白雪姫に、最期に与えられたのは、林檎でした。
紅く艶のある、瑞々しそうな林檎。


白雪姫は、手を伸ばしました。
もう何も、堪える事はありませんでした。




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俄かには信じ難い事象を、否応なしに信じさせられる。

――そんな事例なら、以前にもあった。四年前、涼宮ハルヒに何らかの出来事が発生し、突如として古泉が能力に覚醒した日。古泉は拒否権なくあらゆるものを奪い取られ、代償に幾許かの『選ばれたもの』である、という自負を与えられ、逃避する余地のない宿命という名の拘束に縛り付けられた。
けれども「分かってしまった」古泉は、重責を課せられたとて、放り出すことは叶わなかった。自覚的にそうだったのだ。「分かってしまう」ということは、つまりはそういうことだった。
無論、過去の彼自身がそうであったように、SOS団団員として走り回る事そのものを青春の一環として謳歌している「今の」古泉一樹がそのように感じているかといえば、話はまるで別であった。
部室で少年と指す将棋はこの上ない娯楽であったし、少女がいそいそと淹れてくれるお茶はどんな喫茶店で出される紅茶よりも遥かに美味で、行動力に満ち溢れた少女の眩しいくらいの笑顔と高らかな一声が古泉には愛おしく。
読書をこよなく好む、彼女が定位置で頁を捲る姿を通した日常は、何物にも代えがたい、古泉にとっての安らぎだった。

そして、今回だ。
栞を見た瞬間に「分かってしまった」――古泉自身、忘れさせられていたことを。
一体いつから、記憶の改竄にあっていたのか。たったふたりの文芸部という偽りの記憶を遡れば、不鮮明になっていくそれらにもっと早く気付いて然るべきだった。眼鏡を掛け、人のように有りの侭の感情を流出させる長門のことも、ヒントには十分な資料であったのだから。

「……副団長職失格ですね。彼らのことを、一時とはいえ忘れてしまうとは」
自虐の一言は古泉なりの戒めだった。これ以上はない。
もう、惑わされはしない。


思い出して初めて、長門と二人きりという状況下がどれほど奇怪であったかを思い知れる。団員のないがらんどうの室に、仲間と過ごして来た数々の思い出の象徴のように、残存していた給湯器、パソコン、ボードゲーム、華々しい女物の衣装類。彼らの美しいとも表すに吝かでない、大切な忘れ物だ。
忘れ物は届けなくてはならない。当人たちの下へ。
古泉は沈思した。
他のSOS団員たちは、総てを統べる母とも言うべき誇り高き団長は、何処へ消えたのか。何故、古泉と長門のみがこの白雪姫にあつらえたかのような、けれど目覚める余地を残した空間に留まることになったのか。
恐らくは筆跡からして長門が遺したメッセージに違いない、栞の文面からその意図を汲み取り、取り得る限りの手を尽くすことが第一だろう。――古泉は薄っぺらい紙切れに過ぎぬ栞を、光に翳して透かす。



あなたは鍵を見つけ出した。

求められる回答はPC内に記録されている。
最後の選択権を、わたしは、あなたという個体に委ねる。



栞のメッセージの、最後の選択権とは何なのか。この部内のパソコンを平素から利用しているのは、眼鏡を装着した長門有希の方だ。――栞に拠れば、此処に総ての解決策が集約されているはず。
古泉は旧式PCの前に移動すると、電源マークを親指で押し込み、ランプの点灯を待った。
起動画面が表示され、聞き慣れた軋んだ作動音が鳴り、デスクトップの黒い背景に白文字が並ぶ。「偽装されていた記憶」によれば、元よりこの古いパソコンは使用可能になるまで数分を要する。砂時計のアイコンが現れるのをもどかしく待ちながら、古泉はこの度のあらましを振り返っていた。

古泉と長門のみが、SOS団なきこの封鎖的な世界に存在する世界。ここにはどうやら涼宮ハルヒも朝比奈みくるも『彼』もいない。超常的な力も機関も未来人も宇宙人もない。長門に至っては性格が大幅に書き換えられ、当人そのものかどうかさえ分からない状態だ。
元の時空でハルヒを始めとする三名が行方知れずとなったのか、それとも古泉と長門が彼等からすると消失した側なのか――。もし此処が閉じられた世界ならば綻びを見出し、どうにか抜け出す方法を捜さなくてはならない。
白雪姫の物語を暗示したこの奇妙な世界を終わらせるには、どうすれば最善か。
古泉は、切れ長の薄目を開く。
案一。――『妃』を、捕まえるのでは、どうか?

――この世界における、情報統合思念体端末からは外れているらしい普通の少女となった様子の、長門有希。彼女が二度、胸紐と櫛で殺されかけた事を踏まえれば、彼女が『白雪姫』の役割の担い手であることは疑いようがない。この御伽噺を掲げた残酷な封鎖空間は、長門有希を抹消する為に仕組まれたものと仮定できる。彼女を無力化し、生じさせた世界のルールに則らせることで抵抗を封じたとするなら?
この仮説が確かならば、『妃』役――この空間を創出し、長門の消滅を望む者――が存在している、ということ。
それを突き止め、捕捉することができれば、あるいは。

では、と古泉は思索を転換する。
異常世界に正常の感覚を取り戻し、故に取り残された古泉一樹に振られた役割は何か。
白雪姫のメインキャラクターを一揃え浮かべ、誰もが最初に想像だけならしてみせるだろう、「王子役」、と始めに呟いた古泉は、しかしすぐに失笑を見せた。
「……いや、これは違うでしょうね」
言ってみただけだ。長門が望むであろう王子役が、『彼』であろうことは、考えるまでもないことだった。分かり切っているとはいえ、一抹の寂しさは積もる。 

SOS団で繰り広げていた騒々しい活動のさなかにも、古泉は控えめにも望み様のない恋情を、胸郭の深奥に隠し入れて、壊れないよう、大事に抱え育ててきた。今更だったのだ。長門が一体誰を真に想っているのか、等ということは。

それでは、と古泉は消去法を使う間もなく解答を産出する。該当は、一つだけ。
「――『小人』役」
古泉は顎に手を添えつつ、己の解釈に妥当性を認めた。これが最も適正な線だろう。実際、物語に登場する小人にかこつけるような形式ではあれど、古泉は二度妃の魔の手から白雪姫を救っている。ただし逆に言えば、小人は「三度目の白雪姫の死」だけはどう足掻いても救えない、ということになるのだが……。
思い至った古泉は、指を軽くなぞる様に食み、黙考を深めた。
もしや、『王子』役は、不在なのか?
『彼』が涼宮ハルヒや朝比奈みくると共に、この閉鎖された世界に存在していないならば、白雪姫を三度目の死の窮地から助け出せる者がない、ということだ。
もしかしたらそれこそ、この世界を仕組んだ者の計略なのかもしれない。三度目の死で、長門を完全に抹殺するための布石として、王子役を蚊帳の外へ追い遣ったとすれば辻褄があう。
三回目の「毒林檎」により長門が危機に瀕する、というのは、忌避すべき展開だった。この世界が物語通りに進むように練られているなら、王子役が居ない時点で話は決着がつく。白雪姫は目覚めない。物語はそこで、終わりだ。

悪循環に陥りかける渦を断つように、古泉は、己を叱咤した。
デスクトップに視点を移す。――画面は、起動準備を終えて、明るくなっていた。空模様の壁紙を下地に、幾つかのショートカットアイコン、そしてフォルダがひとつ。「創作物」とタイトルの付けられたそれは、書き掛けの原稿を仕舞い込んでおくためのフォルダだ。
一時、長門が書き溜めたものを纏めてあるフォルダを勝手に開いていいものかを躊躇った古泉は、今は此方が優先事項と自分に言い聞かせ、マウスを不自由な左手で操作した。
単純なクリックが、震えてぶれる。答えは、此処にある。長門の言葉を信じてどうにか開いたフォルダの中身が一覧表示されると、古泉は現れた数十のワード文書の項目のうち、ひとつひとつを丹念にチェックした。そうして、一番端に位置していたデータに眼を留める。
――白雪姫の鎮魂、というタイトルの、それ。 
 
 
 
 
 
 
 
 

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雪の降りしきる春先の日、白雪姫はこの世に生を受けました。

彼女は周囲の大人に見守られ、大切に育まれていきました。
白雪姫は大変素直で、感情をくるくると表に出します。
白雪姫はよく愛され、よく人を愛しました。
けれども、白雪姫は、お妃様に疎まれてしまいました。

「鏡よ鏡、こたえておくれ、わたくしと白雪姫、■■■■■■■■?」
お妃様は鏡に問い掛けをしましたが、鏡は、答えてはくれませんでした。

お妃様はずっと悩んでいましたが、みるみる美しく大きく成長する白雪姫に、お妃様は覚悟を決めました。
白雪姫がやがて、お妃様を食いつぶし、世界を食いつぶしてしまうと、お妃様は思ったのです。

お妃様は白雪姫を、もはや生かしてはおけないと、殺してしまう算段を立てました。
命の危険を感じた白雪姫は、お城から逃げ出しました。
白雪姫は、逃げ延びた森で小人に出会い、小人と共に暮らすことになりました。


けれどもお妃様は白雪姫を殺すことを、諦めることはできませんでした。
お妃様は老婆の扮装をして、白雪姫を尋ね、たくらみを実行しました。
胸紐を用いて、白雪姫の胸を締め上げて殺そうとしたのです。
白雪姫は息絶えてしまいましたが、戻ってきた小人が紐を緩めると、息を吹き返しました。
お妃様のたくらみは失敗したのです。 


小人は白雪姫に強く言い聞かせましたが、白雪姫は大変無知な娘でしたので、小人は不安でした。
そんなうちにも、お妃様はふたたび、白雪姫を殺しにやってきます。
今度は毒を差した紅色の櫛を利用しようというのです。
小人は白雪姫を独りにしていては、また彼女が殺されそうになるかもしれない、と思いました。
小人は扉越しに白雪姫のふりをして、お妃様から櫛を受け取り、白雪姫の身を護ろうとしました。
櫛にはそのお妃様によって手ずからかけられた、呪いがあることも知らずに……。


――櫛を受け取った小人は病に蝕まれて、倒れてしまいます。
お妃様は小人以上に機転の利く人だったのです。
小人が白雪姫を護るために何をするかまでを考えて、策を練っていたのでした。

自分の所為で小人が倒れてしまったことを知った白雪姫は、追い詰められてしまいました。
看病を重ねても小人は一向に良くなりません。
心優しい白雪姫は思い詰め、精神を病み、小屋に引き篭もってしまいます。


そうして、三度目に小屋を訪れたお妃様は、
――ドアの隙間から、赤い林檎を差し入れました。





*********** 






――書きかけの文書は、そこで終わっていた。

眼球が乾ききって罅割れてしまうまで、古泉は画面をきつく凝視し、その文書の端末の一文字にいたるまでを網膜に焼き付けるように睨み付けた。
原本の白雪姫から、派生させた新たなストーリーといえる内容だ。物語自体の語り口は童話そのもの。彼女なりの「白雪姫」への多角的アプローチ。興味深い描写が散りばめられているが、古泉の双眸は何れも、その示唆された意図以外のものを追ってはいなかった。

……この後の白雪姫がどうなるかなんて、読まずとも、誰であろうが察せられるだろう。
『妃』が誰であるのか。問いの真相を、古泉は己の思考のみで補完した物語の全容から掬い取り、痛いほどによく理解し。
唇を噛み締め、吐き捨てた。

「――そういうこと、か…!」





文芸部室を飛び出す。包帯で固定された右腕では旨くバランスが取れず、壁に左手をつきながら、脚を忙しなく働かせる。
古泉は走り出してすぐに、無音の違和感を覚え、その正体を悟った。
駆け抜けてゆく古泉の脚音の響きが、走るなかについてくる。放課後とはいえど、この時間帯に生徒のざわめきが一切耳に届かない。夜の廃屋でも、これほど物静かということはないだろう。
駆ける中見渡した教室、教室、教室――人が、消失していた。正しく、蛻の殻というべき空間。上辺だけ取り繕われていたこの世界の「おかしさ」が、一気に噴出したように。
先程まで教室付近で談笑したむろしていた男子生徒も、掃除用具を片付けていた女生徒も、居残り勉強に勤しんでいた学生たちも、部活に声を張り上げていたグラウンド外の運動部も、職員室で模試の採点をする頃合だろう教師も、一切が、いなくなっている。

古泉は、偽りに覆われていた世界の脆さを予感する。崩れ始めている、――古泉が真相に辿り着いたことによって。
「……長門さん……!」
保険医が残っているからと、保健室を出たのが過ちだったのかもしれない。彼女を一人にするべきではなかったと、古泉は悔いた。
古泉の不在時に『妃』役がどうでるか分からない。焦燥にかられ、不自由な腕を庇いながら走り込んだ保健室前。
扉に凭れ掛かり視線を投げ掛ける、見知った少女が、一人、哀憫の情を握らせるように微笑んでいた。


「だから、忠告してあげたのに」
セミロングの美しい髪を、窓からの微風に遊ばせた朝倉涼子は、古泉に、物悲しげに笑いながら、最終通告を投げ掛ける。

「―――『今度こそ』手遅れになる前に、って。言ったでしょう?」 










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白雪姫に、最期に与えられたのは、林檎でした。
紅く艶のある、瑞々しそうな林檎。

白雪姫は、手を伸ばしました。
もう何も、堪える事はありませんでした。



――ごめんなさい小人さん、
ごめんなさい。
ごめんなさい。

愚かな私でごめんなさい。
あなたを苦しめてごめんなさい。


白雪姫は謝り続けました。
心の中で、幾度も繰り返し、謝り続けました。
毒の塗られた甘やかな林檎を、その小さな掌に乗せて。 





(→7)


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