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  「ねえ、何そのネクタイ?」
 たった今目の前に腰を下ろした背中に向けてそう訊ねると、キョンは、ん? と曖昧な返事をしながら、肩越しに私を振り返った。それと同時に、周囲の生徒達のうち何人かが何か奇妙で、不思議な音でも聞いたような表情を私に向けてきた。
 「なんか変よ、それ、ちゃんと結んでるの?」
 私が追い討ちをかけるように指摘すると、キョンはたった今目覚めたばかりのような表情で、自分の制服の喉下に手を掛け、その感触を確かめるように指を這わせた。
 開放された第一・第二ボタンの下で作られたその結び目は、先ほどキョンが登校してきた時に一瞬目にした通り、普段の結び方とは違う、まるで普段は裏側に回すべき面を表面に晒しているかのような、とてもおかしな形に結われていた。
 「朝、急いでたわけ?」
 「そういうわけじゃないんだがな」
 キョンは少し考えるような素振りを見せた後で、人差し指で頬をかきながらそう呟いた。まるで、あえてその結び方をしてみているかのような口ぶりだ。

 私は試しに顎を引き、自分のネクタイの結び目と見比べてみた。やはり、キョンの結び目は明らかに正しくない。
 「それ、間違えたんじゃないの?」
 「今日はこういう気分なんだ」
 「何それ?」
 私が更に何かをたずねようとした所で、教卓側のドアが開き、焼けた声で挨拶を口にしながら岡部が入ってきた。キョンはまるで私が目の前から消えてしまったかのように私から視線を外して、教卓の方向へと向き直り、それきりこの話は終わってしまった。キョンはそのまま一日中、喉の下に奇妙な結び目をぶら下げたままでいた。

 

     ◆


 その次の日には、キョンは学校指定の物とは違う、群青の地に薄いストライプ柄の入ったビジネスマンのようなネクタイを結んで登校してきた。私が流石に驚きながら指摘すると、キョンはやはりとぼけた表情で、今日はこういう気分なんだ。と、はじめの日と一字一句違わない言葉で、私の戸惑いを一蹴した。そしてその日もやはり、一日中その奇妙な装いのまま過ごしていた。
 キョンの奇行はそれだけでは終わらず、その次の日はネクタイそのものを結ばず、その代わりに、コバルトブルーの開襟シャツを着込んだ上からブレザーを羽織った姿で登場した。日系イタリア人のような姿を見て言葉を失ってしまった私に、キョンはまるで駅前の車止めを見るかのような、ぼんやりとした無意味な視線を向けていた。
 不思議なことに、どれだけ不思議な格好で登校して来ても、私以外の誰かがキョンの服装について指摘することは無かった。少なくとも私の目の届く範囲では、誰一人としてキョンに注意をしたり、面白がって話を掛けてくる人物さえも居なかった。私にはそれがとても奇妙だった。
 SOS団の活動においても、キョンの奇妙な仮装は、なんら異常の無い日常の一片として受け入れられていた。一度だけ、キョンとボードゲームで対戦している古泉君に向かって
「ねえ、キョンの服装、どう思う?」と、訊ねてみたことがあった。―(その日は確か、上履きの変わりに、随分昔になら流行っていたであろう底の高いブーツを履き、ブレザーの下にうっすらとストライプ柄の入ったビジネスシャツを着込んでいた)――すると、古泉君は一瞬、まるで何か大事な秘密を暴かれたように動きを止めた。
 そして、その後で
 「とても似合ってると思いますよ」
 と、いつもどおりの笑顔と、すこし強張った語調で言った。その笑顔が私には、何か大切な秘密に近づかれたような、不思議な焦燥を纏っているように見え、それ以上追求する事は
やめてしまった。

 

     ◆


 不思議は起こり続けている。
 キョンの服装の不思議は、学園生活においての一週間の初め、月曜日と火曜日の
ネクタイから始まり、その次の二日間にはブレザーの下のシャツに及んだ。そして最後の金曜日には、シャツとネクタイのほかに、上履きや、ズボンや、その他の何か一つにトビキリのドッキリを仕込んで登校してきた。上履きがブーツだったり、ズボンが何処からどう見ても安くはないコーデュロイのコットンパンツだったり、インディアンズのベースボールキャップを被ってきてみたり……

 そんなサプライズが毎週毎週繰り返された。飽きの来ないファッションショーを演じ続けるキョンを、誰かが不思議に思うことはない。それを不思議と思っているのは私たった一人のようだった。やがていつしか、私もその不思議なローテーションの存在を不思議に思うことはなくなってしまった。
 仮装を始めてから、キョンは頻繁に私と二人で下校をするようになった。私が先に部室を出ても、キョンが先に部室を出ても、帰り道のどこかしらで、いつのまにかキョンは
私の隣に立っているのだ。私はそれについても、最初は不思議に思っていたけれど、いつからか当たり前の、毎日の決まりごととして認識するようになった。キョンと二人の帰り道は決して退屈では無かったし、それを不快に思うことは無かった。私はもう随分と、何かの理由や経緯を誰かに訊ねるという事をしていない。

 或いは、そもそも、真実という物への興味がなくなってしまったのだろうか?

 この私が?
 それは無い。と思う。流石に。

 

     ◆

 

 キョンについて以外にも不思議はあった。

 こちらはどちらかと言うと不快な不思議だ。
 まず、このところ、誰かが私に奇妙な表情や視線を向けてくることが多くなった。
私とキョンが会話をしていると、誰かしらが肩越しにこちらを振り返り、何か場違いな
ものを見てしまったかのような表情を浮かべる。時には、まるで哀れむような目を向けて来るやつもいる。というか、教室で向けられてくる視線は、大体そんなようなものになってしまった。初めは全部、キョンの仮装に向けられているものと思っていたけれど、どうもそれは私自身に向けられているようなのだ。
 元々私は、そんなような視線ばかりを浴びながら生きていた筈だ。しかし、今になって
何故だかわから無いけれど、そういったある種の疎外感のようなものをとても顕著に感じる。
言い方を変えてしまうと、そういうものをとても新鮮に感じるようになった。
 これは、ちょっとした不思議だと思う。


 母親と父親もまた、私に対して、何かおかしな物を前にしているかのような態度を
取った。正直、一番私にとってショックなのはこれだった。上辺では今までどおり、何の
問題も無い家族のやり取りを行っている。けれどふとした時に、クラスメイト達と同じ、哀れみとしか思えない表情で私を見てくるのだ。巧に隠しているつもりかもしれないけれど、私にはそれがはっきりと分かっていた。
 終いには、母親は私を、精神病を患った人間が連れて行かれるべき場所に連れて行った。上辺だけの清潔を貼り付けた診察室で、中年の女の医者が、まるで私を試すような質問をしてきた。何がなんだか分からないから、私はありのままにそう言った。
 「どうして私がこんなところに連れてこられたの?」
 「私になにかおかしいところがあるって言うの?」
 私は確かに、一般的に見て、至極まともであるとは言えないだろうし、至極まともに
なりたいとも思わない。けれど、少なくとも此処最近で、私は自分の行いのまともでなさに加速をかけた覚えは無い。むしろ近頃はイベントも希薄で、フィジカルなサプライズ
に飢えていたところだったのだ。
 結局その時は、何の生産性も感じられない押し問答を小一時間ほど繰り広げただけで何の成果も無く――おそらく、そうだったのだろう――帰ってきた。母は一体、どんな
成果を目指して、私をあの場所に連れて行ったというのだろうか?

 病院に連れていかれたのは、とりあえず今のところ、その一度きりだ。

 

     ◆

 

 「まともじゃないといえば、最近じゃあたしよりキョンよね」
 病院に連れて行かれた日から数週間が経って、私はふとした会話の中で、その病院の事を話題に出した。そして、あらかた経緯を喋ってしまった後で、何と言う気はなしに
その言葉を呟いた。
 まるでスイッチが切れてしまったかのように、私の向かいに座っていた古泉君の顔か
ら笑顔が消え去る。
 「え……何、どうしたの?」
 私はそう言った後で、キョンが今この場所にいるというのに、そのキョンをまともでないなどと口にしてしまったと言うことに気付き、あわてて周囲を見回した。しかし、先ほどまで古泉君とボードゲームで対戦していたはずのキョンは、いつのまにか部室のなかから姿を消してしまっていた。そういうことが、近頃時々あるのだ。
 「まともじゃないって、ほら、服装とかさ」
 その場に居ないキョンに向けてのフォローとしてなのか、私はそう付け足した。すると
古泉君は、いつになく真剣な――けれどどこか寂しげな表情で、「そうですね」と一言だけ口にした。

 え、どうしたの? 私は今、そんなにまずいことを言った?
 みくるちゃんが、黙り込んでしまった私と古泉君の前にお茶を置いてくれる。その
みくるちゃんの表情にもまた、深いところを突き刺されたような憂いの色が、古泉君よりも色濃く、はっきりと浮かんでいる。
 キョンがまともでないと、私が言ったから?
 「……ねえ、どうしたの? キョン、本当にどこかおかしいの?」
 「いえ」
 「嘘でしょ? だってその顔」
 古泉君はいつもの笑顔を取り繕って、私の疑問を否定しようとした。しかし、その笑顔は明らかにいつもとは違う。このところ引きつっている事の多い古泉君の表情だけど、それでも今ほどに違和感を感じたのは初めてだ。
 「ねえ、教えて、キョンはどうしたっていうの?」
 「キョン君は……」
 古泉君はそこで口篭り、迷う。彼がキョンの事を名前で呼んだのを聴くのは初めてかもしれない。
 「……すみません、僕には」
 「何よ、それ! ダメよ、ちゃんと言いなさい! 団長命令よ、早く……」
 「キョン君!」
 この期に及んで口を噤もうとする古泉君に食って掛かろうとした私を、甲高く悲痛な声が呼び止める。振り返ると、今にも泣き出しそうな表情をうかべたみくるちゃんが、魚と羊が混ざり合ったかのような瞳で私を見ていた。
 「……みくるちゃん?」
 「あ、あの……キョン君は……その」
 「はあ」
 自分から話し出しておいてどもるみくるちゃんを差し置いて、今度は古泉君の喉から、心底の疲れの色を帯びた溜息が飛び出した。
 「……一体誰が望んだことなのでしょうね」
 「こ、古泉君」
 古泉君は、先ほどのぎこちない笑みとは、ある意味では正反対に位置する、何かを諦めてしまったかのような微笑を口元に浮かべながら、悲しそうに眉を顰め、誰にともなくそう呟いた。みくるちゃんが何かに焦りながら、そんな古泉君を制するように口を開く。けれど、そこから先の言葉は誰も紡がない。
 「……何よ、なんなのよ」
 解せない。まるで誰も彼もが、私に何か大事な事を気付かせまいと、私をはぐらかしているようだ。

 実際にそうなのかもしれない。古泉君も、みくるちゃんも、さっきからずっと黙ったまま、ページを進めていない有希も、お母さんも、親父も、誰も彼もが私の知らない何かを知っているのだ。
 私とありのままを分け合ってくれるのは、キョンだけだ。
 「これが、涼宮さんの望んでいたことだったのですか?」
 古泉君が呟くけれど、私にはその言葉の意味が分からない。

 私の名前を呼んでいるけれど、その目は私を見ていない。私ではない誰かに向かって、私の名前を呼びかけている。
 その瞳は、あの灰色の世界の空と似た色をしている。
 キョンはまだ帰ってこない。

 


 

  漣・閉鎖空間・僕・彼

 

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