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お妃様は、美しい鏡に己の顔を映し、艶然と唱えました。
「鏡よ鏡、わたくしの問いに答えておくれ」
はい、お妃様、と鏡は愛する妃に恭しく答えました。



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温く哀しい夢を、見ていたような気がした。

古泉はうつ伏せていた身をそっと起こす。何時の間に眠っていたのだろう、と懲り固まった肩を微かに鳴らす。机に突っ伏して眠を取るなんて、随分、久し振りの行為であるような気がしたのだ。名残惜しさも相まって、霞がかった意識をどうにか覚醒させようと瞼を掌で軽くさする。
睡魔から解放されるのを待っているうちに、日は大きな傾きを見せていた。窓から降り注ぐ落陽の光は、オレンジ色に夜の闇を混ぜたような陰のある色彩を帯びている。
何という事もない、見慣れた文芸部室だ。
転寝をしていた古泉は、間近に開きっぱなしに伏せられていたハードカバーを、寝起きで回らない頭をどうにか動かそうと試みつつ見遣る。新人作家のものだが重厚な語り口と斬新な構成で話題を呼んだSF作品だ。そう、先程まで唯一同じ部員である読書家の少女に薦められたこれを、読んでいた……。眠気に陥落したのは、いつだろうか。
思い出せない。 

「おや」
背にさりげなく掛けられていた薄黄色の毛布に気付いて、古泉は無言で与えられたのだろう気遣いに微笑を零した。
撫でると、羽毛の感触がさわさわと肌を滑る。
しかし礼を述べようと彼女の窓際の定位置を見ても、いつも辞典クラスの分厚い書物を読み耽っている少女の姿は見えない。少女の薄い鞄は本棚の傍らに立てかけてあるようだから、古泉を置いて先に帰宅した訳でもなさそうだ。手洗いにでも出ているのかな、とドアを振り返った古泉は、大きな音を立てることを忍ぶように努めて室内に抜き足で入るその少女の後姿を捉えた。
まだ二年生だが、人数不足のため仮に『部長』の役職を任されている、寡黙な眼鏡の少女。ドアの軋みにさえ気を遣って、ゆっくりとノブを両手で引く。恐らくは、眠っていた古泉を起こさないようにという配慮。余りに慎重で、余りにいじらしくて――古泉は抑え切れない感情の赴くまま、笑み崩れた。

「長門さん」
古泉の呼びかけを聞き、慌てたようにぱっと古泉へと視線を向けた少女は「あ……」と僅かに表情を動かす。フレームの奥で、黒瞳が水銀を溶かし込んだようにゆらりと揺れた。
「起こした?」
「いいえ、今丁度起きたところなんですよ。そう、……毛布をありがとうございます。すみません、部の活動中に居眠りをしてしまって」
部の活動といっても、最近は専らお互い読書に励むくらいのことしかしてはいなかったのだが。不意打ちと云うわけでもないだろうに、少女の頬が朱に染まった、と、見えた。安堵の吐息を漏らした彼女、長門有希は、微かに顔を赤らめながらも、摘み取れてしまいそうなほどか細い声音で古泉を案じるようにした。
「今日は、疲れてる?」
「近頃考査が多いですから、自覚のない内に少々疲れは溜まっていたかもしれません。大丈夫です、眠ったら気分は幾らかすっきりしましたから」
「……そう」
部室で古泉が寝顔を晒すような失態を演じたのは、初めてであったこともあるだろう。古泉の体調不良を純粋に憂う長門の言葉に、古泉は大事ではありませんと安心させる意を込め、朗らかに微笑んだ。 

長門は返答に、極小の空気穴から声を絞り出すような微かさで、ぎこちなく「無理はしないで」と告げた。対等な友人に抱く以上の好意を長門に向けて握り締めている古泉は、それを差し出せる瞬間を捜しながら、今この時を何より幸せだと感じて笑うのだ。

(本当にここでしあわせだと笑うのは、自分の役割か?)

そのとき胸を掠めた、何かどうしようもない違和感のようなものを、古泉は意識的に押し潰した。




読んでいた書籍や最近の流行小説に関してを話題に、それからも幾らか歓談を交えた古泉と長門だったが、ふと時計を確認した長門がぽつりと呟いたことでその時間も終了を告げる。
「今日は、もう下校時間」
「そういえばそうですね。……帰り際、途中までご一緒してもよろしいですか」
「いい」
少し、耳が赤い。古泉は長門の所作一つに気付くたび、笑みを零した。
「それでは、帰り支度をしましょう」
読みかけの単行本の方は皮製の栞を挟み、鞄に纏めて仕舞い込む。入部当初から少しずつ人数を減らし、現行での部員数がたった二人きりとなった文芸部は、それでも古泉には酷く満ち足りた居場所だ。
他の学生がまだ多数在籍していた頃の騒々しさも懐かしくはあるが、今の打ち寄せる波を見護るような安穏とした空気、ひたすら先の物語を読み進める事に意を見出す無為の静けさも、長門の側で彼女の読書をそれと気取られぬよう観察することも。総て、古泉の好みとするところであったから。こんな平和な日常が恙無く流れてゆけばいいと、そんな風に古泉は思っている。長門がどう考えているかは、分からないにしろ――長門もそう思ってくれているのではないかと期待する想いもまた、確かに古泉の内に眠っていた。
それも甘酸っぱい、「思春期だから」で済ませられる夢で終わる日が来るのだろうか。 

後片付けを済ませ廊下に並んだ二人は、向かい合ってそれからを打ち合わせた。古泉は「文芸部室」というネームシールがついたキーホルダー付の鍵を摘んで、長門に示す。
「僕は職員室に鍵を返してきますから、先に玄関の方へ行っていてください。すぐに追い着きます」
「わかった」
こくり、と頷いた長門がゆったりとした歩調で階段を下りて行くのを見送り、古泉は用事は手早く終わらせようと踵を返す。職員室まではそう遠くない。
部室をそのまま横切り、通り過ぎようとして――何か足りないような気が、した。
思わず止めてしまった脚も気にならず、碇と共に沈めても海面へ浮上してくる、差し迫る気持ちの悪さに古泉は口元を押さえた。まただ。先程押し殺したのに、また。
言い知れぬ不安が古泉の胸中を席巻した。具体的に表現のしきれない、何か。放課後、文芸部が散会になった折には、もっと掛け声や語らいがあったような漠然としたイメージ。思い出そうとしても、白い靄が侵食し記憶の遡行を阻んでしまう。心の片隅に引っ掛かり、上手く流されてくれないそれを前に、古泉は暫しの間立ち竦んだ。

何かが変わったのだ。そして、何かが足りない。けれどもそれを古泉は思い出せない。
何か忘れたことがあったろうか。

――何か、とてもとても、大切なことを。

階下から長門の悲鳴が聞こえたのは、それから、間もなくのことだった。 








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お妃様は、美しい鏡に己の顔を映し、艶然と唱えました。
「鏡よ鏡、わたくしの問いに答えておくれ」
はい、お妃様、と鏡は愛する妃に恭しく答えました。 



「それでは鏡よ、お答えなさい。此の世で××××××はどちら?」
お妃様の問い掛けに、鏡は押し黙り、やがてやがて、哀しげに言いました。
「お妃様、それは、わたしにも分かりません」

分からないのです、お妃様。




(→3) 

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