【仮説1】その1

「ワームホール理論」
 

「ドクター長門」
Illustration:どこここ
 



 
「……海外出張を、申請する」
朝、長門が出社すると突然言った。真剣な面持ちで、まるでこれから情報連結解除を申請するとでもいうような表情だった。
「え、どこに行くの?」
ハルヒもこの唐突な長門の意思表示に戸惑い、一瞬目が泳いだ。まさかホンジュラスとかエルサルバドルとか言い出すんじゃあるまいな。
「……スイス、ジュネーブ」
「スイスか、いいな。俺も行きたい」
「あら、ジュネーヴ?いいところですよ、わたしがお供して案内しましょうか」
洋行帰りの朝比奈さんがニコニコ顔で言った。
「……あなた達は、仕事」
自分は遊びに行くわけじゃないんだと、じっと二人を見た。長門にしたら睨んだというほうが合っているか。
 
「有希まさか外国に営業に行くつもり?そこまでしなくてもいいのに」
「……時間移動技術のための研修」
「なんだ、そっか。じゃいいわ。ファーストクラスの航空券と三ツ星のホテル取っていいわよ」
「おいおい、いくらなんでも気前が良すぎないか。ファーストクラスの往復つったら楽に百万越すぞ」
「副社長の出張よ、ケチケチしないの」
平の取締役は肩身が狭いぜ。いつかタイムマシンの開発がこの会社の財政を圧迫するにちがいない。
 
「……二人分、申請する」
「ハカセくんね。いいわよ」
「僕が手配して差し上げましょうか。旅行代理店をやっている知り合いがいるので」
横で話を聞いていた古泉が口を出した。お前にかかればチャーター機の手配くらいできそうじゃないか。古泉は、それもできなくはないですが、と肩をすくめてみせた。
「アムステルダムとミラノ、どちらの経由がよろしいですか」
「……ミラノ」
「しばしお待ちください」
古泉はどこか謎の相手に電話をかけ、いつもの手腕というか機関のコネらしい力技で格安ファーストクラスを手に入れた。格安のってのもなんだか撞着的だが。ためしに航空会社のウェブサイトで明日の便を見てみると、往復百五十万円を超えていた。
 
 ハカセくんは喜んでいた。なぜか学校が急に休みになり、親の許可もすんなり降りたというのだ。誰の裏操作なんだろね、いったい。第一容疑者と第二容疑者にチラと視線を投げたが、長門も古泉も知らんぷりを決め込んでいる。
 
 施工中にあやうく海中に沈みかけたといういわく付きの国際空港から、長門とハカセくんは飛び立った。見送るために出発前にロビーで待ち合わせたのだがなぜか二人とも手ぶらで、旅行者がゴロゴロ引きずっている例のスーツケースがない。ハカセくんは学校のカバンだけ、長門はいつものがま口を握っているだけだった。しかもその普段着、ちょっとスーパーで豆腐買ってきますねという格好じゃないか。しかもゾウリ履きですか。
「お前たち、荷物は?」
「ええと、長門さんがいらないというので、パスポート以外は何も持ってきていません」
「……荷物など、不要」
確かに一理ある。せっかくの旅行が重たい荷物のせいで楽しさ半減してしまっているこのリゾート時代。異国情緒も肩こりで消し飛んでしまうってもんだ。ともかくまあ、盗られるもんがないのはいいことだ。
「なんかあったら大使館に駆け込むんだぞ、スイスのおまわりさんでもいい」
スイス銀行に隠し口座でも作っておいてやるべきだったかな、などとどうでもいいことを考えていると、飛行場の端のほうからミラノ行き七七二便は飛び立った。ああ、餞別やるの忘れてた。
 
 一週間後、二人が帰ってくるというので車で迎えに行った。
「先輩、先輩っ」
ゲートから大声で呼ぶ少年の声が聞こえた。その後ろから長門がペタペタとゾウリを鳴らして歩いてくる。いつもの表情の長門で、なんだか旅行を楽しんだ余韻がない。長門は俺の姿を見つけると、ダダッと走り寄ってきて俺に抱きついた。荷物があったらすべて投げ捨てて走ってきそうな勢いだった。
「な、長門、いきなりどうしたんだよ」
「……西洋の空港ロビーにおける、慣わし」
そうか。すっかり西洋かぶれして帰ってきたようだ。ハルヒが見てなくてよかった。
「ハカセくんもお疲れ。どうだったスイスは、マッターホルンとか見に行ったか」
俺は二人が帰ってくるのを待っている手持ち無沙汰に、ウェブでスイスのことを漁っていたのだ。なんなら人口と国民総生産も言えるぞ。
「実はほとんど観光はしてないんです。実験施設にいたもので」
「実験って、スイスで?」
「はい。ずっとセルンにいたんです」
セルンって聞いたことないな。どこらへんの町だろ。
「欧州原子核研究機構ですよ、有名じゃないですか」
「そんなところで何の実験?」
「ずっとエキゾチック物質を作ってたんです」
「それって外国に行きたくなるような物質?」
よく分からんが、ともかくハイジャックにも遭わず墜落もせず無事でなによりだ。俺は二人をせかして車に乗せた。
 
 その、セルンとかに行けたのがよほど嬉しかったらしく、ハカセくんは車の中で物理学専門用語をあれこれ並べてそのすごさとスケールの大きさとやらを俺に説明していた。地下百メートルの衝突点だとか円周二十七キロメートルのリングだとか、さっぱり分からんと気を削いでしまうのもなんなので、俺は曖昧に返事をしながら円周一・二メートルのハンドルを握った。助手席の長門は疲れたらしくスヤスヤと寝息を立てて眠っている。後で古泉に聞いたのだが、セルンってのは素粒子を研究する世界的権威の集まる実験施設で、そう簡単には実験なんかさせてもらえないのらしい。何年も前から予約しないといけないはずなのだが、長門の通っている大学院を通じてか、その筋の独立行政法人を経由してか、どっちにしても情報操作とやらか。
 
 長門が帰ってきて早々の翌日、ハルヒが全員集合をかけた。
「えー、第一回時間移動技術会議ぃ。有希とハカセくんの成果を聞くわ。記念すべき回だから、キョン、居眠りなんかしたら減俸だからね」
わかってるさ。我が社の本来の事業内容だからな。議事進行はハルヒ、パネラーはハカセくん、なぜか俺が議事録係だ。朝比奈さんがプリントアウトした資料を配り、ハカセくんがポインターでホワイトボードを指しながら解説した。長門がそれをじっと見守っている。
「えーと、まず、物理学の世界ではよく知られている時間移動技術について説明したいと思います。図を見てください」
ハカセくんは黒い背景にラッパが二つ並んだような絵を指した。これ、もしかしてハカセくんが描いたのか。妙に絵心があるのは知ってはいたが、こんな科学雑誌っぽいかっこいい絵を描くなんて、進むべき道を間違ってんじゃないか。
 
「もっともポピュラーな時間移動理論はワームホールを使うものです。
 僕たちの住む空間にワームホールで繋がったAの穴とBの穴があるとします。
 Aの穴から入った人は即座にBの穴から出てきます。二つの穴がどんなに離れていても、トンネルを移動する時間は一瞬で済みます。
 次に、Bの穴が離れたところにあって、光の速度で動いていたとします。光速に近づくにつれ時間の進み方が遅くなりますから、Aの穴との時間差が生まれます。これでタイムトンネルの出来上がりです」
ハカセくんは長門に向かって、これでいいんですよね?という顔をした。長門以外の全員は、は?という顔をしていた。こうあっさり味の時間移動だと突っ込みどころがない。
「そんな簡単でいいのか」
「簡単といいますか、実際には膨大なエネルギーと複雑な工程が必要になります。原理としてはこんな感じです」
「Aの穴とBの穴が不思議な空間で繋がってて、Bの穴が光速で移動してるだけ?」
「そうです」
こんな簡単な理屈で作れるならあまり苦労なさそうだが。ほんとにこれでいいのか?俺は長門を見た。長門は研修生を見守っているベテランの教師のような顔をしてうなずいた。
 
「いや、なんというか、もっと分かりづらい複雑怪奇な方程式やら複素数やら未知の物質やらが出てくるのかと思ってたんだ。意外にあっさりしてて拍子抜けしたというか」
「ハカセさん、よくタイムトラベルの疑問点になる空間の座標についてはどうなんですか。宇宙空間で考えたとき、ワームホールの口を地球上に固定しておけるんでしょうか」古泉が尋ねた。
「ええと、これはSFなんかで出てくるタイムトラベルとは違って、こういう性質を持った時空を作る、と考えてください。ですから地球の自転と公転、太陽系の公転などの物理的な動きについてゆきます」
常々思っていた不思議がこれで解決した気がする。映画に出てくるタイムマシンは地球の自転についていってるんだろうかと。百年後、地球が同じ場所にあるとはとても考えられないよな。まあ俺の突っ込みはどうでもいいとして。
「問題点はないのか」
「たくさんありますが、まず、この手法ですとタイムマシンが完成するより過去には行けません」
「それはどうしてだ?」
「ワームホールが完成してから時間移動が可能になります。つまりワームホール発生より以前には行けないんです」
「ほかには?」
「タイムトラベルをしたい分の時間だけ、Bの穴を時間停止させないといけません」
なるほどね。じゃあ仮に五年のタイムトラベルがしたかったら、五年間はワームホールを維持しないといけないわけだ。鶴屋さんに頼むくらいじゃ経費が追いつかないかもな。
 
 ずっと静かだったんで様子が変だなと思っていたハルヒが、目んたまのキラキラを抑えきれなくなってやっと口を開いた。おい、興奮のあまりほっぺたがプルプル震えてるぞ。
「今すンぐにでも実験にかかってちょうだい」
「時間移動には理論がまだいくつかありますが、これを採用していいんですか?」
「シンプルに越したことはないわ。それで、いつから実験できそうなの?」
「機材さえ揃えばいつでもはじめられます」
「経費で落とすから必要なものを言ってちょうだい。なにがいるの?」
ま、また経費か。最近のハルヒの口癖は経費で落とす、らしい。経費って無尽蔵のエネルギーかなんかと勘違いしてないか。核でさえ半減期があるってのに。
「重イオン生成器がいります。それから片方の口の時間差を作るためにシンクロトロンがいりますね」
「シンクロトロンって粒子加速器ですね。セルンとか筑波にあるような。放射光用なら確か地元にもありますね」古泉が口を挟んだ。
「それ、どこで買えるの?」
「ふつうには入手できないでしょう」
「どこかに売ってくれるか、作ってくれる会社ないかしら」
「僕にお任せください。探してみましょう」
ほんとに大丈夫か。いくら機関とはいえそんな原子核をいじるような機械が手に入るのか。
「小型のシンクロトロンなら医療機器として使われていますよ。なんとかなるでしょう」
病院にタイムマシンまがいの機械があったなんて知らなかった。古泉が笑って言った。
「あれはタイムマシンではありません。れっきとした医療機器ですよ、放射線治療なんかで使われます」
「そんなでかい機械、置く場所ないだろう」
「このビルのどこかに空き部屋があるはずですが、なかったら作りましょう」
それって住んでる誰かを追い出すってことか。古泉は何も答えず、ただ微笑んでいるだけだった。ニヤリ、と。
 
 翌日、十トントラックが数台とクレーン車がやってきた。窓から見下ろすと、荷台にでかい箱が載っていた。核廃棄物に貼ってあるような黄色いマークが貼ってある。
「なんだあれ、核燃料でも運んできたのか」
「涼宮さんご注文の品です」
「まじで手に入ったのか」
古泉は、だから言ったでしょう、という表情をした。
「さすがにエレベータや階段では運べませんからね、廊下にある荷口からクレーンで入れます」
「それはいいんだが、いくらしたんだ?」
「詳しくは機関の経理担当しか知りませんが、地方自治体の予算並み、とだけ言いましょうか」
数千万、いや数億円か。いくらハルヒのためとはいえ、そんな金使わせて大丈夫か。
「昔から金は天下のまわりモノ、と言いますね。いつか我々に巡ってくると信じています」
機関の運営の収支はどうなってるのか、正直謎だ。もしかして政府やら影の巨大資本グループとかが関わってるんじゃないだろうな。古泉は、さあてどうでしょうねという顔をしていた。
 
 古泉の予言どおり二階のフロアに空き部屋があったらしく、そこに分割された機械類を運び込んでいた。開発部の連中が興味津々覗きに来ていたが、工事のおっさんに追い立てられて小学生のように散らばった。
 部長氏がなにごとかという顔をしていた。
「やたらでかい洗濯機みたいだけど、なにがはじまるんだい?」
「さあ。社長の趣味でクリーニング業をやるらしいです」
「あ、じゃあうちの布団を丸洗いとかやってもらおうかな」
まさかタイムマシンを作ってますなんて言えない。それにしても、部長氏の部屋はベットじゃなかったですか。
「ドアに暗証キーまでつけてるけど、クリーニングってそんなに厳重なの?」
「特許を取るまではまだ秘密らしいです」
「そりゃすごい技術なんだろうね。完成したらぜひ見せてくれ」
俺はいいやともうんともいえない曖昧な返事をした。俺の一存で秘密を明かすのは無理だな。
 
 一週間後、工事が終わった。おそらく機関のコネで強引に空き部屋にさせられた二階のフロアを仕切り、広いほうに直径六メートルくらいのドーナツの親玉みたいなでっかいリングと、車ほどもありそうなスチール製の箱、圧力計やら赤いハンドルやらが並んだ剥き出しのエンジンみたいな機械が並んでいた。狭い仕切りのほうにはプレハブみたいな部屋を作ってパソコンやら制御機器が並んだコントロールルームになっている。
 
「みんな、記念すべき第一回の実験を開始するわ。これ着てちょうだい」
こいつは記念すべき第一回が好きなようだ。
「なんだ、白衣コスプレか」
「違うわよ。この部屋は実験室だからホコリを出したくないの」
俺たちは科学者が着るような白衣を着せられて実験に付き合った。ドクターウェア、とかいうんだっけこれ。これで朝比奈さんがナース服でも着てくれたら完璧なんだが。などと考えていると、朝比奈さんがこれまた妙な格好をして現れた。四隅が角張った丸っこい帽子、詰襟だけが白くてほかは黒くて長い衣装、肩にかかったマフラーみたいな帯、白いレースのチョッキに身を包んでいる。なんだろこれ、神父コスプレ?
「スイッチを入れる前にお祓いをするわよ」
「す、涼宮さん、わたしはあれほどいやだって言ったのに……」
「みくるちゃん、これはコスプレじゃないの。立派な仕事よ。どんな建物でも家内安全を願って地鎮祭をやるわ」
「それは知ってるんですけど……地鎮祭って神主さんじゃ」
「たまには洋風がいいの。さあこれ読み上げて。その三十円棒付き飴みたいなやつで清めながらね」
ハルヒからメモ用紙を受け取ると、朝比奈さんは銀色のスプーンのような子供のおしゃぶりのようなもので水をぽとぽと撒き始めた。
「ア、アッラーフンマぁ~あ、インナぁ~ナスタイーヌカ~ぁ」
それってアラビア地方で朝とか夕方に聞こえてくるアレじゃないですか。コスプレとミスマッチすぎますよ。
「いいのよ。鰯の頭も信心からというでしょ」
そんなバチあたりなことわざ使って、感電しても知らんぞ。
 
「す、救いたまへ~清めたまへ~」
もうどの神様か分からなくなってきている朝比奈さんが実験機材を祝福している間に、こっそり長門に尋ねた。
「放射能とか有害な電波とか漏れないだろうな」
「……この部屋全体を重力子シールドした。どんなエネルギーも遮断している」
「ほんとだ。携帯が圏外だな」
そりゃよかった。って、部屋の中にいる俺たちはどうなるんだ。
「……実験中は体表にシールドを張る」
「腕に噛み付くあれか」
「……そう」
俺と古泉と朝比奈さんはいいが、ハルヒとハカセくんにあれをやるのはどう反応するか。ドラキュラの真似だとかいって噛み付いてみるとか。
 
「お祓いも終わったし、そろそろはじめるわよ」
「……全員に放射線パッチを貼る」
「それなに?」
「放射線の被爆量を測定するシールみたいなものですね」
なるほど、それがナノマシン入りか。全員に腕まくりをさせて、長門がサロンパスのようなシールをぺたぺた貼り始めた。まるでニコチンパッチだな。ところが俺の番になるとシールを貼らず、腕にかぷりと噛み付いた。朝比奈さん以外の全員が不思議そうな顔をして俺と長門を見ていたが、長門はなにごともなかったかのように俺の実験着の袖を伸ばした。俺もなにごともなかったかのような顔をした。いっそ首筋にでも噛み付いてくれればよかったのに。
 
 長門がパネルをいじって設定を始めた。パネルに色とりどりのランプが灯り、パソコンのモニタに数字が流れた。ハルヒはもう、そのコックピットのようにぴかぴかと点滅するランプ群を見るだけで満足そうだった。ハカセくんは自分のノートを開いて手順を確かめている。
「さあ、緊張の一瞬よ」
「……冷却パイプ、稼動開始」
「いきます」
長門が指示してハカセくんがプッシュスイッチを押した。ズンズンと温度カウンタの数値が下がっていった。数字がマグロの冷凍倉庫よりさらに下がり、絶対0℃くらいにまで下がったところで長門がキースイッチを回した。
「……金属磁性体コア、通電開始」
ウンウンと唸るような低音が響き、磁力計のガウス値が急上昇し始め、いくつも並んだ液晶モニタの折れ線グラフが山と谷を描き始めた。原子力発電所のコントロールセンターってこんな感じなんだろうかね。
 
 それから二十分くらい、長門とハカセくんが固まったまま動かないので尋ねた。
「この後はどうなるんだ?」
「……温度と磁場の安定を待つ」
「その後は?」
「……金属原子から電子を剥ぎ取りイオンを作る。さらに原子核を衝突させて素粒子プラズマを作る。さらに圧縮し高密度化してから、」
「そのプラズマの中に発生した小さなワームホールを取り出すんですよね」
長門はうなずいた。なるほど。素人は黙って見てたほうがよさそうだ。
「……あ」
「どうした?」
「……イオン源の材料を忘れた」
「材料ってなんだ?そのへんで売ってるようなものか?」
「……水銀、金、鉛などの重い金属。買ってくる」
「待て待て、金ならたぶん持ってる」
長門が椅子から立って出ようとしたので止めた。俺はタイピンを外して長門に渡した。金じゃないが、たしか一部プラチナのはずだ。長門はそれを大事そうに両手で包んだ。
 
 長門は核燃料庫にでも入るような全身黄色尽くめの宇宙服のようなものを着て、ニューヨークの消防士が被るようなヘルメットとマスクをつけ、俺のタイピンを持って隣の部屋に入っていった。
「そんなに危険区域なのかここは」
「……しゅこー」
こいつのフォースは強力だ、とか言い出すんじゃなかろうな。
 
「……次の段階」
「白金をイオン化する工程ですね」
「……そう。まず、プラチナをガス化する」
白金を蒸発させるってすごいエネルギーがいるんじゃないか。長門が液晶モニタのひとつを指した。CCDカメラの映像らしく、実験室の一角にある大きなガラスの容器の中に金属製の皿が置いてあり、その上にタイピンの欠片らしきものが乗っている。光沢がなく、白っぽくなっている。
「あれがプラチナ?」
「そうです。温度を上げて瞬間的に高電圧をかけると気体になります」
ハカセくんが一瞬だけスイッチを入れると、パチッと火花が散ってタイピンの欠片が消えた。煙も立っていない。
「ガスはできたんでしょうか?」
「……ガラスは密閉されて真空。重さが変わっていなければ気体になったということ」
長門は再び、アナキンスカイウォーカーのなれの果てのようなかっこうで実験室に入っていった。モニタを見るとガラスの容器を両手で抱えている。おいおい大丈夫か。カメラに向かってうなずく長門が見えた。まあこいつなら放射能だろうがエックス線だろうがおかまいなしだろうけど。いつだったか朝比奈さんのコンタクトレンズから飛び出た凝集光やら粒子加速砲やらを受けても平気な顔をしていたもんな。
「次はガスを加速器に注入して電子を抜き取るんですね」
「……そう。光速の八十パーセントまで加速、炭素薄膜を通過させて電子を剥ぎ取る」
 
 退屈したのか、ハルヒがあくびを噛み殺しきれないで涙目になっていた。
「すいません、この作業は時間かかるだけで退屈なんです」
「いいのよ。寝不足なだけだから。気にしないで続けて」
「じゃあ、イオンビームを入射します」
ゴンゴンとビルの工事現場で鉄柱を打ち込むような音が響き、天井の蛍光灯の光がチラチラ瞬き始めた。忘れていたが、このビルの電力足りてないんじゃないのか。
「この音、なんだ?」
「衝突点が震動しているんだと思います。電子を抜き取られたプラチナの原子核が衝突して、プラズマが生まれているあたりで」
「ということはシンクロトロンの中は今プラズマ状態ですか」古泉が質問した。
「……そう。クォークの泡が生まれているはず」
「なるほど。陽子と中性子が砕けてるんですか」
ともかく、俺のネクタイピンが素粒子レベルにまで粉々になっているということは分かった。
 
 そこからの長門とハカセくんの会話は俺には理解できなかったが、この元プラチナだったものが分解して何かエネルギーのかたまりのようなものになった状態がプラズマらしい。それをZピンチとかいう方法でぎゅっと圧縮して、ウランの十の八十乗倍だか九十乗倍だかの高密度の小さな玉を作る。大きさはだいたい十のマイナス三十五乗メートルとか、俺には想像することすらできない数字だ。
 
 じっとモニタの数値を見ていた長門が呟いた。
「……すでに空間の歪みの種はできている」
ハカセくん以外には分からなかったらしく、無反応だった。長門はもう一度言い直した。
「……ワームホールの、種」
「ええっ、できたの!?」
居眠りしていたハルヒが突然椅子から飛び上がった。
「……まだ、プランク長さの種」
「そ、そう。どれくらいで芽を出すの?」
長門は自分の例えがまずかったのかと首を傾げたが、
「……この種は壊れやすい。上位の素粒子に戻ることもある」
「その種というのはもしかしてミニブラックホールですか」
「……特異点としては、ブラックホールとワームホールの区別はない。この状態ではどちらにもなりうる」
そのワームホールの種とやらは、簡単に消滅してしまうらしい。気がつかないとかいうレベルじゃないくらいのほんの短い時間で。
 
「ということは、そのワームホールの片方を光速で動かせばいいだけ?」
ここでやっと俺が口を挟んだ。
「……まだ。この種は小さすぎる。電子も通過できない」
「電子は十のマイナス三十一乗メートルですから、この種はそれより小さいんです」
ハカセくんが補足した。なるほど。
「で、大きくできるのかそれ」
カメラとかじゃとても確認できるサイズじゃないので、そこにあるものとして俺は言った。長門がジャラジャラとビー玉を取り出した。あ、それ、もしかしていつぞやのアレか?
「……そう、素粒子球の一種。エキゾチック物質を閉じ込めてある。種に注入して口を広げる」
「ここでやっと使えるんですね」
なるほど。スイスでそのビー玉を作ってたのか。
「……粒子加速砲を用意」
「了解しました」
そんなもんがあったのかここには。日本海を越えて飛んできたミサイルを打ち落とせそうだな。
 
 カメラの映像を見ているとシンクロトロンの外側に並んだ長い棺桶のようなビーム砲とやらに、ビー玉を仕込んでいた。
 長門の説明によれば、このワームホールの種はAとBの穴の口が前後にくっついた状態にあるんだという。それを広げて、ラッパの管の部分を伸ばしてやらないとモノが通過できない、らしい。
「……空間の歪みにエキゾチック物質を0.02秒照射」
「穴の大きさって確認できるのか?」
「……このサイズでは、現代の技術レベルでは測定できない」
そんな。手探り状態でやるのか。……わたしには、見えている、と、長門がこっそり耳打ちした。なるほどね。
「照射完了しました」
「……直径を電子が通れる程度にまで広げた。電子を照射」
さっき使ったビーム砲に真空管のようなものを挿していた。あ、それは分かる。テレビのブラウン管と同じ原理で電子を打ち出すわけだな。
 
 裏でいったい何が起ってるのか分からないのがこの実験のミソらしいが、長門とハカセくんにはちゃんと分かっているらしい。
「電子をくっつけて荷電しました。次はいよいよ時間差を作るんですね」
「……そう。種を加速器に戻して」
時間差ってどうやって作るんだろ?現代にそんな技術あんのか。
「さっきの説明のとおり、種を動かして光の速度に近づければ時間が止まります」
そういうものなのか。俺は小さな柿の種がリングの中をごんごんと回っている様子を妄想した。
「何回くらい回すんだ?」
「……タイムトラベルしたい時間だけ可能」
「ってことは一時間回せば一時間の時間差?十年だと十年の時間差?」
「……そう。この実験では、五分」
長門が言ったとおり、それから約五分してシンクロトロンの音が静かになった。
 
「時間差の生成が完了しました」
「……次は、水」
長門は、リングからニョキニョキ生えている管に繋がっているガラス容器の前に、ミネラルウォーターのペットボトルを置いた。それから照明を落とし、部屋を暗くした。
「……電子が通過する。カウントして」
「はい。三、二、一、スタート、一、二、三……」
ハカセくんが数えている間の五分間、全員が無言のままだった。五分後、ほんの一瞬だけペットボトルからストロボを焚いたような閃光が走った。しばらく何が起ったのか分からず、ただ黙っていた。
 
「あ、チェレンコフ光だよな。今の、」
俺は自分が知っている数少ない物理現象のひとつを嬉々として口にした。チェレンコフ光ってのは、電気を帯びた粒子が光速で水の中を通るときに減速して起る光、だったかな。
「……びんご」
長門がうなずいた。コンマ一秒単位で記録されたモニタのグラフを確かめている。
「……閉じた時間曲線が発生」
「あの、先輩」
「ん?なんだ?」
「実験成功です……」
にこやかに、やや紅潮したハカセくんにそう言われてみんなはやっと気がついた。
「えっ、じゃあ今のは世界初のタイムトラベルだったんですか!?世紀の発明の一瞬だったんですね。涼宮さん、一個の電子が時空を越えて旅をしたんですよ」
古泉が目の前で起った感動のシーンを説明していたが、ハルヒと朝比奈さんはいまいち分かっていなさそうだ。
 
「長門、その、電子サイズのワームホールとやらはもっとでかくできるのか?」
「……口を広げると不安定になりやすい。質量の大きなものは通過できない」
「許容範囲まで広げるとしたら、どれくらいだ?」
「……直径二十センチ程度」
それだけあれば紙の一枚くらいは送れるだろう。メッセージは送れるわけだ。
 
 時計を見ると昼過ぎていた。俺たちはとりあえず昼飯にすることにして、一旦休憩となった。ところがシンクロトロンとやらは電源を切ると再稼動するのにまた時間がかかるらしいので、長門とハカセくんはコントロールルームに残った。
 
 ハルヒが腰をとんとんと叩いて背伸びをしながら言った。
「この分だとタイムトラベルができるのはだいぶ先になりそうね」
「世紀の大発明だ、一両日中ってわけにはいかないさ。科学は地道な実験の積み重ねだからな」
「それはまあ、分かってるんだけど」
今すぐ手に入れたい、今すぐやってみたいというハルヒのいつもの待っていられない性分で、二人の科学者をせかしてしまいそうだ。ハルヒが望めば今すぐにでも完成させられてしまいそうな勢いなのだが、そのへんの兼ね合いをどうするか、長門も苦労するところだな。
 
 ふと駅前の時計を見上げると妙なことに気がついた。十二時をまわったばかりのはずが二時になっちまってる。
「キョン、あんたの腕時計遅れてない?」
「ありゃ、なんでだ。秒針は回ってるから壊れてはいなさそうだが」
俺は腕時計を振ってみた。変に思っていると携帯がなった。
「俺だ」
「……実験室内の重力子による副作用が出た。外の時間と進み方がずれているはず」
「なんだって!?じゃあ俺たちは二時間タイムトラベルしちまったのか」
「……許容範囲。今、調整している」
「分かった。お前たちも適当なところで休め」
俺は電話を切って、先に行こうとしている三人を追いかけた。
「おい、実験室の中と外で時間がずれたらしい。今はもう二時だ」
「え、ほんとなの?」
「ちょっとした浦島太郎の気分ですね」
なに呑気なこといってんだ古泉。ハルヒは妙に考え込むような表情をしていた。
「それは困ったわ」
「二時間くらいなんてことないだろ」
「ランチタイムが終わってしまうわ!全員走れ!」
ハルヒはいつものイタ飯屋をぐいと指差し、路上にぽつりと俺だけを残して部下二人を連れて走り去っていった。やれやれ、あいつらは大発明より食い気か。
 
 俺は古泉に長門とハカセくんに昼飯を買って帰ると電話して、地下鉄みたいな名前のファーストフードに入った。科学者ってのはなにかとインスタントに頼りがちだと考えるのは俺の偏見かもしれないが、ちゃんと栄養を取らせないとな。俺はオーダーサンドイッチとコーヒーを三人分テイクアウトして実験室に戻った。
「おう、差し入れだ」
「ありがとうございます先輩」
「この部屋って給湯室がないよな。コーヒーメーカーを買わせよう」
長門はコントロールルームのパネルを眺めながら、受け取ったサンドイッチをもさもさと食っていた。それだけじゃ足りなさそうなので俺の分も渡した。Lサイズにしときゃよかったな。ハルヒの携帯に差し入れをよこせとメールしとこう。
 
 午後の実験は、ハルヒがバランス栄養食やら菓子やらペットボトルやらを箱買いして戻ってきてから再開した。
「……次の行程。穴の直径を広げる。エキゾチック物質を三秒照射」
「了解しました」
 長門はさっきの実験で電子が通過したというガラスの容器に、分厚い金属製の覆いを被せた。
「ワームホールって肉眼で見えるのか?」
「ええと、どうでしょう。穴の中からなにが出てくるかによると思います」
「……そう。通常の光が出てくれば水銀灯の球のように見える。逆に光を吸収すれば黒い球体のように見える」
なるほど。ワームホールというから空間にラッパのような穴が開いているのかと思っていたが、そうでもないんだな。
「絵とだいぶイメージが違うな」
「あのラッパの図は分かりやすく平面上の穴で説明しているだけです。実際は三次元の穴ですね」
「……照射、開始」
「一、二、三。完了しました」
長門がまた黄色い防護服を着て中に入った。金属製の覆いを取ると、ガラスの中には鑑のような薄い膜に包まれた球体がぼんやりと浮かんでいた。半球の右側が黒っぽく、左側がCDの裏面に光を当てたような複雑な色をしている。俺もハルヒもほかの二人も目を見張った。
「これ、もしかしてそうなの!?」
「……そう。時間移動の地平面」
「完成です、完成ですよ!」
「…………」
これは長門の無言の三点ダーシではなくて、俺たちの無言だった。なんと表現すればいいのか、宇宙からやってきた神秘的な物体Xのようだ。
 
「長門、近くで見てもいいか?」
「……いい。ロッカーにもう一着あるはず」
俺は重たいヘルメットと黄色い防護服の重装備で実験室に入った。ヘルメットの前面はアポロ計画で使われた宇宙服ヘルメットのように金色に輝いていた。紫外線フィルターか。長門に手をひかれてガラス瓶のそばに寄った。
 よくよく見てみると、左側はシャボン玉のように、見る角度によって色が変わるのが分かる。少し波打ってるようにも見える。反対側から見ると真っ黒だ。
「これ波打ってるみたいだが」
「……まだ安定していない。しゅこー」
「ガラス瓶を開けてもいいか?」
「……いい。その前にフィールドを展開する、しゅこー」そのしゅこーって口で言ってるだろ。
 
 長門はカメラから見えないようにガラスにそっと手をあててブツブツと詠唱し、円筒形の青白く光るフィールドを作った。
「それで、どうやって時間移動するんだ?」
「……鏡の側に物質を押し込めばいい」
俺はもやもやと動いている鏡にそっと触れた。手袋ごしに手を差し込んでみたが、波紋を作ってそのままスゥと吸い込まれるように消えた。裏側にはなにもない。なるほど、簡単じゃないか。
「反対側から送り込んだらどうなる?」
俺は真っ暗な半球に手を差し込もうとした。
「……待って!」
長門が咄嗟に俺の手をつかんだ。
「……そっちの側からは過去へ繋がっている」
「これ両面とも繋がってるのか」
「……そう。もう五分待たないと、危険」
「さらに五分?」
「……今より五分間前には、まだ過去の口は完成していない」
なるほど、そういうことになるよな。
「っていうことはあれか、過去に行く口を作るには、時間停止させた二倍の時間がかかるってこと?」
「……正解」
分かりやすくいうと、ワームホールの片方の時間を凍結してから取り出し、凍結した時間の分を待たないと過去に通じる穴として使えない、ということだ。当然、過去に開いた口はまだ電子サイズなわけだし、手を突っ込んだりしたら素粒子並みに分解してしまうかもしれない。十年のタイムトンネルを作るには二十年必要ってことだ。無駄にややこしい。
 
 五分ほど待っていると、反対側の色がだんだん明るくなってきた。こっちもCDのように虹色に反射している。
「……過去にも繋がった」
俺が過去に繋がっているという側から手を差し込もうとすると、黄色い手袋がニュルリと出てきて冷や汗をかいた。
「こ、これってさっき俺が差し込んだ手か」
「……そう。こちらの半球は五分過去に繋がる」
ここで俺が出てきた手を握ったりしたら歴史が一致しなくなりそうだな。
 
「ちょっとキョン、いつまで遊んでんのよ。あたしにも触らせなさい」
コントロールルームに戻るとハルヒがわいのわいの騒いでいた。長門が注意事項を教える間もなく、ハルヒは防護服を俺から剥ぎ取って実験室に突入していた。長門はハカセくんに防護服を渡し、ハルヒが無茶をしないよう監視に行かせた。防護服を人数分用意しないといけなさそうだな。
「僕も間近で見てみたいです」古泉が食い入るようにモニタを見ている。
「まあハルヒが戻るのを待て。穴は逃げていきゃせんだろう」
「しかし、本当に作ってしまうとは驚きです。さすがです長門さん」
長門は微妙に照れたような表情で「……そう」とだけ呟いた。
 
「ひとつだけ分からないことがあるんだが」
「……なに」
「片方の穴を時間停止させて作ったってことは、俺たちが作ったのは過去へのトンネルだよな?」
「……そう」
「じゃあ未来への穴はどうやって出来たんだ?」
つまりこの揺れる鏡の球体は、右側が過去への穴、左側が未来への穴ということだ。
「……それは、考えて」
なんだ、クイズか。ええとだな、トンネルの口の片方を冷凍庫に入れて時間を止めて、止めていないほうが今ここにあって……。
「先生、分かりましたよ」
古泉が手を上げた。
「……古泉一樹」
「未来への穴は五分未来の長門さんが作ったんでしょう。未来で作られた過去の穴がそこに繋がっている、が答えですね」
長門がうなずいた。なんだか非常にややこしいが、正解なようだ。
 
「俺にも分かるように説明しろ」この言い方もなんだか情けないが。
「先ほどの絵で説明しますと、」
古泉はさっきのパネルを指して言った。
「僕たちが作ったAの穴は、五分過去のBに繋がっています」
「ふんふん」
「で、僕たちの時空に存在するBの穴は、五分未来の僕たちが作ったAの穴に繋がっている」
「ふんふん」
「お分かりいただけましたか」
「ぜんぜん」
「……元々、わたしはここにあるBの口は作っていない。でも、因果律からBの中身は未来で作られたことになる」
なるほど。ここにあるBの穴は五分未来のAに繋がっていて、五分未来のBの穴は十分未来のAに繋がっているわけで、このワームホールってのは未来永劫、因果律で繋がっているわけか。
「もしここで、未来へ物質を送れない事態になったりしたら、未来でワームホールが崩壊したことになります。時間移動は因果律の計算が重要ですね」
 
 ハルヒが顔を輝かせて戻ってきた。やっとこいつにもこの実験の意味が分かってきたようだな。
「ねえねえ、すごいわよ!五分後のあたしと握手したら、触ってるはずなのに感じないんで脳が混乱しちゃったわ」
あ、危ねえ遊びしてんなヲイ。
「次は誰行く?」
「朝比奈さん行きます?」
「ええ。はじめてです、こんなの」
古泉と朝比奈さんは黄色い核施設作業員コスプレをして中に入っていった。
 
「じゃあ、五分間後の未来に手紙を送るわ」
いつのまに書いたのか、ハルヒがA4の便箋を三つ折りにして封筒に差し込んでいた。ちゃんと封をして口に封緘紙を貼って印鑑まで押している。こういうどうでもいいようなところはマメだな。
 着替えている朝比奈さんをせかして防護服を剥ぎ取り、ハルヒは上訴する農民のように手紙を捧げて実験室に入った。
 モニタからカメラ映像を見ていたが、なんのことはない、手紙を左から差し込んで五分待って右から受け取るだけのことだった。これがただのパイプで、中で五分置いて取り出しても同じことだろうに。
 
 戻ってきたハルヒは、お裁きで文面を読み上げるお奉行様のように手紙をペロリと広げた。
「読むわ。前略、過去から未来へ」
 
── 前略、過去から、未来へ。あんたがこの手紙を読んでいるということは、あたしはもういないわけね。
 
どっかで聞いたような文面だな。なんか遺書みたいだぞ。
 
── これは快挙よ。この発明で世界がひっくり返ると言っても過言ではないわ。我が社は時間移動技術を大々的に売り出します。一社独占で市場を制覇、いいえ、一社独裁で世界を支配するわ。これによって人類の歴史が変わるでしょう。あたしの人生も変わるわ。きっと未来人に会える。もしかしたら技術提供を求めて宇宙人がやってくるかもしれないわ。それから異世界人とも会えるかも。
 
超能力者だけが抜けているな。ハルヒはそこで大きく息を吸い、最後の一行を読んだ。
 
── わたしは、ここにいる。
 
「十月吉日。株式会社SOS団。代表取締役社長、涼宮ハルヒ」
 
世界ではじめて、時間移動を経験した手紙だった。最初に古泉がパチパチと手を叩きはじめた。それから朝比奈さんが、そして長門とハカセくんが、最後に俺が拍手に加わった。なんの拍手なのかまったく不明なのだが、月面に土足で入り込んで足跡をつけたアームストロングに匹敵するくらいの、人類の記念すべき一瞬に類するなにかだったに違いない。この手紙はハルヒの席の後ろの壁に、額に入れられて飾られることになった。
 
 古泉がこの実証実験にいたく感動したらしく、盛んに賞賛の言葉を並べていた。
「これをどうビジネスに応用するかというところでしょうね」
「仮に時間移動できるとしても、数十年のワームホールじゃないと利用価値がなさそうだな」
「そんなことないわよ、ねえ見て見て」
「カップうどんなんか何にするんだ」
「このカップうどんはお湯を入れて五分経たないと食べられない。でもワームホールを使うと、あら不思議」
この時点すでにネタバレしてると思うが。ハルヒは防護服を着込みカップうどんにお湯を注いで蓋を閉じ、実験室に駆け込んだ。ワームホールにカップうどんを突っ込み、右から取り出そうとしているらしい。なにやってんだか。五分後、怪訝な顔をしたハルヒがうどんを持って戻ってきた。
「あれー、うまくいくと思ったのに。まだ麺がぜんぜん固いわ」
「あのなハルヒ、ワームホールに突っ込んでも、うどんが五分間加速されるわけじゃないと思うぞ」
「むー」
時間論にうとい俺なんかに妙に正しいところを突っ込まれて、ハルヒは口を尖らせた。そんなことができりゃ、未来の電磁調理器は十秒で茶碗蒸ができちまうぞ。いや待て、もし五分過去に送ったとしたら……、ヤバイヤバイ。因果律が壊れちまう。
 
 ハルヒの考えるしょうもないワームホールの使い道に、古泉がクスクスと笑っていた。
「たとえば一年前の自分に手紙を出す宅配便のようなサービスはどうでしょうか」
それを聞いてハルヒが目を輝かせた。古泉の奴、またハルヒを焚き付けるようなことを。
「それ、いいわねえ。一年くらいならなんとかなるんじゃないかしら。そこで世界中からスポンサーを集めるのよ。ウハウハだわっ」
「しかしなあ。金取ってはじめたら途中でやめられなくなるぞ」
「こういうのは考えたもん勝ちなのよ。誰かが先にやるかもしれないじゃない、先を越される前にやるのよ。有希、できるわよね?」
「……問題ない」
「さっそく事業計画案書とロードマップを作成します」
「頼んだわ古泉くん」
 
 時間移動技術会議その第二回目とやらのミーティングで、ハルヒは古泉の作成した事業計画案を読んでいた。
「さすがは古泉くん、具体的でいいわね。テスト的に時間差一ヶ月のワームホールでやってみるわ」
「一ヶ月間アレを回しつづけるのかよ。五分でも大量の電力使ってるのに今月の電気代払えんかもしれんぞ」
俺は経理担当者として会社の台所事情が心配だった。
「一ヶ月稼動させたら月の電気代どれくらいになるの?」
「実験の内容にもよりますが、シンクロトロンが一時間あたりだいたい一メガ~二メガワット消費してますから、ええと、」
軽く電子レンジ千台分か。古泉は電卓を叩いた。
「五千八百万から六千万円というところでしょうか」
な、なんですと。このでかいドーナツみたいな機械は電源入れておくだけで月に六千万飛ぶのかよ。もう自前で発電所を建設したほうが安く上がるんじゃないのか。
 
「未来への投資もいいが、社員の生活もかかってるってことを忘れないでくれよ」
「あたしだって経費のことくらい考えてるわよ。まあ、そのへんは投資家に相談しましょう」
そう言ってハルヒは受話器を取り上げた。投資家ってまさかまた鶴屋さんじゃ。この会社を作るときもいろいろ世話になっといてまだ金をせびるつもりか。言っておくが鶴屋さんちは金のなる木が植わってるとか金の卵を生むガチョウを飼ってるとかいうわけじゃないんだぞ。この不景気、鶴屋家にもいろいろと事情ってもんがあってだなぁ、んー?。
 そんな説得も虚しく、電話は五秒で繋がった。
「もしもし、鶴ちゃん?あたしよ。うん、元気元気」
鶴屋さんの元気に満ちた声が受話器から漏れてきた。勝手につけた略称みたいなニックネームで株主様を呼ぶのもどうかと思うんだが。鶴屋さんも居留守使うとかしてくださいよ。
 ハルヒはタイムマシンが出来たから見に来いと誘っていた。いちおうモノが時間を超えることは可能になったので、曲がりなりにも完成したというべきか。
「明日見に来るって」
 
 鶴屋さんの登場はひさびさだ。設立前に気前よく一億円を出資してくれると言ってくれて、あれから挨拶にも行ってない薄情な俺たちだ。
 ハルヒの案内で実験室に入り、ワームホールに手を入れて五分後の自分と握手していた。
「すっごいじゃんこれ!」
鶴屋さんはチャームポイントの八重歯を見せて言った。
「ほとんど長門とハカセくんの功績ですが」
「キミがハカセくんかいっ?受験生なのにたいへんだね、あはは」
「どうも、はじめまして」
「いやぁ驚いたさ。まさかほんとに作ってしまうとはねぇ。長門っちタダモノじゃないと思ってたけど、すごい人だったんだねっ」
「……」
長門を人というのは語弊があるかもしれませんが、確かにすごいやつです。
 
「それで相談というのはほかでもない、電気代のことなんです」
「これ、えらく電気食うらしいよね」
「そうなんです。フル稼働で月に数千万は飛ぶらしいです」
「そんなもんかい?数千万の経費ならなんとかなるさ」
「ソフトウェア開発の会社の経費にしちゃ額が大きすぎるんで、ちょっと怖いんです」
「うーん。じゃあ電力会社とかけあって、割引させてみっかな」
「そんなことできるんですか」
「コネがないわけじゃないさ。このビルの屋上、空いてるんだっけ?」
「ええと、クーラーの室外機と水のタンクがあるくらいだと思います」
「じゃあソーラー発電を置きなよ。少しは足しになるから」
なるほど。そういう自家発電もあるのか。
「なんなら地下に原子力発電所を作って電気を売ってもいいさっ、きひひっ」
冗談とも本気とも取れる鶴屋さんに釣られてハルヒの目もキラキラと輝きだした。いくらなんでもそれはヤバすぎますって。盗電ならぬ造電か。
 
 結局このビルのオーナーに頼んでソーラー発電パネルを置かせてもらうことになった。とはいっても、このビルの屋上の面積なら十数キロワットがいいとこだという。焼け石に水だな。電力会社に夜間割引を申し込んでも、鶴屋さんの財布から出してもらわないと全額は払えなさそうだ。やっぱスポンサーをかき集める作戦でいくか。ハルヒがビルの上に風力発電のプロペラを立てるとか言い出さないうちに。
 



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最終更新:2008年01月29日 18:37