漣・閉鎖空間・僕・彼の続編 

 

 ほんの一瞬。時間が壊れ、物事の順序が狂い、二秒前と七秒前が真逆の順番で流れていたような気がしました。眠り掛けているときなどにありがちな、感覚は全てを察知しているのに、脳がそれを解析するスピードが追いついて来ないような、独特なまどろみです。
 私がそのまどろみから開放され、つい数秒ほど前に、部室のドアがノックされた事に気づいて、ドアの方へと視線を向けたときには、すでにドアは開かれ、その隙間からこちらの様子を伺うように上半身を除かせている男子生徒の姿がありました。
 「谷口君」
 私がその名前を呟くと、彼は私の顔を一瞬見たあとで、何かを探すような慎重な視線で部室の中を見渡しました。額に汗が滲んでいて、呼吸のたびに肩が上下しています。何か恐ろしいものに追われ、死に物狂いで逃げ込んできたような風に見えます。一体どこの何をそんなに恐れていると言うのでしょう?
 私以外に誰も居ない室内を、彼は徹底的に見回しています。また長門さんを探して居るんでしょうか? そういえば、長門さんは。さっきまでこの部屋に居たはずです。窓辺のテーブルには、私が長門さんに出したお茶の湯飲みが残っています。私の気付かないうち
に、どこかに行ってしまったんでしょうか。それとも、どこかへ消えてしまったんでしょ
うか。窓が開いています。
 「キョンは?」
 キョン君ですか? 谷口君が、私を見つめています。今の言葉は彼のものです。何を言ってるんですか、谷口君。キョン君はもう居ませんよ。私の胸の中で、鈍く沁みる痛みのようなものが生まれます。キョン君はもう居ませんよ。今度は痛みはありません。
 「今、あいつが、この部屋に入っていったんです」
 谷口君は真剣な表情でそう言い、部室の中に入ってきました。そして、慎重な歩みで室内を歩きまわり、物陰や、ロッカーの中などを探し始めました。ああ谷口君。それはきっと幻です。私は口に出そうかと思いましたが、室内を探し回る彼の後姿はとても真剣で、水を差すのは憚られる気がしたので、私は谷口君を放置したまま、椅子から立ち上がり、ポットの前へ行き、お茶を入れ始めました。長門さんと話した後に淹れた私のお茶は、もうすっかり冷めてしまっていたので、新しく淹れ直すことにしました。それと一緒に、谷口君の分のお茶も淹れてあげます。彼の為の湯飲みがないので、古泉君の湯飲みを使わせてもらう事にしました。名前が書いてあるわけではないので、このまま谷口君の湯飲みにしてしまっても大丈夫です。
 二人分のお茶を淹れて、私の分を私の席に。そして、谷口君の分を、以前古泉君が座って居た席に置いて、私は再び自分の席に戻りました。谷口君は団長の机の下を覗き込んだ後、私の衣装の掛けてあるハンガーラックを覗き込み、隅のゴミ箱の中までを調べていました。そんなところにキョン君が入るわけがないじゃないです。私だって入れません。
 「長門は?」
 デタラメな捜索を数分ほど続けた後で、谷口君は私に向かって(ようやく私の存在に気付いたかのように)訊ねかけてきました。
 「さっきまで、一緒に居ました」
 私はお茶に口をつけながら、ありのままを返答します。いつもの癖で禁則事項の確認をしそうになり、自分が少しイヤになります。僅かな渋みを舌に感じながら、私は胸の中で呟きます。もう誰かに何かを禁じられる事はないの。その響きは、私の中で確かな、けれど正体の分からない奇妙な安心感となって、緊張した気持ちをほぐしてくれます。喋ってしまいましょうか。何にも束縛されずに。今の私には、不可能じゃないんです。
 「谷口君、すこしお話しませんか?」
 谷口君は、怪訝そうな顔で私を見たあと、テーブルの上に置かれている湯飲みに視線を向けました。そして、暫くなにかを考えるように動きを止めた後、「話してくれるんですか?」と、呟くように言いました。
 「はい」
 私は頷きます。
 「今まで黙っていてごめんなさい。でも、もう何も心配はいらないんです」
 「キョンは、治ったんですか?」
 「いいえ」
 私の返事を聴き、谷口君がいかにも残念そうに顔を顰めます。ごめんなさい、谷口君。でも本当のことなんです。何も心配はいらないんです。
 「キョン君は今朝、病院から居なくなりました」
 私が続けて言葉を紡ぐと、彼は大きく目を見開き、今にも駆け出しそうに身を乗り出しました。構わずに私は続けます。この先の事を話したら、彼はどんなふうな顔になるでしょう?
 「キョン君はね、神様だったんです。もう、何の力も無いけれど」
 彼の表情はとても面白くて、私は思わず笑ってしまいました。

 

     ◆


 谷口君が去ってしまった後には、対面の窓に反射して差し込む西日と、手付かずのままの湯飲み。そして、静寂だけが残されました。
 まだ放したい事の半分も話せていません。正直、欲求不満です。私はお茶に口をつけ、溜息をつきました。まだ満足できてはいないけれど、随分気持ちがスッキリしています。重たい荷物を下ろしたような気分です。何も隠さずに物事を話すというのは、とても気持ちのいい事なんですね。最後の最後になって気がつくなんて、私はやっぱり馬鹿です。
 いつからだろう。私はふと考えます。この結末は、一体何時から決まっていたことなのだろう。今となっては、三年前の情報爆発の瞬間から今までは、全てが決まりきっていた事なんじゃないかとすら思う。そうでなかったら、私がこんなに晴れ晴れとした気分でいられる理由がわからないんです。
 その瞬間に世界は作られ、彼が……キョン君が生まれた。そうして生まれた世界は、
涼宮さんの望みによって廻り、涼宮さんの望みによって廻る事をやめた。そして、それもきっと涼宮さんの望みによって……彼女の全ての死で、今から世界は終わろうとしている。
 未来も何もありませんよね。
 私は携帯電話を取り出し、古泉君の番号を選択し、耳に当ててみました。無機質な呼び出し音が随分と長い時間続いた後で、やがて、諦めたように途切れ、冷たい不通音に変化します。次はキョン君と登録されている番号を選択し、同じように不通音まで聞き届けます。次は涼宮さん。不通音。分かりきっています。誰かと会話をすることなんて、きっともう無意味なんです。だから全ての言葉は死んでしまった。きっと私はもう、口を利く事も出来ないはずです。古泉君が何処まで行ったのか、キョン君が、涼宮さんが何処まで行ったのか、気になるけど、確かめる術は無いんです。その時になってのお楽しみです。
 まだかな。私は思います。湯飲みのお茶を飲み干してしまい、手持ち無沙汰になってしまいました。オセロでもしようかな。オセロは古泉君が部室に来なくなってから、一度も取り出されることがなく、埃を被っています。埃を払うのが面倒なので、私は結局、またお茶を淹れて、元の席に戻りました。
 私はおかしくなってるのかな。私は思います。
 西日が翳り始めて、気温が下がってきました。私は新しくお茶を淹れて、再び元の席に戻ります。
 まだかな。私は呟きます。夜が明けるのを待っている子どもみたいに。
 二人が出会う時を、私は待ち続けています。

 


 

  灰・死・古泉一樹・涼宮ハルヒ

 


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