5、

 

「…起きて」

後五分・・・後五分だけ寝かせてください。俺はどこかから聞こえてくる声に祈る。

「…起きて」

それでもどこかから響いてくる声は俺に覚醒を促していた。その声から逃げるようにして寝返りをうつ。

よし、こうなったら意地だ。俺は寝るぞ。気の向くままに寝るぞ。

 

ちゅ…

 

何か柔らかいものが俺の頬に当たる。今までに無いくらい柔らかくて、ほのかに温かいものが。なんだろこれ。悪い気はしない、いや、むしろ気持ちいい。これなら起きてもいいかもしれない、なんて気持ちにもなってきた。

「…起きて」

はいはい、分かったよ。俺はまぶたを開ける。今思えば凄く残念なのだが、目を開けたと同時に先ほどの感触の存在そのものを忘れてしまっていた。

「おはよう」

そこには頬を少し赤く染めた長門の顔があった。何故だか知らんが一日の始まりにそんな顔を見ることができた俺は、かなりの幸せ者かもしれない。

「おう、おはよう」

寝ぼけ眼で挨拶を返す。時計を見ると、針は7時を指していた。

たしか今日は・・・少し早起きして遊園地に行く日だ。

「起こしてくれたのか?ありがとな」

「いい」

そうか、と呟くと俺はうーんと伸びをする。

久しぶりの穏やかな目覚め。これでおいしい朝ごはんでもあればもう言うことはないだろう。

「朝ごはんできてる。降りてきて」

長門さん。あなたは最高です。どうしてそうあなたは俺の願望をピンポイントで叶えて下さるのでしょうか?

「そんなことまでさせちまってなんだか悪いな」

そんなことない、と長門は首を横に振る。

「だってわたしは………あなたの奥さん」

・・・・・・・・。

言葉を返せない俺。なんて恥ずかしい台詞をいってくれるんだこいつは。おかげですっかり眠気が無くなっちまったぜ。その代わり朝一番で悶え苦しんでいる訳なのだが。

さすがに長門も恥ずかしかったのか、それ以降は何も言わずに俺の部屋から出て行った。

俺は自室の窓の前まで移動して一気にカーテンを開けて朝一番の日光を浴びる。

もう一度伸びをしてから今度は窓を開けて新鮮な空気を取り入れた。

もちろん、その火照った頬を冷ますのも兼ねて、だ。

いくら夏とはいえまだ早朝。その空気はまだ冷たい。

大きく深呼吸すると肺の中の古い空気が全て入れ替わって、まるで生まれ変わったかのような感じがする。

朝の風景から今日一日分のエネルギーをもらってから俺は着替えた。

「さて、そろそろ下に降りるとするか」

飯だ飯。今度は長門作の朝食からエネルギーをもらうとするか。

今日は色々と遊ぶ予定だからな。補給できるときに補給しなければなるまい。

そうして俺は自室を出て一階へと向かった。

「おとーさんおはよー!!!」

部屋に入るなり涼子の元気な挨拶が飛んできた。今日も元気でなによりだ。

「おはよう、涼子」

その言葉に涼子は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに満面の笑顔になる。

「涼子はお母さんから今日どこに行くか聞いてるか?」

「ううん。まだなんにもきいてないよ?」

まだ知らせてなかったのか。それとも俺が伝えるべきだと思って言わなかったのだろうか?変な気の利かせ方しやがって。

「驚くなよ?今日はな・・・・・」

ゴクリ、と涼子が唾を飲む音が聞こえる。俺は少し意地悪で間を長く空けた。

「今日はな、父ちゃんとお母さんと涼子で遊園地に行きます!」

「ゆーえんちぃー!?ほんとに!?」

ホントだ。

「やったあーーー!!!!!」

涼子は、ばんざーい、と体中で喜びを表現しながらはしゃぎ始めた。

こらこら、食卓ではしゃいじゃいけません。静かにしないと連れて行かないぞ?

「はいっ!」

と昨日の朝のリビングよろしく、きれいな姿勢でちょこんと座った。

よし、それじゃあ父ちゃん急いでご飯食べるからちょっと待ってな。

その時、ちょうどタイミングを見計らったかのように長門が俺の朝ご飯を運んできてくれた。

「召し上がれ」

そういって出されたのは目玉焼きの乗ったトーストと、茹でたてのソーセージ、サラダ、そしてカップ一杯のコーヒー。

ぱっと見少し物寂しいものがあるが、俺好みの朝食のメニューである。

「サンキューな、長門。いただきます」

俺は手を合わせて一礼してから食べ始めた。

ちなみに涼子はと言うと、さっきまで気がつかなかったのだがもうすでに食べ終わっているようで、俺が食べている様子をじーっと見ている。ただし目は早く遊園地に行きたくてうずうずしているのだが。

そんな娘を待たせちゃ悪いし、時間的にもあんまりのんびりと食べていられるほど余裕は無いので手早く食べ終える。

残念だ。明日はゆっくりと食べられるといいのだが。

「ごちそう様。うまかったぞ」

ありのままの感想を長門に告げてから席を立つ。

涼子と自分の分の食器を流しに持っていって軽く水ですすぐ。

「それはわたしの仕事。あなたはやらなくていい」

と長門が言ってきたのだが、これくらいはやらせてもらわないとこっちとしても困る。

なにせ朝ごはんを作ってもらったくらいだ。せめて片付けくらいはしなくては。

「大丈夫大丈夫。このくらいパパッとやっちまうから、お前は自分の用意でもしてこい。あ、そうだ。涼子の準備も頼むぞ」

「その件に関しては了解した。しかしこの仕事もわたしが…」

ふ、残念だったな長門。洗い物はもう終わっちまったぜ。俺はキュッと水道の蛇口を捻って水を止めた。

「おっと、すまんな。もう洗い物は終わっちまったみたいだ」

それに、お前ばっかり家事を押し付けるわけにはいかんだろう?

だから、これくらいの仕事は俺に任せてくれ。な?

「…了解した」

長門は、しぶしぶ、といった感じでそう言って部屋を後にしたのだが、その唇に少し微笑みが浮かんでいたのを俺は見逃さなかった。

「・・・今のうちにもう一度交通情報を調べておくか」

今日行く遊園地というのは、千葉にあるのに東京と名のつくアレや、大阪にある海外のキャラクターがメインののアレといった大々的なものではなく、子連れの家族で楽しむような普通の遊園地だ。とはいえ電車で一時間半くらいはかかる。開園直後から遊ぶためには今日のような早起きが必要なのだ。

「だい・・・じょぶか?」

乗り継ぎの駅とその時間を確認する。

大体は記憶したが、細かいところは自信が無い。特に時間とか。

「時間と言えばそろそろ出なきゃやばいが、あいつらはまだか?」

時計を見ると時刻はすでに七時四十分をまわっていた。開園は九時半。

女の子の着替えや準備には時間がかかると言うことはお袋やハルヒのおかげでいやと言うほど思い知らされているのだが、さすがにそろそろやばい。

家から駅までの時間を考えなきゃならないうえに、その電車を逃すと、乗り継ぎの影響で到着時刻が三十分ほど遅れちまうからな。言いに行ったほうがいいのか?

「おとーさんおまたせっ!」

とグッドタイミングで涼子が入ってきた。

「ねぇねぇ、どぉ?わたしにあってる?」

と涼子がくるりと一回りする。スカートの裾がふわりと広がり、麦わらの赤いリボンが風にたなびいた。

ちなみに今日涼子が着ているのは薄めのライトグリーンの色をしたワンピースに昨日長門に買ってもらった麦わら帽子である。昨日もこいつはワンピースを着ていたが似合っているので、それはそれでいいんじゃないだろうか?赤いリボンも映えてるし。

「おう。可愛いからいいと思うぞ」

へへっと笑う涼子。こいつのこの仕草を見ると本当に心が洗われるようだ。

例えるならば・・・そうだな。子猫同士のじゃれあいを見ているような気分?

よく分からんが、とにかく和む。

じー。

ん、なんだ?長門。

じー。

・・・・・。何だその目は。

「わたしは?」

ん?

「わたしはどう?」

と首を傾げてきた。そうか。そういう意味の視線だったのか。

長門はと言うと全体的に白がベースの服装で、膝くらいまでの白いスカートに、レースの付いたピンクのキャミソールを着ている。そしてキャミソールの上に白い薄めの上着を羽織っていて、頭には涼子とおそろいのリボンの付いた麦わら帽子、といった感じだ。

うん。個人的にはかなりいいと思う。清楚な感じがたまらん。

「お前もいいんじゃないか?似合ってるぞ」

じー。

おいおい、なんだよ。ちゃんと似合ってるっていったじゃないか。それじゃ不満なのか?

「涼子のときは可愛いと言っていた。でも私のときは言っていない」

・・・・・。もしかして拗ねているのか?

「…ずるい」

やっぱりそうか。涼子になら何の気兼ねなく言えるんだが、お前相手だとなんか言いにくいんだよな。羞恥心があるし。

じー。うるうる。

分かったよ、俺の負けだ。だからその涙目を止めてくれ。暴走しちまいそうだ。

だがただ俺が恥ずかしい思いするのもなんだしな。すこし仕返しでもしてやるか。

俺は一回だけ深呼吸をして、自分ができると思われる中でなかなか上位ランクに位置する笑顔を作ってぶちかます。

「ものすごく可愛いぞ、有希」

それを聞いた長門は一瞬何が起こったか理解できないといった顔をしてから、その顔を真っ赤にして目を白黒させている。

ふっふっふ。作戦通りだぜ。

「…今あなたは何と言った?」

おいおい!聞いてなかったのかよ!俺の決意を返せ!

「何と言われてもだな。ものすごく可愛いぞ、有希、だが」

「もう一度言って」

べ、別に構わんが・・・。

「ものすごく可愛いぞ」

ほれ、これで満足か?

「わたしは全て復唱することを要求する」

はいはい。分かったよ。

「ものすごく可愛いぞ、有希」

「もういちど」

「ものすごく可愛いぞ、有希」

長門は俺がそういうたびにただでさえ赤い顔をさらに赤く染めていく。

何回かそれを繰り返してから俺はあることに気がついた。

こいつが望んでいるのはもしかして・・・・・

「あなたは今わたしのことを有希と呼んだ」

嫌な予感的中。ええ、確かにそう呼びましたよ・・・?

「わたしはこれからもあなたにそう呼んでもらいたい」

あー、もしかして俺、自分で墓穴掘っちまいました?

「あ、あの~。長門さん?」

「………」

さすがにそれはちょっと・・・。

「………」

駄目だ。こりゃいつまでやってもキリが無い。こうなったら最後、長門はてこでも譲らんだろう。やれやれ。仕方が無い。

「分かったよ。だが今日だけだぞ。いいな?」

コク、と俺の言葉に頷く長門。ただ、その目には微妙に抗議のようなものが宿っていたように見えたのはきっと俺の見間違いだろうね。俺はそう信じたい。

「おとーさん、おかーさん、なにおはなししてんの~?はやくいこうよー!」

涼子が待ちきれないといった様子で言ってきた。

少しばかり頬を膨らませている。怒っているようなのだが逆にそれが微笑ましい。

これ以上機嫌を悪くさせちゃいけないな。

「すまんすまん、ちょっと大事な話でな」

「わたしにはそうはみえなかったけどな~?」

ぐっ・・・痛いところを付いてきやがる。ナイフの代わりに言葉ですか?

「分かった。父ちゃんが悪かった」

一応謝っておこう。何か釈然としないのだが。

「じゃあ・・・あいすかって!わたし、ゆうえんちであいすたべたい!」

あー、やられた。こいつ、いつの間にこんなスキル身に着けやがった?

「・・・・・分かった。買ってやる」

仕方あるまい。でもああいうところのアイスって高いんだよな・・・。

ん?なんか甘やかしすぎじゃないかって?

おいおい、冗談はよしてくれ。これぐらい普通だろ。

父親は娘の笑顔が恋しくてご機嫌取りをしちゃうのだ。そういうもんだろ?

・・・違うのか?

「それにしても結構時間が経っちまったみたいだ。そろそろ出ないと遅れちまうぞ?」

時刻はすでに出発時間を五分ほど過ぎていた。そろそろやばい。

「ちょっと待って」

長門はそういうとキッチンのほうへとてとてと向かう。冷蔵庫を開けて中からバスケットのようなものを取り出しすとすぐに戻ってきた。

「なんだ、それは?」

「お弁当。わたしが作った」

お~、長門お手製弁当かぁ~。昨日のおでんが相当のものだったから十分期待できる。

ん?だが俺が食卓に着いたときにはもう弁当の準備なんかして無かったよな?

てことは・・・あいつ、早起きして作ってくれたのか。

「そうか。ありがとうな。楽しみにしているぞ、有希」

感謝をこめて下の名前で呼ぶ。それに、俺が今日一日は下の名前で呼んでやるって言ったんだ。別に問題無いだろ?

「…そう」

と嬉しさと恥ずかしさをごっちゃにしたような感じの表情をする長門。

ホント、期待してるぜ?

「おとーさん!はやくいこーよー!」

おっと、このお嬢はもう我慢の限界のようだ。

「分かった分かった。よし、じゃ行くか」

「うんっ!」

時間的にもそろそろ本当にやばい。危ないけど自転車で行くか。

「長門・・・じゃなくて有希、お前自転車乗れるよな?」

コク、と頷き返してくる。

「よし、それじゃあお前はお袋の自転車に乗ってくれ。涼子は父ちゃんの後ろだ。危ないからちゃんと捕まってろよ?」

「分かったっ!」

娘は気合十分のようだ。でもなぁ涼子。別にここ、頑張るところじゃないぞ。

自転車を出し、涼子を抱えて後ろに乗せてからこぎ出す。

一人で乗るときより微妙に重いペダル。

腹にぎゅうと感じる小さな圧力。

それらが俺に突如として舞い降りた幸福の証なのだと実感する。

俺は、その幸せが逃げ出さないように、こう言って駅までの道のりを急いだ。

「涼子。その腕、絶対に放すなよ?」

第五章中半へ

 


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