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お妃様は、ついに、白雪姫を殺してしまおうと思い立ちました。
顔を隠し、白雪姫の興味を引くだろうものを携えて小人の粗末な襤褸を訪ねます。
「さあさ、扉を開けておくれ。お嬢さんや、こんなものはいかがかね」

無知な白雪姫は、無防備にお妃様を迎え入れ。
するりするりと取り出されたそれに、眼をかがやかせました。



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心臓を突き刺すような、尾を引く、か細く切羽詰った悲鳴だった。

何かが、起きた。直感的に古泉は悟った。
全身の血の気が、ざあと干潮のように引くのを自覚する。圧倒されるような「不吉な予感」が喉元を奔った。
生じた危機意識に、警鐘がけたたましく脳内を鳴り響いて冷静さを占拠する。喉につっかえた様な己の所在に対する違和感も、一瞬にして思考から消し飛んでいた。矢も楯もたまらず古泉は身を翻して走り出した。何があったのかはわからない、わからないが――とにかく、一秒も惜しい。
階段を駆け降りて声の発生源へ。運動部も眼を瞠るだろう勢いで疾走した古泉の視界に飛び込んできたのは、先程別れたばかりの少女が小柄な身体をばたつかせ、足元を無様に宙に揺らしている姿だった。

恐怖に染まった相貌が生気を失い青褪めている。丸眼鏡は床に落ち、上から踏み潰したらしく、フレームは砕けてひしゃげ粉々に散っていた。
呼吸を求めるようにひっ、ひっと短く喘ぎ、表情を引き攣らせた少女。背後には黒いフードで全身を覆った異様な何者か。その手には、今この一瞬にも少女の、長門の首を締め付ける白い紐が―― 

「――――長門さん!!」

我を忘れた古泉の絶叫に、黒フードの人物はするりと指から紐を離し、途端に崩れ落ちた長門に一瞥の未練もくれず、廊下の角に姿をくらます。飛び込むように古泉は角に視線を走らせたが、見えない。走り去ったのだとしたら驚異的なスピードだ。
「がはっ、ごほっ……!」
咳き込みながら、床上に尻餅をつき、首を抑え蹲る長門に、古泉は駆け寄った。膝を折って少女の薄い背中を擦る。
急激に酸素が流入した肺に、呼吸も苦しげだ。長門の眼には怖れからか咽喉を痛めたのか、うっすらと涙が滲んでいた。首筋には長門の白い肌に明らかな、赤く腫れたような紐の跡。その痛ましさに、思わず古泉は眼を背けた。
不逞の輩への怒気が、漂白された理性に注ぎ込まれる。容貌から背格好までを隠したあの黒ずくめは、誰だ。追い掛けて捕まえるべきだという理性の声と、たった今殺されかけた彼女を放っていいのかという感情の声が古泉の心中に交錯する。可能なら付き添いたい、けれど彼女の今後の安全を考えるなら取るべき選択は前者だ。
だが、立ち上がり追跡を試みようとした古泉の袖元を、後ろから引く小さな手がある。
「……長門、さん」
「いかないで」
勢いが殺がれる。見ぬふりをしようと思えば出来ただろう。だが、古泉は弱弱しくかかる力を振り切れない。
小刻みに震える長門は、獰猛な獣に睨まれ寸でのところで噛み殺されかけた、怯え縮こまった小動物のそれだ。眼鏡のない双眸は視点を定めていないが、如実に伝わる、その心許なさ。今にも潰されそうなくらいに恐慌し、色を失った唇が寒々しい。
置き去りには、できそうにもなかった。
古泉は諦めにふっと息を吐き、腕を引かれるまま、長門と同じくフローリングに身を屈める。向き合って、精神的な衝撃から立ち直れぬまま震えの止まない幼い瞳を、古泉は安心させるようにふわりと微笑んで見せた。
額を突き合わせて、体温や人の接触、鼓動のリズムを確かめさせて、生の実感を受け渡せるようにと、長門の手を握る。

「分かりました、何処にも行きませんよ。僕はここにいますから。大丈夫。……大丈夫です」
そっと長門の細い上体を抱き寄せて、古泉は少女の背をあやすように、唄うように、とんとんと叩く。騒ぎを聞きつけた生徒達が集まり始めても、ざわめきを増してゆく観衆も素知らぬようにして。そんな最中に、また思索を掠めていく疑惑もあったけれど。

(――彼女が此処にいてほしいと願っているのは、本当に、僕か?) 

言い知れぬ不安もすべて、見ないようにした。首を横に振って、振り払う。
どうでもいい。彼女を癒せればそれでいい。今は、まだ。
震えが収まりを見せてくれることを願って、長門を抱き締めるその腕に古泉は力を篭めた。 





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「物騒な上に奇妙な話ね。こんな身近なところで、本当に怖いわ」
憂鬱な表情を見せ、長門の級友だという朝倉涼子は、眉を顰めてそうコメントを残した。セミロングの髪が風に靡いて、微かな花の香が薫る。
昨晩、教師に付き添われて帰宅した長門のことが気掛かりで、長門の所属クラスを朝一番に訪ねた古泉を目聡く見つけたのが朝倉だった。
中庭に連れ出ってから、朝倉は掻い摘んで長門が襲われたことに関してのクラスの反応を切々と語った。純粋に友人のことを案じた、物憂げな瞳を誤魔化すように微笑みを付加して。
「残念だけど、長門さんなら今日はお休みよ。昨日が昨日だから、仕方ないわよね。あの子、とても繊細だもの。いきなり殺されかかるなんて、彼女じゃなくたって一生のトラウマものの体験よ」
「ええ、僕もそれを心配しています。犯人が捕まれば、多少は気も楽になるのでしょうが……。警察の方のお話では、現時点で絞り込むのは難しそうな口ぶりでした」
「手がかりが、犯人の残した紐一本なんですってね」

長門を手に掛けようとした「何者か」が、夢幻ではなかったことを示す唯一の証明。現場に落ちていた犯人の数少ない遺品だ。
白い何の変哲もなさそうな紐は、着物の着付けに使用するという専用の胸紐だった。胸紐を何の用途もなく日頃から持ち歩く者はないだろうからつまり、これは発作的な行動結果ではなく、計画性のある行為であった、ということになる。 

そこまで思い耽って、古泉は暗澹とした気分にかられた。
もし長門有希個人を標的とする者の犯行とすれば、闖入者の存在によって達成できなかった殺人を、今度こそ、と機会を改めてくる可能性は低くない。彼女はまだ命を狙われ続けることになる。
今にも割れてしまいそうな、硝子細工のような少女を、追い詰めたくはないのに。昨夜のことを回想すれば、古泉は危惧を抱かずにはいられなかった。

あの後、事情を受けた教師が通報をし、二人は警察から簡単な聴取を受けたのだが、犯人捜しをするには絶対的に情報が不足していた。古泉が目撃した『犯人』は黒い布で全身を覆っていたため性別も断定ができないばかりか、外部から校舎内に侵入してきた変質者の類である可能性も否定できず、北高生なのかすら曖昧だ。
長門も、襲撃者の顔を直接は見ていなかった。帰り際に、突然後ろから羽交い絞めにされて悲鳴を上げ、それから古泉の呼び声に意識を取り戻すまでの記憶は少女から欠落していた。保護されてからも俯きがちに、恐怖から脱け出せないままの長門が、古泉には不憫でならなかった。

さらに、奇妙なことがひとつ。
殺人未遂犯は古泉とは正反対の方角へ走り去った。――そのルートを辿ると、必ず一年教室を横切らなければならなくなる。だが当時、生徒の密集していたその範囲を逃げ延びたのだろう人物を、誰一人として目撃していない。
つまるところ、古泉の見た「黒いフードの人物」は、掻き消えてしまったことになる。
くゆらせた煙草の煙が、自然と薄く透明に延ばされて、その白さを空気に紛れさせ喪失させるように、……跡形もなく。




奇怪なことばかりだ。その上、古泉自身が付き纏って離れない何某かの違和感に悩まされている。正しく、分からないことだらけだった。
古泉の深層の思いを知ってか知らずか、朝倉は古泉の言わんとするところを先読みしたように、深く肯いた。
「うん、そうね、大体わかったわ。同じマンションに住んでいるよしみもあるし、定期的に長門さんの様子を見るようにする。まあ、頼まれなくてもそうするつもりだったけど。私だって彼女とは、短い付き合いでもないしね」
「それは……助かります。長門さんも安心でしょう」 

朝倉は長門の所属するクラスで委員長を務め、気配りもできるという、他クラスにまで名の及んでいるような才女だ。朝倉が長門を多少なりとも気に掛けてくれれば、長門も少しは心休まるのではないかという古泉の配慮を交えた提言に、朝倉は真摯な眼差しをもって賛同した。
髪を掻き上げて、それから試すように、朝倉は古泉を見上げる。
「それにしても随分長門さんに肩入れしてるのね、古泉君。……それって、長門さんが好きだから?」
回答を一時、迷った古泉は、朝倉が冗談半分に訊ねたわけではないことを見て取った。逡巡の後に、そうですね、と笑う。
「一方通行、ですけれどね」
「やっぱり、そうなの。予想はしてたけど、そっかあ」

ふと、古泉は思う。長門が別の誰かを慕っていると、極当たり前にそれを知っているような気がしたのは、何故だろうかと。
朝倉は、何処か、遠望に悲しいものを見出したように微笑んだ。声そのものの調子は明るいだけに、そのアンバランスさが眼を惹いた。頼り甲斐のある、いつも背筋のぴんと伸びた彼女の、何かを耐えるような表情の作り方が、古泉には儚げに映った。

「長門さんを泣かせたら承知しないから。……『今度は』、護ってあげてよね」

朝倉涼子の詞の真意を古泉が知るのは、まだ、少し先の話。 








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お妃様は、ついに、白雪姫を殺してしまおうと思い立ちました。
顔を隠し、白雪姫の興味を引くだろうものを携えて
小人の住まいを訪ねます。

「さあさ、扉を開けておくれ。お嬢さんや、こんなものはいかがかね」

無知な白雪姫は、無防備にお妃様を迎え入れ。
するりするりと取り出されたそれに、眼をかがやかせました。

「どうだい、素敵な胸紐だろう?
さあさあ、一度、身に着けてごらんなさい」

白雪姫は胸郭をきつく結ばれ、其の場に倒れ附しました。
お妃様の望みどおり、白雪姫は息絶えて―― 




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