◆
 
 
 自分を含んだ周囲の空間の全てが、縦横無尽に振り回されているかのような感覚が収まるのを待ってから、俺はゆっくりと目を開けた。窓から射し込む朝日が、布団越しの俺の体の上に降り注いでいる。
 カーテンを少し除けて窓の外を見ると、平穏、平和としか呼び様の無い、非常にのどかな冬の朝の空が広がっていた。
 傍らの時計を見ると、妹が起こしに来るはずの時間よりも、二十分ほど早い時刻を示している。俺が首を鳴らし、凝り固まった背筋を伸ばすために背筋を伸ばしていると、隣で布団を被っているハルヒが呻き声を上げた。
 ……さて。つまり俺たちは、無事この世界に帰って来れたらしい。
 
 「う……ん………………あれ?」
 
 不意に揺り起こされたアルマジロのような動きで体を起こしたハルヒは、腫れぼったい両目を擦った後、傍らの俺の顔を見上げ、一体何が起きているのか分からないと言った表情を浮かべている。これは今に、大騒ぎをされるだろうな。
 その前に、言うべき事を言ってしまおう。
 
 「おはよう、ハルヒ。……気分はどうだ?」
 
 
    ◆
 
 
 「まだ全快とは呼べないが、涼宮ハルヒの精神は、順調に回復している。そして少なくとも、貴方と共に希薄空間から帰還して以降、噂によるものと思われる世界の改変は行われていない。……世界は救われた。そう考えて概ね問題はない」
 
 片目では読みにくいのか、いつもよりも少し高い位置で本を開きながら、長門はそう言った。
 
 「事件は、涼宮ハルヒが無意識の内に、自らの許容量を越える力を使おうとしたことから始まった。あなたの説得によって、涼宮ハルヒは自分の無意識下の欲求をセーブする事を覚え、事態は収束した。世界は、復活した涼宮ハルヒの願望にあわせ、再び以前のような状態へと回帰した。しかし、修正は完全とは言えず、人々の意思によって改変された状態のまま放置されている要素も無数に存在する。それらは涼宮ハルヒによって無害であると判断された要素であり、それらの要素が引き継がれることによって、人々の記憶や認識に矛盾が発生しないよう、意識の改変も為されている。よってそれらの要素が修正されずに残されることによって、今後何らかの問題が発生する可能性は……ゼロではない。しかし、低い。……私の持っているこの記憶も、引き継がれた要素の一つであると言える」
 
 長門の記憶。そう。世界が修正された今も、長門には改変されていた世界の記憶が残されている。
 それどころか、今でも長門の傍には……居るのだという。長門を十六年間見守り続けて来てくれた人たちが。
 
 「……今の私の持っている記憶と環境は、あなたや、涼宮ハルヒの持つ記憶の中の私が持つべきものではない。何故それらが修正されなかったのか……分からない」
 「きっと、それが本来、お前が持つべきものだったんだ」
 
 長門は本の上と俺の顔を交互に見比べ、少し考えるような素振りを見せ、その後で、確かな感情の宿った瞳で俺を見つめ、口を開いた。
 
 「私は……この記憶を失わずに済んだ事を、私と言う固体は、とても、喜ばしく思って……いる」
 
 長門が流暢でなく口を利いたのは初めてではないだろうか。
 躊躇うような沈黙の後で、長門は本を閉じ、立ち上がった。

 「今日は、これで……眼科の予約がある」
 「ああ。早く治せよ、ものもらい」
 「それは私の意思によって左右できる問題ではない。……しかし、完治まで時間はかからないと思われる。
  …………お父さんは、名医」

 いつもより四ミリも余計に体を弾ませながら、長門は文芸部室を出て行った。
 大丈夫だ、長門。世界はこの上ないくらい素敵に生まれ変わっているよ。俺にとっても、お前にとっても。
 
 
    ◆
 
 
 「やあ、今日はお一人ですか、王子様」
 
 部室前の廊下にて、背後から声を掛けられる。振り向き様に繰り出してやった鉄拳は、妖怪わらいぶくろの右の手のひらによってあっさりと留められてしまった。
 
 「どうも、先日は僕がご迷惑を掛けてしまったようで……どうか許していただけないでしょうか。アレは僕の意思ではありません」
 
 何と言われようと、密室で起きたあの邪悪なスペクタクルの記憶を、俺の脳裏から取り去る事などできん。
 
 「ええ、そのようですね。……実を言うと、僕はいまいち、何があったのか覚えていないんですよ。ただ漠然と、こう、嫌がる貴方を組み伏せ、強引にこちらの欲求を満たそうとしたような気がするので、一応お詫びをしたまでです」
 
 俺にトラウマを植え付けておきながら、その記憶をあっさりと失ってしまったと言うのか。馬鹿な。JS。俺の純情の玩ばれっぷりったらない。
 
 「……どうも、改変世界での僕は随分と過激なおいたをやらかしていたようですね。申し訳ありません、本当に謝ります。お詫びと言うわけではないんですが、こちらを」
 
 俺に差し出されたのは、大概見慣れたミニサイズの缶コーヒーだった。
 
 「随分安いな」
 「とりあえずです。埋め合わせはいたしますよ、また後日に。ところで、今日は貴方に訊きに来たんですよ。僕は一体、昨日までの世界で何をしていたのか、ね。なんだかとても気分のいい思いをしていた気がしてならないんですが、一体どんな事をしていました?」
 
 俺は少し考えた後、目の前のそれに負けないくらいのニヤケ面を作って、言ってやった。
 
 「知らないほうがいいぜ。戻りたくたって、もう戻れないんだからな」
 
 
    ◆
 
 
 「今回の件で、機関の中で、この世界と涼宮ハルヒについて新たな考えが浮上しましてね」
 
 いつもの席にたどり着くや否や、古泉は藪から棒に口を開いた。
 
 「何だ言ってみろ」
 「すなわち、涼宮さんは本当に神と呼べるのか? ……そういう考えです。以前から囁かれはいたのですがね」
 「ほう」
 
 古泉は話しながら、俺に伺いを立てることも無く、勝手に将棋版盤を取り出してきて、駒を並べ始める。
 
 「涼宮さんは確かに、この世界を改変する力をお持ちです。それは神の力と呼ぶほかありません。しかし、涼宮さんはその力を、意のままに操る事が出来るわけではない。自分の許容量以上の力を使おうとすれば、今回のようなバグを発生させてしまう。果たして自らの力に溺れてしまうような存在を神と読んで良いのでしょうか? 或いは、涼宮さんとは、この世界と共に誰かによって創られた、雇われ店長のようなものなのではないかと」
 
 俺と古泉の駒を打つ音が、狭い文芸部室内に響き渡る。
 
 「つまり、僕らや涼宮さんの存在するこの世界とは別次元……と、言うより、一枚外側、ですかね。そこにはこの世界を作った主であり、この世界を箱庭のように見下ろすことの出来る存在がいるのではないかと。もしそんな存在が居たならば、それを何と呼ぶべきでしょうかね?」
 
 それが、神……か。
 なるほど。確かにそう考えると、ハルヒは神というより、神様の力を手に入れてしまった、ただの子どもである。
 
 「ありえない話じゃあないかもな」
 
 人間、想像の付かない物については、恐ろしく無責任な感想を抱いてしまう。
 ちょうど双方の駒が並べ終わった時、俺たちの前に、緑茶の注がれた湯飲みが置かれた。顔を上げると、いつものメイド服を身に纏った朝比奈さんが、満面の微笑を浮かべて立っている。
 
 「どうもありがとうございます、朝比奈さん」
 
 俺が改まって礼を述べると、朝比奈さんはすこし驚いた様子で、恥ずかしそうに頬を染められてしまった。恐らく彼女も、昨日まで自分が身を置いていた状況の事は、全て忘れてしまっているのだろう。あの夜の事も。
 そうだ。それでいいんだ。あんな出来事をいちいち覚えている必要なんてない。
 
 「……そうなると。もう一つ、馬鹿に出来ない可能性が発生するんです」
 急に低い声を出すな。別の意味でびっくりするだろ。
 
 「その『神様』は常に、僕らの世界を見下ろしている。その方が一体何を思って世界を転がしているかはわかりませんが、恐らく、その神様は、まだこの世界を滅ぼすつもりはないのでしょう。しかし、この世界を管理している神……涼宮さんです。は、あまりにも子どもじみていて、度々こういった事態が発生する。そういった場合にすぐさま対処する為に、神様は涼宮さんを生み出すのと同じくに、彼女専用の特効薬を生み出していた。それは即ち……涼宮さんを制御する為の、涼宮さんを上回る力を持った神様――外側のです。その分身と言ったところでしょうか」
 
 俺は古泉の顔を見る。笑顔なのか、真顔なのか分からない、とても微妙な表情を浮かべている。
 しばらく沈黙した後、俺は一つ鼻を鳴らして笑い、歩の駒を進めた。
 
 「笑えないと思いますよ、僕は。今回、貴方が噂の力の影響を一切受けなかったのが、その証拠になるかと」
 
 古泉は言った。
 
 「今までもそうでした。涼宮さんの力によって、貴方個人の意識が悪い方向へどうこうなった事は一度もない。貴方に力が働く場合とは、それは貴方が涼宮さんを救い出してくる時です。五月の件や、今回のように。……貴方には世界を改変する力は有りません。しかし。或いは、全てが涼宮さんの力に飲み込まれようとも、たった一人、変わることなく立ち止まり続け、全てを元通りに還す……いわば、再生の力があるのではないかと」
 
 この古泉は、笑顔こそ浮かべてはいるが、頭の中はほとんどマジのようだ。
 ……なんだ? 俺が、ハルヒの力に対抗する力を持ってるって?
 
 「仮にそうだったら、どうするんだ? 俺を捕まえて解剖でもするってのか」
 「はは、そんな話も出てくるかもしれませんね」
 
 爽やかに微笑みながら、なんて事を言ってくれるんだ、こいつは。
 
 「大丈夫ですよ。世界の崩壊を免れる事が目的の僕らにとって、貴方は救世主みたいなものです。手出しする理由がありません。其れにもし、そんな輩が出てきたところで……お忘れなく。貴方には僕がついています」
 
 ぞくり。微笑みとトラウマが悪寒となって、俺の背中を走る。
 
 「ご安心を。僕が守ります。あなたの事も、涼宮さんの事もね」
 
 
    ◆
 
 
 神様の分身だって? この俺が?
 
 …………馬鹿な事を言わないでくれ。
 
 それじゃあまるで、俺はその役目の為に、ハルヒの傍にいるみたいじゃないか。
 古泉。自慢じゃないが、俺は俺がここにいる理由を、ちゃんと自分で分かってるんだ。
 神様なんぞに仕立て上げられて、この気持ちを作り物にされたりしたら、たまったもんじゃない。
 
 
    ◆
 
 
 
 「不思議なことに、こないだあんたのうちに泊まってから、すっごく寝つきがいいのよ」
 
 おなじみ、傾斜のきつい通学路を跳ねるように歩きながら、ハルヒは言った。
 
 「ずーっと寝不足だったのよね、何か知らないけど。でも、あれからは全然。悪い夢も見なくなったし」
 「悪い夢?」
 
 わざとらしく、俺は聴いてみた。
 
 「そりゃ、どんな夢だ?」
 「毎晩違うんだけど、なんか……ドロドロした、すごく嫌な気分になる夢。ちゃんとは覚えてないわ。何か最近、いまいち覚えてない事が多くって、イライラするのよね。そもそも、どうしてアンタの家に言ったのかも覚えてないし」
 「奇遇だな。古泉もそんなような事を言ってたぜ」
 「古泉君も?」
 
 俺がその名前を口にした途端、はたと思い出したように、ハルヒは俺を振り返る。その瞳には、何か珍しい生き物を目にしたときのような、奇妙な好奇心の光が灯されている。……嫌な予感が俺の背筋を這い回る。
 
 「……どうした?」
 「いや、小耳に挟んだんだけど、古泉君って」
 
 ……よーし、分かった。ハルヒ。もう何が言いたいか分かったから皆まで言うな。
 そしてそれはただの噂だ。根も葉もない、噂話だ。荒唐無稽で何の信憑性もない噂話なのだ。だから……
 
 「女装癖があるって本当なの?」
 「そっちかよ!」
 
 やっぱり騙せなかったじゃねえか。
 
 
    ◆
 
 
 ……さて。そんなこんなで、この不思議な騒動は、一先ず解決に到った。
 したがって、この物語は無事、エンディングを迎える事になる。
 いつものように、俺たちにほんの少しの変化を齎して去って行ったこの事件……
 それは、いつもよりも少しだけ、生々しい臭いのするものだったのだが
 それでもまあ、終わりさえよければ全て良し。そう思わなければやってられない。
 
 最後に、俺はと言うと。
 
 いたちの最後っ屁のように残された最後の噂……即ち、俺とハルヒの平日お泊り事件(なんと下衆な見出しだろうか)について
 下衆な好奇心をむき出しにして追求してくる谷口――(ちなみにこいつは完璧にただの阿呆に戻ってくれた。やはりそれでこそ谷口だ。ありがとう、谷口、フォーエヴァー……)やその他の生徒達を散らすのに少々労力を要した程度であり、今のところは、つかの間の平和と言うやつを謳歌している状態だ。

 
 またいつぶっ壊れるかわからない世界だ。上手く暇を見つけて体を休めておかないと、本格的に身が持たないからな。その時の為に英気を養っておかなくてはならない。
 週に一度の不思議探索と、時々ハルヒが持ち込んでくるちょっとした騒ぎは、体を鈍らせてしまわない為のいい刺激と言ったところか。つまるところ、当たり前の日常である。俺の追い求め続けたものだ。
 
 ――しかし、多分。

 俺はそんな倦怠ライフに舌鼓を打ちながらも、心のどこかで待っているんだ。
 また、誰かさんの巻き起こす不思議に巻き込まれる瞬間を。
 情けないことに、結局俺は、この非日常を程よく織り交ぜた日々に、味を占めてしまったわけだ。
 ……困ったものだ。
 
 
 
 ハルヒ。
 どうせお前は、これに懲りることなく、また面倒な事を始めようとするんだろうけどな。
 
 いいさ、何度でもやってみろ。

 お前が何処にいっちまったって、俺は追いかけていってやる。
 誰が神様だとか、そんなのは関係ねぇ。

 何処からだって、このSOS団まで連れ戻して、幸せな日常に引き摺り戻してやるよ。
 
 お前がいなきゃ始まらないんだからな、SOS団は。
 
 なあ、そうなんだろ、涼宮ハルヒ?
 
 
 
 おわり


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