ちり取りとホウキを手に、サッサッと手早く生徒会室の床を掃除するわたしの隣で。


「ふむ、なかなか見事な仕上がりだな。キミは将来、美容師にでもなったらいいんじゃないか?」


 片手に手鏡をかざし、片手であご先の辺りをなぜ回しながらそんな戯言を吐く人物に、わたしは冷ややかな視線を向けました。


「何をとぼけた事を仰っているんです? 生徒会長ともあろう方が、日常的な身だしなみもおろそかなまま登校したりするものだから、わたしはこうして余計な手間に煩わされているのですよ?」
「いや、すまん。週末の内に行き付けの床屋へ足を運ぶつもりだったんだがな。天気がぐずついていたせいで出掛けそびれたまま、ついうっかり」


 そういう事です。月曜の朝に見かけた会長が、横着にも口元やあご周りの手入れを怠ったままだったので、全校朝礼が始まるまでの時間にわたしは彼を生徒会室に引っ張り込み、その不精ヒゲを全て剃り落としていたのです。


「ついうっかり、ではありません。ご自身の立場というものを、もっと自覚なさってください。あなたは…」
「涼宮ハルヒの理想の敵役。権力の矛を振りかざし、規則校則の論理武装で弱者を脅かす独善的支配者。だろう?」

「分かっているのなら、冷徹酷薄な悪役に徹してください。あなたが手強いライバルであればこそ、涼宮ハルヒはSOS団の皆を、特に“彼”を叱咤激励し、奮起を促す事が出来るのですから。
 安易に隙を見せたりして、涼宮ハルヒを失望させるようでは困ります」


 チクチクとしたわたしの訓告に、会長は無言で肩をすくめてみせました。何を大げさな、と言いたいのでしょうが、事実それが大げさな物言いでない事を、この人も理解はしているのでしょう。


「ともあれ、その危機もキミのおかげで回避された訳だ。さすがは俺の女房役。喜緑江美里ここに在り、といった所か」
「お言葉ですが、わたしが表立って活躍するような機会など無い方が望ましいのです。いつもいつもこうしたフォローがあるものだと、馬鹿げた期待は抱かないでください」


 手鏡をこちらに返しつつ、冷やかすように目を細める会長から、わたしはツンと顔を背けました。この人を甘やかすとロクな事になりませんから。
 ちなみに今回の作業に当たって、情報操作はほとんど行っていません。整髪用ケープの代用品として、ゴミ袋に穴を開けた物を会長に頭から被せ、カミソリの代わりに生徒会室の備品のカッターナイフを使用。シェービングクリームの代わりには、保湿剤入りのリップクリームを塗りたくってさしあげました。


 もちろんわたしがその気になれば、理髪店の専用道具類を構成する事も、彼の毛根を生成する組織そのものを変質させる事さえ出来ます。
 出来ますが情報操作というのはやはり、大なり小なり周囲の環境等へ影響を及ぼしますので。不必要な力の行使は慎むのが、スマートな穏健派のやり方なのです。


「それについては俺も賛同しよう。手品のようにヒゲだけ消されるより、女のしなやかな指で丁寧に剃られる方が数段マシというものだ」
「そういう問題ではないと思いますが」
「何にせよ、その腕前をこのまま腐らせてしまうのは惜しいな。
 そうだ、喜緑くん。キミは今後、俺専属の理容師にならないか? そうすれば俺はいちいち床屋に行く手間が省けるし、キミは俺の身だしなみに関して余計な心配をせずに済む。うむ、我ながら実に名案だな」


 腕組みをして、うんうんと一人勝手に頷く会長の様子に、わたしは小さく嘆息しました。何が名案ですか。単にあなたが楽をしたいだけの話でしょうに。
 というか先ほど釘を刺されたばかりだというのに、ちっとも懲りていませんねこの人は。これは、少々懲らしめておく必要があるかもしれません。


「あいにくですけれど」


 掃除用具をロッカーに片付け、スチールの扉をバタンと閉めたわたしは、改めて会長に向き直りました。


「その件はご容赦願います。金輪際、わたしはあなたの毛髪の手入れなどしたくはありません」
「ほう、これはまた痛烈に拒否されたものだ。それほど俺に触れるのが嫌か」
「ええ。なにしろ――」


 淡々とした抑揚の無い声と、能面のように平坦な表情で。わたしは答えながら彼に歩み寄りました。そうして、机の上に置かれたままのカッターをさりげなく手に取ります。
 チキチキチキ、という金属音。次の瞬間には、わたしがビュッと繰り出した銀色の刃が会長の頚動脈の上で静止していました。


「――あなたのヒゲを剃っている時。無防備なあなたの喉を眺めていた、その間じゅう。わたしは『もし、このカッターの刃を横に滑らせたなら』という妄想を、何度も抑え込まなければなりませんでしたもの」
「…………」
「もしもあなたの生命活動を、この手で強制停止させたなら。そうすれば、あなたの存在を永遠に独り占め出来るのではないか…と。
 そんな妄執に囚われたりする事が、わたしにだってあるのですよ?」


 ごくり、と目の前で会長の喉が上下しました。その様に、わたしは意識のどこかで高揚感を覚えます。ふふっ、気分はさながらメロドラマの悪女役といった所でしょうか。
 せっかくですから、もう少し演出に凝ってみましょう。唇の端に艶然とした微笑を浮かべ、眼に狂気と陶酔の色を燃やしながら、わたしはさらに会長に詰め寄りました。突如豹変したわたしの態度に、会長は身じろぎも出来ないまま…。


 あら? 困りましたね。
 これはあくまで演技であって、「こういう目に遭いたくなければ、自己管理くらいきちんとなさってください」と勧告するためのお芝居のつもりでしたのに。
 なんだか、だんだんと本気っぽい雰囲気になってきてしまいました。この恫喝じみた行為が、実に愚かで発作的な衝動である事は理解できているのに、身体の奥底が熱を帯びていくのが鎮められません。冗談ですよと微笑んでカッターを握った手を離す事が、どうしても出来ないのです。


 いえ、もしかしたらハッキリと自覚していなかっただけで、わたしの衝動は本当に本物だったのでしょうか。

 わたし、喜緑江美里は情報統合思念体からの指令によって今この場に居るだけ。違う指令が、いつこの身に下るとも限りません。その時、二人に別れが訪れるなら。

 彼への諫言にかこつけて何やかやと世話を焼く、この『女房役』という小気味よいポジションを、他の誰かに譲り渡さなければならないのなら。いっそこの場で彼を害してしまえば――。


「違うな」
「…えっ?」


 突然の一言に、わたしはびっくりして我に返りました。
 生命の危機に怯えているかと思われた会長は、しかし嘲るような笑みをこちらに向けています。そうして上からまっすぐわたしの瞳を見下ろしながら、会長はゆっくりと唇を開いたのです。


「逆だ。俺がお前の物になるのでは無い。
 もしそのカッターで俺の喉笛を切り裂き、溢れる鮮血に手を染めたなら」


 言葉を続けつつ、会長は右手の人差し指を立てました。伸ばしたその指先を、彼はわたしが構えるカッターの刃に押し当て、わずかに力を込めます。
 ぷつり、と皮一枚が切れる音。やがて銀色の刃と皮膚との間に、こんもりと小さな赤い膨らみが生じました。その血の赤さに目を奪われ、呆然と立ち尽くしているわたしに向かって。


「お前が、俺に支配されるのだ。
 未来永劫、俺の存在を忘れる事が出来ないという呪いに魂を縛られて、な」


 そう告げて静かに笑うと、会長はわたしの唇に、人差し指の先をちょんと触れさせたのでした。
 まるで、実際に呪いを掛ける儀式のように。そうしてスッと身を屈めた会長は、わたしの唇に付いた血を、自身の唇でそっと拭ったのです。


「さてと、そろそろ時間だな。メロドラマごっこはこの位にしておくか」
「はい、メロドラマごっこは…って、ええっ!? か、会長ッ!」


 からかうつもりがからかわれていた事に気が付いて、思わずまなじりを吊り上げ、声を荒げてしまうわたしを。
 しかし会長は当然のように無視して指先をぺろりと舐め、ポケットから取り出したメガネを涼しい顔で掛けてみせました。


「俺は毅然たる悪の総帥でなければならないのだろう? ならば生徒会の会長と書記が、揃って全校朝礼に遅刻するような真似など論外のはずだな。
 行くぞ。いつまでもポーッとしてないで、しっかり付いてこい」
「だ、誰もポーッとなんてしてません!」


 余裕の笑みを残して身を翻し、大股で前を行く会長の後を、頬を膨らませて追いながら。


(わたしに魂という物があるのなら。
 それはとっくに、あなたに呪縛されてしまっていますよ――)


 いつもわたしをやきもきさせる、彼のエゴイスティックな背中に向かって。わたしは胸の内で、小さくそう呟いたのでした。




カッターの刃と鮮血の呪い   おわり

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最終更新:2020年03月13日 21:56