かたかた、かた。
単調なタイプの音。ブラインドタッチが出来るほど、慣れているわけでもなかった。手慰みに始めて、今はほんの少しだけ上達した。旧式のデスクトップパソコンだからそれほど機能があるわけでもない。インターネットにも繋がっていない、開いて使えるのはペイントソフトやワードソフトや、それくらいのものだ。
わたしは人気のない部室で、文章を打っている。何の気なしに初めて、それから誰もいないときに、密かに少しずつ打つようになった。単語が並ぶ、接続詞がつながる、変換キーを押す。途切れ途切れに書き始めた、拙いなりの物語。誰も知らない、わたしだけの作品。完成の目処も立ってはいないし、ほとんど勢いで始めたものだから起承転結もぐちゃぐちゃで、とても人に見せられたものじゃない。それでも。 

――着想は、とても単純。 

以前、改めて読み直してみたグリム童話に、子供だましと思っていてもいつのまにか引き込まれてしまった。読破したころには、白馬の王子様に憧れる女の子のような心境になってふわふわ夢心地になって。そんなうちにふと浮かび上がった問いかけが、きっかけだった。

白雪姫、お妃に追われ。
小人に助けられて、それでも結局は毒リンゴを食べて死んでしまう。
ガラスの棺に入れられた白雪姫を、通り掛かった王子様が見つけて、余りに美しい姫君の姿にくちづけて――目覚めた白雪姫は王子様と結ばれてハッピーエンド。その後王妃は炙られた鉄の靴を履いて踊りながら死ぬ。白雪姫の命を狙う悪役もきれいさっぱりいなくなって、物語は見事にめでたしめでたし。 

だけれども、それは御伽噺の世界だ。現実の世界でそんなふうに、倒れ伏した白雪姫を都合よく救ってくれる存在が、現れるものだろうか。
疎まれ、忌まれ、誰からも手を差し伸べられることなく死んでいく――そんな白雪姫も、いたのではないだろうか。
いくら王子様のことが好きでも、気にも懸けてもらえずに、誰か特定の人に愛されることもなく。凍えるような棺の中で眠り続ける白雪姫がいたのではないだろうか。 

「――王子が現れなかった白雪姫は、どうなるのか」

ぽつり、と零した声は冷え切った空気に溶けた。手を止めて、窓の外を見遣ろうとしても、曇り窓は白く靄がかかったようでどんな景色も見通せはしない。
「王子が姫に、目を留めなかったら、どうなるのか……」
しん、とした部屋、独りきりで打ち込む指先が冷たくなる。答えを捜すように、わたしはキーをタッチをする。
幸せな白雪姫は、もしかしたら夢幻なのではないかなんて、疑いながら。 










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小人の手によって息を吹き返した白雪姫。
御妃様は今度こそはと、周到に身を繕って白雪姫を訪ねます。

手に携えるは、麗しき櫛。
紅色の麗しき櫛、翳してみれば白雪姫も、手を伸ばさずには居られませぬ。

無知な娘子、白雪姫。
小人の憂慮も知らぬまま。


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長門が絞殺されかかった事件から、七日が、やっと過ぎた。

最寄の警察が定期的に学校を訪れ、教師陣も見廻りを強化していたが、古泉にとっては不自然なまでにあっさりと、騒ぎが収束したように映った。何処か緊張の気配を纏っていた学業生活も、試験だ部活だと忙殺の日々に忘れ去られてゆく。事件の後遺症は、薄い傷跡すら残さず、呆気なく払拭されたかのようだった。
手を取り合い、罠が待ち構えるかもしれないなんて想像もせず、往々に日常を取り戻してゆく生徒たちを見送って、古泉一樹はひとり、置いてけぼりを食らった迷子の心持を味わっていた。

――何かが可笑しいことは、分かっていた。
掴み切れない違和感に苛まれて、思い出そうとする度に記憶の端でつっかえるものが邪魔をした。不足している、そんな焦燥感だけは何時までも、消化できない気持ち悪さとなって胃の底にへばり付く。
事件もあって瑣末な事にも敏感になり過ぎているのかもしれない、と一人きりの部室に佇んで、古泉は思った。
芯の細い長門は、事件以来、登校もしていない。何度か電話で連絡は取り合ったが、「怖くて学校に出られない」という震えながらの長門の一言を否定できるわけがなかった。何しろ、彼女は命を奪われかける所まで行ったのだから。

古泉にできたのは、「養生してください。ゆっくり、あなたのペースでいいですから」と励ましの言葉をかけることだけだった。そんな古泉なりの精一杯が長門の慰めになったかどうかは、古泉自身にも分からなかった。

好意を抱いている人間が沈鬱な思いで塞ぎ込んでいるのに、何の助けにもなれない無力感と歯痒さ。活動もままならない状態でありながら、長門と居た二人きりの時を一繋ぎでも留めておきたくて、古泉は度々文芸部室に立ち寄った。読書好きで控えめで、鈴蘭が首をもたげるように淑やかな仕草で微笑む。眼鏡の奥に恥じらいを浮かべる瞳を押し隠した少女の面影を、彼女の定位置であった窓辺の椅子に求めて、古泉はただ、漠然と過ごしていた。
何が違うのだろう。何を、忘れているのだろう。
強烈になっていく齟齬の正体を捜すまま、一人きりで過ごし続けての、七日目だった。
古泉は不意に、眼に留まったものに興味を惹かれた。六日目まではただ当たり前であったものに対して、何故だか急に浮かび上がった違和感。思わず座席から立ち上がり、目に付いたそれの前にまで足を運ぶ。
ボードゲーム。
いつから、触れていないのだろうと古泉は箱の縁を人差し指でなぞった。黒ずんだ粉が膚を汚す。
まだ部員数が運営に支障ない程度には揃っていて、賑わいを見せていた頃の置土産だ。山と積まれたボードゲームは浅く埃を被り、遊び手がいない為に隅に追いやられて本棚の一角を占有していた。
古泉はアナログのゲームに関しては下手の横好きというやつで、滅多なことでは白星は望めないという体たらくだったのだが、それでも店先に新種のゲームを見つければついレジに持ち込む有り様だった。――そんなことを、古泉は、『たった今になって』思い出した。
まるで今の今まで、記憶の海底に碇で沈められていたものが、浮上してきたかのような。
「……どういう、ことだ」
敬語の剥がれた呟きを落として、古泉は目を瞑る。……記憶が、あった。何処かで開催されたフリーマーケットで意気揚々と碁盤を担いだのを後目に誰かが呆れたように小言をくれたこと、久しぶりの勝利についマジックで勝敗表に大きめに円を囲って笑われたこと。 

やけに不明瞭な記憶のうちから、古泉はいくつか、断片的な記憶を掬い取る。
あれは、誰だっただろう。あのとき対戦していたのは。
少なくとも卒業していった三年生達ではない筈だ、と思い至って、古泉は愕然とした。三年生。確かに部室にいた筈の人々の顔が、思い出せない。
ぐるりと見渡した室内は、古泉の視覚に収まる限りで、異空間に取り残されたような錯覚を起こさせた。
衣装ケースにはコスプレ用のナース服やらバニーガール等が畳みこまれ、創作活動の時にしか利用しないパソコン、剥き出しに置かれてそれきりの給湯器が鎮座している。ふたりきりの文芸部室には、不似合いな代物だ。卒業していった旧三年生の遺産というべきそれらにしては、その三年生の記憶も薄い。
どうして今まで疑問にも思わなかったのだろう。誰かがいて、誰かがいて、誰かがいた。自分と長門以外にも、誰かがいた筈だ、と古泉は指折り数える。そこまではかろうじて、記憶の隅に引っ掛かるのに。
――それは一体、誰だったのか?




眉間に皺を寄せ、頭をフル回転させて状況理解に努めていた古泉を、控えめなノックが我に返らせた。

「あの……長門さん、いる?」
ドア越にくぐもって響く見知らぬ女子の声。古泉は、ふっと張り詰めた意識を解いた。
「どなたですか」
「8組の者です。長門さんに用があるんですけど」
古泉は一拍、長門を襲った者に関しての情報を脳裏に巡らせ、すぐにそれを打ち消した。非力な女子学生が、幾ら軽量とはいえど、女子一人の首を持ち上げて締め上げられるとは思えない。フードで顔こそ見えなかったが、犯人は男でしか有り得ない。
自分にそう理詰めで納得させた古泉は、尋ね人を丁重に室に招き入れた。知らぬ声と感じたのは間違いではなかったようで、訪れたおさげの女生徒は古泉とは面識のない、取り立てて特筆するところもないような一般的な少女だった。ややふっくらとして、人の良さそうな笑みを浮かべている。古泉は長門の交友関係を掘り返してみたが、こんな少女は長門の親しい人物欄にはなかった筈だった。 

「ちょっと知り合いに託っているんですけど、長門さんは……」
「申し訳ありませんが、長門さんは今日もお休みです。僕が承っていい内容なら、伝言も出来ますが」
「そうですか。じゃあ、これをお願いできますか」
長門の不在も想定の範囲内であったのか、少女はあっさりと頷き、懐から白い封筒を取り出した。膨らみが大きいので、手紙以外にも何かが入っているだろうことが一目で知れる。古泉が押されるままに受け取ったそれは、それなりの重量を掌に感じさせるものだった。嵩張る紙の感触に、中に何か無機物が混入されているのが分かる。

「長門さんが来たら、渡してください。それじゃ」
「あの――?」
受け取って古泉が了承の旨を返す前に、少女はさっさと身を翻して走り去っていく。呼び止める間すらない。
唖然とした古泉は、手渡された手紙に眼をやった。端正な字で『長門有希様』と筆記されている以外、差出人の名前等は見当たらない。無味乾燥とした一通の手紙。ラブレターなら同学年で近しくあるとはいえ男である古泉に預けるのは余りに奇妙だし、事件に関しての激励の手紙にしては少女の態度は素っ気無い。ファンシーな動物の描かれたような可愛らしい便箋であったなら古泉もそこまで悩まなかったろうが、手紙自体も味気ないため、女子間のやり取りというようにも見えない。
ただの手紙ならばいい、けれど明らかに何かの小物が収まった手紙を、それも人伝に長門に寄越そうとする理由が分からなかった。
(……まさかカミソリ入り、ということは)
事件があってナーバスになっている少女に対してのスタンダードな嫌がらせなら、有り得るかもしれないと深読みした古泉は、中の小物が何なのかだけでも確かめようと糊付けを剥がした。マナー違反は承知していたが、もし危険物の折込であったら、長門にそのまま渡す訳にもいかない、と考えたためだった。 


――古泉の予想は半分外れ、半分的中した。 



開封した手紙を斜めに傾ける。中から滑り落ちてきたのは、見事な緋色をした、一本の櫛だった。その意外さに何故こんなものをと古泉が右掌でそれを受けた瞬間、ざくり、と肌を裂く感触が膚の上を走った。

「…………っ!」
痛みに引き攣った声を上げた古泉は、瞠目し、信じ難いものを見る目つきで己の置かれた惨状を見遣った。
其の場に立ち竦んで、櫛裏に貼り付けられていた刃に切り裂かれた手を前に、呆然とする古泉を尻目に。血液はみるみる溢れ出して手を汚し、白い手紙を侵食し赤く染め、手首も腕も染め上げて、――血塗れになった櫛とともに、床に零れて、落ちた。 




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小人の手によって息を吹き返した白雪姫。
御妃様は今度こそはと、周到に身を繕って白雪姫を訪ねます。

手に携えるは、麗しき櫛。
紅色の麗しき櫛、翳してみれば白雪姫も、手を伸ばさずには居られませぬ。

無知な娘子、白雪姫。
小人の憂慮も知らぬまま。
――髪に差込んだ毒が廻り、また姫は、床に伏してしまうのです。



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最終更新:2020年03月11日 19:10