先日、妹が地方公務員試験に合格した。高校卒業以来1年間、必死に勉強してきたんだ。努力の成果が実ってよかったなと大いに祝福してやりたい。兄としても、非常に鼻が高い。
 しかしそのおかげで、俺の現状がより肩身の狭いものになったのもまた、否めない事実なのだ。妹に先を越された兄。その重みが十字架となって俺の双肩にのしかかる。
 そもそも俺は年の離れた妹に対して、並々ならぬ威厳を持って接してきた。妹がおいたをした時も、冷静に実父のような対応をしてきたものだ。
 その俺の兄としての立場が、一気に瓦解した。3日前、妹が満面の笑みで合格通知の入った封筒を俺の部屋に持って駆け込んできた瞬間から、だ。
 俺の考え過ぎだろうか。妹が俺を呼ぶ時のイントネーションが、いつもの「キョンく↑ん↓」ではなく、目上の者が下の者を諭すような「キョンく↓ん↑」だったような気がする。
 とにかく。その時以来、ガラス張りのようにデリケートな俺の心は無残にも粉々に打ち砕かれてしまったのだった。

 

 

 寝ボケ眼をこすりながら、ボーっとした頭でベットから起き上がった。昔はよく妹が俺を起こしに来てくれたもんだが、今じゃ当然そんなことはない。
 妹が小学生だった頃のことだとはいえ、今さらのようにあの遠慮のない起こし方が懐かしまれた。
 階下に下りて行くと、聞いてもないのに妹が本採用のための健康診断に病院へ行ったと教えてくれた。なんでも医療機関の健康診断には実費が1万円近くかかるらしい。
 今日は懐の具合が切なくなっていたので揉み手をしながら母親に金銭を無心しようと思っていたのだが、今日はやめておいた方がよさそうだ。
 俺は居づらさをこらえながら速やかに朝食を食べ終えると、そのまま自室へ戻って行った。
 妹が狭き門である公務員試験に通って以来、両親の機嫌は際限なしに良い。俺の無職なんて帳消しになるくらいだ。いや、帳消しになんてなるはずないのだが。
 妹が就職したことは俺も嬉しい。それは疑いようのない事実だ。だが、その反面悲しい気持ちになっていることも事実なのだ。
 このままでは、家に俺の居場所がなくなってしまう。


 現状打破のためには、何か行動を起こすのが大事だということは重々承知しているのだが、いかんせんモチベーションが上がらない。まあ、それもいつものことだが。
 とにかく昼真っから自室で漫画を読んでいるというのも落ち着かないため、目的も無しに外へ出た。いや、目的はあったか。
 俺が、無職たちが心安くいられる唯一の場所。仲間たちが待つ、約束の大地。公園に行こう。

 

 

 

「あら、キョン。今日も朝っぱらから辛気臭い顔して公園通いかしら?」
 缶コーヒーを飲みながら公園に到着した俺を出迎えたのは、公園のブランコで楽しげにはしゃいでいるハルヒだった。こういってはなんだが、二十代半ばの女性の姿とは到底思えない。
 こんなやりとりをしていると、どこからもとなくハルヒに向けて「お前の言えた義理か!」と鋭いツッコミが入りそうだが、こいつと長い付き合いの俺にそんな気概は一切芽生えない。
 これが涼宮ハルヒという人物なのだ。
 高校を卒業してからも以前SOS団を存続させ続けるエネルギーを持つ彼女に、そんなツッコミなど屁のつっぱりにもならない些事に過ぎない。
「おはようございます、キョンくん。今お茶をいれますね」
 そう言って、魔法瓶から注いだお茶を差し出してくれたのは、我らがメイド朝比奈さんだ。
 彼女も未だにハルヒの元に捕らわれ続けており、いつもこの公園のベンチで魔法瓶を脇に提げて俺たちを暖かく向かえてくれる。
 俺としては非常にありがたいことなのだが、その姿は世間的には非常に痛々しいもので、既にご近所さま方の口端には朝比奈さんに対するあらぬ推論が公然と飛び交っている。
 しかしよく考えるとこの人の場合、これが仕事なんだよな。こうして日夜ニコニコしながらハルヒの傍にいることで給料をもらっているのだ。実に羨ましい限りである。是非俺を時空管理員の末席に推薦してほしいものだ。
 さらにその隣に腰を降ろし、黙々と図書館から借りてきた本を読んでいるのは、他でもない長門有希だ。
 こいつもこいつで高校時代から何も変わっていない奴である。SOS団内でのポジションはもちろん、姿格好まで一切変化していない。
 もう外見年齢では二十代中盤にさしかかっている設定なのだからもっと外見を変化させないと、と思うのは俺の独りよがりだろうか。

 

「おめでとうございます」
 いつもの7割増しくらいのニヤケ顔で、古泉が俺の隣へにじり寄ってきた。こいつがこういう対応をとる時は、決まって俺にとっておめでたくないことがあった時である。
「あなたの妹さんが、公務員試験の難関を突破されたらしいですね。いやあ、実に素晴らしい」
 さすがに耳が早いヤツである。近所のオバサマ方たちの井戸端会議にでも顔を出しているかのような情報網である。
「え、キョンの妹ちゃんって公務員になったの? へ~。兄貴とは大違いね」
 あからさまに愉快そうな顔をしたハルヒは、ブランコから飛び降りながらそう言った。実に意味深な言い方である。
 悪かったな。どうせ俺は公務員試験どころか、一般企業の審査にも通らないようなダメな兄貴だよ。
「なによ。そう自虐的になることもないじゃない。別に私はあんたのことを馬鹿にしたわけじゃないのよ」
 今の言い方を聞いて、俺のことを小馬鹿にしている以外の解釈方法があるというのなら、聞かせてもらいたいものだな。
「公務員なんてつまらない仕事よ。何でもかんでも規則規則で、条理不条理を問わず決まりごとや上司の言うことを最優先させられて。本当に退屈なものよ?」
 それでも俺はなれるものなら公務員になりたいものだな。不況にも強いしな。
「ほんっとに退屈なヤツね、あんた。もっとこう、ベンチャー企業を立ち上げてやるぜ! みたいな意気込みはもてないわけ?」
 ふん。そんなこと微塵も思わんね。そんな戯言は余裕のある人間の言うことだ。

 

「やっほー、みんな! 今日もめがっさ人生エンジョイしてるかい!?」
 我々無職団の中でも、もっとも現状に危惧をもたない大人物、鶴屋さんが大通りの向こうから駆けてくるのが視界にはいった。
 平日の朝っぱらから公園に集合する若者たち。近所の奥様方でなくとも眉をしかめるってもんだ。
 だが、俺はこんなSOS団に居心地のよさと愛着を感じているのだった。
 昔となにも変わらないもの。今じゃ、そんなのはこのSOS団くらいのものだからな。
「あ、鶴屋さん。お茶飲みますか?」
「おー、今日もみくるお手製のお茶をいただくとするかなぁ! うむ! うまい!」
 長い髪をかき上げながら、鶴屋さんは長門の背中にもたれかかり、長門の読む本に目を落としているようだった。
 これで無職SOS団全員集合ってところかな。そろったところで、何をするわけでもないのだが。

 

 

「ねえねえ、この求人誌みた!? 最新刊なんだけどね。ホントに笑っちゃうような求人ばっかなのよね! これからの日本は本当にこんなんでいいのかしら!?」
 求人誌を笑える立場にないお前が、何を遠大なテーマを投げかけているんだ。春闘にでも参加してきたのか?
「日本国民の私がこの国の未来を憂いて何がおかしいのよ。まったく、あんたって変なことばかり言うのよね」
 お前の理論にかかれば大抵の物事は変なことなんだろうな。
 ハルヒに求人誌を見せてもらったのだが、やはりこいつは面白そうつまらなそうの二極論で求人情報を判断しているようだ。なにを考えて無職やってるんだこいつは。

 

 おいハルヒ。あまり舐めたことを言うんじゃないぞ。無職を舐めると痛い目に遭うぜ。
「なによ、痛い目って」
 無職はな。伊達や酔狂でやれるもんじゃないんだよ。文字通り身体と精神を賭けてやってるんだよ。
 ひとつの職業理念にとらわれることなく、多角的な視点から社会全体を眺望できる位置にいる。それが俺たち無職なんだよ。
 それをお前。面白そう面白くなさそう、だなんて。現状に諦めを抱いて開き直っているとしか思えないぞ。
 将来に対して、発展的な見方のできる無職となれ! それが俺たち無職リストたちの使命なんだ!

 

 シ-ソーに腰をかけて力説した俺の顔を、みんなが見ていた。無言のその視線には、なにやらみんなの熱い思いが込められているように感じられた。
「キョン、あんた。たまにはいいこと言うじゃない」
 ……良いことだったんだろうか。何かカッとなって心にもない言い訳がましいことを口走ってしまったような気がしたのだが……。
「キョンくん……立派です! そこまで深い考えがあって無職を貫いていたなんて!」
「立派」
 感心したふうな朝比奈さんと、無表情の中にも驚きのような色合いを見せる長門がそう言った。
「深謀あってのことだとは。さすがの僕も見抜けませんでしたよ。いやあ、感服しました」
「すごいね、キョンくんは! 私は日々をただ楽しく過ごせればいいやとしか思っていなかったのに。反省しなきゃだね!」
 古泉と鶴屋さんも俺の無職正統派演説に感心しているようだった。自分的には、そんなに心をゆさぶるようなものだったかは甚だ疑問なのだが……。

 

「いよっ! エブリデイがフリータイムのみなさん!」
 不意に公園脇の街路から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「今日も朝っぱらから公園の見回りですか。最近は物騒な事件が多くて、公園も子どもが安心して遊べる環境じゃないからね。そうやってパトロールしてくれる人がいると本当に助かるよ」
 暖かい雰囲気が流れかけていた俺たちの間に、突如氷河期のように冷たい空気が訪れる。
 親の七光りで一流会社に就職した腰抜けのヘナチン野郎、谷口だ。
「ふん、つまらない会社に毎日毎日セコセコと通う人生の負け犬さんのおでましかしら?」
 よせハルヒ。向こうは親のコネとはいえ、一流企業に勤めるリーマン様だ。俺たちにはどうあがいても勝ち目がない。自重するんだ。
「誰かと思えば、いい年こいてSOS団なんて称して公園にたむろしている団体の総元締め、涼宮ハルヒ嬢ではないですか。お元気そうでなにより」
 やたらめったらご機嫌そうな様子で、谷口は会釈する。しかしその慇懃な態度から俺たちに対する敬意など感じられるわけもない。
 くぅっ、と古泉の歯ぎしりの音が耳朶を打つ。お前の気持ちは痛いほど分かる。だが耐えるんだ、古泉。
「あんたこそ血色のいい顔してるじゃない。やっぱ親のコネで入ったお坊ちゃんじゃ、ろくな仕事が回してもらえず暇なのかしら?」
 勝てぬ勝負だと分かっていても、SOS団の名誉を守るために戦う。それが涼宮ハルヒなのだ。無茶しやがって……。
「それが逆なんだよな。なんつうの? ついに俺の時代がきたっていうのかな。取引先の社長さんが俺のことを気にいってくれてさ!」
 やたらと嬉しそうに胸をはって高笑いする谷口。そのまま氏ねばいいのに。
「これからその取引先へ、大事な商談に行くところなんだよね! 会社の浮沈がかかった一大商談に参加できる栄誉が、顔色にも出たのかな? なんてね!」
 その後にも単発的に浴びせられるハルヒの罵声をものともせず、谷口は黒光りする鞄を脇に抱えてタクシーに乗って去って行った。
 谷口に対する怒りは、あいつがタクシーに乗って姿が見えなくなった時点で消えていた。
 後に残ったのは、ただただ虚しいだけの脱力感だった。

 

 

 俺たちは……俺たち無職は、無力な存在なのか? 就職している者としていない者の間には、これほどの力の差があるのか!?
 そんなはずはない! 収入を得ている者とそうでない者は、ただそれだけの違いなんだ! 人間的な優劣にまで影響するようなことは断じてありえないはず!
「……ああ。働きたいですね」
 自問自答を繰り返す俺の心に、古泉のつぶやきが深々と突き刺さった。

 

 天真爛漫な笑顔で俺に合格通知をつきつける妹。胸を反らしてSOS団を嘲笑する谷口。

 

 脳裏にその姿が浮かんでは消え、消えては浮かんでするうち、いつしか俺の目じりには涙がうかんできた。
 くそっ、くそっ、くそっ! 俺はダメじゃない! ダメな人間なんかじゃない! 今はちょっとダラダラしてるけど、かならず将来は社会のために貢献できる人になるんだ!
「こうなったら、最終手段しかありませんね」
 どんよりと沈んだ空気のハルヒたちに背を向け、古泉はそっと俺に語りかけてきた。
「涼宮さんに、心の底から就職したいと願わせるんです」
 それは、悪魔のささやきのように俺の心を甘美にくすぐった。

 


  つづく?

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最終更新:2020年08月14日 17:53