俺は悩んでいた。どうしてこんな事になったのだろうか?どうしてこんな目にあわなければいけないのだろうか?



 艱難辛苦を引き起こすその原因は言うまでもない。橘京子のことである。
 最初の出会いは最悪なものであった。あいつは非道にも朝比奈さんを誘拐した。そして佐々木をハルヒに取って代わる神だと主張し、俺に対し協力せよと要請してきたのだ。
 ここまではまだよかった。いや、十分良くないのであるが、それ以降の振る舞いからすればずいぶんまともな物であったと徳川綱吉も東条英機も認めてくれるであろう。
 しかしその後の立ち回りは度を超えていた。佐々木の閉鎖空間に侵入してブートキャンプを行ったり、朝比奈さんの胸にヒステリーを起こしたり、そして今回のように意味不明な旅行に誘ったり……
 十分頭のネジが緩みきったその言動は、さながら風車に立ち向かうドンキホーテである。
 こいつのアレっぷりもそのうち対処しなければいけないのだが、それよりもある橘の言葉が、俺の喉につっかえた餅のように息苦しさを感じさせている。


 ――それは、あいつ自身が語った『復讐』と言う言葉。


 その一つに、長門の胸の脂肪を自分の胸に移し替えているのだという。九曜の力を使って。
 どうやら長門自身も気がついてないらしく、胸の件に関して長門にそれとなく聞いてみたが不思議な顔をして沈黙を続けたままだった。
 俺は素直に橘の企みを長門に話したのだが、長門は氷のような瞳を携え、抑揚のない口調で『そう……』と漏らしたのみであった。
 だが2年に渡る付き合いによって手に入れた、対長門用感情識別センサー(命名:俺)を持つ俺は、少し儚げで、哀哀たる感情を仄かに醸し出していることに気付いていた。
 そしてもう一つ気になる点。橘の復讐がこれで終わりではないと言うことだ。橘自身、これが一つめの復讐と言ったから、第二、第三の復讐はあると思って差し支えない。
 復讐をする理由としては推測がつく。恐らく前回の一件に関する復讐なのだろう。胸に関してかなり悩んでいたのにも関わらず、結果として以前よりも小さくなってしまったことに憤慨しているのであろう。
 気持ちは……まあ、俺も途中でエスケープした身であるから、あいつの怒りはある程度最もであるのだが、だからと言ってこのまま復讐を続けさせるわけには行かない。何とか阻止をしなければいけないだろう。
 だが、一体誰に対する復讐なのか、その点がいまいち理解できていない。
 本来自分の物であった胸(正確には腹回りの脂肪)を、自分に返却しようとしない長門への復讐のみで終わるのか、それとも他の人、たとえば散々自分を引っかき回し、馬鹿にした佐々木やハルヒに対する物か。それとも朝比奈さんに対する嫉妬か……。
 それらが全て対象になっている可能性も否定できない。
 一番協力的だった、長門に関してすら『復讐』と言っているのだからタチが悪い。
 朝比奈さんだけでなく、長門にまで負の感情を与えるとは真に以て許し難し。こんどこそ成敗する必要がある。あのいけ好かない未来人共々、懲罰を課さなければ俺の気が済まない。

 っと、それで思い出した。その未来人……まさかの爆弾発言をした藤原についての方も気にかかる。
 俺を気に入らない理由は、もう一人の未来人……朝比奈さん、特に数年後の姿である朝比奈さん(大)に対し協力的であること、そしてその既定事項を遵守していることが気にくわないのだとばかり思っていた。
 しかしその本当の理由が、自分は橘のことが好きで、俺と橘がイチャイチャしているように見えるのが気に食わず、そして嫉妬しているだけだったとは……いやはや気が重い。重すぎる。
 博識かつ賢明念である方々には説明の必要は無いと思われるが、万に一つも思い違いをしている人がいると癪に障るので、念のため弁明したい。
 俺は決してあいつとイチャついているわけではない。あいつが勝手にそんなことをするだけであり、傍からはそう見えてしまうだけに過ぎない。俺はそんな気など微塵もないし、今後もご免被りたい。
 それに俺がもし橘と本気でイチャついているのであれば、それこそハルヒと佐々木の二人に刺されてしまう。神の力云々とは関係なく、言わば女の嫉妬の塊がそうさせるであろう。
 ハルヒや佐々木が俺に好意を寄せてくれているのは、正直言ってありがたい。二人とも怒らせさえしなければ、将来的に器量の良い伴侶となり得るだろう。少々変な性格をしているが、それは上手くコントロールさえすればそれ程問題がなさそうである。
 だが、この国にこの時代に生を受けた以上、俺はどちらかしか選ぶことが出来ないのである。それに俺は法律云々より、両方の相手をするほど器用でもない。
 まあ、それに関しては追々決めることも出来る。時間はタップリあるんだ。急いては事をし損じる。ゆっくり決めればいいと思って、のんびり構えるさ。
 話がそれたな。そんなことはどうでもいい。それより問題なのは橘の方だ。いまのままのボケツッコミを繰り返していると、ハルヒと佐々木に加え、藤原までもが俺と橘の仲に関して変な誤解を持ってしまう。
 それは何とかして回避させたい。どうすればいいのだろうか……?
 ――キョンくん。どうしたんですか?――
 いや、少し考え事をしてて……って橘!どうしてここにいる!! 
 ――いやだなあキョンくん。もう忘れたの? あたし達二人きりの旅行だって言うのに――
 俺は首をかしげる。二人だけの旅行だと?
 ――キョンくん。ありがとう。あたしとっても嬉しかった――
 橘は大きめのシャツ一枚を羽織り、そして髪は下ろしたままの、まるで風呂上がりのような格好のまま俺の部屋に現れていた。そして俺が潜り込んでいたダブルベッドに腰掛け、優しい笑顔を見せた。
 何だ、俺がお前を喜ばすようなことをしたか?
 ――もう! 分かってくせに。佐々木さんや涼宮さんじゃなくて、あたしを選んでくれたんですよね。キョンくん――
 は? と聞き返す。なんだそりゃ?
 ――あたしが伴侶にふさわしい、一生を共にしたいって聞いたとき、とってもうれしかったわ。佐々木さんや涼宮さんもあたし達の関係を受け入れてくれたし。これ以上幸せな時って、もう無いのかも知れないわ――
 ちょっと待て! 誰が伴侶だ! 一生を共にしたいと言った! 俺はそんな気は無いぞ!!
 ――まーったまた、照れちゃって。相変わらずのツンデレですね。キョンくん――
 人の話を聞けぇ!! 
 ――そうやって怒られたのもいい思い出ですよね。あ、あの……あたし恥ずかしながら初めてなんで、よろしくお願いしますね――
 よろしくお願いします? 何を?
 ――そ、そんなこと女の子の口から言われないでください! それともアピールが足りなかったのかな? キョンくんって象の神経並に鈍いし……? じゃあ、これならどう?
 言って橘は、下ろした髪を一括りにして、そしてゴム紐で縛り上げた。
 ――じゃーん! ポニーテールなのです。これをやるとキョンくん盛り上がるんじゃないのかしら?――
 盛り上がるどころか、かなり反則だ。レッドカード退場ものだ。加えて劣情を奮起させるその格好を見れば、理性が吹っ飛ぶのも訳ない。俺は思わず目を背けた。
 しかし、どうして橘はそんなに積極的なのだ?
 ――もう忘れちゃったの? あたし達、今日が結婚初夜じゃないですか。披露宴の後に止まる一つの部屋。夫婦の初めての共同作業……いえ、ケーキカットの次の共同作業は、アレに決まってるじゃないですか?――
 ままままままさか……アレって言うのは……アレですか……?
 ――くすっ、あまり痛くしないでくださいね――
 橘は目を瞑り、俺に迫ってきた。やばい、やばすぎる。俺の理性と言う防波堤から、超えてはいけないものが超えていきそうだ。
 俺は必死になって脳内防波堤の上に、即興でこしらえた砂袋を積み上げる。
 もう少し。もう少しで一線突破を回避できる。頑張れ俺!

 ――ふふふ、キョンくん、は・や・く・し・て――
 刹那。微笑みとともに橘の、ポニーテール姿の橘の髪がふわっと揺れた。
 ガッシャーン ザーッ……

 これは俺の心の堤防が完膚なきまでに決壊した音だ。
 一度理性を失えば後は早い。俺は橘の肩に手を回し、そしてその唇に迫っていく。
 ――キョンくん。あたしはあなたものよ……キョンくん……――



「キョンくん……キョンくん」
 ……キスの前にそんなに名前を連呼するな。黙ってろ。


「いい加減起きてくださいー!!」


 ガンガンガン!!


「うをぁ!!!」



 ――そして、俺はベットからひっくり返った。




 最初に目に入ったのは窓。朝日が俺の顔を照らしている。外は既に明るさを取り戻していた。
 次に目に入ったのは俺を呼んでいた声の持ち主。ダークグリーンのスウェット姿にエプロンを巻き、しかも三角巾を頬被りした彼女は、シャツ一枚の姿と打って変わってセクシーさなど微塵も感じさせない。
 おまけには何故か片手にお玉、片手に中華鍋を持っている。まるで一昔前のコメディアンが演じる『うちのかーちゃん』か、あるいは『騒音おばさん』みたいな風体だ。
「あ、やっと起きましたね。ご飯ですよ。皆さん待ってます。今日もあたしが腕によりを掛けて作ったのですから、沢山食べてくださいね」」
 ――そう、今回の合宿の幹事、いや炊事洗濯当番である橘京子が俺を起こしに来たのだった。
 俺はふと周りを見渡す。ペンションの1室、もちろん一人部屋。俺が寝ているのはふわふわ布団を敷いたダブルベッドではなく、安っぽい造りのシングルベッドである。
 ……なんだ、夢か。……そうだよな。これが現実だよな。はぁ、期待して損した。
 俺は頭を軽く振って、脳内を現実世界に引き戻した。
 ダブルベッド一つしか無い時点で最初に気づくべきだった。さっきまで見ていたものが夢だって事に。
 しかし、なんつー夢を見たんだ俺は? フロイト先生からも見放されてしまうかも知れない。マジ最悪だ。
 俺はやけにニコニコ顔の橘を眺めつつ、やれやれとうなだれたのであった。



 橘と一緒に食堂へ向かう途中、ただ黙って歩くのも味気ないと思った俺は、世間話でもするかと橘に声を掛けた。
「……で、何でそんな格好しているんだ?」
「決まってるじゃないですか。朝ご飯を作るためですよ」
「スウェット姿でか?」
「あ、いや、これは……昨日の雪かきやら何やらで、あたしのお洋服が泥水や汗で汚れちゃったんで、洗濯したんです。乾燥機にかけたんで、もうすぐ乾くと思います」
 なるほど……それにしてもダッサイジャージだな。学校指定のものだろうか? 自分で買った物だとしたらこいつのセンスはそこはかとなく劣悪な物であると俺が太鼓判を押してやろう。
「そ、そんなこと無いです! キョンくんはファッションセンスと言うのが分かってないのです! これは最近流行りの3本ライン入りのスウェットなのです!」
 それって、かなり昔に流行った気がするが……俺の気のせいだろうか? もしかして、以前差していたあのブランド物の傘はまぐれだったのだろうか?
「それより、今日の朝ご飯はあたしが腕を振るいました! 森さんよりもうまく作った自信はあるのです! ですからじゃんじゃん食べてくださいね!」
「またそうやって森さんを卑下して。聞こえたらどうなるかわかってんだから、本当にいい加減学習しろ」
「ううっ、すみません……」
「しかし、どうしてお前が朝飯を?」
「それはですね……ふふふ、キョンくんが美味しいって言ってくれたから、また作りたかったんです」
 な、なんと!?。 突然の爆弾発言に、先ほど見た俺の夢と橘の笑顔がリンクした。
「そ、それは本当か?」
「……ごめんなさい、嘘です。昨日のお仕置きの続きで、森さんに命令させました……」
 な、なんだ……びっくりした。しかしそんな表情など微塵も見せず、橘に切り返した。
「だと思ったよ。だから森さんの悪口を言うなって言ったんだ俺は。身にしみて分かっただろ、森さんの怖さが」
「はい……正確に言うと、最初にお会いしたときから恐怖は伝わってきたんですが、ここで引き下がったら負けかな、なんて思いまして対抗しようと」
「対抗しても勝てないだろ、アレには」
「ええ、人間業じゃないですからね」
「お前、酷いこと言ってるな」
「キョンくんだって、アレ扱いは酷いんじゃないんですか? 森さんが聞いたら怒りますよ?」
「おや、こいつはうっかり」
「ふふふ、うっかりしたらダメですよ。森さんに言いつけてやりますから」

『あははははははっ』

 橘は愉快そうな表情をさらけ出し、笑顔を見せてくれた。昨日はやや不機嫌だったはずの橘であったが、今日の機嫌はそこそこ良いようだ。もしかしたら藤原の手伝いがいい方に向いているのかも知れない。
 佐々木を中心にして盛り上げるための仲間がいることを実感して、気分が良くなっているのかも知れないな。この調子でKYな性格が払拭される事を切に望むばかりだ。
「うぃーす」
「みなさん、キョンくんを連れてきました!」
 ペンションのダイニング。そこには皆が既に勢揃いし、楽しい朝食と、希望に溢れた一日が始まりを――


「キョン。朝から楽しそうね。そんなに橘さんとの会話が欣快なものだったのかしら?」
「全くだ。それとキョン。僕や涼宮さんが起こしに行っても無反応だったのに、橘さんが起こしに行ったときだけ起きて、しかも仲の良さ見せつけてくれるとは……はてさて、これは一体どういう事か、簡潔に説明してくれると嬉しいのだが。キョン」

 ――訂正。恐怖の朝食と、絶望に苛まれる一日が始まりそうだ。


 昨日俺の家に不法侵入してきて、しかも無許可でガス水道電気を使用して作った橘の朝食は非常に芳醇たる味わいだったことは脳細胞の片隅に残っていた。
 しかし、今日の朝食に関してはハッキリ言って味が分からなかった。だが決して料理が不味いわけではない。いや、実際には美味しいのだと思う。
 もう少し正確にお伝えしよう、味が分からないというよりは味わえなかったのだ。
 ハルヒと佐々木の一見料理をほめているようで、その実思いっきり刺々しい言葉に俺の舌が麻痺していたのだ。
 今もリアルタイム、ing形で佐々木とハルヒの会話が聞けるから、興味のある人は聞いて欲しい。
 興味のない人は……耳をふさいでくれ。


『この卵焼き美味しいわね。隠し味にイリコの出汁なんか使っちゃって。そう言えばキョンの好物の一つだったわね。このイリコ風味の卵焼きって』
『こちらのタクアンも塩味がまろやかで、芳醇たる旨みを十分引き立てている。何時だったか、キョンの家で食べたものと同じ味わいだね』
『なぜキョンの好物を、橘さんが知ってるのかしら?』
『なぜキョンの家のお袋の味を、橘さんが受け継いでいるのかしら?』
『不思議よね……ふふふ』
『今度、橘さんの脳内を不思議探索してもいいかもしれないね……くくく』
『あら、それ面白そうね。古泉くん、手配できるかしら?』
『ええ、親戚に大学病院の名脳外科医がおりまして。確かサンプルを切に所望しておりました。そのようなことであれば喜んで手伝ってくださるはずですよ』
『大いに期待しているわ、古泉くん。……あらでも、そうすると橘さんの運命ってどうなるのかしらね?』
『大丈夫だよ涼宮さん。彼女の脳内は清められて、天に召されるような居心地だよ、きっと』
『そのまま天に召されればいいのにね』
『全くその通りだ』

『あははははははは』

「…………」
 ハルヒと佐々木と古泉が楽しく(?)談笑している中、俺は沈黙を保っていた。今の俺なら長門や九曜にだって負けないくらいポーカーフェイスをしているという自覚がある。というかそうしてないと絶対巻き込まれる。
 わかっただろ?こんな状態で楽しく食事など出来るはずもない。橘なんか隅で縮みこまっているし。……あ、正確にはそれプラス森さんのスマイルに睨まれて身動きとれないんだけどな。
 なお、普段は姿を見せない孤独な未来少年藤原は俺を睨みつづけていた。しかし俺にそのケはないので、こちらに関しては見事なまでに我関せず、無視を貫き通した。
 朝比奈さんも橘同様、干上がったクラゲのように小さくなり、長門と九曜はいわずもがな。
 これで今日一日の運命が決まった気がする。今日も橘に振り回されるという、星占いでも血液型占いが最高の運勢を示してもカバーしきれない、最悪な一日ってことだ。
 恐怖の朝食を命からがら逃げ出してきた俺は、本日の講習を始めることになった。
 本日開催されるスポーツははスキーではい。なんとスノーボードだ。もちろん提案したのはハルヒと佐々木であり、いつもの如く反対者が出なかったため可決されたのだった。
 はて、昨日まではボードをやるなんてことは一言も言ってなかったはず。俺の何でいきなり変えたんだとの質問に、二人は『今時スノーボードくらいできて当然でしょ、当然』と言う返答をした。
 今時というのがいつの時代のことを指すのかは皆目検討もつかないのだが、流行につられて二人がスノーボードを始めるとは少々予想外だった。
 こいつらのことだから、スノースクートとか、あるいはノルディックとか言ったマニアックなウィンタースポーツを提案すると思っていたのだが……まあ、考え様によっては普通の感性を持ち始めてきたといってもいいのかもしれない。
 それに俺がいくら反対して、嘆願書を突きつけたとしても二人の我侭娘は声をそろえて言うだろうしな、『却下』と。
 そう言うわけなので、俺は腹をくくり、本日のウィンタースポーツに身を投じる覚悟をした。
 因みに俺はスノーボードは初体験で、滑れるかどうかと言われれば自身がない。スキーと同じような感覚で滑ればいいのだろうか?
 ハルヒの事だ。どうせまた『誰が一番早いか競争するわよ!等といって、競争させられるに違いない。余りうまくならないほうが身のためかもしれない。



 寝室に戻ってスノーボード用のウェアを着込み、そしていざ出発しようとするまさにその時、ドアをノックする音が聞こえた。
 俺がどうぞと言うと、扉が開き、常に微笑みを絶やさない少年が俺に声を掛けてきた。
「どうも。昨日はお疲れ様でした」
 ああまったくだ。まさかあんなに変な方向に話が飛ぶとは思ってなかったからな。
「ええ。僕たちにとっても奇想天外と言っていいような出来事でした。まさかあの彼が橘京子に好意を寄せているとは」
 お前の機関でも分からないことがあるんだな。
「様々な情報網を通じてありとあらゆるデータは蓄えていますが、彼がロリコンだったことだけは意外でしたよ」
 ロリコンって……確かに橘はツインテールなどと言う今時の高校生がしていないような髪型をしているし、言われればロリっぽいかも知れないが、それはちょっと酷すぎるだろ。朝比奈さんのほうがよっぽど下級生に見えるぞ。
「朝比奈さんは平均的な女子高生よりも小柄で、確かに制服を着ていないなければ高校生と判別できない体つきですからね。ただし、橘京子と朝比奈さんとの間には、決定的な違いがあります」
 古泉の言いたい事は分かった。がここは一応振ってみることにする。
「なんだ、それは」
「胸の大きさ、です」
「ああ」と頷く。朝比奈さんは栄養が殆ど胸に行ってしまって、他のところの成長が遅れているような感じだからな。
「実はその件で、僕は一つの仮説を見出したんです。彼……藤原と名乗る彼が、何故橘京子に興味を抱いたか、と言う件に関してです」
 また意味不明かつ論理多破綻気味の迷走理論か。言うな黙れと言いたいところだが、どうせ黙れといっても喋りだすんだろうお前は。言うだけ言ってみろ。
 俺の言葉に古泉は目を細め、
「彼は未来から送られてきた刺客で、時空管理者兼涼宮さんの監視者としてとして滞在している朝比奈さんに手出しし、未来への優位性を奪い取ろうとしているのかも知れませんね」
 そしてやはり珍推理をし出す古泉。また始まったか、こいつは。しかも突拍子もないことを言い出しやがって。
 しょうがない、突っ込んでやるか。
 朝比奈さんに手を出すことによって藤原、あるいは藤原の意見に賛同している未来人ご一行様が望む未来へと繋がるとでも言いたいのか?
「ご名答。素晴らしい観察眼です」
 そんなアホなことがあるか。ならば聞くが、なぜ藤原は自分の既定事項を無視して、橘が好きなんだなんて言う電波を発しやがった? あいつら未来人にとって、既定事項を変更することは禁則事項に該当するんじゃないのか?
「彼の言う既定事項がどの程度まで許容されるのかは知るよしもありませんが、必ずしも朝比奈さんに手出しする必要は無いのかもしれません」
 はあ? また意味不明なことを……
「朝比奈さんの代わりに、橘さんにちょっかいをかけても自分達の優位は保たれるということです。となれば、彼の趣向にあった方がに心が傾くのは当然の理だと思われます」
 ……古泉、お前の言いたいことは何となく分かった。つまり、あいつが貧乳好きだってことだろ?
「またもご名答です」
「そしてさっきの未来人云々の話、推理どころかお前の妄想だろ」
「素晴らしい。これで三連続ストライク。ターキーですね。ちょっとしたサプライズエッセイですよ」
「…………」
 俺はこのとき、こいつの推理は未来永劫絶対に信用しないことを誓った。
「冗談ですよ、冗談。それよりも僕の推理を本気で信じていただけるとは。これは光栄の極みで御座いますね」
 にこやかなスマイルにウィンク一つ。古泉は楽しげに俺にサインを送った。止めろ気持ち悪い。男にウィンクを貰っても鳥肌が立つだけだ。
「ごもっともです」
 分かってるなら止めろ。
「いえいえ。あなたの先見の明の鋭さには目を見張るものがありますからね。僕もこのようなキャラクターを貫いている以上、何としてでもあなたを出し抜きたいという心理を胸中におさめていても何の不思議はないと思われるのですが」
「なんだ。俺が余り目立つと、自分が目立たなくなるから何のかんの言ってしゃしゃり出てきているだけか」
「う……き、禁則事項です」
 人差し指を鼻に当ててウィンクするな気持ち悪い。それよりな古泉、お前が目立つと森さんが黙ってないんじゃないのか?」
「あ……」
 ……くそ、やっぱり帰りたくなってきた。財布に福沢先生が大量にいれば速攻帰る予定だったのに。
 古泉の財布強奪したろーか。



「今日もいい天気ね! ジャンジャン滑るわよ! 未滑走の新雪ゾーンなんて、完膚なきまでになぎ倒す勢いで行くわよ!」
 団長の開会宣言によって、二日目の合宿がいよいよ開催となった。
 俺はスノーボード特有のソフトブーツを履き、板を手に取ってリフトへと向かった。初心者は板をつけたままリフトから降りるのはやめた方がいいと教わったからだ。
 朝比奈さんも同様に板を担いでリフトに乗り込んだ。ハルヒや佐々木、古泉は経験があるらしく、片足に板を装着してリフトに乗り込んだ。
 長門と九曜も初めてのはずだが、そんな注意事を言わなくても大丈夫だろう。むしろ両足装着状態でもリフトの乗り降りができそうだ。
 そして今回一番驚くべきことは、なんと孤独の未来人、藤原がスノーボートを始めようとしているのだ。あれだけイベントの参入に拒んでいた奴なのに、取って返したかのようになるとは。何が原因だろうか?
「あんた達と群れる気は微塵も無い。この時代の古めかしいスポーツ文化を学ぶことで、こちらの優位を持たせるためだ」
 素直に『やってみたい』って言えばいいのにな、このツンデレめ。
「なにもわかっちゃいない。このスポーツがどのような末路を辿るか。あんたたちはその規定事項に抗うことはできない。せいぜい今のうちに楽しんでおくことだ」
 それだけ言うと、藤原はやはり一人で皆と違う方へと向かって行った。結局、俺達と一緒に行動はしたくないって事か? 何がしたいのかよく分からんが、俺だってお前と同じ行動はしたくないし、どうぞ勝手にしてくださいってことだ。
 そして残る一人の問題児、橘の姿は――どこにも見当たらなかった。だがこれは俺の予想通りだ。恐らく朝ご飯の片付けに追われているのだろう。森さんに叱責を受けながら。
 災いの元がいないとはいい事だ。暫くは純粋にウィンタースポーツを楽しむことにしよう。



 リフトから降りた俺はハルヒに習いながらボードに靴をはめ込み、リューシュコードを足に巻き付けて立ち上がる。
「よし、行くわよ」
 待て、どうやって滑るんだ?
「横向いたら滑りだすから、ガーッと行くだけよ! じゃあ、先行ってるわよ!」
 ……ハルヒに教わろうとした俺が馬鹿だった。すまん佐々木。どうすればいいんだ?
「そうだな。横向いてガーッと行けばいいんじゃないのかな?」
 おいこら。
「くくくっ。ほんの些細な戯言だよ。あまり本気にしないでくれ」
 頼むぞ本当に。電波な発言は橘だけで容量オーバーなんだから、お前らの余田話まで手が回らないんだ。
「あ……すまなかった、キョン」
 佐々木の、顔を下げ力無さげに呟くという意外な行動に俺の方が戸惑った。
 いや、そんなに丁寧に謝られるとこっちも対応に困るんだが……
 俺がそんな事を感じていると、突然佐々木が顔を上げて、真面目な顔で話始めた。
「キョン。最近の橘さんについて、なにか奇異な変化を感じてないか?」
 いつものニヒルかつクールな表情とは裏腹に、どことなく思い詰めた、そんな表情が見て取れた。どうしたんだやぶから棒に。佐々木にしては態度が芳しくないぞ。
「奇異っていうか、いつものことだろ? ツインテールの右端からツインテールの左端まで、お花畑とチョウチョががヒラヒラ舞っているように見えるんだが」
「やっぱりキョンもそう見えるのかい? 実は僕も同じような光景が瞼にチラついているんだ」
 佐々木は穏やかな微笑みを半分ほど硬直させながら俺にそう伝えた。俺の言葉は半分冗談だったのだが、佐々木にとってはどうやら違うらしい。どうやらまじめな話のようだ。気持ちを切り替えなければなるまい。
「実は最近、橘さんの異常行動が目立つようになってきてね。気にかかっていたんだ。そして何が原因か個人的に探っていたんだ」
 異常行動って……やっぱりお前もそう思っていたのか。
「ああ。以前の橘さんは僕のご機嫌を取るのに必死だった。彼女の主張を正当化するように僕を持ち上げてくれていた。だが最近の橘さんは、むしろ僕を怒らせるような事の方が多い。
僕の楽しみにしていたおやつを横取りしたり、人前で僕を神扱いして怪しい宗教の人と勘違いされたり……」
 佐々木はこのあとしばらく橘に対する恨みを語っていた。話を聞く限り、どうやら佐々木も俺と同じような印象を持っているようだった。
 なお、個人的な感傷問題もあった気がするので、そこは適当に頷いておく事にするが、その描写を事細かく説明するのはスポンサーとの兼ね合いのため出来かねることをご承知いただければよきかなよきかなと甚だしく感じて止まない気がする。

「……この前など、僕が大事に保管していたベルギー製のチョコレートを無断で搾取していたな。そして何より、キョンにちょっかいをかけるのが一番解せないね。
僕が見る限り、キョンのことを本気で想っているようには見えないからさらに苛立つ。彼女の思考回路はどこかショートして、シナプスがリークしているのではないかな? 精神科病棟にでも連れて行ったほうがいいのかもしれない」
 佐々木は自分の不平不満を400詰め原稿用紙に10枚位以上に渡ってぼやいた後、俺に賛同を求めてきた。うーん、思考回路云々に関しては否定する気はサラサラ無いが……
「なあ佐々木。俺もあいつの奇行について少し疑問に思っていたんだ。そして今お前の話を聞いて、少し考察してみたんだ。ちょっと俺の意見を聞いてくれないか?お前にも少し関係することだと思うんだ」
「僕に? ……わかった。ならばキョンの意見をお聞かせ願いたい」
「あくまで俺個人の考えで、昨日不意に思い付いたことだから、信憑性にかけるかもしれないが聞いてくれ」
 俺は一呼吸置いて、そして佐々木に俺の仮説、いや、もしかしたら妄想レベルの論を説いた。



「あいつは、ストレスが溜まっている。その鬱憤を晴らすために奇行に走っているのかも知れない」



「え……?」
「順を追って話そう。あいつはふとしたことからお前の閉鎖空間に出てきた巨人を倒す力を手に入れた。それは聞いたことがあるよな」
「……ああ、橘さんから聞いたことがある」
 ハルヒと違い、当事者に説明出来るのがありがたい。古泉の能力をハルヒに言う訳にはいかないからな。……言ったとしても、信じてはくれないだろうが。
 俺は説明を続ける。
「しかしそれは本来あるまじき能力。あいつには先天的に備え付けられていなかった能力。そう思うんだ」
「そう言えば、橘さんもそのような事を言ってたような気がする……」
「超能力者と言う観点からすれば、古泉と同じだと思われがちだが、実は二人の能力に決定的な違いがある。古泉の場合は最初から巨人討伐能力を持っていた」
 俺はここでいったん言葉を区切り、下で滑走中の古泉とハルヒを見下ろした。
「……いや、ハルヒに持たされていんた。だが橘はそうではない。閉鎖空間に入る能力のみだったはずだ。しかし……」
「僕が、神人と呼ばれるもの達を暴れさせてしまっているから、彼女の能力に変異・改変が行われた」
 俺の言わんとする事が理解できたのか、俺が口に出そうと思った事を横取りして佐々木は話し始めた。
「そう。橘の能力は、それに対応すべく与えられた。この能力は、橘が言う『ある日突然気付いた』能力とは異なり、俺や古泉によって無理矢理引き出された能力だ。つまり、古泉の能力は先天性のものなのに対し、橘の場合は後天性のもの。本来あるまじき能力とはそういう意味だ。それを過度に行使すると、どうなるのか……」
「自分の精神に、瑕疵を生じさせる。そう言いたいのかな、キョン」
 俺は無言で頷く。
「そしてもう一つの仮説。橘を奇行に走らせているその原因は、他ならぬお前だ」
「僕が……原因?」
「ああ。今お前が持っている能力は、恐らくハルヒが持つものとほぼ同等のはず。あいつは機嫌が悪くなると閉鎖空間を生み出し、そして神人を暴れさせる。お前の場合も同じなんだろう。ずっと閉鎖空間が発生している点以外は」
「僕も涼宮さんと同様、不機嫌になると神人が発生し、そしてその討伐のために橘さんが力を使い、そして精神的ストレスを溜め、暴走する……ってことかな?」
「さすがは佐々木。飲み込みが早くて助かる。まあ、あくまで仮説だけどな」
 佐々木はふう、と溜息一つついて口を動かした。
「なるほど……確かにここ最近、イライラした日の次の日は、橘さんの元気なげに見えたんだ。大丈夫かと聞いても大丈夫なのです、気にしないでくださいとしか言わなかったから、敢えて気にしなかったのだが……」
 あいつらしいと言えばあいつらしい行動だ。よく言えば一生懸命な対応だと思う。しかし、少々過労気味ではないのか?
「確かに。このところ色々と機嫌が悪い日もあったし、橘さんにはプレッシャーを与えすぎたのかもしれない。それが彼女のストレスとなり、面妖な行動を取らせ、それを見た僕がさらにストレスとなり……悪循環だな」
 佐々木。悪いが今後、橘の行動について、大目に見てやってくれないか? 橘のためでもあるし、そして何よりお前自身のためにもなると思うんだが。すまないが、よろしく頼むよ。
「そのようなことであれば喜んで了承するよ。キョンにも迷惑をかけたくないしね」
 佐々木の顔からこぼれる笑顔は、いつもの独特なものでも、そしてハルヒが見せる元気いっぱいのものでもなかった。艶やかでは無いが、優しく慈愛溢れる笑みであった。
 まるで道端に咲く一輪の花のように。
 これでいいんだ。俺のカンだが、これで恐らく橘が抱えている悩みも解消されるであろう。そして怨恨も晴れ、復讐なんざキレイさっぱり忘れ去るだろう。
 一石二鳥だ……いや、被害を被る人が減る分、一石百鳥にも千鳥にもなるかもしれない。
「キョ~ン!佐々木さーん! 何やってるの! 早くきなさい!!」
 ゲレンデの彼方下。ハルヒの声だけが大きくこだまして聞こえてきた。ちょっと話が過ぎたかな。よし行くぞ、佐々木! 競争だ!
「あ、待って、キョン……!」
 不意をとられた佐々木はスタートが出遅れた。よし、もらった! 
 俺は思いっきり足を蹴り……


 ズドン


「……キョン。だから待てって言ったのに。スノーボードは初めてなんだろう? いきなり滑れるわけが無いじゃないか。それともスキーと同じ感覚で滑ろうとしたのかい?何にせよ、逆エッジには気をつけた方がいいね」

「…………」
 そういうことは早く言ってくれよ……
 俺は佐々木の言葉にそう反論しようと試みたが、しかしそれを叶える事はできなかった。
 後ろに倒れて思いっきり頭を強打して、言葉を搾り出す事などどうしてできようか?

 ……くそー、せっかくかっこよく決めてたのに最後の最後でこれかよ……しかも橘がいないとギャグ担当は俺になる運命なのかよ。
 勘弁してくれ……



 このあと俺はハルヒと佐々木と古泉によって、スノーボードの滑り方、ターンの仕方、エッジの立て方など、みっちりしごかれた。
 スキーとはまた違う感覚で、なかなか思うようには行かなかった。スキーから始めた俺にとっては、横を向いて滑ると言う感覚がよく分からん。真っ直ぐ滑られない上にどちらかのエッジを立てないとすぐこけるのもいただけない。
 何度後頭部を強打し、何度アイスバーンに膝蹴りをかましたか分からなくなった頃、しかし俺は木の葉ターンくらいはできるようになってきた。
 これも俺の努力と不屈の精神の賜物だと思いたい。すげえぞ俺。
「ようやくここまで滑れるようになったわね。ったく、あんたは本当にトロいんだから。フツーの人ならとっくにターンができる頃よ!」
 一人俺の苦労を無にするような発言をかます奴がいるが無視する。これでも一生懸命なんだ。そしてハルヒ。朝比奈さんなんて俺より上達が遅いのに、なんで俺だけに文句を言うんだ。
「まあいいわ。これでどこからでも滑ってこれるわね。それじゃ今からてっぺんまで登るわよ!」
 俺の話を聞いてない上に、またしてもでましたお得意の無理難題。
 いくらなんでも不可能ですお手上げですさようなら頑張ってくださいお一人で。
「何ブツブツ言ってんのよ。木の葉ができれば大丈夫よ。スキーならボーゲンができたらどこでも滑れるのと一緒なんだからさ」
 昨日モーグルコースで立ち尽くした奴はどこのどいつだっけ?
「ぐむ……余計なことだけは覚えているわね」
 ハルヒの口がペリカンのように尖った。
 素晴らしき才能と、溢れんばかりの知性をを持った我が団長様でも不可能なことがあったんだ。それなのにペイペイ如きが出来るわけないと思いますが。
「うー、キョンに言いくるめられたのは業腹だけど、昨日の一件は事実だし、しょうがないわね。あんたはこそで練習してなさい。あたしたちは上までいって競争してくるから」
 待て。一人くらいインストラクターをつけろ。このまま俺が上達しないのはSOS団にとっても不利益なんじゃないか?
「ったく、注文が多いわね……そうねえ……じゃ……」
「涼宮さん、わたしに任せてくれないかしら?」
「――佐々木さん!?」
「涼宮さんたちは滑ってきて構わないわ。キョンの指導は任せてよ」
「佐々木さん、あなたまさか……」
「大丈夫。あなたとの約束は守るから」
 約束……約束……そうか、以前ハルヒと佐々木の間で交わされた、お互い抜け駆けは止めようって言う条約か。えーと、PPPoEだっけ? いや違うか……?
「……わかったわ。でも条件があるわ」
「条件?」
「みくるちゃんも教えてもらえないかしら? キョンより上達遅くて、まだ立つ事がやっとなのよ」
 ハルヒの言葉に、朝比奈さんはふぇぇと可愛く悲鳴をあげた。恐らくハルヒの発言が意外なものだった為であろう。
 いやいや、これは願ったり叶ったりだ。ハルヒにしては破格の条件だ。朝比奈さんと一緒に滑れるのなら、先ほどから体に伝わる痛みなど我慢して、深夜までお付き合いする自信がある。
「わ、わたしもその方がいいと思います。あんなに高い山から滑る勇気、わたしにはありませんから。ごめんなさい、涼宮さん」
 加えて朝比奈さんも俺といっしょに滑る事をご所望のようだ。
 しかし、自分が悪いわけでは無いのに、ハルヒに対して平謝りをする朝比奈さんはやはりしおらしい。むしろハルヒの発言の方がおかしいと思うんだが、謙虚な対応はさすが部室専用のメイドである。
「うん……わかったわ、涼宮さん。その条件で行きましょう」
 佐々木もまたハルヒの提案を受け入れ、二人のコーチとなることを承認してくれた。
 ただ、ハルヒの意見を飲む際に、少し戸惑いが見られたのは……まあ、そう言う日もあるって事だろう。
「うん、決定ね。やっぱり適材適所、自分の能力に見合った場所で滑るのが一番ね。その方がいいわ。キョン、真面目に滑るのよ! 午後からは競争するんだからね!」
 はいはい、やっぱり行き着くところはそれなのか……競争や勝負とか、ちょっと殺伐し過ぎじゃないのか? もっとみんなで仲良く楽しくやろうとか思わんのか?
「いいじゃない、その方が面白いんだし。あんたそれとも競争がつまらないとでも言うの? 競いあってお互い高め合うことが大事なの。仲良くぬるま湯に浸ってたって、なにも上達しないわよ!」
 こいつに口答えした俺が馬鹿だった。もういい、それじゃせいぜい遊んできてくれ。こっちも負けじと練習するからよ。
 俺の諦めの顔とは対照的に、ハルヒは百ワットの笑顔を振りまいて頂上へと駈け登るリフトへと向かい……
「あ、そうだ、キョン」
 なんだ、まだ何か言い足りない事でもあるのか?
「あんた、あたしがいないからって言って、みくるちゃんを襲っちゃダメよ!」
「ひぇっ!!」
 誰がするか誰が。
「分かっているならよろしい。もちろん佐々木さんにも手を出しちゃダメよ! 佐々木さん、キョンがエロい事考えてたら天誅を与えてやって!
「心得た」
 心得なくてもいい。
「んじゃ、まったね~」
 今度こそハルヒはリフトへと向かって行った。
 橘がいないからと言って、平和になるわけでもなし。俺の精神的負担の軽減も誰か察して欲しいものだ。やれやれ……



「ほらキョン、体重が後足よりになってきた。それでは不安定ですぐに転倒してしまう。怖いかもしれないが前傾姿勢を保つんだ。その方が安定する」
「朝比奈さん、斜滑降で滑ることが出来たら、次は逆の足に体重をかけて。そうすると今度は逆の方に滑りだすわ。……そうそう、上手よ」

 俺と朝比奈さんは佐々木コーチの元、スノーボードの強化練習をしていた。こうして指導を受け練習に励むあたり、ああこれが本当の合宿なんだな、などと感慨にふけっていた。
 佐々木は的確かつ効率的な判断で、俺たちに教鞭を振るっていた。こうして見ると佐々木の教え方は本当にうまい。中学校の時勉強を教わったことがあるが、教師陣よりもティーチングが上手であったことを思い出した。
 佐々木は将来、教師か塾の講師、あるいはインストラクターになることをお勧めしたい。俺のカンとしては中学校の先生が良さそうだ。思春期まっさかりの生徒の悩みすらも親身になって聞いてくれそうだしな。ハルヒと違ってね。
 もう一つ佐々木に関して凄いと思うのは、俺と朝比奈さんとで言葉遣いをちゃんと住み分けているところだ。男と女が入り乱れた(ちょっと表現が卑猥だが他意はない)この状況でも佐々木はきちんと使い分けている。
 聖徳太子は同時に10人の言葉を聞き分けたというが、佐々木ももしかしたらそれに匹敵するかもしれない。全く持ってたいした奴だ。

「よし、少し休憩しようか」
「へぁぁぁ……」
「ふぅ……」
 俺と朝比奈さんは同時にその場にへたりこんだ。教え方はうまいんだか、少々スパルタ気味だな、佐々木は。そう思いませんか、朝比奈さん。
「え?えーと、うん……少しそんな気がしますね」
「二人のためを思って、心を鬼にして指導しているんだ、こっちの身にもなってくれないかな」
 少しムッとした表情ですかさず反論する佐々木。だが俺は感づいた。佐々木の目のつり上がった怒り顔が、その実やけに楽しそうな表情であることに。
 佐々木はそれに気付いているのかどうかは分からないが……休憩がてらちょっとからかってやろう。
「そう言って、実は楽しんでいるんだろう? 出来の悪い奴を弄って楽しむことを。お前には散々弄られたからな。中学生のときには」
「え、そうなんですか? 少し聞いてみたいです。キョンくん、よかったらお話ししてください」
 佐々木が口を開く前に朝比奈さんが興味津津な口調で俺に話しかけて来た。
「あの時のことを話すのは少し恥ずかしいんですが……いいでしょう、お話しします。あれは確か正月が開けてすぐの頃だったかな。塾で行った模試の出来が芳しくないことに憤慨したうちの母親が、家庭教師を付けるとわめき散らしたんです。これ以上勉強したら頭がパンクするからやめてくれって拝み倒したんだが聞き入れてくれなくて、さて困ったどうしようと思って、佐々木に相談したんです。どこのウマの骨だか分からない赤の他人が家庭教師をやるのはいやだ、母親を諦めさせる妙案は無いか、って。そうしたら良い説得方法があるから自分にまかせてくれって言って、いきなり俺の公衆電話から直談判したんですよ、俺の母親に。あせる俺を尻目に、電話が終わった佐々木は含みのある顔で『もう大丈夫だ。キョンの切願たるその望みは具現化してあげたよ』って言ったんです。正直すっげー感謝しましたよ、その時は。でもそれが佐々木の計略だって気付かなかったんです。今にして思えば、あの時見せた含み顔にもう少し疑問を持てばよかったんですけどね」
 朝比奈さんは、昔話を聞く子供のように目をキラキラさせながら黙って俺の話に聞き入っていた。
 俺は言葉を続ける。
「その日学校が終わって帰ってみると、嬉しそうな顔をした母親がやってきて、家庭教師は頼まないから、あんたはひたすら頑張りなさいって。朝比奈さん、どうですか? 佐々木は母親になんて言ったと思います?」
「え? ……さあ。何て言ったんですか?」
 俺の含みのある言葉に、朝比奈さんはぽかんと口を開け、返答に困ったかの表情をしていたが、実はもう一人、決まりの悪そうな表情で俺と朝比奈さんを見ているやつがいる。勿論言うまでもなく佐々木だ。
 俺はそんな佐々木の表情を、内心ほくそ笑みながら言葉を続けた。
「それじゃあ今からじっくり話しますよ。そして次の日……金曜日の放課後です。今日は塾もないし、速攻帰って漫画でも読もうと思って、鞄を持ち上げた矢先、佐々木が俺の袖を掴んだんです。俺はどうしたんだって声を掛けたんですが、佐々木はいきなり俺の鞄からノートを取り出し、今日の復習をするって言って、俺を机に座らせたんです。びっくりしましたよ。回りにいたのは掃除当番だった連中だけでしたけど、みんなこっちを凝視しましたね。すぐに何事も無く、無視するかのように掃除に戻りましたけど。掃除当番の邪魔だし、そして俺は家に帰りたいから止めろって言ったんですけど、そうしたら佐々木は『ならばキョンの家で続きをやろうか』なんて言いだして……今度は当番の連中、本当に固まってましたね」
 家に帰って母親に真相を聞いたら、『佐々木さんが勉強を見てあげるって言ってくれたから、家庭教師は止めたの。よかったでしょ。あなたも気心許せる人に教われるんだし』と教えてくれた。
 その後結局俺の家にまでついてきた佐々木にも文句を言ったんだが、佐々木は
「どこの誰だか分からない人に教わるのが嫌と言うことは、知り合いから教わるのは歓迎するって意味じゃないか。だから君の御慈母様にそう申し上げたところ、快諾してくれたんだ」
 などと言いやがった。
 くくくと笑う二人を尻目に、ああなるほど。佐々木と母親の含みある笑いはそう言うことだったのか。してやられた。まんまと引っかかったよ、と半ば呆然としていたよ。あの時は。
「佐々木は俺を教育するという名目の元、俺を弄って楽しむつもりだったんですよ」
 そしてうちの母親は俺の部屋に佐々木を通し、そしてその日を境にして連日続くスパルタ教育がテープカットをしたんだ。いまでも覚えているぜ、あの時のことは。
「何時だったか、俺が問題解けるようになるまで帰らないって言い張って、苦労した日もありました。もう少しで俺の家に宿泊させるハメになるところでしたよ。あの時ほど佐々木の人を詰る性格に勘弁して欲しいと思った日はないですね」
「ふふふふ……」
 朝比奈さんはくすくす笑っていた。どうやら掴みはOKだったらしい。
 だがその横で、不満たらたらの顔をしている奴がいる。俺の隣、ブーツを緩めて俺の話を聞いていたショートカットの少女が俺に反論してきた。
「だがそのおかげでキョンは北高に入学出来たんだ。僕の苦労も分かって欲しいところだよ。そうそう、キョンの母上は僕と同じ高校に入学させたかったみたいなんだが、そこまで僕の力が及ばなかったんだ。今度キョンの家に行った時は、ちゃんと謝罪しないといけないね。今度は一泊どころか一週間ぐらい缶詰状態で勉強させる所存です、って申し上げないといけないね」
 佐々木の皮肉に、俺も皮肉で返す。
「ああ、曲がりなりにでも第一志望の高校に入学出来たんだ。その件に関してはありがとうと言っておくよ。だが大学受験の対策専任家庭教師だけはこりごりだ。最近ハルヒまで俺に勉強のことでちょっかいをだしているんだ」
「ほう、それはいいことを聞いた。それでは涼宮さんに、キョンの成績をグレードアップさせる、ワーキングアソシエーションの発足を打診することにしよう」
 しまった、口が滑った。余計なことを言ってしまった。
「君はつくづく幸運な御仁だ。こうやって勉強を見てくれるボランティアがいるのだからね。それも複数人。この恩恵を還元してくれてもいいんじゃないのか?」
 お前らが好き勝手やっていることに感謝しろって言われてもな……
「そんなに難しいことはい。キョンが人に教えられることがあれば是非御教授願いたいってことだよ。寝坊のコツだとか、ボヤキのコツだとか、なんでもいい」
「はい!それについて意見があるのです! キョンくんはフラグを受け流すとか、フラグをへし折るとかが得意なんです! 佐々木さんも勉強すると良いのです!」
「くくくっ、それは良いアイデアだ。人の想いを踏みにじるのは確かに得意技だよな、キョンの場合」
「おい、なんだそれは?」
「おや、これだけ言ってもまだ分からないとは。かなりの大物だ」

「くくくくくっ」
「ふふふふふっ」
「あははははっ」


 佐々木の言葉に、俺を除いた三人が笑い声をあげ――


『えっ?』


 ――そして、俺を含めた三人が同時に声を上げた。

 疑問に思った人はさて何人いただろうか? 分からない人はよく考えて欲しい。先ほど笑い声を上げたのは、俺を除いた三人である。
 そして今ここにいるのは、俺と朝比奈さんと佐々木の三人だ。リフト降り場の横にある、休憩用のベンチに並んで座っているから間違いない。俺以外の人が笑ったのであれば、3-1で2人となるはずだ。
 小学一年生の計算問題を間違えるほど俺の脳みそは弱くないし、間違えることも無い。
 つまり、本来の人数より一人多いのだ。いったいどうして――?

「あれ? みなさんどうして固まってるんですか? お話の時間は終わりってことでしょうか? じゃあ滑り再会なのですね! あたしも頑張ります!」
 突然、俺の背後に悪寒が走る。後から聞こえた少し甲高いハスキーボイスは、先ほど俺のフラグがどうこう言ったのと同じ声であった。
 俺は、いや、朝比奈さんも佐々木も恐る恐る振り返り……

「みなさんお待たせしました。ようやく森さんの拷も……じゃなくて、お手伝いが終わりましたんで、あたしも滑ることにしました! よろしくおねがいします!!」


 災害は、忘れた頃にやってくる。
 注意一秒ケガ一生。
 油断大敵。

 俺の頭に様々な故事や諺が浮かんできた。
 しまった、俺としたことが本気でこいつのことを忘れかけていた。

 ――サンタクロース帽子のてっぺんについているボンボンを揺らしながら、橘京子は笑顔で俺達の前に現れた。



「や、やあ……橘さん。ようやくミッションをコンプリートしたんだね。無事で何よりだ」
 笑顔で問い返す佐々木。だが笑みが引きつっているのは火を見るより明らかである。橘の、あまりにも唐突な出現に驚いているのだろうか? もしかしたら話の腰を折られたことに腹を立てているのかもしれない。
「あれ、佐々木さん。どうしましたか? どこかおかげんが悪いのでしょうか?」
 いくらKYとは言え、流石に佐々木の表情には気付いたらしい。橘は心配そうな顔をして、佐々木に詰め寄った。
「い、いや……大丈夫だよ、橘さん。突然のことだったから少しアンカンファタブルになったけど、だいぶ回復したよ」
「そうでしたか。でもなんでいきなり……あ、わかった! さてはキョンくんのせいですね! あまり佐々木さんをいじめないでくださいね!」
 訂正。やっぱりKYだこいつは。一体どこをどうやって考えたらそんなふうな思考になるのか問い詰めたい。
「くくく……橘さん。夜道には気をつけた方がいいわよ。襲って来るのはなにも正面からだけとは限らないから……」
 さ、佐々木! 落ち着け!! 
「はあ、はあ、はあ……」
(さっきの約束忘れたのか? お前の気持ちは痛い程よく分かるが、ここは一つ我慢してくれ)
(ああ……あやうく我を忘れて邪鬼となるところだったよ)
 橘、頼むからあまり佐々木を刺激しないでくれ。お前の場合意図せず天然でやらかしてくれるからこっちも冷や冷やもんなんだ。

「……と、ところで、お前があんなにスキーがうまかったなんて知らなかったよ。どこで習ったんだ?」
 佐々木の怒りの矛先を変えるべく、俺は話題を変えることにした。
「あれですか? あれはあたしの組織の人に習ったのです。あたしなんてまだまだなのです」
「そう言えばお前、まだ数回しかやってないって言ってたわりにものすごく上手だったじゃないか。モーグルのエアーまで決めて。もしかしてそれも組織か?」
「はい。結構厳しいんですよ。組織のスキー合宿は。一回で一か月近く冬山に籠っての練習ですから。あたしよりうまい人はまだまだ他にもいるのです」
 なるほど……数回と言っても、内容の濃さと時間は普通の人とはかけ離れているってわけだ。これで納得がいった。
「たっ、橘さん」と話し掛けてきたのは何と朝比奈さん。朝比奈さんも佐々木を沈静化しようと画策しているらしい。
「今日も素晴らしい滑りを見せてくださいますよね?」
「え……?」
「そうだね。橘さんのテクニックには脱帽だ。スノーボードに関してもトリノを賑した兄妹より数段上の技を披露してくれるんだよね」
 佐々木も同意してくれた。やれやれ。どうやら大分落ち着いてきてくれたみたいだ。じゃあ俺も景気付けに一言。
「あ、あの……」
「そうだな。橘、期待してるぜ」
「……はっ、みんながあたしに期待を寄せてる……わかりました! 京子頑張ります!!」
 怒りが収まった佐々木と、純粋に技を見たいであろう朝比奈さんの激励により、橘のスノーボードテクニックが披露されることとなった。
 俺達三人は少し下った、コースの邪魔にならないよう端っこに待機し、いよいよ橘の素晴らしきテクニックを見る準備が出来上がった。
 俺は辺りを見渡す。さして大きくも無いゲレンデには、しかしボーダーと、そしてスキーヤーとでコースを割拠されていた。
 どうやら昨日のあのトリックを見ていた他の客達が、またあの子が何かやらかすという噂を嗅ぎつけて、こうやって群れを成していたのだ。
 俺達も少し得意顔である。橘の知り合いと言うことで、彼女に興味を持ったボーダーやスキーヤーが尊敬の眼差しを向けているのだ。
 中にはそれに乗じて朝比奈さんをナンパしようとする不埒な輩もいたのだが、俺が身を呈して庇ったため、朝比奈さんの純潔は保たれたままになっている。
 俺は俺で『あの娘と友達? ねえ、あたしにも教えてくれないかしら?』と綺麗なお姉さんに声をかけられた。正直、二つ返事で了承したかったのだが、佐々木の鋭い視線を受け、泣く泣くお断りする羽目になってしまった。
 その佐々木はどうなんだと思う方もいるかもしれない。
 あいつは俺が何かしなくても、自分を守る術を知っているから大丈夫だ。話し掛けてきたいかにもチーマー(死語かこれ?)っぽいボーダー達に儒教だか何だかの説法を説き、いわゆる変な女をアピールして退散させていた。

「いいぞー!橘!トリッキーな動きを見せてくれ!」
「は、はいっ!!頑張ります!!
 パンッと音を立ててボードがしなる。スタートする合図だ。
『…………』
 佐々木に朝比奈さん、そして俺も手に汗を握り、固唾を飲んで橘の動きに注目する。
 あれほど喧騒が立っていた観客も、皆一斉に沈黙した。

 そして――


「えぃやぁー!!」



 ペチッ



 ――橘はスタート地点から1mも進まない場所で顔面から雪に突っ伏した。


『…………は?』
 あまりといえばあまりのことに、皆が皆、間の抜けた声を一言発してしまった。
「いったぁーい! お鼻がいたいですぅ!」
 そんな中、橘の悲痛な叫びだけがこだました。
 橘はそれでも再び立ち上がろうとし――

 ペタンッ

 ――叶わずしゃがみ込んだ。うんしょよっこらしょと何度かトライするも結局立ち上がれない。


「ふぇぇぇん!誰か助けてください!!」


 えーっと……
 俺達はまさかの出来事に、顔を合わせてしかめる事しかできなかった。
「橘……お前、もしかして……」
「スノーボード、滑れないのかい?」
 俺と佐々木は橘に歩み寄り、そして交互に語りかけた。
「いたたたっ……はい、初めてです。でもこんなに難しいなんて……」
『…………』
 再び沈黙。まるで狐につままれた気分である。
 あれだけのスキーの才を見せながら、スノーボードはからっきしだったとは予想だにしなかった。
 確かにスキーとスノーボードは別スポーツといって良いほど基礎が違うし、片方がエキスパートであっても、片方が素人と言う事は当然ありえない話ではないのだが、あまりにも極端すぎる。
「やれやれ……」
 橘京子は本当に解析不能な行動を見せてくれる。長門は橘に進化の可能性を見出だせることが出来るかもしれないなんて言ってたが、自分達の予想とは違う生き物に興味を抱くってのもうすうす理解し得た気がする。

 だが、一つ大いに突っ込みたいことがある。本当にこんな風に進化したいんだろうか、宇宙人たちは。

『…………』
 橘の滑りに期待していた観客が一斉に散っていった。不満の声を囁きながら。先ほど俺に話し掛けてきた綺麗系のおねーさんや、佐々木をナンパしようとしたにーちゃんたちはこちらをジト目で睨みながらこの場を後にした。
『…………』
 俺達三人もあまりに期待外れだった橘京子のスノーボードテクニックを見て、俺たちも思わず沈黙。
「滑れないなら最初から滑れないって言えよ、全く……」
「おかげで少々恥をかいてしまったよ。クラーク博士ですら志を抱くことができないんじゃないのかな、橘さんには」
「……わたしが馬鹿でした。あんな事言っちゃったせいで……」
「いえいえ、朝比奈さんは悪くありません。できもしないことをやろうとした馬鹿がいけないんですよ」
「そ、そんなぁ……あたし、みんなが期待してくれているから頑張ろうと思っただけですのに……」
「臨機応変って言葉を知っているかい、橘さん。その時の状況や調子に合わせて適宜事を運ばないと。だからキョンにKYって言われてしまうんだ」
「み、みなさんの期待を裏切ってごめんなさいぃ……」
 目に涙を浮かべて謝罪する橘を見て沈黙する俺達。それを見てうっと思わず呟いてしまったのもまた同時だった。
 正直、強く当たりすぎたかもしれん。しかも俺達の勝手な思い込みも今回はあった。橘だけ避難するのはお門違いだ。俺達にも責任の一端はあるようだ。
「あ、あの……こうやって固まってても何ですし、橘さんを加えて練習した方がいいんじゃないでしょうか?」
 硬直状態からいち早く抜け出したのは朝比奈さんであった。橘との関係が薄い分、俺達ほどショックを受けてはいないようだった。
「そ、そうだね、取りあえずはみんなで練習しましょうか」
 佐々木も少し言い過ぎたと反省しているのだろう。同情気味の顔で橘をちらりと見て、朝比奈さんの提案に同意した。
「多少はよくなったとは言え、まだ序の口のレベルだ。早く上達しないと僕まで涼宮さんに叱られる。キョン、橘さん。厳しくいくから覚悟するように」
「ふぇぇぇぇ……」
「やれやれ……」
 佐々木のスパルタ教育再会に、俺と橘は異口異音に、ただしタイミングだけはぴったりに不満の声を漏らしたのだった。


 ――俺はこのやり取りが、後々マンモス級のイベントを引き起こすとなど微塵も考えていなかった。この時は、まだ。



「よし橘さん、それでは先ずはスケーティングから練習しよう」
「スケーティング、ですか?」
「ええ、固定していない方の片足で蹴って、勢いをつけて滑ることよ。それが出来ないことにはリフトすら乗れないからね」
「はあ、そうなんですか……わかりました。頑張ります」
 練習再会は、橘の初歩の初歩から教えることに始まった。俺も今朝方佐々木に教えてもらったやつだ。ただ、せっかちなハルヒのせいでリフトを降りてた場所で練習していたけどな。
 佐々木は先に滑ってくるといいと提案してくれたが、スケーティングはそんなに難しくもないし、すぐに覚えられるだろうから待つさ、と断った。
 正確には橘のボードに対するヘタレっぷりを見たかっただけなんだけどな。

「それじゃあいきますね……とりゃ~!……は、はにゃ!?」

 ポテッ

 勢いつけすぎて、前のめりになってバランスを崩しやがった。はっきり言って笑える。
「あいたたたた……」
 それでもめげずに立ち上がり、再び大地をけり……
 今度は勢いが足りず、すぐ止まった。
「橘さん、最初は少し強めがいいよ。いくら雪が摩擦抵抗が少ないとは言え、発進時には少なからず力がいるからね。それと先ほどは前荷重が過ぎていた。バランスを大事にしないとね」
「は、はい。ご指導ありがとうございます」
 橘の謝礼に、佐々木はあの独特な笑い声をあげた。なかなか良い友好関係が出来上がりつつあるようだ。この二人の仲がよくなれば万事解決すると思う。このまま」何ごともなくことが進めばいいが……
「キョン! 危ない!!
「へやぁぁぁ!! ど、どいてぇ~!!」

 ん? 佐々木と橘の声が……
 おうぁ!! 
『…………』

 沈黙が、あたりを支配した。皆が今の状況を理解出来ずにいた。
「ふわぁぁ、怖かったです……はっ! ご、ごめんなさいキョンくん!!」
 そんな中、橘だけは緊迫感のない声をあげた。少し頬を朱に染め、恥ずかしげに目線を俺の方に向けている。

 順を追って説明しよう。橘がスケーティングをした際、自分のコントロールミスで俺の方に突っ込んで来たのだ。
 橘はパニック状態。板に固定してない方の足で踏ん張れと言っても間に合わない。そこで俺は咄嗟に迫り来る橘の腰を支え、そのまま抱き抱えるような態勢で制止させたのだ。
 橘も怖かったのだろう。肩に手を伸ばし、俺にしがみついてきた。
 俺の解説は以上だ。特に何の面白みもない、スキー場ではありがちな光景の一つにしか過ぎない。
 しかし、俺の説明なしに、この光景をみたらどう思うであろうか?
 ちょっと箇条書きで説明してみよう。


 一.橘が両手を広げて俺に迫って来る。
 二.俺はそのまま橘を抱き、腰に手を絡める。
 三.俺の抱擁を受け入れるかのごとく、手を回し、そして目線を合わせる。


 まあ、そんな光景だろうな、客観的に見て。まるで仲睦まじい恋人同士の戯れの一種である。
 つまり何が言いたいのかというと、見方によっては凄く怪しい光景に見られるわけで……

「くくく、橘さん。少しおいたが過ぎるかもしれないね。止まっている人にぶつかるというのは最低なマナー違反だ。しかもよりによってキョンに抱きつくとは、スキーパトロール隊が許しても、わたしは許さない……では今からマナーを規正すべく特訓に入ろう」
「はわわわわ…………」

 あ~あ、遅かったか。
 佐々木の額に血管が浮かび上がってら。ちょっと俺でも止めるのに勇気がいるなこりゃ。だが止めないといけないだろう。
(佐々木、いいから落ち着け)
(なっ……キョン、どうして橘さんを庇うんだ!?)
(さっき言ったとおりだ。お前がそんな風にして怒ってたら何も変わらないぞ。気に食わないこともあるかもしれないが、あいつだってわざとじゃないんだ。ここは一つ寛容に、な?)
(……む、仕方あるまい……)
(それにお前最近キレやすいぞ。もう少しくらい忍耐力つけろ)
(しかし、橘さんが……)
(ハルヒはもう少し忍耐力があったんだけどなぁ。お前はそうでもないのか。少しがっかりだな。)
(なっ……くくく、仕方ない。僕の本気を見せてあげよう。本気になった僕の忍耐力は、服を脱いで荒れ狂うル○ール並に堅いよ)
 よく分からないたとえだが、まあいい。橘に謝ってこい。
(ああ、わかったよ)

「橘さん、すまなかったね。だがこれからは気をつけないと」
「へ? どうしたんですか佐々木さん?」
「い、いや……橘さんに怒ってばっかりでは気が滅入るだろうしね。たまには明るく許してやったほうがいいと思うんだ」
「ほ、本当ですか?」
「あ、ああ……」
「不注意でキョンくんに抱きついても怒らないんですか?」
「まあ、ね……」
「そのまま押し倒しても、いつものお仕置き上コースランチセットはしないですよね?」
「し、しないさ……」
「万が一、万が一事故と事故が重なって、二人の唇と唇とが重なっても、鈍器で殴りつけてこないですよね?」
「ま、万が一の事故ならば、ど、どうしようもないからな……」
「うわぁーい! やったぁ! これで思う存分ボードを楽しめる!!」
「くくくくく……よかったねぇ、橘さん……」

 よかった……のだろうか? 佐々木の顔が若干、いやかなり引きつっているのだが……
 それよりも、お仕置き上コースランチセットって……そんなに毎回毎回やられていたのか橘は。
 怖いのでそこんところは聞かないようにしておく。
 スケーティングをマスターした橘及び俺達一行はリフトに乗って滑走再開となった(やっぱりスキーをやっていただけあってか、スケーティング技術は速攻身に付けたようだ)。
 当面の方針として、俺と朝比奈さんはフリーで、橘は佐々木に教えを請いながら滑ることとし、技術的に追いついてきたら再び皆で滑ることにした。
 俺と朝比奈さんは靴をはめ、そして思い思いに滑走し始めた。
 そして――

「ひぃあああー!!」

 また橘が突っ込んできた。


「あいたたた……ごめんなさい、キョンくん。あの、大丈夫ですか?」
 ……大丈夫じゃないやい。
「でも、キョンくんがあたしを支えてくれると信じてました。嬉しいです♪」
 こっちは全然嬉しくないんだよ。あまり抱きつくな。佐々木が怒り出さないうちにさっさと行け。
「はぁい。それでは~」

 ……ったく。



「あー! キョンくんごめんなさい。またやっちゃいました~」
「わ !わ! そんなところ掴まないでください!」
「い、今、ほっぺとほっぺが重なり合って……もう少しで……キャ~!!」

 その後も橘は、何故か事あるごとに俺の方へ突っ込んでいき、そして俺に抱きかかえられていた。
 初心者が暴走することは大して珍しい光景ではない。
 しかし、佐々木でも朝比奈さんでもなく、何故か俺の方にだけ向かってくるのはもはや尋常ではない光景である。
 俺によって制止させられるときの橘の顔はとても楽しそうであった。佐々木が何も言わないことに、心底嬉しんでいるようであった。
 その佐々木だが、表面上は微笑を携えているものの、かなり我慢しているようで先ほどから何も語らなくなってきた。


 俺と朝比奈さんが滑り終え、リフトを乗るための準備をしていると、再び橘が俺に向かって突貫してきた。
 もう何度目か分からない。さすがにやり過ぎだ。
「おい橘。いい加減にしろ。お前わざとやってるだろ。これ以上やると必要以上に佐々木の精神を傷つけることになりかねんぞ」
「わ、わざとじゃありません! 本当にキョンくんの方に動いていくんです! 体が勝手に!」
 は? と俺は聞き返す。どうしてそんなことが起きるんだ?
「恐らくですが……佐々木さんがその様に望んでいるからです」
 おいおい、変なことを言うな。何故佐々木がそんな事を望むんだ? 俺と橘の仲を取り持とうと言うのか? はた迷惑な……あっ、そうか。いつも纏わりつくからお払い箱されたんだな。
「酷いこと言わないでください! そんなはずはありません! 第一佐々木さんはキョンくんに好意を寄せているんですから、あたしをキョンくんの周りにうろつかせる事自体、自分の真意を否定することになります!」
 うーむ、それもそうか。
「ですけど……少し不可解なのです。あたしがあれだけキョンくんに接近しているのに、佐々木さん、全く苛立ってないんです。あの巨人達が発生しないんです」
 どういうことだ? お前は佐々木専門の精神科医みたいなもんだろ。何か分からないのか?
「ええ、実は思い当たることがあります。ちょっと聞いてもらえませんか?」
 こうなりゃ猫も杓子も橘京子でも構わん。意見を聞いてやる。
「何だか少し馬鹿にされた気がしますが……まあいいです。あたしが思うに、わざとあたしとキョンくんを接近させて、あたしの機嫌を取り持とうとしている。そんな気がします」
 何?
「あたしとキョンくんが仲良くなることを佐々木さんが望むその理由は分かりませんが、でもそうしないといけない、っていうフィーリングは伝わってきます。まるでそれが自分の使命だっていう、そんな感じが伝わってくるのです」

「…………」
 橘の言葉に、俺は沈黙を続けていた。なるほど、そう言うことだったのか……
 これでわかった。橘が俺にちょっかいをかけているのに、佐々木が怒り出さない、神人を生み出さない原因が。
 佐々木は、自分のストレスを橘に向けることで橘が暴してしまうから少し自重しろ、と言う先ほどの俺の言葉を覚えていたのだ。
 そしてそれを防ぐため、橘を楽しませることでストレスから開放し、元の橘に戻そうとしているのだ。
 しかし。
「しかし、このままではあいつのストレスがどんどん蓄積されてしまう可能性がある」
「ええ、そのとおりです。自分が望んでいることとはいえ、深層心理では本音と建前の歪みが生じていると思います。今は無理やり押さえ込んでいますが、押さえきれなくなった場合、閉鎖空間はとってもやばいことになりそうです……」
「何とか対策をせねば……」
 俺と橘はしばし悩み、そして……



「……あっ!! いい方法があります!!」
 声を上げたのは、なんと朝比奈さんだった。



 バシッ! 

 平手で頬を叩く音が、遠くにあるはずの山々に木霊した。
「何をしているんですか! あなたは!!」
「え……でも……」
「そうやってキョンくんに迷惑ばかりかけて……恥ずかしくないんですか!!」
「あ、あたしだって頑張って……」
「嘘!!」

 バシンッ!!

「あ……」
「あなたはキョンくんに甘えているだけなの! 自立なんて微塵も考えてない! そんなことじゃ上達しないわ!!」
「うう……」

 橘のちゃらんぽらんな性格に、観音菩薩の生まれ変わりとも言うべき朝比奈さんでさえ、遂に堪忍袋の緒が切れた。
 朝比奈さんは橘の頬を何度も何度も叩いている。悲しい表情を携えながら、心を鬼にして、何度も何度も。
 俺は一連のやり取りを黙って見ていた。俺には手の出せないことだったから。朝比奈さんと橘。二人の問題だったから。

「キョン! 一体どうしたんだ、これは?」
 不思議に思ったのだろうか。佐々木が滑り降りてきて、俺の横に陣取った。事の重大さにようやく気付いたらしい。
「ああ、これはな。俺に迷惑をかける橘に、朝比奈さんが遂にキレてな。ああやって説教を食らわせているんだ」
「何と……あの温厚そうで、虫一匹殺せないような朝比奈さんがかい?」
「よっぽど不満があったようでね。少し手を出しているが……橘もなんとなく分かっているのだろう。敢えてやり返すことはしてない。さきほどからな」
 そんな会話の中、橘の頬を撫でる音はより激しさを見せている。
「…………」
 佐々木は黙ってそのやり取りを見ている。
「……くくくっ」
 ……? どうした佐々木? 
「くくくっ……ははははっ、あの朝比奈さんがねえ。こりゃ傑作だ。さしもの橘さんも、本気で怒っている朝比奈さんには形無しといったところかな。あははははっ……」

 佐々木はそれまでには見せたことのないような、大きな声で愉快に笑い、声を張り上げた。
 その声は険悪な態度を見せている二人にも届き……
『……ふふふ、あははははっ』
 そして、二人も一緒になって笑い出したのだ。



 ――こうして俺達は、一時的に劣悪な状況に置かれたものの、その後復帰して午前中のスノーボードを大いに楽しんだ。



「橘。よくやった。良く耐えてくれたな」
「ごめんなさい、橘さん。痛かったでしょう?」
「ふぇええ……ひはひれすぅ……」
 俺と朝比奈さんの謝辞に、橘はろれつが回っていない酔っ払いサラリーマンのような声を上げた。



 もう分かっているとは思うが、朝比奈さんと橘の喧嘩。あれは演技である。どうしてそんな演技をする必要があったのか。それは佐々木のストレスを取り除くために行われたのだ。
 いくら自分が望んでいるからとっても、いくら自分が我慢しているとは言っても、あのままでは佐々木はストレスを溜め込むことになり、それでは本末転倒である。
 佐々木のストレスを解消するにはどうすればいいか。そこで出たのが朝比奈さんの意見だった。
 すなわち、橘が他人に凹まされているのを見れば気が晴れるんじゃないかという提案だ。
 朝比奈さんの意見は、俺が橘を説教をし佐々木の鬱憤を晴らそうと言うものだったが、それに俺が少し修正を加えた。普通に考えて憤怒する事などありえない人物――朝比奈さんが橘を説教したほうがより効果が望めると踏んだのだ。
 朝比奈さんはしどろもどろな対応でおろおろと困っていたが、大丈夫だからと言って説得させたのだ。
 橘は少々不機嫌な様子だったが、こちらも俺が説得し、納得させた。
 それが事の真相である。真相を知ってしまえばそうでもないが、そうでないものは驚愕するに違いないだろう、この光景は。
 事実は小説よりも奇なりとは言う諺を作り出した古人を俺は賞賛したいと心の中でそう考えていた。
 しかし、予想外にハマリ役であった。朝比奈さんはノリノリで橘をぶっ叩き、橘のリアクションも本気で痛そうなもので、リアリティに溢れていた。
 今度ハルヒがビデオを撮ると言い出したら、女編スポコン友情物語でも提言する事にしよう。
 勿論主役は朝比奈さん。ライバルは橘で行こう。あ、鬼コーチ役は長門がいいかもしれない。

「でも、橘さんの頬って、本当にいい音がしますよね」
「そうだな。あんないい音がなるなんてな。ちょっとやそっとの打楽器には出せない音色だぜ」
「ほ、ほんろうれすか? ってちはいますぅ!!」
「叩き方を変えたら音階も出せるかもしれませんね」
「そうですね。今から試してみますか?」
「ひゃぁ!やめてくらはい!!」
「冗談ですよ、橘さん」
「そんなに頬を真っ赤にさせてたら、かわいそうで叩けないよな」
「あら? でも腫れてた方がより澄み切った音が出せると思いますけど?」
「それもそうですね」

『あははははははっ』

「……なんかふこうれす。あはし……」



 俺と朝比奈さんが声高らかに笑い声をあげ、そして橘は対照的にポツリと一言喋ったのみで、黙り込んでしまった。
 まあそう言うな。佐々木の機嫌が晴れたのだからお前にとってもいいことじゃないか。佐々木自信の機嫌を直すのに役に立ったんだぞ。
 古泉なんかハルヒの機嫌を直す役に立った事など一度足りとて無い。そういった意味ではお前はよくやったよ。俺が誉めてやる。
「ほうろうれすか? ほれならいいれすへろ……」
「…………」
「きょんくん? ろうしたんれすか?」
「……ぷははははは!!やっぱりその顔と喋り方が笑える!!あはははははっ!!」
「きょんくんのいりわる……」

 そう言って、橘は顔を膨らませた。しかし顔を膨らませる前も十分パンパンな顔で、何の変わり映えもなかったのはいうまでも無い。



 昼食時、ハルヒが佐々木に俺たちのスノーボード上達進捗状況を聞いていたのだが、佐々木はあまり良い返答をしなかった。
 それが功を奏したかどうかは知らないが、午後も特訓、指導を仰ぐことになった。スノーボードの勝負は明日行う事になったらしい。
 曰く、『滑れなきゃどこに行ってもつまんないでしょ。だから早く覚えなさい。明日にはグラトリの一つや二つ、出来るようになってなさい』だそうだ。
 俺は森さん謹製のプロフェッショナルカレーを口に運びながらハテナマークを頭のてっぺんに張り巡らせた。グラトリ? なんだそれは?
「グランドドリックの略さ、キョン。グランドは地面の事で、トリックというのは、まあ滑走中にジャンプしたり、回転したり、ノーズやテールを浮かせたり……」
 佐々木の説明を途中から聞き流した。佐々木の説明はたまにくどくなり過ぎる事もあるから、全部聞く必要は無い。頭も痛くなるしな。
 要約すると、滑りながら曲芸を見せることである。ちょっと曲解しているかもしれないが勘弁して欲しい。俺にはスノーボードの専門的知識を受け入れるだけの余裕がないのだ。
 さて、そのグラトリとやらをマスターする云々だが、滑る事がやっとである俺にとって、明日までグラトリを習得するのはほぼ不可能で、もしどうしてもと言うのならば今日は佐々木と共に一夜を過ごす事請け合いである。
 それでもいいのかとハルヒに申告したところ、口を尖らせて却下してくださった。よかったよかった。これで不毛な練習をしなくても済む。なお、佐々木と橘が少し残念そうな顔をしていたが、こちらはスルー。
「分かってるわよね、キョン。明日は勝負なんだから。少なくとも中級者斜面を転ばず滑べり降りられるようになっておくことね。本当はフェイキーを滑れるようになって欲しいんだけど、それは大負けに負けといてあげるわ」
 そう言ってハルヒはシーザーサラダをシャクシャクぱくついた。わかったよ。だがフェイキーってなんだ?
「ふむ、キョンのフェイキー滑走か……そうするとスタンスの角度を変えなければいけないね。思い切ってダックスタンスにしてみるのもいいかな?」
「キョンには無理よ。今のアングルじゃバランス取れなくてずっこけるのがオチよ。ふふふふふ」
「それもそうだ。キョンはそれほど運動神経に秀でているわけではないからね。くくくくく」
 当座の俺を差し置いて盛り上がる二人。頼むから、専門用語で話すのは止めてくれ。
 俺はやれやれと目線を下に落とし、何時の間にか給仕されたアイスクリームに目を落とす。バニラアイスクリームに、ウェハースとミントの葉を添えた、シンプルなアイスクリームである。
 だが普通のアイスクリームとは異なる。このアイスはバニラの香りが素晴らしい。よくよく見るとアイスクリームの中にバニラビーンズが入っている。これがこのアイスの馥郁たる香りを醸し出しているのだろう。
 一口食べて顔をあげる。食べる速さはまちまちだが、皆が皆、このアイスクリームに舌鼓を打っている。
 ただ一人、橘京子を除いて。
 どうしたんだ橘。いつものお前ならイの一番にがっつくのに、まだ手もつけてないじゃないか。
「ふええぇぇ、ほっへがひみますぅ……」
 ああ、そうか。把握した。先ほど朝比奈さんに往復ビンタを食らわされたことが相当堪えたらしい。橘は大好物であろう甘いものを前にしてううううと唸っていた。よく見たらカレーにも手をつけていない。食べたのはサラダのみである。
 食べないんなら誰かに上げるか、それとも冷蔵庫に保管しといたほうがいいぞ。好物ならなおさらだ。
「れ、れも、このはいふふりーむ、はっきへっひゅうへふふりあへた、れきたてほあほあなのれす。ひゅうにゅうもたまほもひんへんで、ひまたへないともっはいはいのれす!
 な、何を言っているのかさっぱり分からん。何だって?
「んん……ほう!なはとはん、おねはいはあるんへふは、こっひにひてつうやくふぉひてくらはい」
 橘が一声かけると、それまでフランス人形の物まねをしていた長門が動き出し、橘の隣に立った。
「分かった。……今彼女は、『長門さん、お願いがあるんですが、こっちに来て通訳をして下さい』と言った」
 あ、なるほどね。言葉を満足に喋られない橘の通訳になろうってわけか。
「そう。そして先ほどは、『で、でも、このアイスクリーム、さっき雪中で作り上げた、出来立てホヤホヤなのです。牛乳も卵も新鮮で、今食べないともったいないのです』と言った」
 そうかい。だがな橘。これからは好物は後回しにせず、一番最初に食べてしまう事をアドバイスとして進呈しよう。
「へ? はんててすか?」『へ、何でですか』
 橘の言葉の後にすかさず通訳が入る。ただし感情といわれるものが微塵も感じられないため、今ひとつ臨場感にかけるが、それは長門だからしょうがない。考えないようにしておこう。
 それはだな橘、早く食わないと……
「あれ? 橘さんアイス食べないんだ。もーらい!!」

 パックン

「あひゃ!! す、すすみやはん……」『あひゃ。す、涼宮さん』
 あー、早くしないと、ハルヒに食われてしまうからって言いたかったのだが、遅かったか……
「うーん、やっぱり美味しいわ、このアイス。材料が新鮮だと、こんなに美味しいものなのね。橘さんもこんなの食べないなんて……ん? 橘さん。どうしたの?」
「あ、あたしの……あいす……はへるよていはっはのに……」『あ、あたしの。アイス。食べる予定だったのに』
「え……? い、いらないんじゃなかったの?」
「ひ、ひろいれすぅ……ぐすっ……」『ひ、酷いです。ぐす』
 あーあ、橘を泣かせちまったよ。酷いことするな、ハルヒは。
 そして長門さん。『ぐす』って言うのは泣き声であってだな。普通に発音して喋っても意味がないんだ。もっと感情をリアルのお願いしたいのだが、そこんところ分かってくれないかなぁ。
「そ、そんなんじゃないわよ!あたしは橘さんが嫌いで残していると思って、それで食べて……」
 長門の次の翻訳はさて何だろうと期待していたのだが、先に喋りだしたのはハルヒであった。
 なあ、言い訳はいいから、まずは橘に謝ったらどうだ?
「ぐ……分かったわよ。橘さん、あなたのアイス、勝手に食べてごめんなさい」
 何だその棒読みは。もっと一字一句心をこめなきゃ駄目だろうが。
「ご、め、ん、な、さ、い!!」
 声がでかいだろ。それじゃ橘だってビックリするぞ。
「なによキョン! よくよく考えたらあんたに指示されることはないじゃない! 何であたしがあんたの言いなりにならなきゃいけないのよ!」
 俺は言うことを聞けなんて一言もいってない。お前が橘に対して、疚しいことをしているのであればきちんと謝れって言ったまでだ。
「うるさい! ああ言えばこう言う! 団長に口答えするのは団員として最低の行いよ! 降格よ降格! これからは準団員のコンピ研の連中以下の準々団員だからあんたは!」
 な……なんだと? 別にどのランクでも構わないが、コンピ研の連中よりも格下になるのは俺のプライドが許せん!
「この、言わせておけば……!!」
「や、やめてくらはい!!」
『!!』
 俺は、そしてハルヒも、そしてそこにいた連中全てが舌足らずな声の元に目線を一斉に向けた。長門ですら翻訳することすら忘れている。
「けんかはひないれくらはい!! けんかはいけないのれす!!」
『…………』
 俺とハルヒは黙り込んでしまった。少しからかうつもりが、俺自身の頭に血を滾らせてしまったようだ。
「あ、ああ。ハルヒ。すまなかったな」
「あ、うん。あたしこそ、ごめん」
 俺は素直に謝った。ハルヒもまた俺に謝罪の言葉を述べていた。
「ふう、よはっは。これれめれたしめれたしなのれす」
「橘、お前にも迷惑かけたようだった。すまない」
「ごめんなさい、橘さん」
「いいへ、いいんれす。あたひもそのほうははすはりますんれ」
 ……っと、長門。翻訳を頼む。まだ何を言っているのかよく分からん。
「そう……『いいえ、いいんです。あたしもその方が助かりますんで』と言った」
 何が助かるんだ? 
「みんなのほへはほっへにひひいへいはかっはんれす。ははらしふかにしへふらはいっていっはんれす」『みんなの声がほっぺに響いて痛かったんです。だから静かにして下さいって言ったんです』

『…………』

 一同皆沈黙。おい、まさか……
「はっきほふらへへほはいふとけはひはひ、ほれれおもうほんふんあいふをはへられます!」『さっきと比べると大分溶けたし、これで思う存分アイスを食べられます』
「橘さん、あなたもしかして、自分がアイスを食べたいがためだけに、涼宮さん達の喧嘩の仲裁をしたんでしょうか?」
「え゛……ほ、ほんなはへないれす!!いやらなー、あはひははんったら。あはははは……ぼそぼそぼそぼそ……」
『え゛。そ、そんなわけ無いです。嫌だなー、朝比奈さんったら。あはははは……あのお化けかぼちゃめ、いちいち要らないことを言いやがって。おみゃーのおっぱい雑巾いたく搾りしたろーか』
 橘がこそっと言い放った、蚊の鳴く声にも満たない小声をしかし長門は捕らえていた。
「え゛っ!」
「しまった、ばれた。彼女はそう思っている」

「…………」
 長門のの言葉に、皆が一瞬沈黙し……
「さ、キョン。バカな事に時間を費やさないで、練習に行きましょ、練習」
「キョン。午後からはターン時の荷重移動について少し勉強しなおそう」
「あ、わたしも頑張らなくっちゃ」
「――――ハーフ――パイプで――フィーバー――」

 ……そして、午後の準備へと取り掛かったのだった。



「あー!ひろいれすぅ!あはしほんらほろいってはへん!!」
『あー、ひどいです。あたしそんな』「長門、もう翻訳はいいぞ。こっち来て一緒に滑ろうぜ」
「わかった」



「う、うわぁぁぁぁん!みんなひろいれすぅ!」



 昼飯時のいざこざなどなんのその。皆が全身全霊を持って橘をスルーしたその後に、午後のボード教室が行われた。
 といってもやる事は変わりない。俺と朝比奈さんがスノーボードを教わるだけだ。
 ただし午前中と違う点は、ハルヒが俺達を教えてくれると言うことだ。佐々木にばっかり迷惑をかけることはできないと言う理由らしい。
 ハルヒにそんな殊勝な心がけができたとは。それならば俺や朝比奈さんに対してもその心がけを持ってもらいたいものだ、と思う。
 もちろん思うだけだ。言ったところで反映される確率はミニチュアダックスフンドが逆立ち二足歩行して買い物に出かけるよりも低いからな。

 そして今。俺達三人は午前中の特訓を生かすべく、先ほどよりも長いトリプルリフトに乗って脱初心者を目指すべく旅立った。
 え? 橘はどうしたかって? あいつは俺達が午前中練習していた場所で指導を受けている。誰にだって? それは聞くだけ野暮ってもんさ。俺の口から言うより、実際目を向けたほうが早いぜ。ほら、あそこだ。

「違う。そうではない。もっと谷側の足に体重をかけるんだ」
「こ、こうですか?」
「そう。そして少し爪先を立てるとターンが可能となる」

 あー、つまりだな。先ほどから姿を見せなかった藤原が橘の教育を買って出てくれたのだ。
 事の経緯はこうだ。
 午後はあたしがコーチをやると言い出したハルヒは、しかし初心者3人を全員教えるのは骨であることを理由にコーチをもう一人要請した。
 最初は経験者の中からクジで選ぶことを提案したのだが、つい先ほどまで姿を見せなかった藤原が立候補したのだった。
 俺達は藤原に今までどこにいたんだと質問を投げかけたが、その質問に遂に答えてはくれなかった。大自然と一体化云々という言葉を聞いていたが恐らく作り話であろう。
 しかし、掌を返したかのように指導の手伝いをするとは……少し驚いたな。
 ハルヒも最初は呆然としていたが、手伝ってくれるならまあいいわと了承してくれた。
 続いて誰が誰を教えるかについてだが、これについては俺と朝比奈さんがハルヒに教わりたいと直訴した。
 俺にして見れば、全てにおいて反発する未来人よりかはたまに暴走する団長のほうが扱いなれているし、朝比奈さんも同じような考えだったのだろう。そしてその直訴はあっさりとハルヒに受け入れられた。
 そうなると当然藤原が橘を教えることとなり、てなわけで藤原も異論を唱えるはずも無く(こっそりガッツポーズをしたのは見逃さなかった)、グループ決めが可決されたのだ。
 そうそう、橘がなにやらモゴモゴ言っていたが、ハルヒの耳に念仏だったのは付け加えておこう。



「さーて、二人がどれだけ滑れるようになったか見てあげるから、じゃんじゃん滑っちゃいなさい!」
 リフトから降りて準備をした後、ハルヒは声を張り上げ、ゲレンデに響き渡らせた。
 佐々木と違って適当感が否めないのはこいつの性格を考えると火を見るよりも明らかであり、それがSOS団団長である資格のうちの一つかもしれない。俺はやれやれと一息ついた後、のそのそと滑り出したのだ。

 暫く何事も無く滑っていた。俺は何とかターンができるまでに上達し、朝比奈さんは相変わらず木の葉の練習をしていた。最初は何のかんの言って楽しんでいたハルヒだったが、俺達の上達レベルが一向に上向きにならないのに嫌気が差し始めたのか、
「もうそれだけできれば大丈夫だから、早く上に行きましょ!」
 などと連発するようになってきた。そうあせるなよ。雪山は逃げていかないんだ。もう少しくらい練習させてくれよ。
 しかし俺の言葉にハルヒははあ? というような表情を見せて、
「雪山は逃げていくのよ!日に日に雪は変化して、その時々で滑りが変わってくるの!新雪だって明日まで残っている可能性は無いの!だから今を楽しむ。それが日々を暮らしていく上で大切なことなの!」
 そうは言ってもだな、もう少し練習しないと滑り降りてくることも不可能だ。特に朝比奈さんなんか、一番上のコースに行ったらそのまま雪女としてこの山の主になってしまうそうだぜ。
「それはそれで面白そうね」
 冗談に決まってるだろうが。
「分かってるわよそんなこと。でもみくるちゃんって、何でか知らないけど、全然上達しないわね。昼前と殆ど変わんないんじゃない?」
「はうう、い、一生懸命やっているんですけど……」
 足を多少プルプルさせながらハルヒに質問に答える朝比奈さん。この人が一生懸命なのは承知である。そして運動神経が鈍いのもまた。
「しょうがないわね。こうなったら……」
「どうですか皆さん。調子の程は」
 ハルヒが何か言いかけた瞬間、古泉が姿を現した。
「あ、古泉くん、丁度いいところに! あたしの替わりに二人に教えてくれる? さっき滑ってこなかったコースを滑りたいの、あたし!」
「畏まりました」
「さっすが古泉くん! 団長の補佐をするのは副団長の仕事だもんね! えらい! どこかのキョンとは大違いね!」
 悪かったな。だが俺は副団長になった覚えは無いから、お前のサポートをする必要などどこにも無いわけだが、それに関してはどう答えるつもりなのでしょうか、涼宮さん?
「じゃあ先行ってるわ!!」
 ハルヒは一人、初級ゲレンデをかっ飛ばしていった。やっぱり聞いてねぇー
「まあまあ、いつものことではないですか。それよりも早く上達するように頑張りましょう。そうでないと涼宮さんの機嫌が一段と悪くなってしまいます」
「もしかしてお前、ハルヒの機嫌が悪くなることを見越してコーチの交代をしたのか」
「くく、実はそのとおりなのです。今回は森さんがいらっしゃいますので、任務を果たさず遊び呆けていると僕の身に災いが降りかかってきます故」
 古泉……お前も現金な奴だよな意外と……

「さて、練習を再開しましょう。ではお二人がどのくらいまで滑れるようになったかご披露していただけないでしょうか?」
 またそれか……だがしかたないな。こいつに文句を言うのはお門違いだってことは重々承知しているさ。俺は諦め顔でコースを滑り降りた。
 俺は初級者コースを危なげなく滑り終えることが出来た。朝からのレベルアップは無論、昼イチの頃と比べても滑りがよくなっていた。ターン時のバランスがよりうまく取れているのだと自分では思っている。
「まずまずですね。もう少し練習すれば、中級者コースも難なく滑れるでしょう」
 まあな。これでも頑張ってんだ。ハルヒに叱られたくはないからな。
「くくくっ、それはそれは。では朝比奈さん。続いてお願いします」
「あ、はい。それじゃあいきますね……」
 古泉の掛け声のあと、朝比奈さんが出発し……
 ポテッ

 ふわふわの雪を叩くような、軽い音が微かに聞こえてきた。
 原因はわかっている。音のした方に目を向ければ一目瞭然である。朝比奈さんが滑り出してすぐに転倒したのだった。
「あいたたた……」
「大丈夫ですか、朝比奈さん?」
 転倒時の痛みを健気に耐え、そして朝比奈さんは再び立ち上がり……こけた。
 俺は顔を背けてくすくすと笑っていた。朝比奈さんがここまでボードが下手だったとは思わなかったぜ。俺が見た時はまともに滑っている時のみだったから全然気がつかなかったよ。
 くくく、ははははは……

 俺が内心で一人爆笑の渦を巻き、そしてようやく落ち着いた頃、再び朝比奈さんの方に目を向け――
「な……!」
 ――そして、その光景に思わず声を上げてしまった。
 俺の網膜に焼き付いたその光景。それは、板を外した朝比奈さんが、古泉にお姫様だっこで抱えられているシーンだった。

「なにがあったんだ、朝比奈さん! 古泉!」
 古泉この野郎なんてうらやましい事をしてやがるという、至極当然な感情を露にしつつも、心の中では不安がたぎってきた。朝比奈さんが見事なまでのこけっぷりで怪我でもしたのだろうか? 
「心配することはありません。朝比奈さんはどこも怪我をしておりません。健常人そのものです」
 朝比奈さんを抱えて古泉が俺の近くまで迫ってきた。だが。
「ぐす……うぇぇ……」
 朝比奈さんは、泣いていた。
「その朝比奈さんを見て、何ともないと言い切るのかお前は。何をしたんだ。正直に話せば殴るのだけは勘弁してやる」
「それは困りましたね……ですが落ち着いて僕の話を聞いてください。彼女が泣いていた理由は、スノーボードを滑れなくなったからなんです」
「はあ?」と思わず聞き返す。どういうことだ? 怪我はしてないんだろ? 体調不良か?
「いいえ。至って健康だと言うのは先ほど申し上げたとおりです。ただ……」
「ぐす……古泉くん、そこからはわたしが説明します……」
 古泉の説明を遮り、朝比奈さんが絞りだすかのような声をあげた。
「あの、キョンくん……わたし、怪我をしたとか、身体能力が落ちたというわけじゃなくて、スノーボードを滑る能力が消失してしまったんです」
 どういう意味ですかそれは?
 俺の言葉に、朝比奈さんは口を開き――そしてモゴモゴとさせた。
「ごめんなさい、禁則みたいです。うまく話せないみたい」
 いえ、良いんですよ。逆に朝比奈さんの態度でわかりました。朝比奈さんの能力の消失には、恐らく未来からのプレッシャーがかかっているんですね」
「なるほど、確かにそう考えるのが妥当でしょうね」
「いえ、あの……」
 朝比奈さんの沈黙は、俺達二人の意見を肯定するのに十分だった。
 たが推理は後回しだ。朝比奈さんをロッジまで避難させた方がいい。古泉。二人がかりで運ぶぞ。



 何なんだ一体。何故朝比奈さんのスノーボードの腕前が退化したんだ? はっきり言って意味がわからない。
 朝比奈さんを一時避難させた後、俺と古泉はゲレンデに戻り、練習を再開し始めていた。本当は朝比奈さんの看病に回りたかったのだが、今回の件に関して未来との通信をするからと断られてしまったのだ。
「事実を過不足なく申し上げるのは事実上不可能でしょう。証拠となる物件が少なすぎますから。しかし、推測することは可能です」
 推測することは可能だが、的外れなことは止めてくれよ。
「昨日の新幹線内のことや今朝の一件のことを仰っているんですか?あれはあなたの反応を見るために行った道楽。暇つぶしですよ」
 てめえ……罰として後で俺にジュースでも奢ってもらおうか。
 俺の言葉に古泉はフッと笑い、そして髪の毛をかきあげた。その後は一転、真剣な顔つきになっていた。
「申し訳ありません。ですが今回の一件は笑い話にはなりそうにありません。真剣に推測致しましょう。まず先ほども申し上げた通り、未来からの干渉があったのは事実でしょう。そうでなければ涼宮さん、佐々木さんの能力による可能性が考えられます」
 前者に関してはともかく、後者に関しては異議を申し立てる。ハルヒや佐々木が、朝比奈さんに対してウィンタースポーツの腕を退化させる意味はどこにある?
「ええ、僕もそう思います。他にも長門さんや周防九曜らTEFI端末の能力による可能性もありますが、同様の理由で却下できます。つまり、他の未来人がやったとしか思えません」
 他の未来人……やはり、結論はそこに行くのか。
「そう。彼ですよ。彼が朝比奈さんの能力を奪った。それ以外には考えられません。僕や橘さんにはそのような能力はないですからね」
 十分に考えられる。元々朝比奈さんに対してもいい印象を持っていなかったし、あいつに都合の良い未来にするには、恐らく朝比奈さんをどうにかしないといけないだろうからな。
 本当はセクシーゴージャスな大人版朝比奈さんをどうかしたほうがいいんだけど、恐らくあっちの朝比奈さんは色々手ごわくなっている。そこで朝比奈さん(小)に目をつけたって訳だ。
 どんなに獰猛な獣でも、子供のうちであれば処分するのに手はかからない。恐らくそんなところだろう。
 しかし、一つ腑に落ちないことがある。
「お前の意見はわかるが、それならばもう一つ疑問がある。未来人の能力は時空の壁超えて行き来するだけじゃないのか?一個人の能力を退化させることもできるというのか?」
「それは……」
「それは、僕の口から説明しよう」

『!!』

 ――俺と古泉は弾かれたかのように後ろを振り向いた。
 そこには、朝比奈さんと違って全く持って可愛げのない未来人と、古泉と違って超がつくほど短絡的な超能力者の姿があった。



「やほっ、キョンくん、久しぶりです。ついでに古泉さん」
「…………」
 俺達が沈黙を貫き通していた。いや、喋られなかったのだ。あまりにドンピシャなタイミングで現れたものだから、反射神経が迷走して脳内まで達してしまったのだ。
 俺達が固まっていると、奴が話し始めてきた。
「どうかな。僕の改良型TPDDの効果は? これはただ時間平面を変化させることだけではなく、特定対象の特定部位のみを時間軸を任意に変化させ、操ることができるのだ」
「……まさか、それを使って朝比奈さんを!」
「そのとおり。朝比奈みくるのもつ運動能力を、この時間平面上にて約半日分負の方向にシフトさせた。その頃の朝比奈みくるは、スノーボードを滑走することなど不可能だったはず。作戦は成功した」
「どうして、朝比奈さんをその様な目にあわせなくてはいけないのでしょうか?」
「ふん、禁則だ」
「いいえ。どうしても言ってもらいます。そうでなければ、少々面白くないことになりますよ」
「古泉。今回ばかりは俺もお前の意見に賛成だ。手を貸してやる」
 俺と古泉。二人が藤原を睨みつける。だが藤原は余裕の体勢で俺達に下卑た笑いを見せるのみ。
 ちっ、こいつとは本当にウマが合わん。前世は敵同士だったのかもしれない。
 俺は負けじと皮肉をこめた冷笑を藤原に送り――
「まあまあ、喧嘩は止めましょう。喧嘩は。お互い痛い思いをするだけですし、それにそちらで森さんが出てきたらかないませんもの」
 ――そんな俺達を仲裁をするかのごとく、橘が止めに入った。
「こちらとしても、無用な衝突は避けたいものです」
 古泉! お前……!?
「冷静になってください。朝比奈さんは今日半日分の身体能力が奪われただけに過ぎませんから、然したる厄災はありません。それよりも我々が争っているところを涼宮さんに発見される方がより脅威といえるのではないのでしょうか?」
「くそっ」と俺は口を鳴らした。甚だ遺憾ではあるが、確かにそのとおりである。
「そうそう。あたしだって佐々木さんにこんなところを見られたら怒られちゃうのです」
「……わかった。ならばここでじゃれあうのは辞めておこう。しかし橘、今回の一件で何を企んでいるか洗いざらい吐いてもらおうか。どうやらお前も一枚噛んでいるみたいだしな」
「そうですね。全部を話すのはまだできませんが、少しくらいならお話してもいいと思います。……ね、いいでしょ?」
 橘はニコリと笑って藤原の方を見る。藤原は勝手にしろといわんばかりの表情をして顔を背けた。
「ふふふ、彼も結構可愛いいところあるのよ。これで。あたしの計略にも二つ返事で了承してくれたしね」
 あたしの計略だと? まさかお前が首謀者なのか?
「ええ、そうですよ。昨日あたし言いましたよね? 復讐をしてやるって」
 そうか。これもあの一件と同じ流れだったと言うわけか。
「橘。その復讐とやらは、もしかしてこの前の一件に対するものなのか? お前の胸を改変した、あの一件が尾を引いていると言うのか?」
「ええ、そのとおりです。……あの時以来、あたしは大変な目にあったんです。身体測定を全て欠席して教師にしかられたり、特注ブラやサプリメントを注文してお金が尽きかけたり、そのことを組織に報告してお金を無心したら駄目って断られたり!」
 知るかそんなこと。相変わらず全部お前が悪いんじゃねーか。
「極めつけはこの前電車に乗ってたとき、痴漢にあって、胸を触られたんです! それだけならまだしも、その痴漢野郎、触った瞬間手をあたしの胸から離してそそくさと逃げちゃったんです !男の胸と勘違いしたんです! キィー!! くやしい!!」
 あまりにアレな回答に俺と古泉絶句。
「あの一件はあのお化けカボチャが全て悪いんです! それなのにあたしの前で懲りずにあんなものをタップンタップンさせちゃって!」
 どこに朝比奈さんの非があるのか問い詰めたいが、橘は曲解をしているので正答を導き出すのは困難だろう。無視だ無視。……それより、おまえはそんな理由で朝比奈さんにあんなことをしたというのか?
「いいえ。それも8割くらいありますが」と橘。大部分じゃねーか。「今回どうしても許せなかったのは、あたしのウィークポイントである頬をあんなにパンパン叩いたことです! 絶対許さないんだから!」
 ……ウィークポイント……なのか? 普通、チャームポイントとか言わないか……?
「あ、いや、そうとも言いますけど……それはさておき、朝比奈さんにはあんな事やそんなことを含めて、許せない部分が多々あるのです! それらに対するお仕置きなのです! 胸の小さい女の怨嗟、思い知るが良いわ!!」」
『…………』
 俺と古泉再び沈黙。最早何度目の沈黙か分からん。特に古泉なんか目を点にしているし。
「くくくくく……」
 俺たちがカップラーメンを作るくらいの時間沈黙に沈黙を重ねていると、橘のとなりにいたしたり顔の未来人が含みのある笑いをあげはじめた。何がおかしいんだ。
「くくく、だから僕が言ったとおりじゃないか。無乳化のおかげで痴漢野郎が余罪を積み重ねるのを拒むことができたんだ。あんたは犯罪を未然に防いだ。そして未来を紡ぐ掛け橋となった。僕の推察どおりの結果にな。ふはははっ、貧乳万歳!」
 あのぅ藤原さん、あなたの考えもどうかと思うんだが……それに今の話を聞く限り、単なるあなたのの趣向を暴露しているようにしか聞こえないのですが……
「うむ、それについては否定しないが……付け加えるなら、自分の体の不満を解消すべく女を求めてアブナイ展開って言うのが僕の好みで……」
「なに馬鹿な話をしているんですか! あたしは佐々木さん以外の女性には趣味ありません!」
 橘。それはそれで怪しい発言だぞ。横で藤原がたまんねぇって顔してるし。
「あ、あたしはノーマルです! ……って、そんな話をしに来たわけではありません。さっきの会話の続きです。わかりましたかキョンくん、あなたに最後通告しにきたのです」
 最後通告だと?
「ええ。ご存知の通り、あたしは朝比奈さんに対する復讐を成功させました。いずれ涼宮さんにも佐々木さんにも行う予定ですから」
 さてとんでもないことを言い出したこの女。「お前はあいつらにまで復讐しようというのか?そんなことしたらどうなるのか、お前自身が一番良く知っているんじゃないのか!?」
「ええ。ですからあたしをコケにしたこの気持ちを味あわせてあげるのです。あたしが何故こんなことをするのか。分かってくだされば復讐は自ずから受け入れることとなるのです」
 確かに、橘の気持ちも分からなくは無い。前回の一件で、橘が散々コケにされたことは重々承知だ。だが……
「昨日も聞きましたが、キョンくん。あたしの復讐、手伝ってくれませんか?」
「昨日も言ったはずだ。断ると」
 ……だが、やはり手を貸すことなどできん。ちょっとした要望ならともかく、復讐に手を貸せと言われてはいわかりましたなどと言うほど俺はあいつらに恨みを買っているわけではない。
「あたしは何も人を陥れるようなことは考えていません。せいぜいあたしの心の痛みを分かってもらおうと思っているだけで、それ以上のことはしません。涼宮さんにしても、佐々木さんにしてもそれは同じなのです」
 なら俺から言ってやるから、そんなことは辞めろ。
「いいえ。人間痛い目を見ないと人の気持ちがわからないのです。だからあたしは心を鬼にして涼宮さんや佐々木さんにまで復讐することを誓いました。手伝ってくれないと言うのであれば、こちらにも考えがあります!」
 橘は言葉を区切り、そして不敵な笑みを浮かべて朗々と喋りだした。

「キョンくんが邪魔をするのであれば、キョンくんにも復讐することにします」

「なっ……」
 俺は思わず声を上げてしまった。
「待て!何で俺がお前の復讐を受けなければいけないんだ!」
「キョンくん、マジで言ってますか?」
 突然、橘の顔が曇った。それまで春の日差しの如く柔らかい笑みを浮かべていた姿からすると、一目瞭然である。
「俺には、お前に対して酷いことをした覚えが無い」
 お前は散々俺に対して酷い事をしてきたけどな、と心の中で付け足す。
「…………」
 橘は顔を伏せ、暫く沈黙し……
「くくくくく、それみたところか。所詮この時代の人間の感情など低俗且つ次元の低いものだと言うことが分かっただろう。あんたはどう思っていようとも、その気持ちは伝わらないんだよ」
 その表情を見て、藤原が蔑ますかのように橘に言い放った。
「いえ……あたしは信じています。キョンくんが、あたしの心の闇を取り除いてくれることを」
「ちっ……なんでこんな男が……俺のほうが、こんなにも……」
「こんなにも、何ですか?」
「うっ!き、禁則事項だ! あんたが知る必要は無い!!」
「ああ、多分な、そいつは橘のことがす「わーわーわわわー!!!!!」
 二人のシリアスな会話に何かお手伝いしなければと思った俺は、藤原の気持ちをカミングアウトしようと試みたのだが、当の本人によって妨げられてしまった。
「な、ななな、何をいってるんだあんたは!」
「え? 古泉さんは分かっちゃったんですか? あたしにも教えて欲しいのですが」
 何って言われても、橘の質問に俺が代弁しようと……
「それは今言うべきことじゃない!何れ言うときが来る!その規定事項を崩すことは僕が許さない!!」
 別に今言えばいいじゃないか。早いほうがお前のためだと思うぞ?
「早ければ良いってもんじゃない! そう! 様々な時間的精神的要因が重なり合い、最適な条件のもと告白しなければその愛は成就しないのだ!」
「へええ、あなたも愛の告白とかするのですか。意外ですね。ねえねえ、どんな女の子がタイプなの? 佐々木さんみたいな人? それとも、朝比奈さんみたいな人?」
 うっかり口を滑らせた藤原に対して、橘が面白がって藤原を質問攻めにしてきた。
「うっ! あ、愛の告白と言うのは、もののたとえであってだな……」
「ほほう、それは大変興味深い。ですが僕はあなたが誰に好意を寄せているか、今の会話で理解し得ましたよ」
「っだ、誰が……!」
「ええ、それはたち「ッチ!タッチ!この辺にタッチ!!」」
 古泉の発言を、何だか懐かしい歌っぽいものでうやむやにする藤原。
「何やっているんですか! 邪魔しないでください! 恥ずかしがる必要は無いのです。一般的な人間であれば、好意を寄せられて嫌だと言う人はいませんよ。それに馬鹿になんかしませんから。思い切って言ってください!」
「いや、だからまだ言うべきときじゃなくて……」
「俺は今言うべきだと思うから言っちゃうぞ。こいつの好きな奴はた「めだこりゃ」」
「もう! いい加減にして下さい! しかも『ためだこりゃ』ってなんですか! 長さんがご存命ならば怒り狂ってしまいますよ!」
「い、いや、僕も彼が残した遺産は、歴史的見地からもとても重要なものだと思うんだけど、ほら、本歌取りをして故人を称えることもまた重要だと教わってな……」
 未来人のカミングアウトによるシリアスモードは一転、いつの間にかこの二人による漫才へと変化していった。
 なあ古泉。この二人、将来漫才をやったら良いんじゃないかと思うんだが、どうだ? 
「き、奇遇ですね。僕も今そんなことを考えていたところなんですよ。くくくくく」
 だな。ついでに芸名を考えてやったぜ。パンジー藤原とシトラス京子だ。どうだ、何かいい感じだろ? 
「くくく……どちらも頭の中がお花畑って、ことですか……」
 うくくく、その通りだ……
『あっははははは!!』
 俺達は同時に大爆笑の声を上げ――

『ちょっと! 話を聞きなさい!!』
 ――そして、夫婦漫才コンビの二人に同時に突っ込まれた。

「と、とにかく、僕のことはどうでもいい! それよりもあんたに言うことがある!」
「そ、そうなのです! キョンくん。猶予を与えます! 今日の夜十時、ペンションの裏にある雪溜りのところで待っているのです! それまでに解答を出してください! さもないと、あなたの身に不幸が降り注ぎますから! それじゃ!」
 そう言って橘と藤原、コントフラワーズはブーツをいそいそとはめ、その場を後にして……あ、橘がこけた。
「い、いたぁーい!」
「こ、こんなことろでこけ…うおぁ!!」
 藤原まで巻き込まれた。
「ちょ……どこさわっているんですか!」
「いや、すまん!でも、まったく感触が分からなかったが……」
「うわぁぁぁあん!! ひどいですぅ!!」
「だ、大丈夫だ!僕はどちらかと言うと小さいほうが好みだから!」
「あなたの趣味なんてどうでもいいのです!! それよりあたしの心の傷、どうやって癒してくれるんですか!」
「くそ……俺だって今の一言で、十分傷ついたぜ……」
「え? 何が傷ついたんですか?」
「あ、いや、えーとだな……」

 まだやってるよ。あの二人、本当に飽きもせず良くやるよな……



「どうしましょうか。この一件?」
 俺が呆然と二人のほうを見ていると、古泉がそう問い掛けてきた。すっごく面倒くさそうに。
 どうするかって? 分かりきったことを。俺の中では既に対策済みだ。


 そして俺は面と向かって古泉に言い放った。
 ――決まってるだろ。無視してスノーボードを楽しむのさ――


橘京子の陰謀(合宿三日目)に続く

 


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