毒の林檎に齧りついて、白雪姫は死んでしまいました。
火で炙られた鉄の靴を履いて、お妃様は死んでしまいました。

白雪姫を、殺したのはだあれ。
お妃様を、殺したのは、だあれ?




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湿り風が、一足早く秋特有の空気を帯び始めていた。文化祭の準備にかかりきりの慌しく廊下を駆ける生徒達も、制服は長袖に衣替えを終えている。
古泉一樹は、廊下を渡る最中に窓を見越した。瞼すら刺し貫くような夏場の光が、季節の移り変わりに伴い、陰り始めていることを思い知る。斜陽が濃く、彩度を落としながらも伸びやかに秋空を表していた。些か、フライング気味の季節交代だ。もしかしたら今年度の冬は、例年以上の強烈な寒波に見舞われる、といった想定外のこともあるのかもしれない。
雪は、降るだろうか。
単語と名に結び付けてふと思い浮かんだ横顔は、静けさの内に書物に黙々と視線を落とす、無機質な少女の姿をしていた。そういえばタイムリーな題材だとも思って、古泉は先程借り受けてきた古びた本の背表紙をなぞる。鞄とは別にして小脇に携えていたそれ。図書室の奥まった棚にしまいこまれ、埃を被って眠っていた洋書。原題は、『Snow White』と、読めた。

「――それは」
かろうじて耳に届いた、微かな声。
「長門さん」
古泉が足を止める。声を掛けられる今の今まで気付かなかった。ほっそりとした肢体を大き目の制服に包み、廊下の角から歩み出たのはSOS団預かりの文芸部長、あわせて宇宙人端末という属性持ちの少女、長門有希だ。
こんにちは、と微笑み辞儀をする古泉に対し、長門の薄い睫毛がぱちりと開く。彼女流の挨拶、と解した古泉は微笑みを崩さず、「部室に行かれる途中ですか」と返した。こくり。頷きにもう一声。「ご一緒しても?」やはりひとたび、首肯。
古泉が満ちたりた笑みを履き、同行の許可を得られたことを内心喜びつつ、けれどその浮かれた心境を億尾にも出さぬよう心配りながら並んで歩き始める。長門もそれに従うように歩を再開したが、余程興味を惹かれていたらしい、繰り返し当初の質問を古泉に発した。淡々とした口調での、けれど初期よりは理解しやすさという面で難易度も低くなった、指示代名詞で表現された疑問詞つきの一言。
「それ、は?」

古泉は再び立ち止まり、ああ、と漸く長門の『それ』を把握して笑った。
「……『これ』ですね」
長門の興味が向く存在など、これ以外にある筈もない。古泉は抱えていた薄い本を軽く振って長門に示した。所々色が剥げ、古本らしく、黴の混じったような匂いが鼻につく書物を。
「『Snow White』。グリム童話の英訳版です。この書籍自体は、随分古いもののようですね。長門さんならご存知でしょうが、邦題では『白雪姫』というタイトルで親しまれています」
「知っている」
無論、読書家である長門が「白雪姫」を知らぬ筈がないことは、古泉にも分かる。それでは何を意図した質問かを思考した古泉は、それが真に彼女の知りたい正しい情報かどうかはともかくとして、自分がそれを改めて読む事になった詳細を口にした。視線をさり気なく長門の白い頬に落としながら。
「文化祭のクラス演劇でね。昨年、僕のクラスはシェークスピアのストッパード版をやったのですが」
「それも知っている。見に行ったから」 
「ああ、そうでしたね。来て下さるとは思いもよりませんでしたから、その節は大変驚きました。不出来な出演をお見せしてしまったことは、今も悔いの残る処ですが。――如何でしたか?」
「ユニーク」
「……お褒めの詞として受け取っておきます。その方が心身にダメージは少なそうだ。……まあそれはともかくとして、何の因果か今年も僕の所属クラスは劇をやることになってしまいまして。それで選ばれた素材が白雪姫、それも改作されて普及した優しい内容のものでなく、初版に近い形のものをという話になったのですよ」
グリム童話やアンデルセン童話、子供たちにも馴染み深い名作童話が、其の実恐ろしい暗喩や露骨な性的描写、グロテスクな表現を含み持つ作品であったことはよく知られた話だ。『白雪姫』もまた、例に漏れない。そんなものを元にしてどう脚本に起こすのかは劇作担当の腕次第というところだが、その担当者は英語成績の悪くない古泉に、原本の翻訳を押し付けもとい「任せて」きたのだった。初めはやんわり断りを入れた古泉だったのだが、演出担当の女子と白雪姫役が決まっている女子に揃って嘆願され、結局押し切られる形になってしまった。
日頃、SOS団の活動や神人倒しのアルバイトで、イベント事において古泉はクラスに貢献しているとは言い難い。
断りきれなかったのは、そんな事情もある。

「初版に出来る限り忠実な劇をしたいけれども英語のままでは読めないからと、僕にお鉢が回ってきたのですよ。進学クラスが聞いて呆れます。交換条件で本番には、雑用に回って舞台には立たなくていいという保証を頂きましたが、いやはや」
古泉は嘆息しつつ、器用に笑うという芸当を見せ、「困りました」と長門に肩を竦めて見せた。
「…………そう」
何処か常とは異なる響きが奏でられ、す、と長門の面が俯き加減に、意図的に調節される。表情を見せまいとするかのような、何事か言いあぐねるような仕草。最近の彼女に、よく見られる変化だ。まるでそのまま、人であるかのような振る舞い。
古泉の演劇エピソードに、それともこの物語の全容に、もしくは古泉自身が雪、というフレーズに思い起こしたものがあったように、長門有希にも思うところがあったものだろうか。




此の所の長門有希の様子がどうにもおかしいらしいというのは、いまやSOS団員全員が知るところとなっていた。
口数が少ないのはいつものことだが、明らかに何か重心をぐらつかせているような脆さが透けて見える。長門が不安定さを露呈する事態などまったく稀なことで、それは何か事件が起きた際にそれぞれが危機に瀕する可能性を示唆するのみならず、古泉にとって、その心情的に、針を一本ずつ胃に落とし込むような痛みを連想させるものだった。
穴が空くのをじっと待つ、潰れて捩れて死んでしまうまで。長門が『彼』に好意を寄せている以上――ごくごく一方的で、見返る確立など皆無と言っていい恋情を、古泉は、笑顔の下に持て余していた。

始まりは思い出せない。きっかけというきっかけもない、ふとした瞬間に自覚したのだ。
長門が『彼』を見遣るときにのみ垣間見せる、氷に一滴の温水を落とされた雪女のような、焦がれるような眼差しを、古泉は忘れられない。そんな少女に憐憫を感じ、愛しく想うからこそ、ハルヒと『彼』が結ばれることを願っているのも自分自身であるからこそ忘れられない。折につけ、その遠くを見つめてやまない物寂しげな背を支えたくも思うのだけれど、そうそう上手くはいかないものらしい。

長門の感情の発露は、去年の夏以降急速に現出し始めた。冬以降には、更に勢いを増したように古泉には感じられた。
『彼』を見守り、『彼』の隣にハルヒが笑う姿を観察する少女は、古泉には何より人間に見えた。


―――予兆は、あったのかもしれぬと、古泉は後悔する。省みるのみなら猿でもできることだ。察せられなかったことを、己の盲目を古泉は後に、悔やんだ。
文芸部室前に辿り着き、ドアノブに手をかける。扉向こうから、世界が替わってしまうことを、如何に古泉であろうとも推察できはしなかった。 






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さあて、さあて、謎掛けです。

毒の林檎に齧りついて、白雪姫は死んでしまいました。
火で炙られた鉄の靴を履いて、お妃様は死んでしまいました。

白雪姫を、殺したのはだあれ。
お妃様を、殺したのは、だあれ? 






(→2)

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最終更新:2020年03月11日 19:05