「はあ……」
 ――バタンッ――

 帰宅するや否や、抱擁するかのごとくベッドに吸い込まれた。理由は簡単だ。めっちゃ疲れたからである。 あの後、橘京子も何故か市内探索に参加する事になった。理由はハルヒ曰く、『変なものが寄せられつけるかもしれないしね。ほらよく言うじゃない、類は友を呼ぶって』って事らしい。なるほど納得。その意見に橘は『ちょっとひどいじゃないですか!あたしはゴキブリほいほいですか!』等と叫んでいたが、突っ込むところが間違っていると思うのは俺だけではないと思う。それとも自分が変なキャラだって言うのを自覚しているのだろうか?
 まあ、不思議探索に橘を参加させるだけならまだいい。いや、結果的には良くなかったんだが、それ以上何事も無く慎ましく事を運んでくれたらそれでいいのだ。だが橘の存在そのものが大問題だったんだろうな、あれは……
 スマン、つい愚痴ってしまった。本筋に話を戻そう。俺が疲れた真の理由はこれからだったのだ。
 午後の市内探索は三人三人に分かれて行うことになったのだが、その組み合わせが俺とハルヒと、そして何と橘だったのだ。 この組み合わせに俺とハルヒは心底嫌な顔をした。当然だろう。今までこいつに散々苦汁を舐めさせられたからな。しかし、それを見た橘が『そんな顔していじめないでください!あたし泣きますよ!』と騒ぎ始めてしまったため、いやいやながらこの組で探索を行うハメになったのだ。
 さあ、もうお分かりであろう。空気読めない橘の行動がハルヒの逆鱗やら何やらいろんな部分に触れてしまい、体中をビキビキ言わせているのをひたすら俺が宥めていたのだ。ハルヒを差し置いてリーダー風を吹かせたり、デパ地下に突入して迷子になった挙句館内放送で俺たちを呼び出したり、突然の強風に煽られ俺に抱き付いてきたり……やる事なすことハルヒを怒らせることばっかりだったのだ。
 極め付けは皆でソフトクリームを買った時の出来事だ。俺がソフトクリームを舐めていると、クリームが唇についたらしいのだが、事もあろうに橘は自分の指ですくって、そのクリームを舐めたのだった。後ろからブチブチと音を立てているが、恐らくハルヒの血管が切れまくっているのだろう(怖くて振り替えることが出来ず憶測で言っているのだが、大きく間違ってはないと思う)。
 さすがにやばいと思った俺は、橘に対してボソッと「KY」と言ったのだが、橘は、
KYって……ああ!、『京子、よくやった!』って意味なのですね!いやぁ。キョンくんに言われると照れちゃいますぅ。……ああ、まだここ、ついてますから取っちゃいま……」
 等と勘違いも甚だしい、正しく空気読めない行動を取ろうとしていたのだ。因みに途中で言葉が途切れているのは、遂に堪忍袋の緒が切れたハルヒが橘の目の前に立って物凄い形相で睨み付けたからだ。俺は今にでも橘を絞め殺さんとするハルヒを止めに入ったのだが、その行動が橘を庇っているとハルヒが受け止めてしまったらしく、更に暴走するハルヒを更に力強く制止し、それをハルヒがまた勘違いし……
 ……ってな具合で、俺は自身の持つ力の276%程を消費して何とか事を収めたのだ。まあつまり、俺が生と死の境目を反復横飛びしていたと理解していただけたらこれ幸いである。
 市内探索終了後、フィールソーバッド全開のハルヒが辺りに毒をまき散らしながら駅へと向かい、そして橘はニコニコ顔の古泉に連れられてどこかに消えたのだが……まあご冥福を祈る事にしよう。

 今日だけでこんな調子なのに、当日は佐々木までいるんだ。しかも橘にどちらかというと非協力的な藤原と九曜までいる。おまけにこいつらは俺と折り合いがつかない。もう本当に勘弁して欲しい。
 ハルヒ。今回だけは許す。あの終わらない夏休みを生かして、2週間後の合宿の日が来ないようにしてくれ――

 




「……きて、起きてください!」
 …………。
「キョンくん、朝ですよー!起きてください!」
 ……誰だ?俺のモノローグを中途半端に止めやがって。
「早起きは三文の得なのです!だから起きましょう!」
 しかも橘みたいな口調で喋りやがる。勘弁してくれ。
「早く起きないと遅刻しちゃいます!」
 ……もしかして妹が物真似をしているのか?いや、妹は橘の存在を知らないはずだ。では一体誰が橘の真似を……?
「早く……早く……起きてよぅっ!ふぇ……ふぇぇぇん!!」
「まさか本物の橘か!」
 意識が瞬時に覚醒した。俺は反射的に起き上がり――
「……あ、やっと起きてくださいましたぁ!よかったぁ!」

 ――そして俺が起き抜けに見たのは、やたら大きい風呂敷包みを抱え、ウィンタースポーツウェアを着込み、そして何故かサンタクロースの帽子を被った橘の姿だった。

「…………」
 もう、何ていうか、沈黙するしかなかった。
 ツッコミたい事は山ほどある。だが敢えてそれはしない事にしよう。時間の無駄だし。それでもしかし一つだけ聞きたい事がある故、前述の意志を早速破って意見申し上げる事をお許しいただきたい。
「……橘。なんでお前は俺の部屋にいる?」
「え?何でって……玄関のインターホンを鳴らしたら、案内されたんで、ここに来たんですよ?」
「誰だ応対したのは?」
「えっとですね、可愛いらしいお嬢ちゃんでした。もしかしてキョンくんの妹さん、かなぁ?」
 妹よ。この際だから行っておこう。知らない人をホイホイ家に上げるんじゃない。こいつが強盗殺犯だったらどうするんだ?
「ご、強盗殺人なんてしませんよ!」
「だが誘拐未遂はやってるだろうが」
「あ、あれは時効が成立してます!」
 1年未満で時効が成立するかボケ。それに家族の許可が無ければ不法侵入だからな。覚悟はいいな、橘。
「そんなにボロカスに言わなくても良いじゃないですか!それに、妹さんに許可取ったから不法侵入じゃありません!」
「初対面の小学生に許可をもらっておっけーというお前の精神的構造が分からん。あの手この手で子どもを拐かしたとも取れるぞ。てかそれ以外考えられない。それじゃ行こうか、警察に」
「ま、待ってください!あたしは妹さんを拐かしてなんていないのです!」
「ほう、じゃあ証拠を見せろ」
「証拠ならあります!キョンくんです!」
 意味がわからん。はっきり説明しろ。
「妹さんが言ってました。『キョンくん』ってあだ名を知っている人なら大丈夫だって。だからすんなり家に入れてくれたのです!」
「…………」
 微妙に説得力のあるその言葉に、俺はうまく反論することが出来ず、沈黙してしまった。 だがこれだけは言っておく。我が妹よ。あだ名を多用するのもやめてもらいたいが、それ以前にその変な脳内ボーダーラインを作るのは止めてくれ。橘みたいなのが増えてしまったらそれこそ取り返しがつかなくなるじゃないか。
 だがこの妹の理論に、妙に納得してしまう自分もいる。確かに俺のあだ名を知ってる奴なら俺に近しい関係だろうしな。仲の善し悪しは別にして。もしかしたら結構いいセンをついたフィルターになってるかも知れない。
 ……すまない、また一人で内部葛藤をしていたようだ。これ以上余計な事は考えないにしよう。

 俺は再び橘に問い掛けた。
「で、お前は俺を迎えに来ってわけか?」
「あ、はい。キョンくんはネボスケさんだって佐々木さんから聞いていましたので、万一の事を考慮してお迎えに上がりました」
 そうか。それは済まなかったな。そういう事であれば警察に届け出るのはやめて置こう。ところで今何時だ?
「えっとですね……いまちょうど247分と53秒です」
 どこが『ちょうど』なんだ。おまけに全部素数だ。って突っ込むのはそこじゃない。
「ちょっと待て!いくらなんでも早過ぎだろ!確か集合時間は六時だろうが!」
「えー、そうですかぁ?キョンくんを起こして、朝ご飯作って一緒に食べて、その後佐々木さんを迎えに行くと大体丁度良い時間だと思うんですが……」
「俺を起こすのはまあいいとしても、『朝ご飯作って一緒にに食べて』と『その後佐々木さんを迎えに行く』というのは激しく間違ってるぞ」
「あ、なるほど!まず佐々木さんを迎えに行って、それからキョンくんの家で三人で朝ご飯食べた方がいいですよね!」
 ……すまん、橘に突っ込んだ俺が馬鹿だった。もう突っ込まない事にする。
「わかったわかった。じゃあ何でそんな時間に妹が起きてたんだ?」
「えっとですね、たぶんあたしが丁度チャイムを鳴らした時、妹さんはトイレに行くために降りて来たんだと思います。あたしの応対をした時もかなり眠そうでしたし、その後トイレに行かれましたしね」
 真夜中にチャイムを鳴らすのはどうかと思うぞ。家の中の人だけでなく、近隣住民にも迷惑だ。いや、鳴らさずに入って来ても困るけどな、それなら携帯を鳴らすとか……
「だって、キョンくんの携帯、繋がらないんですもん!!」
 あ、そう言えば着信拒否にしたままだったな……
 俺はふと思い出した。だがその事を暴露したらまた泣き出すのだろうから、口から出かかった言葉を慌てて飲み込む。
「いや、俺は眠りを妨害されたくないんだ。だからいつも寝る前に電源を切ってるんだ」
「そうですか。今回はしょうがないですけど、これからはキチンと事前に説明してくださいね。対応に困りますんで」
 何故か橘に説教される俺。無性に腹立つ。何で俺が怒られないといかんのだ?
「ふう、キョンくんのせいで無駄に時間使っちゃったな。早くしないと佐々木さんを迎えに行く時間が無くなっちゃうのです。今から朝ご飯作っちゃいます。お台所お借りします!」
 やっぱり何かムカつく言葉を残して橘は立ち上がり、いそいそと俺の部屋を出ていこうとして――

「さあて、簡単に済ませましょ、トーストとコーヒーとハムエッぐぇっ」

 ――自分が背負ってた風呂敷包みが出入り口につっかえ、自ら喉を締めたのだった。

 




 そして、俺は一人集合場所へと向かった。そう、一人。
 橘は朝飯を作った後、時間がないとか何とかで、自分が作った朝飯を食わず佐々木の元に向かったのだ。 俺は荷物を準備し身支度を整え、そして橘が作った朝飯を食べて出発時間まで一人まったりと過ごした。
 ああ、橘が作ってくれた朝飯はかなりうまかったことは付け加えておこう。トーストやハムエッグの絶妙な焼き加減や、サラダのドレッシングが手作りだったのが高ポイントだ。 いつも料理をしているのかと聞いたところ、そうだと言う回答も得た。他にも掃除洗濯ゴミ捨て等は毎日キチンとやってるらしい。ああ見えて家事全般は得意のようだ。橘の普通な一面が見れた、そんなひとときだった。
 あとはもう少し空気が読めたら文句はないのだが……天は二物を与えないらしい。

「キョン、ようやく来たわね。30秒も待っちゃったじゃない」
 ハルヒは銃を構えるかの如く俺を指差した。見慣れた集合場所には、既に全員が集合していたのだった。 やれやれ。分かったよ。奢れば良いんだろ?しかしいつもの面子に加えて更に四人増え、八人になっている。丁度倍だ。お金だってそんなにないんだ。缶ジュース辺りで勘弁してくれ
「くっくっくっ。涼宮さん達だけではなく僕たちもキョンのご相伴に預かる事ができるというのは、グラッドかつソーリーなマインドだ……と言いたいところだが、それは次回以降のお楽しみとして、僕の深層心理に作成した倉庫へと厳重に保管しておこう」
 ハルヒに代わって佐々木が喋り出した。は?どう言う意味だそりゃ?
「簡単なことですよ。未だ集合場所に現れてない方がいらっしゃるのですよ。約一名」
 更に代わって古泉が解説。珍しい。俺より遅い奴がいるなんてな。誰だろう?
 俺は改めて人数を数え直す。まず俺の目の前にいるハルヒと 佐々木。そしてその横に侍る古泉と朝比奈さん。ちょっと離れたベンチで腰掛けている宇宙人端末同士。
 って、九曜は端末なのか本体なのかは知らん。それにあの二人はいつからあんなに仲良くなったんだ?お互いコンタクトできないような間柄だった気がするが……まあどうでもいいか。
 あといないのは……
「そっか、藤原の野郎か!」
「残念だが、彼ならあそこにいるよ。群れるのが嫌いらしくてね」
 佐々木に言われて指差した方を見る。ここからかなり離れた場所にある一本の木に背を預ける男が一人。俺と目線があった瞬間、プイと顔を背けた。
 はっきりとは見えないが、態度からして間違いない。あの憎たらしい藤原である。
 ん?ってことは、あと一人って……
「あ、皆さん、見えましたよ」
 俺が言葉にする前に、カーキ色のダッフルコートに覆われた小柄な上級生が声を上げた。
 その先に見えたのは――


「み、皆さん……遅れて申し訳ありません……」
 ――風呂敷包みの他に複数のキャリーバッグとボストンバッグを抱え、ひいこらと歩いてくる橘だった。


「橘さん、遅刻。おまけにドベよ」
「涼宮さんのルールでは、集合時間に一番遅れた人が罰金を払うシステムになっているみたいなんだ。申し訳ないが、皆にジュースを提供してくれないかな?」
「加えて橘さんは集合時間にも間に合いませんでしたからね。罰金の課金は免れませんよ」
 ハルヒに佐々木に古泉まで。橘を囲んでイジメている。
「そ、そんなぁ……集合時間に遅れたといっても3分だけですし、それにあたし、佐々木さんの荷物全部運んで来たのに、ちょっとヒドくないですか……?」
『問答無用』
 見事に声を揃える三人……いや、実は朝比奈さんも小声で言ったから四人、口裏を合わせたかのようにハモった。
「ううっ……来月のお給料、前借りしなきゃ……」
 目に涙を溜めながら皆に缶ジュースを奢る橘。うーん、何だかかなり可哀相になってきた。自業自得と言えばそうなんだが、朝早くから皆のために準備して荷物運びした結果がこれでは……
「橘」
「はい、キョンくんはブラックが好きでしたよね。買ってきますね……」
「ああ、何ていうか……俺の分はいいや」
「え?何でですか?」
「今日朝飯作ってもらったからな。あの材料、全部お前が手配したんだろ?」
「は、はい。でもソレはソレ、コレはコレなのです。こういうことはキッチリしとかないとダメなのです」
 橘が言いたいことも分かるが、さすがに忍びない。キッチリするのであれば、おれが朝飯の代わりに何かしてあげないといけないだろう。
「分かったよ。お前の買ってくれたジュースは俺が引き取ろう。そして俺はお前にジュースを奢ってやる」
「え……?」
「朝飯旨かったから、特別に高い奴奢ってやるな」
「ほ、本当ですか?ありがとう、キョンくん……ぐすっ……」
「いいから、泣くな」
「はい……」
 こうして俺は、橘に特別に奢ってやったのだ。橘は心底嬉しそうに俺の買ってあげたロイヤルミルクティーを抱えていたのが印象的だった。

「キョン!何してるの!早く行くわよ!」
「新幹線に乗り遅れてると、一人だけローカル線や路線バスを乗り継いで現地まで行くことのなる。徒らに時間を労しても構わないのかい?」
 先立ってホームへと駆けて行ったハルヒと佐々木が戻って来た。どうやらここでボーッと突っ立っていたのは俺たちだけだったらしい。
 ハルヒ達は俺たちの方に近付き、そして訝しげな顔をした。
「……ん、どうしたの橘さん。そのミルクティー?」
「それは一般的な缶ジュースよりも高く、材質もGFOPを使用した高級なものだ。まさか自分で買ったのかい?」
(橘、分かってるな?)
(はい、任せてください!)
 俺は橘にアイコンタクトを送った。無益な殺生は避けたいからな。
 そして橘が口を開いた。
「……あ、あの!これはキョンくんが買ってくれたんです。今日キョンくんの家にお邪魔して朝ご飯を作ってあげたら、キョンくんが美味しいと言ってくれたんです。で、そのお礼だって買ってもらったんです」
 ああああっ!!!この馬鹿橘ぁ!!!
「やっぱりお二人が目をつけることだけあって、キョンくんはとっても……って、あれ?どうしたんですか二人ともそんなに怖い顔して……」
「ふふふっ、あなたはキョンの家に行って何をして来たのかしら?まさか押し掛け女房にでもなったつもりじゃないでしょうね……?」
「くくくっ、よもやそのままキョンを自分の手中に納めて傀儡化しようなんて考えてないだろうね……」
「いえ、あのあのあの……」

「ふふふふふふふふふ」
「くくくくくくくくく」

「ふぇぇぇん、またこのパターンですかぁ……どうしてなのよぅ……」
 どうしてもくそもあるか。少しは学習能力を身に着けろ。
 橘がハルヒと佐々木に凄まれる最中、俺は自分の荷物を取って駅のホームへと向かった。助けたくないとは思わないのだが、ここで助けたら藪蛇、俺にまで被害を被ってしまう。出発する前からこれでは後が思いやられる。橘よ。この合宿で空気を読む術を会得した方がいいぞ。ってかしてください、お願いします。
 




「なあ橘。お前少しは後先考えた行動をしろ。お前が空気を読まないせいで、トラブルというトラブルを引き起こしているんだ。わかったな?」
「ううっ、あたしが空気読まないって意見には賛同しかねる部分もありますが、あたしの行動が引き金になっているのはなんとなくわかりました。少し自重します……」
 いや、自重も大切なのだが、それよりも先に空気を読む術を身に着けてもらいたいな、俺としては……
 集合場所である駅から最寄の新幹線の駅まで移動し、そして新幹線に乗り込んで暫く経った後の会話が以上のものである。俺たちが住む場所から合宿が行われるスキー場までは新幹線を使っても数時間を所用する。それまでは特にする事も無いので思い思いに過ごす事になったのだ。俺はタイミングを見て橘に説教しようと試みたのだが、しかし3列シートの真ん中に拘束されている橘と、それを監視するかのように座っているハルヒと佐々木のせいで俺は橘に忠告すらできずにいた。



 ……っと、色々説明が遅れたな。まず俺たちが向かっている先だが、前述のとおりスキー場だ。今回も去年と同じく冬山への旅行、つまり冬合宿でスキーとなった。ただ今回は鶴屋家のサポートも無く、プライベートライクな場所ではない。いたって庶民的(?)なスキー場だ。橘の予算の都合上、これは仕方の無い事であろう。だが宿泊先はスキー場隣接のペンションで、出入り口の外は直ぐにゲレンデという事で、スキーヤー、ボーダーには大変人気のある場所らしい。そんな場所に予約できた事は素直に誉めてやりたい。

 では続いて新幹線での席割りについて述べる。
 俺たちは総勢9名で、3人席3列が他のお客様に迷惑をかけない、最適な座り方だと思うのだが、空気を読まない藤原(橘と違って読めないのではなく、読まない、である。多分)が独り離れた席に座ったため、残りの8人で席割りをする事になった。相談の結果、3・3・2で席を分けるのが良いということになり、例の如くくじ引きで席を決めることになった。
 イの一番に引くこととなった俺は2人席のくじを引き当てた。続いて長門と九曜と朝比奈さんの順番で引き、なんと見事に同じ席に収まった。さらに続いて引いた古泉は、もう一つの3人席に収まった。
 残るはハルヒと佐々木と橘。そして残る席は3人席の2つと、俺の座る2人席の1つ。

 このシチュエーションにハルヒと佐々木の闘気が桁違いに膨れ上がり、二人の目から火柱が立っていたように見えた。そしてお互い向かい合い、火花をちらつかせながら納得した様子で橘が持つくじの前へと並んだ。
 二人は残ったくじに暗示をかけたり、指先から電波を送り込んだりしている。どうしても引きたいくじがあるようだ。……どのくじを引きたいのかは凡そ見当がついているが、敢えてノーコメントとさせてもらう。ただこの二人の行動ははっきり言って妖しい儀式にしか見えない。他の客もいるんだし(予算が少ないので当然自由席です)、あまり目立つようなことは無しないでもらいたいね。
 ……さて、ここまではそれほど問題は無かったのだが、この直後、例のKYがとんでもないことをしでかした。奴は『あれ?二人とも引かないんなら先引きますね……わあ!キョンくんと同じ席だ!やったぁ!!』という、素晴らしく空気を読めない発言と行動をカマしたのだった。
 俺はこの時、体だけでなく精神にも寒気を感じた。振り返れば、満面の笑みを浮かべるハルヒと佐々木。もちろん気分が良い時の笑みではなく、その180°程回った時に出る笑みだ。自分が羨望したくじを突然横取りされた二人の悔恨と妄執が、ゴゴゴゴゴと音を立てて具現化しつつある気配を俺は感じ取ったのだ。
 もしかしたら俺にも超能力者の素質があるのかもしれない……そんなわけないか。

 このままではエスパーボーイと、そして自覚のないであろうエスパーガールの命が危うい。だがさすがにエスパーボーイのほうはまともだった。彼は未だ装着中であったエスパーガールの赤いサンタクロース帽を目深に被らせ、視界を奪った隙に自分のくじを入れ替えたのだ。
 モゴモゴとやっていた彼女は、ようやっと自分の帽子を脱ぎ去り、改めてくじを見て『あれっ?あたし……あれれ?』と素頓狂な声を上げ、こうして人類未曾有の修羅場は回避できたのだ。
 
 正直、頭が悪すぎるとは思うが、『橘だから』といわれると妙に納得してしまう。もしかしたらとても悲しい事なのかもしれない。

 さて、これでお分かりのとおり、結果的に二人席――俺の隣り――は古泉となった。せっかくの新幹線の旅を古泉と同じ席で過ごすのは甚だ遺憾ではあるが、だからと言って橘と同じ席になってしまったらそれこそ生きた気心地がしない。俺は自身にそう言い聞かせ、古泉と同席となった事を受け入れる事にした。
 なお、席を不任意に変更させられた橘は、残りの席――つまり、同席者のハルヒと佐々木に囲まれることになり、先ほどのシーンへと繋がるのである。

 ああ、橘がひたすら助けを請うような眼差しをしていたが、こちらもひたすら無視した。頼もしいボディガード二人に囲まれるんだから幸せじゃないか。しかし橘は、何故かしょげかえり、連行中の容疑者を連想させる雰囲気を醸し出していた。
 ……そんなに凹まなくてもいいじゃないか。気持ちは分かるけどな。

 ハルヒと佐々木は暫く物凄い形相で橘を監視していたのだが、橘が熟睡したのを気に二人の集中力も切れたようで、やがて寝てしまった。この二人が噴出する負のオーラの中で熟睡するとは、ある意味強靭な精神の持ち主でもある。俺は絶対無理だ。三人が完全に寝たのを確認した後、俺は古泉に頼んで橘を拉致し(俺が連れて行っても良かったのだが、もし二人が起きてしまったら後が怖いからな)、たたき起こして車両と車両の連結部でこうやって説教をしていたのだ。



 これでようやく冒頭のシーンへと戻ったってわけだ。
 少々前置きが長くなりすぎたな、スマン。橘の行動が余りにもアレだったものでつい喋りすぎてしまった。
 




「頼むぞ本当に。ハルヒや佐々木の力が暴走して世界を崩壊に導くっていったのはお前じゃないか。その暴走となる原因はお前が誘発してるんだ。お前らの目的と真逆のことをしてるんだ。いいな、くれぐれも軽はずみな行動をとるなよ」 
「はい……反省します……」

「分かったならもういい、自分の席に戻れ。あまり俺たちが一緒になってウロチョロしてると、またあの二人に見つかり兼ねん。それに……」
「それに?」
「お前、今日はあまり寝てないんだろ?睡眠不足は体に良くないぞ?」
「あ、はい。すみません。……でもやっぱりキョンくんって優しいですね。あたしの体を気遣ってくれるなんて」
「なっ、何を言ってる。今日から怒濤の合宿が始まるからそれに向けて体力を温存しとけ、って言う意味だ!」
「ふふふっ、それは今はやりのツンデレってやつですね?なるほど、キョンくんはツンデレがタイプだったのですね?」
「何でそうなるんだ……」
「わかりました。それじゃあ帰ってお休みさせてもらいますね。……っと、違いました。ここはこれでなきゃだめでしたね」
 そう言って橘は腕組みしつつ、顔を少し背けて『べっ、別に嬉しくなんかないんだからね!』等と叫んだ後走り去った。
 勘違いベストアワードを進呈したいよ、あいつに。やれやれ。
 神の精神を安定させる超能力者が、神の機嫌を損なうなど言語道断であると思うんだが、橘の組織の教育はどうなってるんだ?責任者が出て来て、俺たちに謝罪すべきだ。
 ……いや、やっぱ止めた。組織の人間も橘作の割引券でオークションを開催したりする、幾分ネジが緩みかかった奴等ばっかりだったな。会話するだけ無駄な気がしてきた。
 俺はふう、と溜息一つついてこの三日間を安堵して過ごせる方法を模索した。このまま橘を無視し続けるか、それとも俺はだけ帰ってしまうか……

「ふっ、あんたを慕う女共がいると言うのに、別の女に手を出すとはな。『鍵』と言う立場を利用しての悪行三昧。はっ、痛み入る」
 ――突然。本当に何の前触れもなく俺は声を掛けられた。

「藤原……」
 そう。声を掛けて来たのは、先ほどから団体行動を取りたがらない藤原だった。
「あんたにその識別信号を名乗られるだけでも気乗りはしないのだが、これも規定事項だ。しかたあるまい。その代わりこれからはこちらの規定事項を厳守してらうからな」
 こいつの規定事項だと?そんなものに従うのなら朝比奈さんのメイド衣装を着て団活に参加した方がマシだ。だがここでそれを言ってもこいつは鼻で笑うだけだ。少し協力的な態度を取ってこいつの目的を探った方が良さそうだ。
「なんだ、その規定事項とは?良かったら教えてくれないか?」
「教えてやるよ。僕の規定事項を。なに簡単なことだ。橘京子にあまり関わるな。あんたは涼宮や佐々木のお守りだけしていれば良い。それだけだのことだ」
 藤原は以外にあっさりと規定事項――俺への要求を白状した。
「そうしたいのはやまやまだが、あいつは――橘はしばしば暴走するんだぞ。だからどうにかして暴走をとめなきゃいかんだろう」
「僕はそれが原因で規定事項から逸脱する可能性があると言っているんだ。あんたが橘にちょっかいをかけるせいで、涼宮や佐々木が暴走し、時間平面に甚大な影響が出てしまう。このまま穏便に時を進めたいなら、橘には関わるべきではない」
 俺がちょっかいをかけると言うより、橘からちょっかいをかけて来るんだが……まあ関わるなと言うならそれに越したことはない。
 だが。
「それはお前の望む未来への規定事項なのか?それとも朝比奈さんが望む未来への規定事項なのか?返答如何に依ってはお前の意見は賛同しかねるぞ」
「無論、僕にとっての規定事項だ。だが案ずるがいい。朝比奈みくるにとっても規定事項だ」
「……わかった。ならばお前の意見に賛同してやらんことはない。正直、橘の相手をするのにも疲れたからな」
 ――ピクン――
「疲れただと!?ふざけるな!!」
 それまで俺との会話を面倒臭そうに応対していた藤原が、眠りの覚めた獅子のごとく吠え出した。
「あんたのその煮え切らない態度のせいで、過剰に負担を強いられている奴がいるんだ!あんただけが苦行の道を行脚してる訳じゃない!」
「…………」
 思わず俺は沈黙してしまった。確かにこいつは俺に反抗的かつ否定的な言動が目立っていたのだが、それは全て作ったかのような、やる気のない態度ばかりだった。
 しかし今見せつけられた藤原の態度は、今までとまるで違う。こいつの本音を露呈した言い回しだったのだ。
「いや……その、すまなかった」
 そしてその言葉に、俺はつい謝罪してしまった。謝罪する気などさらさらなかったのだが、こいつの心理が垣間見えたことに共感でもしたのだろうか。
「ふん、分かれば良い。仕方ないから僕が橘京子の面倒を見てやる。あんたは涼宮と佐々木、二人の相手でもしてろ」
 以外にも素直に俺の謝罪を受け取った藤原は、更に俺の心労的負担を減らしてくれる提案をしてくれた。
 こいつが何を考えているかはわからないが、橘を構いすぎるのが良くない結果を生み出すのはこれまでのケースからも明らかであるし、面倒を見てくれるのであれば特別異論もない。ここはこいつの意見を飲むことにしよう。
「わかったよ、それじゃ頼んだぜ」
「あんたに頼まれるまでもない。勝手にやってやるさ」



 そう言って振り返り、俺の元を離れていった。相変わらず嫌味ったらしい奴ではあるが、味方となってくれるのであれば歓迎したい。恐らくあいつの言葉に嘘偽りはないだろうしな。俺のカンでは。
 その理由は、振り返りざまに見えた藤原の笑顔。あいつがいままで見せた、些か作った感のある不敵な笑顔とは違い、少しではあるが、年相応の無邪気さが残った笑みをしていたからだ。
 ――あいつの歩み寄りにより、佐々木を取り巻く勢力の蟠りを拭い去ってくれそうな、そんな予感を感じさせてくれた。

 




「おや、どうしたのですか?そんな場所で立ち往生などして。お手洗いは空室のままですよ?」
 古泉の声でふと我に返る。ああ。ちょっと色々とあってな。橘の件で藤原まで絡んできて、少しどうしようかと悩んでいたところだ。
「そうでしたか。あなたにも色々ご迷惑をおかけしていますし、できれば席にお戻りになって束の間の休息を差し上げたいのですが……そのような事由ならば、そう言う訳にもいかないようです。申し訳ありませんが、少しお話をお伺いできませんか?」

・・・・・・・・・

「なるほど……そのような事が……」
 真剣な顔をしつつも、古泉は何故か遠足を次の日に控えたような児童のような笑みを俺に見せてきた。
「何かわかったのか?あいつの企みが?」
「いえ、全然」
「おい……」
「ですが、推測する事は可能です。その推測と過去の事例、そして本日の彼の行動と合わせる事によって、彼の凡その目的がプロファイルできるのです」
 古泉はやたらと楽しそうに喋りだした。しまった。こいつがこんな顔をしていると話がやたら長くなるのを忘れていた。だが後悔先に立たず。対策としてやや上の空で聞くことにしよう。
「まず第一に、彼は朝比奈みくる……失礼、朝比奈さんとは別の目的を持った未来人であること。そして第二に彼は橘京子に対して保護するような立場を見せていること。それら推察するに……」
 ここで古泉がニヤけた顔を俺に見せ、そして言葉を続けた。
「もしかしたら、彼はあなたと橘京子の子孫なのかもしれませんね」

 ――はあ???――
 俺は、幾分間の抜けた、妙に甲高い声を発してしまった。

「あなたが面食らってしまうのも無理はないかと思いますが、これは意外にも単純な推理です。彼はあなたと橘京子の関係が芳しくないことを、快く思っていないようです」
 古泉が軽やかに口を動かしている。こいつはこの手の話になると、水を得た魚のようにいきいきとする。そして俺は古泉のトンデモ発言に、真剣に耳を傾けることにした。……まあ、暇つぶし目的の興味本位で、他意はない。
「あなたの周りには、涼宮さんや佐々木さんといった、実に魅力的な女性達に囲まれている。彼はそれを危惧しているのではないでしょうか?」
「俺の周りにいる女性陣が問題だと……?ちょっと意味が良く分からないのだが、もう少し丁寧に説明してくれないか?」
「つまり、あなたが橘京子以外の女性と結ばれたら、橘京子の子孫である彼の存在そのものがなかったことにされてしまう、という事です」
「なあ、お前は正気か?何であいつが俺と橘の子孫ってことになるんだ?冗談だろ?」
「彼の頑ななまでの拒絶が現実味を物語っています。彼の言う、『余計な負担を強いられている奴』というのは恐らく橘さんの事でしょう。彼女の気持ちを察しない、あなたの態度に苛立っているのだと思います」
 真面目な顔をして解説する古泉。冗談を言っているようには見えない。ってか本気で言ってるのか古泉?
「さあて、僕の推理ですから役に立たないかも知れません。まあでも、仮に僕の推理が当たっていたとすれば彼の行動も理解できます。このままでは彼が存在しないと同義ですから」
「……。いや、しかし待て。あいつは俺に対して、『橘京子には関わるな』と言ったんだ。それにハルヒと佐々木の面倒だけ見ろと。あいつが俺と橘の子孫だとしたら、普通逆のことを言うような気がするんだが、それはどう解釈する気だ?」
「ええ、確かに普通に考えたのでは矛盾が生じてしまいますが、ですが彼の言葉をよくよく思い出してください。彼は『朝比奈みくるにとっても規定事項だ』と仰ったそうじゃないですか?」
「あ、ああ」
「彼と朝比奈さん、双方の規定事項ということは、今のところ未来人の二勢力が重要視している分岐点に到達していないという訳です。それまでは橘京子に関わらない方が都合はいいのでしょう。涼宮さんや佐々木さんの力が暴走する可能性もありますからね」
「なるほど……」
「そして分岐点に立った時、あなたが涼宮さん、あるいは佐々木さんを選択するか、それとも橘京子を選択するかで未来が大きく変わるのだと思われます。恐らく未来人の干渉が一番強くなるのはその時かと」
「うむ……藤原が自身のために動いているのは、まあ良しとしよう。だがそうすると朝比奈さんはどうなるんだ?何を目的として動いている?今回朝比奈さんはそんな命令を受けているようにはみえないぞ?」
「それに関しては今からご説明致します。これも僕の憶測ですが、朝比奈さんはあなたと涼宮さん、あるいは佐々木さんの子孫、どちらかではないかと僕は考えているんです」
「なっ……」
 俺。再び絶句。
「朝比奈さんもまた、自身の未来のために派遣されてきたのです。子孫である自分が存在するために、ね」
 朝比奈さんが俺の子孫だと?しかもハルヒか佐々木との子孫だと?
「ちょっと待て、今の話には異議ある。お前の話が正しいのならば、どうして二人が同時に存在しているんだ?どう考えてもおかしいぞ。それに俺は一夫多妻制を取るつもりはない」
「あなたの妻が一人でも、他の女性との間に子を設けることは可能ですよ。再婚した女性との間に子を設ける、愛人と二股して子を設ける、子種を使用して人工受精させる……方法はいくらでもありますよ」
「…………」
 もはや何度目かの絶句か数えるのも億劫になってきた。古泉に屁理屈を言わしたらピカ一である。
「むしろ未来人にとって、当該女性との行為を妨げられる方が問題ですね。未来人同士の確執は僕には分かりかねますが、お互い邪魔な場合、その勢力の存在自身を消そうとしているかも知れません」
「だが朝比奈さんは藤原について『そんなに悪い人には見えない』と言ったんだぞ?お互い憎しみ合う関係ならばそんなことは言わないと思うんだが、それについてはどう考える?」
「ならばそのとおりなのでしょう。お互いどうにかしてお互いの先祖を残して、自身やその子孫を反映させたいだけ、余計な衝突は避けたいのかもしれません」
「それならば……いや、もういい」
 俺はさらに質問しようと思ったが止めた。大分話がこんがらがってきたし、古泉と押し問答をしても無駄だと悟ったからである。

「……彼のセリフを聞くまでは、僕はあなたと涼宮さんの子孫が朝比奈さん、あなたと佐々木さんの子孫が彼だと思っていましたが……いやはや、彼から貴重な情報を聞けただけでもこの合宿に参加した意義がありましたよ」
 俺の伴侶となる人物がハルヒか佐々木か橘で、しかもその子孫が朝比奈さんか藤原……いかん、本気で頭痛くなってきた。
「あまり気になさらないでください。所詮僕の憶測、下手をしたら妄想にしか過ぎないのですから」
「お前の妄想には毎回ほとほと困ってるんだよこっちは」
「くくくっ、それは失礼しました。ですがなるほど彼らが禁則事項として扱っているのも理解できます。鍵となるあなた自身の未来に関わってくる事ですからね」
 俺の思考回路が短絡しようとしている中、古泉はいつもと変わらず上機嫌に説明を行っていた。
「何度も言うようですが、僕の憶測にしか過ぎません。あなたはあまり未来人の計略に囚われず、あなたの思うとおりに進めばいいと思います」
「その結果、朝比奈さんが存在しなくなっても言いというのか?」
「未来は流動的かつ繊細です。規定事項を遵守しなかったからといって、全ての事項が無に帰すわけではありません。逆に、僅かなズレで未来が狂ってしまう事だってありえます」
 そう言えば、そんなこと誰か言ってたような……
「だからその微妙なズレを修正するために彼ら未来人がこの時代に現れたのですよ」
 俺はここで深い、深い溜息をついた。もう何が何だかわからん。
「深く考える事はありません。あなたの思うとおりに行動してください。それがどのような結果になっても、既定事項となるのですから」
「その結果、お前が望むような結末にならなかったとしてもか?」
 しかし古泉は俺の問いかけに対して首を横に振った。
「あなたは僕の望む世界と同じ世界を願っている。そう信じていますから。そしてあなたがより素晴らしい未来を得てくれる事を望んでいます」
 ――この時の古泉の顔も、先ほど藤原が見せた笑みと同様のものであった。

 俺はこの古泉の言葉、そして先ほどの藤原の言葉に、正直目からうろこが落ちる感覚でいっぱいだった。まさかこの二人からこんな叱咤激励を受けるとは思ってなかったからな。男からの応援というのは正直萎える部分もあるのだが、場合によっては何者にも適わない、強い原動力となる。この合宿で未来人や超能力者、そして今はまだ何音も関わっていない宇宙人が何を望んでいるかは分からないが、俺は俺の望む未来に進めるように尽力をつくそう。
 それが誰かの手のひらで踊らされたとしてもだ。

 まさか橘の妄想から始まった合宿でこんな決意をするとは思わなかった。だがやれるところまでやってやるさ。それが罠だとしてもな。
 今回の合宿。未来人の思惑もあり、事態をより混沌とさせる出来事が起きそうな気配を感じ、俺は一層気を引き締めることにした。

 




「ふうっ……」
 俺は二人との会話のあと、ようやっと戻ってこれた自分の席に腰下ろし、一息ついた。古泉は一足先に戻っており、外の光景を見ていたようであったが、俺にいつものスマイルを見せたあと、また窓の外へと目線を移した。
 俺は古泉から視線を逸し、3人席の方を見る。朝比奈さんが真ん中の席でくうくうと可愛らしい寝息を立てている。その横で長門はいつもどおりハードカバーを広げていた。
 そして長門の反対側、朝比奈さんのもう片方の隣席では、九曜が着席不動の体勢で真っ直ぐ前を見据えていた。九曜、その体勢で不動状態を継続すると逆に浮いてしまう。せめてヘッドホンくらいしてくれ。
 俺は滅入った気持ちでもう一つの3人席を見た。そこには……

「ふふふ、キョンくん……待てぇー……あははっ、キョンくん……」

 なぜだかは知らないが、俺の名前を連呼している橘の寝顔があった。
 そして、橘が俺の名を呼ぶ度にビクッとするハルヒと佐々木の寝顔がその横にあった。
 こうして見るとなかなか面白いものではある。橘が幸せそうな顔をしているのに対し、他の二人は苦虫を噛み潰したかのような顔をしてるからな。しかも二人とも目を覚ますことがないのも大したもんだと言いたい。
 ……あ、古泉がこっち見てる。眉間にシワと青スジもよせちゃてるし。
 橘よ。何の夢を見ているか知らないが、今のうちに幸せな気分を味わえよ。起きたらもう甘い夢を見させてもらえないかもしれないぞ。
 




「つきましたぁ!」
 橘の元気な声が、雲一つない、澄み切った空に響き渡る。
「みなさん、こちらです!こっちにペンションの人が迎えに来てくれる手筈になってるのです!早く行きましょう!」
 短時間とは言え、睡眠を取った橘は体力気力とも全快になっていた。
 それに対し――
「……涼宮さん、調子の方はどう?わたしは新幹線の中でずっと寝てたのにもかかわらず、あまり優れないんだけど」
「奇遇ね、佐々木さん。あたしも何か調子悪いの。新幹線でずっと寝てたのにね。……いや、あそこで寝たから調子が悪くなったのかもしれないわ」
「ますます奇遇だね。わたしも丁度同じ事を考察していたんだよ。原因はやっぱり……」
「あれ、ね」
 そう言ってハルヒはうんしょうんしょと荷物を運ぶ橘を指差した。

「ふふふっ、夜になったら思い知りなさい」
「くくくっ、あなたが寝静まったあと、あなたが持参して来たマドレーヌを、他のみんなで食べてしまうから」
「それだけじゃないわ。今日のペンションで出されるデザートも全部没収するから、全部」
「それは素晴らしいアイデアだよ、涼宮さん!」
 ――等と、今回ばかりは逆恨みをしているハルヒと佐々木を見据え、俺は食事が済んだらすぐさま寝る事を心の中で誓ったのだ。
 俺はこの時、何故耳栓を用意してこなかったのかと自身の行動について悔やんでいた。



 橘はその間、みんなの荷物をせっせと待合場所にまで運んでいた。全員の荷物を一人で運ぶとは、なかなか大したもん――いや、一人で運んだわけではないようだ。
「よし、これで全部なのですね!ありがとう!」
「ふん、これくらいは大した事はない」
「でも驚きました!あなたが手伝ってくれるとは思いませんでしたから。ようやく佐々木さんを中心に盛り上げてくれることを誓ってくれるのですね!」
「勘違いするな。今回の一件は規定事項にさほど大きな影響を与えないから参加したまでだ。あんたの意見に賛同したわけではない」
「ううっ……みんな冷たいのです……」
 橘に素っ気ない態度を取りつつも、橘の荷物運びを手伝う藤原の姿があった。
 あいつは先ほど俺に提案して来た事を忠実に守っているようだ。目的はイマイチ不明だが、橘の相手をしてくれるのであれば俺の負担も減るし、ここはお言葉に甘えよう。
 もし俺の身に危険が生じるようであればその時に対応すればいい。今回は俺一人じゃない。宇宙人も未来人も超能力者も、そして神と崇める存在もついているのだからな。

 それから待つ事約10分。お迎えの車が来たと言うので、駅の待合場所から外に出ることになった。ピーカンの天気なのに、肌がちりつく程寒さを感じる。さすがは雪国。俺たちの住む町とは根本的に違うようだ。
 俺たちが向かったのはバス乗り場。そこに迎えが来ているらしい。実際にそこまで行って見ると、モスグリーンのワンボックスカーが二台停車していた。
 ん?このワンボックスカー、どこかで見た事があるようなないような……
  俺が訝しげな顔をしていると、一台の車から運転手が降りて――

『森さん!?』

 ――そして俺たちの声は、見事にハモったのだった。
 




「も、森さん……どうしてここに……?」
 突然のサプライズゲストに、若干震えた声を絞り出すハルヒ。
「もちろん、ペンションのお客様をお迎えするためですわ。でも驚きました。皆さんがお客様だったなんて……今回皆さんとお会いできたのは、全くの偶然です」
 森さんは柔和な笑みを持ってハルヒの問い掛けに答えてくれた。
「涼宮さん、こちらの女性とお知り合い?できればわたしたちにも紹介して欲しいのだけど……」
「ん?ああ、ごめんごめん。紹介するわ。実は……」
 ハルヒが佐々木達に森さんを紹介している間、俺は古泉をひっ捕まえた。
(どういう事だ古泉。何で森さんがここにいるんだ?)
(以前にも申し上げましたが、橘京子の動きを牽制するため、このペンションに森さんを派遣したのです)
 なるほど。そう言えばそんな事もいってたな。
(じゃあ、新川さんや多丸さんたちもいるのか?)
(いえ、彼らは別体行動をしています。橘京子が囮である可能性も否定できませんからね)
 全く、機関は用意周到だ。敵に回したくはないね。
 だが森さんの参入は非常に心強い。また以前みたいなことが起きても未遂に防いでくれそうだからな。おや、そう言えば……
(あの送迎車、どこかで見たと思ったらあの時の……)
(ご名答です。橘さんに対する当てつけで、森さんがこの提案をされました)
 なるほど。先ほどの言葉を少し訂正させてもらおう。敵に回したくないのは機関ではない。森さんだ。
 事実――

「あ、あはははっ、橘京子です、よろしくおねがいしますね」
「ええ、こちらこそよろしくお願いしますわね、橘さん。長旅で疲れましたでしょう。どうぞペンションでごゆるりとおやすみ下さい」
「あ、ありがとうございます」
「できれば永遠におやすみ下さっても結構ですわよ?」
「いやですよ森さん。ご冗談ばっかり」
「あら?わたしとしたことがついうっかり本音を漏らしてしまいましたわ」
「森さんってばお茶目ですね、年の割りには。あはははは……」
「あなたも度胸がありますのね。胸が無いくせに。うふふふふ……」

 ――事実、俺はこんな会話をしたくない。
 橘、今からでも遅くない。森さんに謝っとけ。夕食に毒を盛られても知らんぞ俺は。
 
 
様々な人を敵に回し、我が道を行く橘京子。もしかしたらかなりの大物なのかもしれない。
 




 ペンションについた俺たちは、荷物を預け、早速スキー靴に履き替えてゲレンデへと直行した。
「キョン。今年もスピード勝負するわよ!あの山の頂上から一気に下まで下って、誰が一番速いのか決めるわよ!」
「なるほど、それは面白そうだ。ではみんなで勝負することにしよう」
 ハルヒの提案にあっさりと賛同する佐々木。俺は多少滑れるがそんなに早く降りる自信はないぜ。しかも一番上の山は斜度もかなりあるし、それを滑り終えたらコブのゾーンだ。俺はモーグルの経験なぞない。
「心配なんてしなくていいわ!最初のコブで思いっきりジャンプして全部飛び越せばいいのよ!」
 普通に考えて無理だ。
「うるさいわね。やるったらやるわ!さあみんな行くわよー!」
「お待ち下さい、涼宮さん。勝負をなさるのであれば、審判や時間測定係が必要でしょう。その割り当ても考えなくては」
「んー、それもそうね。まずスタート位置とゴール。ここに審判は必要ね」
「できれば中間位置にも一人いた方がいいと思うよ。そして時間係も独立して一人必要ではないかな」
「そうすると四人は審判と時間測定、残り四人が滑ると言う事になりますね」
 半分半分交替でやればいいって事だ。丁度いいんじゃないか。
「そうね、二回に分けて対戦よ!みんなそれでいいわね!?」
 ハルヒの提案に、ここにいる7人全員が頷いた。あ、そうそう。今回もやっぱり藤原は付き合ってられないと言って、一人ロッジに待機している。
「じゃあまた例によってクジでチームを決めましょう。それと優勝者の特権と、ビリの人の罰も決めることにするわ。せっかくだからキョンの意見も聞いてあげるわ。何がいい?」
 またそれか……いい加減そのルールは勘弁して欲しい。
「いいじゃない、負けた人は次こそ頑張ろうって気になるじゃない!資本主義が生み出した向上心の現れよ!」
 わかったわかった。だがまずお前の意見から聞かせろ。具体的にはどんなことを考えているんだ?
「そうねぇ……ただジュースを奢るとかは毎回やってるからこれは止めて……そうだわ!この合宿中、一位の人は他の人に命令できるってのはどう?そして命令された側は必ず従うこと!」
「なるほど、それは実に興味深い。王様ゲームの変異版と言ったところかな?」
「そうよ!ついでだから階級社会にしましょう!一位は全ての人に命令できて、二位は一位以外の人に命令できる。以下同じように適用させるわ!どう、面白いと思わない?」
「ええ、実にインタレスティングだよ。その案で行きましょう」
 一位になればいいが、ビリの人は大変そうだ……
 だがこの二人が決めたのであれば、反対する奴は誰もいない。仕方ないがここは大人しく受け入れよう。長門か九曜あたりが優勝してくれる事をただひたすら祈るばかりである。優勝するのはわけないだろうし、何も命令しなさそうだからな。
 




 くじの結果、以上のように組み分けされた。

 前半チーム ハルヒ、佐々木、俺、橘。
 後半チーム 朝比奈さん、古泉、長門、九曜

「涼宮さんと同じチームとは……くくくっ。これも星のめぐり合わせ、輪廻転生の中で必ず起こりえる、避けては通れない数奇な宿命なのかもしれないわね」
「佐々木さん、丁度いいわ。ここで勝負をつけましょ。この勝負に勝ったほうが、合宿中のキョンの占有権を得るってのはどう?」
「負けたほうは黙って身を引くって訳ね……3日間とは言え、かなりのアドバンテージだ。負けた側は遅れを取り戻すには少々骨だろう。これは絶対に負けられない。しかし……」
「しかし、何?」
「万が一にでもキョンが優勝したらどうするつもりだい?キョンに命令する事はできなくなってしまうんじゃないかな?」
「その時はキョンが選んでくれるわよ。あたしと佐々木さん、この合宿中、どちらと共にするかを」
「なるほど……キョンを卑猥な隠語で責めるのも興味深いが、キョンに手足を縛られ、猿ぐつわを噛まされ、抵抗できなくなったところを甚振られるというのもまた……」
「さ、佐々木さんマニアック……」
「い、いやいや単なる妄想だよ。本気で思っているわけではない……こともないんだけど……ってそうじゃなくて!涼宮さんだって嫌いじゃないんじゃないかな?」
「う、うん。実はそっちの方が……って違うわ!それより、最悪のパターンを回避する事を考えましょ」
「うむ……あの件ね。一番の不確定要素だから、足元を掬われないよう気をつけないといけないわね」
「そう。あれは何をしでかすか分からないし、理解不能よ。注意してしすぎる事は無いわ」


 ――暫く二人は俺たちから遠く離れた場所で、何やらブツブツと喋っていたが突然顔を上げ、そして橘のほうに向かって歩き出した。
 そしてにこやかな笑み――かなり作った感のある笑みだが――を見せながら、橘と会話を始めたのだ。
「橘さん、あなた、スキーは滑った事あるの?」
「あ、はい。でもまだまだ初心者です。そんなに滑った事無いですし」
 二人がニヤッと笑った。
「今まで何回くらいスキー場来た事あるの、橘さんは?」
「えっとですね。3年前に初めて滑って、年に一回ずつですね。今年で4回目です」
 二人は右手こぶしを作り、後ろに引いた。小さく『よっしゃ』と聞えた気がする。
「なんだ、それじゃ実力は似たようなモンね。実はあたしたちもそんなに滑った事無いし、いい勝負になりそうね。お互い頑張りましょ」
「橘さん、わたしに遠慮する事は無い。全力を持って戦おうじゃないか」
「は、はい!お二人にそんなお言葉をかけてもらえるとは思っても見ませんでした!あたしも全力を出して頑張るのです!」
「ふふふふふ、よろしく……」
「くくくくく、健闘を祈るよ……」
「よろしくお願いします!」
 そして三人は固い握手を交わした。
 橘の目が純粋なのに対して、ハルヒと佐々木は何か不純なものを感じるのは俺の気のせいだろうか?そしてこの二人に負けた際、敗者はとんでもない事をさせられそうな気がするのだがそれも俺の杞憂なのだろうか?
 できれば勝ちたいが、どう頑張っても勝てない気もする。はあ、どうしよっかな、俺。



 何やかんやしているうちに、審判達は所定の位置に着き、準備完了となった。そして俺たちはリフトで頂上まで上がり、いよいよ勝負間近となった。
 俺はスタート位置へと移動し、コースを見下ろし――

「……げ」

 そして絶句した。


 ちょっと待て。スタート位置直後からコースが見えないってのはどういう事だ?
「最初の勾配が他より急であるだけ。その下からは比較的穏やかな斜面となる」
 スタート位置の審判に就任した長門が解説してくれた。いや、比較的穏やかな斜面と言っても結構急斜面に見えるのだが俺の目には。
「最初のコースは、このスキー場で一番急斜面。最大角48.26゜、平均36.87°となっている」
 長門の解説によると、勾配が30°を超えると上級コース、40°を超えると超上級コースらしい。なおこの角度になってくると、頂上から見下ろした場合でもコースが見えなくなるらしい。
 ちょっと待て、そんなコース滑られるか!下まで転げ落ちて怪我するのがオチだ!
「大丈夫。このコースは大多数の人間が滑ることを拒否するため、排雪がなされていない。また、ここ数日降った雪がスピードの抑制及び緩衝剤の役割をしてくれる。ケガの発生確率は比較的低い」
 そんなこと言われても無理な物は無理だ。それとも何か情報操作はできないのか?例えば……絶対こけないようにするとかさ。
「…………」
 長門は暫く首をかしげそして淡々と『不正は、ダメ』と伝えた。
 何でこんな時だけ……ちくしょう。


「あ、あの……キョンくん……」
 今度は橘が俺に話しかけてきた。
「ここ、本当に滑るんですか?あたし自信ないです……」
 俺も同じことを聞きたいよ。だがあっちの二人は準備万端だ。
 俺はハルヒと佐々木の方を指差した。いつの間にか競技用の抵抗の少ないウェアに着替え、ヘルメットとゴーグルを着用した二人の姿があった。板も新雪用の幅広のものである。
「いつの間にあんなものを準備したんですか?」
 俺に聞かれても知らん。こうなったら仕方ない。怪我がないようにゆっくり滑るとしよう。
「そうですね。でも優勝しないと、あたしの周り一面に不幸と言う不幸が降り懸かって来るような気がするんです……」
 橘は何やら脳内葛藤を始めた。気持ちは分からんでもないが、自業自得の部分もあるしな……
「キョン!そろそろ始めるわよ!スタート位置につきなさい!」
 ――そして、ハルヒによって死の宣告が宣誓された。
 




「位置について――3・2・1……Go
 長門の合図とともに、ハルヒと佐々木が板を蹴った。そして数秒もしない間に二人の姿は見えなくなった。
 俺も後を追いかけ――直前でストップをかける。行けるかこんなん。もういい。俺は棄権だ棄権。やめやめ。
 あっさりと勝負をあきらめ、方向転換し――
「キョンくん、何やってんですか?早く行きましょう!ファイト!」

 ――ドン――
 俺は橘に肩を叩かれ――



「うおぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」



 ――真っ逆さまに落ちて行った。


「キョンくん!何だかんだ言って滑れるじゃないですか!しかも結構早いし!あたしを騙しましたね!ひどいですぅ!」
 ――どこをどう見たら滑っているようにみえるんだぁぁぁぁ!!!――
 俺のスキー板は、雪の上を軽やかに滑走していた。何故だかは分らない。っていうか偶然としか思えない。事実、俺の意思とは関係なく突き進んでいる。しかも後ろ向きに。
 あまりの光景に俺の五感は朦朧とし意識が途絶えようとしている中、ある思いだけはハッキリと覚醒していた。

 橘。いつか絶対同じ目に合わせてやるからな――



「ぷはあっ……ふう……」
 埋もれた雪から顔を這いずり出し、俺はようやく息継ぎをした。
 俺は橘によってこの絶壁からダイブしてしまい、そして途中で意識を失って雪に埋もれたのだ。途中までは必死に滑っていたことを覚えているのだが、雪に埋もれるあたりの記憶はない。
 辺りを見回す。俺は急斜面のコースをほとんど滑り終えた、比較的緩やかな丘の上に立っていた。少し上にはハルヒと佐々木が新雪を舞い上がらせながら滑走していた。どうやら意識が飛んでいたのはそれほど長い時間ではなかったようである。まだ勝てる算段はありそうだ。俺はいそいそと外れたスキー板を探しに取り掛かり、ややはなれた場所に散在していた板を手に取り……
「キョン!おっ先~!」
「なかなか素晴らしい直滑降だったけど、詰めが甘いよ!」
 ……その間に、ハルヒと佐々木に悠々と抜かれてしまった。
 くそ、急がなくては!
 俺はスキー板を装着し、ようやっと出発し……


 ――ビュュュン――



 その瞬間、一筋の強風が吹き荒れた。


「何よこのコース!コブがやたらと巨大化してない!?」
「凹凸の差が激しすぎる!これでは前に進むのも困難だ!」
「おまけに雪のないところはガリガリじゃない!こんなのスピード出して滑れるわけ……」


 ――シャッ シャッ ズサァ――


『な……』


 

 コブの上に立ち往生していた二人は豆鉄砲を食らった鳩のように惚けていた。
「やっぱりお前らですらそんな顔になるか。最初、何が通り過ぎて行ったかと思ったぞ俺は」
 ようやく急勾配の坂を降り、モーグルコースへと突入した俺は、依然として固まっているハルヒと佐々木の横に並んだ。

「キ、キョン……」 
「何、あれ……?」

 俺も聞きたい。あいつが何者なのか問い掛けたい。
「いや、そうは言っても……」
「人知の範疇を逸脱しているのでは……」
 しょうがないだろ。あいつだからな。
『なるほど……』
 俺の投げやりな言葉に、二人とも何故か頷いた。


「ツイスタ――ツイスタ――ツイスタ――スプレッド――」
「素晴らしいです!完璧なクオータです!」
 ――九曜と古泉の解説が入る。……てかお前ら。審判はどうした?
「おおっと、橘選手!2つめのジャンプ台でかなり飛んだ!もしかしてあの大技を見せてくれるのか!!」
「バックスクラッチャーコザック――そこからディナーロール――完璧――」
「なんとオフアクシスを絡めたエアーとは驚きです!!ターンも早い、早い!!」
 そして――

「……ゴール!143秒です」
 時計係の朝比奈さんが時間を宣言した。
「何と!最初の急斜面滑走時間を除けば全日本女子代表のレコードタイムに匹敵します!よくやりました、橘さん!」
「やったあ!ぶいぶい!!」



 ――もう分かっていると思うが、そろそろ種明かしをしようか。俺が新雪から脱出した瞬間、そしてハルヒ達がコブの上で右往左往していた瞬間、疾風の如く駆け抜けた存在。
 それはまさしく橘京子だった。
 彼女のゲレンデに描くシュプールは、さながら大自然を優雅に且つ鋭く駆け巡る野鳥のようであった。
 つーか橘。お前めっちゃうまいやん。『自信ない』って嘘やろあれ。
「……はっ!あまりにも奇想天外なことに我を忘れてたわ!佐々木さん、あたしたちも行くわよ!」
「ええ、彼女に負けることは許されないからね。たとえ無理だと分かっていてもここは突き進むしかない!」
「その通り!人間気合いがあれば何でもできる!突貫よ!うりゃぁ~!!」
「了解涼宮さん!そりゃぁ~!!」
 二人は橘の偉業に感銘を受け(もしかしたら違うかもしれない)、再び雪でできた丘を突き進んで、そしてジャンプ台に差し掛かり――


『っとぉりゃぁ~~!!』


 ――その後の話を軽くお伝えしよう。
 俺は二人と違って、このコブ地帯を滑るのは無理と悟り、遠回りでもいいから平坦な道を使って完走することにした。やたらと長い緩斜面を下り、ようやくゴール地点に到着すると、古泉は俺に『二位』を宣告した。ん?ハルヒと佐々木はどうした?
「あそこ、です」 
  古泉が指差したところには、見事にジャンプに失敗し、雪山に突っ込んだハルヒと佐々木の手足が確認された。
 あ、腕がピクピクしてる。どうやら生きているようだ。落ちた先が新雪でよかったな。アイスバーンだったら骨の一本や二本は持って行かれたと思うぞ。

 雪山に埋もれた二人に九曜が近付き……
「板及びストック――損壊――これ以上競技の継続は不可能――審判判断により――二人は失格――」


 ……つまりそういうことになった。
 俺たちは雪に埋もれたハルヒと佐々木を救出し、ペンションへと運んだのだった。
 ――無論、後半の勝負はお流れになってしまったことは言うまでもない。

 




「う……う……」
「く……く……」
 ハルヒと佐々木は、先ほどから苦しそうに呻き声をあげ、そして悪夢の束縛から解放することができずにいた。
「お二人とも、大丈夫かしら……」
 朝比奈さんが二人の額のタオルを取り替える。確かに、これだけ目が覚めないのもおかしい。もしかして重傷を負っているのか?俺は本も読まず、先ほどからジッと氷嚢を見ている少女に問い掛けた。
「長門。二人の容体はどうなんだ?大丈夫なのか?」
「大丈夫。肉体的損傷は殆どない。軽い擦り傷しか確認されてない」
「そうか……では何でこんなに苦しそうなんだ?」
「それは僕からお伝えしましょう。涼宮さんと佐々木さん、お二人ともかなりのショックを受けたようです。誰かさんの、あまりに桁外れの才能によって、自身が持つプライドを大破させられてしまいましたからね」
「うむ、確かにあれはショック大きいだろうな……」
 言って俺は襖の向こうの部屋をつい見てしまった。ここの部屋では、現在森さんによる『教育』が橘に行われている。
 それほど遮音性が高いとは言えない襖の奥からは何も聞こえてはこなかった。が……
「……気になりますか?彼女のことが」
 いや、静けさが帰って不気味でな。
「大丈夫ですよ。人前……しかも涼宮さん達の手前ですから、さほど厳しい『教育』はしないでしょう」
 そう言えば、お前もさっき森さんに呼ばれてたよな。もしかしてお前も『教育』とやらを受けてたのか?
「ええ、少々浮かれて橘京子を助長させてしまいましたからね。ですが左記ほど申しました通り、それほど厳しいことはされませんでしたよ」
 ちなみに、何されたんだ?
「懸垂10回でした」
 なんだ、もっとひどいことさせられるかとびっくりしたぜ。
「……まあ、腕で懸垂するのではなくて、違う部位を無理矢理鉄棒にくくり付けてさせられるんですけどね」
 よく見ると、古泉の目元が泣きはらしたかのように赤くなっているが……怖いのでこれ以上は聞かないようにする。
 森さん、やっぱり怖すぎます……。

「どうでしょうか、お二人のお加減は?」
 俺たちが森さんの話をしていたからなのかどうなのかは知らないが、奥の部屋からタイミングよく森さんが現れた。もちろんメイド姿である。
「あ、いえ……もう少し休ませたほうがいいかもしれません」
「そうでしたか。それほど心配なさることはございません。後は私が看病いたしますので、お先に温泉にでも浸かって疲れを癒してください」
「そうですか、それはすみません。古泉、一緒に行くか?」
「いえ、僕は所用がありますので、後から入る事にします」
「そういえ橘はどうしたんですか、森さん」
「彼女は今ごろ雪に埋もれて……いえ、かまくらを作っています。今日の暴走の反省として、私が作るよう命じました。夕食の時間辺りには完成すると思われます。後から皆さんで遊びに行きましょう」
「……そ、そうでしたか……それは楽しみですね……」
 にこやかな顔でさわやかに問題発言を言い放つ森さん。
 ……橘。今回ばかりは相手が悪い。本気で変な行動は自重したほうがいいぞ。でないと命が持たんぞ。
 




「ふう、生き返るな……」
 俺は一人、このペンションが所有する、屋外の天然温泉に浸り今日一日の疲れを癒していた。スキーによる疲労も確かに存在していたが、それよりも色んな方面で疲れを感じているからな。
 本日の早朝から始まったドタバタ劇は夕日が沈みかける今ごろになっても終わりそうに無い。今こそ小康状態だが、ここでハルヒと佐々木が目覚め、そして橘が『教育』から復帰した際、再び俺の胃はキリキリと音を立てて俺を苦しめるだろう。
 まあ無視してそのままやり過ごして逃げるって言う案もあるにはあるのだが、やり過ごしたところで変にカンの良い橘は俺を見つけだして再び迷惑を掛けまくるだろう。
 ならば遠からず近からず、ビミョーな位置に滞在して交わすのが一番だろう。中学の時の先輩が教えてくれた、痛い奴とうまく付き合う方法だ。
 しかし、橘京子はただ痛い奴というわけではない。言葉では説明しにくいが、こちらの予測を全て外し、なおかつ軌道をころころ変えてしまうのだ。それでもってどうでもいい時には一般人以上の道徳と理性をかね揃えている。
 簡単に言えば、やっぱりこの言葉に尽きる。空気が読めない娘、と。
 そういえば佐々木の閉鎖空間に神人が現れ始めてから、あいつの性格もおかしくなっている気がする。そしてその症状は進行中であり、馬鹿っぽさが以前にもましてひどくなっているのは既知の事実だ。
 もしかしたら佐々木の深層心理と何か関係あるのかもしれないな。佐々木の精神が不安定になって来ているのもあるみたいだし。その辺を解決したらあいつも元の性格に戻るのかもしれないな……

 ……ははは、んなこたぁないか。
 ここで俺の意識が素へと戻った。別に橘の性格などどうでもいい。俺が関わらないように気をつければいいことだ。今回は森さんが『教育』してくれていることだし、そのうち元に戻るだろう。
 考えるのは止めた。こんな事を考えるより、もっと温泉自身をたのしもうではないか。
 そういえばちょっとぬるいな。もう少し源泉が出ている方へと行くか……
 俺は靄がかかった浴内をしゃがんだまま歩き……
「きゃっ!」
 ……そして、人にぶつかってしまった。

 ちょっと待て。今のはどう聞いても女性の声だったぞ。どうしてここに女の人がいるんだ!
 俺はちゃんと男湯の暖簾をくぐったつもりだったが、もしかして間違えたか?それとも時間によって入れ替わるシステムなのか?
 この人が間違えて入ってきた可能性も否定できないが、どちらにせよ、この状態では男のほうが圧倒的に不利だ。
 知らん振りして走り去るか、素直に謝るか、潜って暫く様子見るか……
 俺のライフカードはそんなに残っていない!
 どうする、俺!

「あいたたたた……あれ?キョンくんじゃないですか、何故ここに……って、キ「黙れこのKY!」」
 俺はとっさに悲鳴を上げた女性――橘の口を抑えた。橘はいつものツインテールではなく、髪を下ろして入浴をしていたため最初は気付かなかったのだ。
 ……よかった、本当に良かった。ここにいたのが他の女性だったらこんな事はできない。俺の心臓は未だドキドキと音を立てているが、それももうじき収まるだろう。
 俺は声を潜めて橘に話し掛けた。
「いいか、あまり大きな声を立てるんじゃない。なんでお前がここにいるんだ?」
「え?だって、温泉に入りたかったからですよ。あんな寒い中、雪の中に埋まってたら凍死しちゃいますよ!」
 そういやこいつは森さんの『教育』実行中だったな……って、逃げ出してきたのか?
「ええ、あんなことやってられませんもの。あたしの自慢のツインテールをあんなふうに甚振っちゃって……全く、あの年増の若作り、今時あんな事したら懲罰で逆に訴えられちゃうのです!ひどい目にあいますよ!」
 俺としては体罰よりも、森さんに『年増の若作り』発言をした橘の方が近い将来ひどい目に会うような気がする。間違いない。
「それはわかった。だが俺が聞きたいのはそういう意味じゃなくてな。俺は男湯に入ったはずなのに、何で女性であるお前がここにいるんだ?」
 俺のもっともな質問に、橘はケラッとした笑みを見せて、そしてこう言ったのだ。
「あれ、キョンくんご存じなかったのですか?ここの露天風呂は混浴ですよ?」

 はい?
「だから、混浴ですよ。混浴。男の人も女の人もなんでもありで入り乱れる事ができるのです」
「入り乱れるかどうかは分からんが……ほんとうかそれは?」
「そうですよ。ちゃんと入り口にそう書いてあったじゃないですか。ここは混浴だって。脱衣室だけ分かれているみたいですけどね」
 なるほど。だから古泉だけでなく、女性陣は一緒に風呂に入ろうとしなかったのか。ん?だがそれでは……
「橘、お前は混浴に入るのは抵抗が無いのか?」
「そんな訳無いですよ。あたしだって不特定多数の殿方に対して肌を露にするのは絶対に嫌なのです。されそうになったら舌噛んで死んじゃいます!」
「ならどうしてここに?他の男がいる可能性だってあったんだろ?」
「ふふふ、分かりませんか?」
「いや、全然」
「それじゃあ解説しましょう。あたしは混浴で他の男性に体を見られるのを良しとしないのは先ほど言ったとおりです。ですが温泉には入りたい。ではどうするか。それは――」
 それは……?
「簡単です。男湯の脱衣所の前に、『清掃中』の札を置いたのです!こうすれば他の男が入ってくる可能性はまずありませんから!」
 橘は背をそらし大威張りしていた。タオルで隠した小さい胸が貧弱さを物語る。
「ちょっといいか橘。お前の今の意見だと、入ってくるのはいないかも知れないが、それまで入っていた人たちはどうなるんだ?」
「大丈夫です!中に入って確認しましたから!今のところ、この温泉に入っている男性はキョンくんしかいないのです!」
「もう一つつっこむぞ橘。入浴中なのが何で俺だと分かったんだ?」
「わかりますよ。脱衣所にあった着替え、キョンくんのものでしたし。汗の匂いも間違いなくキョンくんのものでした。あ、言い忘れましたけど今まで穿いていた下着はありがたく頂戴……ゲフンゲフン、洗濯するんで回収しましたから」
「何だかすっげえ寒気を感じたが……それは考えないようにしよう。では最後の質問だ。何故お前は男の俺がいるのに入ってきたのだ?」
「……言わないと、分かりませんか?」
 ……え?
「誰にも邪魔されずに、二人でお風呂に入りたかったんですよ。涼宮さんも佐々木さんもまだ意識が回復してないみたいですしね」
 ちょ、ちょっと待て!お前、一体何を……?
「別に良いじゃないですか、二人でお風呂に入るだけですよ。あたしだってストレス溜まってんですから、たまにはこうやって発散させてもいいですよね?」
 橘はそう言って俺に寄り添ってきた。前かがみで、しかも体を挟むように腕を動かすから、悲しいかな俺の目線はタオルで覆われた胸へと集中してしまう。貧乳とはいえ、これは男の性と言っても過言ではない。
 だがここで、俺はふとした疑問が浮かび上がる。おかしい。こいつはこんなに胸があったか?
「あ、気づきました?実は日に日に大きくなっていっているんですよ。以前長門さんに大きくしてもらった時とは程遠いですが、それでも昔の胸が無かった頃よりは大きいんです。少しだけですけど」
 なぜ……なぜ、大きくなっているんだ!?
「これも簡単な事です。九曜さんに頼んだんですよ。長門さんによる情報操作遮蔽壁を無効化して、長門さんの胸の脂肪をあたしの胸へと移植しているんです。佐々木さんや涼宮さん、そして長門さんに気付かれないよう、少しずつね……」
 馬鹿な!長門はお前の胸を大きくしてくれた恩人じゃないか!しかも友人の契りを交わすほど仲が良かったのじゃないのか!?
「ええ、たしかにそうでした。しかしそれも過去の事。あたしの脂肪によって自分の胸を肥大化させたのに、あたしには少しも還元してくれないんですもの。少しくらい返してくれてもいいと思いません?」
 まるっきり逆恨みだろ!お前の計画の無さがおまえ自身の悲劇を招いたんだろうが!
「それはそれ。これはこれ。とにかく自分ひとりで占有するのは許せません!これがまず一つ目の復讐です」
 一つ目だと。他に何か考えているというのか?
「ええ、今はまだ詳細は明かせませんが。ああそれと、あたしの復讐劇を少しとはいえ聞いてしまった以上、できればご助力いただきたいのですが……」
「断る」
「そんなこといわないで下さい。ちゃんと報酬も出しますから」
 やっぱりこいつは馬鹿だ。報酬とやらに目がくらんで俺がお前の復讐などに荷担するとでも思うのか?付き合ってられん。それに長門に警告もしないとな。橘。悪いが先に上がらせてもらうぜ。

「駄目です!あたしと暫く一緒に浸かってなさい!」
 何故だ?お前にそんなこという権利は無いだろう?
「あります!あなたは先の勝負であたしに負けたんです!そして敗者は勝者の言う事を聞く。そういう決まりでしたよね?」
 ふっ、そんな決まり、あいつらの失格と共に消去されたよ。よしんば有効だったとしてもその条件は聞けないな。
「……なるほど。さすがはキョンくん。なかなか手ごわいですね。ならば報酬を少し前払いしようじゃありませんか」
 橘は持っていたゴムを頭の後ろに回し――うっ!!
「ふふふ、どうですか、ポニーテール。あたしの髪、涼宮さんや佐々木さんよりは長いから、似合うと思いません?」
「ああ、凄く似合って……っく、違う!騙されないぞ!!」
 橘はゴム紐を緩め、そして元の髪型に戻し――
「やせ我慢しちゃって。キョンくんがこの髪型に弱いのは調査済みです。それにもしキョンくんがあたしの復讐に手伝ってくれるなら、これからキョンくんと会うときはずっとこの髪型にしてあげますよ」
 ――そして、俺にとって破格の報酬を提案したのだった。

 マジか?
「えらくマジなのです!」
 本気か?
「あったりまえです!」
 嘘つかないな?
「当然!」
 あと、他人にあんまりひどい危害は加えないよな?
「そんな気はサラサラないです。胸の件だって、元の位置に戻そうとしているだけですし、他の人には若干凹んでもらう程度ですよ」
 な、なるほど……それほど悪い提案でもないかもしれない。他人が少しいやな目に会うくらいで、俺はずっと橘のポニーテール姿を拝めるって訳だ。
 橘は容姿が悪いわけじゃない。というか平均以上だと思う。加えてポニーテールをしてくれたら俺的ランクは朝比奈さんを超えてしまうかもしれない。
 こいつぁやばい。凄く期待したい。
 だが他人がどれだけ迷惑を被るのか、その辺も気になるし……
「ね、お願い」
 うおっ!
 橘は一度梳いた髪をまた括りつけ、そして上目使いで胸を寄せて懇願してきた。
 すまん、マジたまんねっす。もう罠でも何でもどうでもいいや。
「わかった。お前の――」

「何やってるの、橘さん?」
「混浴の公衆浴場でキョンに襲い掛かるとは、いやはや大したものだよ」

 ――その声は、橘の誘惑から俺を救ってくれたのだった。
 




「ひいっ!何故ここに……?」
「暫く生死の狭間で苦しんでいけど、何とか意識を回復させてね。少し頭をハッキリさせたほうがいいと森さんの提案でこうやって温泉に浸かりに来たのだよ。混浴で、しかもキョンしか入っていないということだったから、飛ぶ勢いでここまで来てしまったよ」
「で、でも清掃中の札があったはずです!あたしはちゃんと女性用の脱衣所にも掛けてきたはずです!」
「甘いわ橘さん。キョンが入浴中だというのに、それに相伴しないとでも思ったわけ?」
「逆に殿方の方を規制してしまったのであれば、それこそこちらが有利だ。何も気兼ねなく入れるからね」
「うう、しまったぁ……」
「橘さん、そろそろ暖まったんじゃないのかしら?」
「え?」
「早く出て行ったほうが身のためだと思うけどね。命が欲しかったら」
「それとも湯けむり殺人事件なんてベタな展開、お望みかしら?」
「ひゃぁぁ!!!み、皆さん、いい湯でしたそれじゃお先上がりますさようならごきでんようあでぃおすあみーご!!!」

 橘は水面を歩くアメンボの様に疾走し、そしてこの場から消え去った。

「はあ、助かったよハルヒ。そして佐々木」
「ふん、あんたも苦労しているわね!」
「無事で何よりだキョン。それより……」
「中途半端にお湯を浴びたら寒くなっちゃった。あたしたちも一緒に入ってもいいわよね?」
 え゛……
「ついでにお酒も持ってきたよ。みんなで雪見酒と行こうじゃないか」
 二人は何故か俺の隣通しに並んで、温泉に浸かったのだった。
 




「全く。橘さんったら油断も好きも会ったもんじゃないわ。……ひっく」
「本当にだ。しかしあんな胸の大きさでキョンを誘惑できると思っているのかね。……うぃっ」
「……」
「……ぷはぁ。本当よね。あれじゃ小学生にも負けてるわよ」
「中学生の時見た、キョンの妹君と良い勝負かも知れないね。くっくっくっ……おかわり」
 ハルヒと佐々木のぼやきを聞きながら、俺は身動きとれずこの場に座していた。酒を飲み始めた二人は、温泉で血の巡りが良くなったせいも会ってか、いつも以上に絡み始めてきたのだ。 
  ハルヒは禁酒宣言していたのに、どうしてその宣言を破ったのかは定かではない。ただしやっぱり橘に起因していると思われる。詳しく聞く気にはなれないけど。
「ふふふ、キョンはこれくらいないと動揺しないものね」
 ハルヒは俺に近づき、胸を寄せてきた。長門の情報操作によって以前よりも膨れ上がった胸は橘の比ではない。酒のせいか温泉で血行が良くなったせいなのか、頬を桜色に染めているハルヒはかなりの色っぽさを醸し出している。
「ちょ、待て、ハルヒ!」
「涼宮さん、抜け駆けはいただけないよ。それよりキョン。僕の方が大きいと思わないかい?」
 同じく頬を染めている佐々木は俺の腕を取り、そしてタオル越しに胸の先端へと当ててきた。思わず佐々木の方を振り向き、そしてそこで硬直する。未知の洞窟への入り口――胸の谷間が、視線を逸らすことを許してくれないのだ。
「あー!佐々木さん!それ反則よ!あたしだって!!」
 プニ
「どうキョン!あたしの方が弾力は上よ!」
「くくく、弾力なら僕だって負けてはないよ。どう思うキョン?」
 ポヨン
「さ、佐々木さん!あなたそんなところにそんなものを!!あたしだって!!」
 ムニュニュ
「それでこそわたしのライバルだよ、涼宮さん。ではとっておきの秘技をキョンに見せてあげよう」

タップンタップン
 
 ……すみません、ちょっとナレーションを離脱させてもらいます。思春期真っ盛りの一高校生でもある俺には、刺激が強すぎて何を申し上げたらよいか分かりません。


「……さて、キョン。背中を流してあげようか?」
「あ、あたしも手伝ってあげるわよ!」
「……いや、もう少し入って温まっておくよ」
「そう……」
(出るに出られないんだよ、今は)
「ん、キョン。今何か言った?」
「いや、別に……」
「キョンがもっと温まりたいというのなら、僕もそれに付き合うことにしよう」
「あたしもそうするわ!こうなったら我慢大会ね!みんなで寄せ合って体を温めるわよ!一番最初に出た人はジュースを奢る事!」
「涼宮さん、今度こそ負けないよ!」
「それはこっちのセリフよ!佐々木さん、それにキョン!」
 おい、そんなに寄るな!ますます取り返しがつかなくなるだろうが!

 ――俺は、そのなんともいえぬ感覚をステレオ2チャンネルで感じ、ああのぼせるのは規定事項だと途方に暮れながらも、とりあえず今は両腕に全神経を集中させたのであった。
 その後、二人の攻防に見事耐え切り、先に上がらせることに成功した俺は二人の目に見えない場所に移動し、冷たい外気に体を触れされることによってのぼせる寸前の体と絶好調になってきた体の一部分を何とか鎮め、何とか事なきを得た。

 




 体を洗い温泉から上がると、料理の準備はほぼ万端に揃っていた。
 暫くして、ハルヒによって乾杯の挨拶が執り行われた。ちなみに酒は一切なし。当然である。高校生だしな。
 さっき温泉で佐々木が持って二人で飲んでいたのは、気のせいだと言うことにしておく。
 宴も酣になったころ、恒例(?)の一発芸が開催された。古泉の腹話術、朝比奈さんのバニーガール衣装での手品、その他諸々。なかでも長門と九曜のデュエットは貴重だったかもしれない。
 っと、ここまで来て橘の姿が無い事に気付いた。そういえばこの夕食には全然姿を表さなかった気がするが……。
「あ、森さん。橘の奴はどこにいったかご存知ないですか?」
「橘さんは、私のいい付けを守らなかったため、罰として今度はペンションの屋根の雪下ろしをしてもらってます」
 ゆ、雪下ろしって……この屋根結構高いし、雪を滑りやすくするため角度もかなり急だったような……
「ご安心下さい。今度は脱走できないようにはしごは取っ払っております」
 ……橘。言わんこっちゃない。森さんを怒らせると取り返しがつかないことになるって。あのハルヒですら森さんに無理難題言うのを避けているんだぞ。六感レベルで。

 俺は窓の外をふと見る。

 ―― ズサァ ズサァ ――

 上から雪が滑り落ちてくる。どうやらまじめに仕事をやっているらしい。ひんひん言いながら雪を下ろしている光景が目に浮かぶ。
 とは言え、少しかわいそうかもしれない。
「森さん、あいつに炊き出しか何かあげてもいいんじゃないんですか?もう結構な時間仕事している見たいだし、反省もしているんじゃないのですか?
「……そうですね。あなたが言うのであれば。今準備を致しますね」
 森さんはエプロンをはためかせながら、厨房へと戻っていった。
 




「すんすん、寒いよう……ひもじいよう……」
 既に真っ暗になった屋根の上で、橘は頭にライトをつけながら一人せっせと雪を掻き下ろしていた。
「橘。生きているか?」
「あ、キョンくん……」
 俺に気付いた橘が歩き出して……こけた。
「いったぁーい」
 屋根は滑りやすいって森さんが言ってたから、気をつけろよ。下に落ちたら一巻の終わりだからな」
「はぁい……それで、キョンくんはどうしてここに?はっ、まさかあたしの手伝いを?ううっ、キョンくんはとっても優しいのです……」
 誰が手伝うか誰が。元はといえばお前が悪いんだろ。森さんを怒らせて。
「た、確かにそうなんですけど、ちょっとひどすぎるとは思いません?」
「だから、お前がそれ相応のドジをやらかしてるから森さんが怒ってんだよ。新幹線の中でも言っただろうが。空気読めって」
「で、でも、あたし空気読みましたよ。スキー対決の際はちゃんと追い風が来てから滑り出しましたし、かまくら作ってたときも風が強くなってきたから、このままでは風邪を引くと思って温泉に浸かったり……ってキョンくん、ここで転ぶと危ないですよ?」
 そうじゃなくて……てか何だそのベタな間違いは……
「わかったわかった。それより早く片付けろ」
「はぁい。なんだ、キョンくんが手伝ってくれると思ったのに……ううっ、現実は厳しいなぁ……」
「そうだそうだ。目的を忘れていた。これ、差し入れだ」
「これは……おにぎり?」
「ああ。結構時間が経っているし、お腹もすいているだろ?ほら、熱いお茶もある。森さんに頼んで持ってきてやったんだ。感謝しろよ?」
「…………」
 橘?どうした?
「うぁぁぁん!キョンくんありがとー!!!やっぱりキョンくんは優しいのです!!!」
「こ、こらっ!!抱きつきな!!危ないだろうが!!!」
「あ、そ、そうでしたね。キョンくんはこっちのほうが良いんでしたね」
 橘はコホンと喉をを鳴らし、
「べ、別に嬉しかったから抱きついたわけじゃないんだからね!!足……そう、足が滑ってバランス崩しただけなんだからね!有難うなんていわないんだから!……ど、どうしても言って欲しいって言うんなら、まあ考えてやらない事も無いけどね!」
 あー、さいですか。それじゃ頑張ってくれ。
「ふふふふふ。……ねえ、キョンくん」
 何だ?
「ありがとう!」
 
 …………。
 この時の橘の笑顔に、俺は思わず見とれてしまった。


 俺は変な気持ちをやきもきさせながら、下の屋根へと降り立った。
 変な気持ちである原因はわかっている。あいつが、あんな良い笑顔を見せるとは……
 もしかしたら、森さんの『教育』のおかげで少しまともな性格に戻ってきているのかもしれないな。
 あのまままともに戻って欲しいものだ。あいつは結構家庭的だし、尽くすタイプである事は佐々木を見ていて分かっている。そうなれば俺も……
 ……って何を言っているんだ?変な事を考えるのはよそう。あいつは変な復讐も抱えていたじゃないか。長門の胸の脂肪を自分に移し替えようとしていたじゃないか。 それにそれが一つ目の復讐だといった。他にも何か考えているはずだ。本気になったら朝比奈さんを誘拐するような奴らだ。注意しておかなければ……


「――何をやっている。こんなところで?」
 俺が対橘対策をしていると、またしても藤原が不意に声をかけてきた。
「何、とはご挨拶だな。森さんに頼まれて橘に炊き出しを持っていった帰りだ」
 俺の言葉に藤原はチッと慣らし、
「だからあんた達は困るんだよ。そうやって自分達が人形にされる規定事項を、知らず知らず遂行していく。僕達の仕事も終焉が見えてこないのはそのせいだ」
 お前達の仕事など知った事か。
「そうだな。それは禁則だから喋る事ができない。言えたとしても喋る気はサラサラ無いがな」
 藤原は相変わらずの冷たい視線を俺に見せていた。つくづく嫌な奴だぜ。
「だが、それはまだいい。それより今問題なのはあんただ。なぜ橘京子に関わっている?」
「何故って……飯をあげに行くくらいいいだろう」
「それだけじゃない。スキーの対決や温泉での出来事も僕はちゃんと見ていたんだ」
 見ていたって、どこからだろう……つっこむと面白いかもしれない。
「あんたは僕の提案に乗るどころか、むしろ反故する形をとっていた。これは僕達……いや、僕に対する挑戦状と受け取っていいのかな?」
 だから俺は特別何もしていないって。事件は橘が起こしているんだ。俺は何もしていない。
「まだ言うか!」
 ズトン!!
 藤原は抱えていたスコップを雪の上に突き刺した。
「あんたが橘京子に関わりを持つ事をやめるのであれば、僕はあんたに対して別段何もする気はなかった。だがそうでないのであればこちらもそれ相応の対応を取らざるを得ない。覚悟は、できているな?」
 ゴクリ。
 俺の喉がなった。いつもやる気を感じさせることの無いこいつから、本気モードのオーラが見えたからである。身動きもとれない。
「何を……する気だ……?」
 声だけは何とか絞り出せた。だが俺はその気に圧されて思わず身じろぎしてしまった。
「ならば言おう。僕の意思を。僕は――」
 僕は……?



「僕は、橘京子が好きなんだ!愛している!!」



 ドサッ



「僕は彼女と会った瞬間、ビビッとくるものがあった。あの愛くるしい顔立ち、ユーモア溢れる性格、そしてあるのかないのか分からないビミョーな胸!全て僕好みだったんだ!それなのに、あんたと彼女が会った瞬間、彼女の気はあんたの方に……」
「最初はあんたに恨みを持った。だがそれだけじゃ何の解決にもならない。自分の魅力で彼女を振り向かせる事をしなければ、いつまでたっても彼女を手にする事はできないと感じたからな」
「だからこの合宿で彼女を助け、僕の印象を少しでも彼女に伝えようと努力した。だがあんたはそれを無に帰し、あまつさえ彼女にちょっかいをかけてきた。そこであんたに警告したんだ。『橘京子に関わるな』ってね。あんたはその気が無いという事で助かったよ」
「だけどその言葉とは裏腹の行動をとったあんたには正直遺憾を感じる。こうなったら実力行使あるのみ!今から屋根に登って雪下ろしを手伝い、彼女を助ける。彼女は喜ぶだろう。僕のアドバンテージができるってわけだ」
「あんたが何を考えているかは知った事じゃないが、僕はこうして着々と印象を高めていく。あんたが今から手伝おうとしても所詮2番煎じ。僕の方がインプレッションは強いだろう。ふふふふ、じゃあな。せいぜいあがくがいいさ」



 俺が雪に突っ伏してノーコメントを貫き通していると、一通り解説し終え、ご満悦な藤原が鼻歌を歌いながらよいしょよいしょと階段を上り始めた。
 顔が冷たいのだが、正直あまりにもアホらしくて何も行動する気になれん。なれないのだが……



 ――藤原。お前が橘をどうするのかは勝手だが、それよりも俺が本日お前に対してカッコイイと思った時間を返してくれ。未来人の確執について考察していた時間を返してくれ。すっげー損したぞ時間を。
 ――そして古泉。お前の推理、全く違うじゃねーか。

 

 ……しかし、心の中で一人ツッコミを入れるのは俺という人間の悲しい性なのかも知れない。


 こうして俺は、問題児が更に増えた事に諦観しつつ、今後の対応をどうしようか本気で黙考し始めていた。
 この合宿を途中離脱して、帰宅するまでの経費って、いくらかかるんだろな、と。

※橘京子の陰謀(合宿二日目)に続く

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最終更新:2020年03月12日 01:04