着こうとする上で、初めに行うべき事項は決まっていた。
 涼宮ハルヒを思い出した日の二日後。僕は新幹線で大宮駅へ舞い戻るや否や、長門有希に電話を掛け、日曜日の午前中のドーナツ・ショップという、この世の中で最も粗雑な空間へと呼び出した。
 僕が待ち合わせ時間に指定したよりも三十分ほど早くたどり着いたにも関わらず、彼女は僕よりも先に、薄暗い店内の中でも一際薄暗い柱の影の席に腰を掛け、僕を待っていた。
 
 「突然呼び出して悪かったよ」
 
 長門有希は、電信柱を見上げるような無益な瞳で、向かいに腰を掛けた僕に一瞥をくれた後、手の中で広げていた小さな文庫本を閉じ、頬の上に掛かっていた小さなレンズを取り、畳み込んで手の中にしまった。
 僕は彼女の前にコーヒーカップやドーナツが置かれていた形跡が無い事を確認すると、店員を呼び、コーヒーセットを二人分注文した。

 僕の注文が終わる寸前に、長門有希はとても小さな声で、コーヒーはアイスで。と、まだ学生であろう若い定員に告げた。
 
 「涼宮さんを覚えてるよね?」
 
 店員が去った後で、僕は長門有希の鉄仮面に向けて訪ねた。長門は活字を読むのと同じ表情のまま、僕の目を見つめ、その後で何かを考えるように視線を泳がせる。
 
 「彼女が今何処で何をしてるのか、君なら知ってるんじゃないかと思って」
 「何故彼女の事を?」
 
 何故だろう? それは僕にも分からない。例えばここで、僕が二日前に妄想した世界に着いての論説を口にしたら、流石の長門有希も、僕という人物を苦手に思うだろうか?
 
 「分からないけど、急に思い出したんだ。いつから彼女の事を忘れてしまってたのかも分からないんだけど」
 
 僕は嘘は着いていない。
 長門有希は一体何を考えてるのだろうか。氷河期のような沈黙と共に僕の目を見つめたまま動かない。
 
 「私は涼宮ハルヒの現在の所在地を把握している」
 
 随分と長い間沈黙を続けた後で、彼女は単語を空中に浮かべるように呟いた。
 僕は先ほど目前に運ばれてきたB・L・Tサンドウィッチの断面を観察しながら、彼女が次の言葉を紡ぐのを待った。
 しかし、どうやら長門有希は、それ以上のことを自分から告げるつもりはないらしい。
 このまま待っていたのでは、日曜日の時間は無益に浪費されてしまう一方だし、レタスの鮮度も死に行くのみである。僕はおもむろに、自分の皿の上のサンドウィッチを一つを食べ、ホットコーヒーをブラックのまま飲んだ。
 長門有希は動かない。本を読みたがっているのだろうか?
 
 「それを僕に教えてくれはしないのかな」
 「推奨は出来ない」
 
 彼女から言葉を導き出すと言う行為は、決して短くない時間を付き合ってきた僕を持ってしても容易ではない。それは或いはB・L・Tサンドウィッチを作る作業に似ているかもしれない。僕がマスタードを塗らなければベーコンは焼かれない。ベーコンが焼かれなければ僕はレタスを千切らない……
 僕の手元に必要以上のペースで材料が運ばれてくる事は、決して無い。
 僕は一人でサンドウィッチを作っている。しかし、僕は何故だか、自分のペースを乱す手際の悪さを持った誰かが、僕のサンドウィッチ作りに介入してきているかのような錯覚を覚えるのだ。僕にとってのサンドウィッチ作りと言うものはそう言うものなのだ。
 だから僕は、これまでの人生の二十四年間で、サンドウィッチを作った事は一度も無い。恐らくこれからも、一度としてサンドウィッチを作る事は無いと思う。その分の労力を、長門有希との会話に費やしてしまっているからだ。僕にサンドウィッチを作っている暇はない。
 
 僕の世界についての考察は、或いは長門有希という女性の存在に基づいて形成されているのかもしれない。
 彼女の言動について、僕が理解し、納得できる事は決して多くない。仕事の上でも、そのほかの事柄についても。
 しかし恐らく彼女は、僕には到底理解出来ない次元で、自分自身の言動に確かな成り立ちを持っているのだろう。彼女が行う事は、彼女にとって常に全て正しい事なのだ。
 そんな彼女が言うのだから、きっと僕が涼宮ハルヒを探すと言う事は、彼女にとって正しいとは呼べないことなのだと思う。
 しかし、僕は涼宮ハルヒを探す。僕はきっと僕自身にも理解出来ない次元で、それが正しい事だと思っているのだろう。
 
 
     ◆
 
 
 何か心の奥底を揺さぶられるような、奇妙な灰色の空が、川越の町を被っている。アパートの窓から見た限り、街はまだ水の底に沈んではいないようだった。
 僕はカーテンを元通りに閉め、テーブルの上のノートパソコンに視線を戻した。
 モニタに表示されたサイトは、ウェブ上を検索する語句を提示する事を求めている。僕はおもむろに指を動かし、そこに『涼宮ハルヒ』という語句を入力し、エンターキーをタイプする。
 数秒の硬直のあと、画面は切り替わり、涼宮ハルヒという語句を含んでいるウェブサイトがこの世に存在しないとの旨が表示される。
 僕は溜息をついた後で、冷蔵庫まで足を運び、缶入りのクラブソーダを取り出して一息で飲み干す。
 カーテンの向こうで鳴り始めた雨音に気付く。
 
 
     ◆
 
 
 鶴屋さんは七年前となんら変わっていなかった。
 あの学生時代をそのまま冷凍保存した中から、間違って一人だけ解凍されてしまったかのようだ。

 彼女は池袋で信号待ちをしていた僕に、黒塗りの外国車の中から顔だけを出して声をかけてきたのだ。
 
 「こんな所で会うなんて思ってなかったよ」
 
 彼女が一つ口を開くたびに、周囲の時間が逆さに流れるような気がした。
 
 「仕事は上手く行っているかなっ?」
 「おかげさまで」
 「アタシの気のせいなのかな? キミはとんでもなく身長が伸びていないかい?」
 「ええ、伸びました。184cmもあるんですよ」
 「やっぱりかい? 最初はわからなかったよ。でも、そんなに身長があるのに、顔は昔のままだね」
 
 そうかもしれない。
 僕はこのところ、昔のことばかりを考えている。
 具体的には、あの頃の昼食のことばかりを。
 
 
     ◆
 
 
 「君はハルにゃんの事が好きだったのかな?」
 
 ロータリーの外れの喫茶店で僕と向かい合った鶴屋さんは、僕から涼宮ハルヒの話を聞き、開口一番にそう言った。
 
 「違うと思います、それは」
 
 僕は鶴屋さんとお茶を飲みたくなかった。しかし、彼女はどうしても、少しだけだと、僕をこの喫茶店へと連れ込んだ。
 

 鶴屋さんが嫌いなわけではない。それに、彼女が涼宮ハルヒの居場所を知っていて、僕に教えてくれるかもしれない。
 それでも僕は、彼女と向かい合って会話をしたいと思えなかった。
 何故だろう。
 或いは僕は、涼宮ハルヒに近づく事を恐れているのかもしれない。
 
 「涼宮さんが何処にいるのか、知っておきたいんです。なんとなく」
 「じゃあ、例えばアタシがそれを教えてあげたら、キミはどうするんだい?」
 「何もしないと思います」
 
 僕は言った。
 
 「ただ、知っておきたいんです」
 「どうしてだろうね?」
 「わかりません」
 
 怖いのかもしれません。
 涼宮さんの姿が見えない事が。
 
 彼女は今何処にいるんだろう。
 もしかしたら、僕のすぐ近くにいるのかもしれない。
 なんていうか、そういう。
 
 
     ◆
 
 
 僕は自分が夢を見ている事に気付く。
 夢の中で、僕はかつて通っていた、あの北高の屋上に立っている。
 真夜中だ。周囲は暗く、空には一切の光が無い。にもかかわらず、僕の存在している空間は、うっすらと光を帯びていて、僕は暗闇の中に迷い込むことなく、自分が北高の屋上に立っている事を理解する事が出来る。
 
 「どうしてあなたが此処に居るの?」
 
 その声の主を僕は覚えている。
 
 「涼宮さん?」
 
 僕は虚空に向けて声を放とうとする。しかし、空気は喉を掠めて唇の間から零れてしまい、声は生まれない。
 
 「違うんだ、涼宮さん。僕は夢を見ているだけなんだよ」
 
 頭の中で僕自身の声がする。
 なるほど、これは夢なのだ。
 僕は自分が夢を見ていることに気付く。
 
 「国木田!」
 
 続けて男の声がする。この声は一体誰の声だっただろう。
 僕はそれを上手く思い出す事が出来ない。
 
 やがて僕の目の前に、光の塊のようなものが差し出される。
 僕は何も考えずに、その光の塊に触れようとする。
 
 「あなたは思いだすべきではなかった」
 
 長門有希の声と共に、夢は終わる。僕はいつもの煎餅布団の上に横たわっている。
 
 
     ◆
 
 
 「寄ってかないか、俺んち」
 
 谷口は少しふらついた足取りで、僕より少し先を歩いていたが、ふと思い出したように振り返り、僕にそう告げた。
 
 「やめとくよ。邪魔だろ」
 「堅い事言わせねえよ。元クラスメイトだろ」
 「お前はいいかもしれないけど、彼女に僕が睨まれるんだ」
 
 谷口はまるで珍しい物を見るように眉を寄せ、僕の顔を覗き込んだ。
 
 「昔はそんなこと言うやつじゃなかったろ、お前」
 「そうだな」
 
 僕はあの光の塊の事を思う。
 
 「でも、僕らは変わらなきゃいけない。そう言う事を言うやつにならなきゃならない」
 「そうかね。そんな必要あるのかね」
 「ベーコンとトマトとレタスみたいなものじゃないかな」
 「そうかい」
 
 谷口は少し考えるように首をかしげた後、僕の方をバシと叩き、笑う。
 生温い風が、僕らの故郷の夜の街を駆け抜けて行く。
 
 「それが正しいんだ」

 僕は口に出してそう呟いてみる。しかし、その呟きは誰の耳にも届かない。
 
 僕はあの灰色の空に想いを馳せる。
 
 そして、あの僕の名前を呼ぶ男の声の持ち主の顔を思い出す。
 
 僕は全身を鈍く包み込む痛みを思い出し、涼宮ハルヒの笑顔を想いを馳せる……
 
 

 
  
 ……時が経つ――
 
  
 
  


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