小人はようよう、識りました。
白雪姫が「或る者」に殺され掛かっていること。
小人は護りを、誓いました。
己が命を賭しても、護るに値するものを望みました。


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古泉は、沈着を旨とする己の本分すら忘れ、ただ止め処ない血の毒々しい赤を目の当たりにしていた。携えていた手紙は緋色の液体を吸って、端はよれ、血に塗れた櫛と同様に落ちてべたりと床に張り付く。
仕込み刃だ。
櫛に、触れたら刃が突き刺さるタイプの仕掛けがしてある。しゃがみ込んだ古泉は、咄嗟に傷口を押さえたために血で汚れた左手で、同じく赤くなった手紙の便箋を床から拾い上げ、中を覗き込んだ。メッセージが記されているような類の紙はないことを確かめ、苦々しさに唇を噛み締める。衝動のまま封筒を握り潰しかけたが、ぎりぎりで思い留まり、震わせながら左腕を降ろした。
傷の痛みもあったが、それより先に怒りが勝った。刃つきの櫛のみの封入。あからさまに、長門を狙っての仕業だ。単純な嫌がらせの度を越した、悪戯では済まされないレベルの凶器。
――誰が、なぜ。 
古泉は脈動のたびに細く血が溢れ出る己の右手の傷口を凝視したが、どれだけ深く刃が刺さっていたかは血塗れた手では判断しがたい。ずきずきと焼けるような、痺れるような痛みは神経を渡って、古泉の濡れた掌を熱する。血止めをしなければと思い立ち、古泉は止血の出来そうなものを捜して立ち上がった。
何かが倒れたような振動が背後で鳴ったのを皮切りに、引き絞るような声が上がったのはそのときだ。

「あ……」

開け放たれたきりのドアの向こう、扉の境界を経た廊下側に、長門有希が立っていた。
古泉が聞き込んだ限り、今日も長門は授業に出てはいなかった。登校してきたばかりなのだろう。古泉に会う為に、放課後の部室を選んで訪ねて来たのかもしれない。
鞄が床上に横倒しになっている。先程の物音は、少女が驚きの余りに鞄を取り落とした音だった。新調したらしいフレーム型に青みを増した厚い眼鏡、その奥に驚愕と恐怖を如実に浮かべた双眸。
手を、腕を、自身の血に拠って悪趣味な赤色にしてしまった古泉を、鏡のように明るく映す瞳孔が、縮む。
「――長門さん――」
しまった、と古泉は顔色を変えた。彼女に晒すには毒々しい場面だ。古泉はデフォルトの微笑を繕い、大した怪我ではないと誤魔化すようにしたが、強張った長門の相貌は青褪めてどんどん血の気を失っていく。
「ああ、」
「お久しぶりです、長門さん。その、すみません、お見苦しいところを……」
「や、ああ……」
「長門さ」
「やぁ、あああああ…!!」
古泉は声を喪った。
両手で顔を挟み、厭々をするように首を振って、長門は悲鳴を上げていた。咄嗟に悟っていたのだろう、古泉の血だらけの姿を招いた要因が己にあること。無表情を常とする少女は泣きそうに目尻を歪ませて、悲痛な声を上げ続けた。これほど我を失った長門に直面したのは初めてで、古泉も対応を測れず、かといって血濡れた手で抱き寄せることもできない。空っぽの腕が虚しく、空を抱く。
「古泉さ、血、が、ああ、あああああ、わたし、わたしの…!」
「長門さん、落ち着いてください!大丈夫です、僕は大丈夫ですから――」
募らせる言葉が掠れる。無力を思い知る。古泉は叫ぶ少女の前で自身の限界を突きつけられたような気がした。
どれほど心力尽くしても、護り切れないのだろうか。その儚い心の造りまでは。

こんなとき、彼なら……。最早確定的なものとなって、それは古泉の心情に上乗るように落ちた。かつて文芸部室に居たのであろう、名も顔も思い出せぬ誰かの存在を。
こんなとき、長門さんが好意を寄せる、『彼』であったなら。









 
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悲鳴を上げた末に気を失った長門を、保健室に運び込むのは悲鳴に駆け付けた教員の役回りだった。
負傷し、血液跡も黒ずみ始めた右手では、長門を抱き抱えられなかったのだ。
古泉は、包帯で覆われ固定された右手を見遣る。出血量が多く保健室の処置では間に合わず、近場の病院へ寄って治療を受けた跡は白い布がちらちらと眼に映るばかりで、一時にして制服の袖口から何からを染め上げた鮮血の色は、一切ない。そのことに、酷く古泉はほっとしていた。
被った怪我の度合いはともかく、あのまま手紙を長門に委ねていたら。負傷したのは長門であったかもしれない。
それは、考えるだに怖ろしい展開だ。

「長門さんの様子はどうですか」
「今は安静にしていますね。あなたの宥めが効いたのかしら」
保険医は慰めるように古泉に微笑んだ。その視線は恋人を案ずる『彼氏』に向けて労わりと冷やかしすら篭めたものであったが、今の古泉には自嘲の種にしかならなかった。
大っぴらに喧伝されたのと同じ効果を伴った、古泉の負傷と長門の保健室担ぎ込まれ。平穏そのものであった北高で、いきなりニュース報道ものの先日の殺人未遂事件に次いでのことだ。
学校が上へ下への大騒ぎになって生徒全員が強制自宅待機になり得る規模の事件であったことは違いない。にも関わらず、騒ぎは急速に沈静化。教師達も以前とは違い、古泉の怪我に関して、言及すらしては来なかった。 

古泉は単身で教室を見回ったが、古泉に手紙を託して去った少女はついぞ発見できなかった。彼女が名乗った八組のクラス写真をざっと眺めても、それらしき姿はない。そうして、思い出そうとすると特徴の少ない女生徒の顔を思い描けない自分に感付き、古泉の不審感は頂点に達していた。
――此の世界は、どこかおかしい。




長門は簡素なベッドで眠っている。夢のなかでなら恐怖を覚えずに済んでいるのか、赤子のように無垢な寝顔だった。やや乱れたさらりとした髪を左手で撫でつけてやって、古泉は一つ、腹を括った。

「先生、暫く長門さんをお任せしてもいいでしょうか」
「ええ、勿論よ。でも、何処へ?」
「確かめたいことがありまして」
古泉は優等生の振る舞いらしく、腰を低く謝辞を述べてから、保健室から引き上げた。その足で真っ直ぐに、目的とする場所を目指す。

元来古泉はばらばらの事象を繋ぎ合わせた考察、前提条件を下敷きにした推察を得手としている。長門が殺されかけた際に、用いられた『胸紐』と、今回の『櫛』という推理材料が揃った時点で、ある仮説に辿り着いていた。
紐ならば幾らも種類のある中で、胸紐を敢えて取捨選択した犯人。刃を仕込まれたからくり仕掛けの櫛にしたところで、仕掛けを施す物を櫛に限定せずとも好かったはず。では、もし胸紐と櫛でなければならなかった理由があるとしたら? 

何時かに長門に勧められて読んだ、一冊の古びた洋書を、古泉は回想する。
物語に主役の座を勝ち得た姫君は、世に類まれなる美貌と夜の如くの黒髪、雪の肌、そして清らかな魂を育んだ娘。故に母に疎まれ、追い込まれ逃げ延びた娘。けれど無知で人を疑うことを知らず、小人の忠言もすぐに忘れてしまう。御妃に命狙われ、三度命を落としかける。一度目は胸紐で、二度目は毒を差した櫛で。
――この符合が、偶然であるとは思えない。
その本はまだ部室に置いてあったはずだと、古泉は無人の文芸部室に踏み込み、包帯のない左手で手早く本棚を掻き分ける。重量感のある分厚い書は長門の好みだ。出し入れがされていない上部を重点的に捜す。視線を走らせる古泉は、両端を図鑑に挟まれた位置に、薄い『それ』を見出した。

「――『Snow white』」
詰まった棚から、それのみを取り出すのは骨が折れる作業だ。逸る心を抑えて、丁寧に指の先に引っ掛け、力を籠めて抜き出す。
表紙は、古泉の記憶にある通りの姿で残されていた。霞んだ英字体に、大きく林檎のイラスト。古泉は右腕に本を置き、左手で開くと、頁を繰りながら内容を飛ばし読みした。タイプされた英字が並ぶグリム童話英訳版。何か手掛かりがあると思ったのだ。
やがてある一定量を捲ったところで、古泉は紙と紙の間に慎ましやかに存在していたものを、見つけ出した。
何の変哲もない、書店で貰うような柄つきのものより地味な、白い栞。
極小ポイントで印字されていた――否、印刷したかのように端正な明朝体で記された、ごく短い文があった。 



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あなたは鍵を見つけ出した。

求められる回答はPC内に記録されている。
最後の選択権を、わたしは、あなたという個体に委ねる。 


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――それが、はたして、古泉一樹の覚醒を促すキーだった。

古泉はフラッシュを焚かれたような衝撃に、本を手から滑り落とした。
虚偽の情報が、書き換えられていた記憶が浮き彫りに、本質を表す。古泉の脳内に決して無表情を崩さぬ、少女の石の様な瞳が蘇る。それから、次々と絶え間なく記憶の切れ端が浮き上がっては、穴だらけであった思考の内に潜り込んで、欠損部を繋ぎ直していく。紛失していたパズルのピースが、機を待っていたかのよう。嵌め直されることを望んで、古泉の記憶へと舞い戻った。

不遜で快気で行動力に溢れた、神様そのものと黙示される少女がいて。少女に振り回されながらも対等に向き合うという誰も出来なかったことを成し遂げた、捻くれた素振りを見せつつも熱い気性を孕んだ少年がいて。愛らしい笑顔で他者を癒すに長けた健気な先輩がいた。
感情を露にする事こそ稀だけれど、叡智に満ちた面差しで、孤独にも弛まぬ物静かな少女が、いた。
「ながと、ゆき」
古泉一樹は、ずるりと床に膝をついて、呆然と少女の名を復唱した。
記憶の塊を海底に抑え付けていた重石が、取り外され、解き放たれる。忘れる筈のないものたちを、決して忘れてはいけなかったものたちを、古泉は思い出した。
「SOS団、神、神様。神人、機関、超能力者、……みらいじん、うちゅうじん、」
震える唇で繰り返す。血を吐くように、叩きつけるように古泉は叫んだ。
「涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、長門有希!!」
――そして、『彼』。
ボードゲームで対戦していた相手に関するもどかしさ、既知感は今やなくなっていた。現実にやっていたことを、古泉が把握したためだった。
胸倉を抑え、古泉は声を絞り出す。己が機関に所属する超能力者紛いの力を与えられた、神人を狩る者であることをも思い出し、自身の失態に目の前を暗くする。

「なんて、ことだ……!」


白雪姫の物語に、世界は、封鎖されていた。
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 

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小人はようよう、識りました。
白雪姫が「或る者」に殺され掛かっていること。
小人は護りを、誓いました。
己が命を賭しても、護るに値するものを望みました。




結末を知らぬ小人は、
「まだ」――白雪姫を、護ることが出来る気で居たのです。




(→6)

 


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