今更ながら気付いたが、まだ日中にも関わらず森の中は非常に気味が悪い。いやはや、よくぞハルヒは一人で追いかけてきたもんだ。
 と、そんなことを思慮深く考えていたせいかは知らんが、俺は繋いでいた手に一層の力を込めた。
 瞬間、白いシーツに赤ワインを垂らしたように、ハルヒの耳が朱の色に染まっていく。
 そして彼女は、そんな乙女じみた反応に比例するように、とてもとても力強く俺の手を握り返してきた。
 こんな初々しい様子を見せられて、愛しく思わないやつがいるだろうか?
 いるなら出てこい、俺が骨の髄まで叩き込んでやる。
 ……なんてな。困ったもんだ、どうやら俺は本気でこいつに――。
 俺がむやみやたらと感慨にふけっている間に、眼前にそこはかとない光が射し込んできた。
 あまりの眩しさに目を瞑る。久しぶりに本物の光を見たような気分であるのは何故だろうかね。
 
 いや、理由は分かってるか。俺の目の前にいる彼女。こいつが希望の光を与えてくれた。
 
 
 森を抜け出た直後、完全に置き去りにされていた他の連中が、俺たちの姿を見つけるやいなや揃って駆け寄ってきた。
「キョンくん、あの、その、佐々木さんのことなんですけど……」
「もう大丈夫です、朝比奈さん。ご迷惑お掛けしました。早く佐々木を助けてやりましょう」
 俺がなるだけ明るく、そう発すると、朝比奈さんはアスファルトに咲いたタンポポを見つけたように顔を明るくして、
「そうです、頑張りましょう。あたしも、あたしに出来ることなら何でもやりますから」
 爽やかな風が通り抜けた。
 美術館にも飾れるであろう容姿の女神様は、天候を操る能力まで兼ね備えているようだ。
 ハルヒとは別種の救いを俺に与えてくれる。心の補完のためには確実に必要な存在だね。
「僕も尽力します。姫様たっての希望でもありますから」
「あ、あたしだって、佐々木さんのために頑張るのです!」
 と、古泉と橘も続いた。
 この二人にも感謝しなきゃな、とは思いつつも「ああ」と投げやりに返してしまう俺。本能のままに生きているということを証明した瞬間でもあった。
 
「じゃあみんな、張り切っていくわよ! 出発進行!!」
 そのまま俺の腕をつかんで、再びハルヒは歩き出した。一国のお姫様とは思えぬ行動力。
 しかし、ここは全力で抵抗をさせてもらう。
「待て、ハルヒ」
 現在持ち得る力を全て足に集約させ、懸命にフルブレーキングを試みる。それでも引きずられるのはどういう了見であろうか。
 そんな俺に対して、ハルヒは眉間にしわを寄せながら、
「あによ」
 あによ、じゃない。無鉄砲に進みやがって。
 そんなことやってたら佐々木を助けるのがいつになるかなんて検討もつかんぞ。ましてや、また犠牲者が増えるかも……。
「じゃあどうすんのよ! あたしに意見したんだから、何か考えの一つくらいあるんでしょうね!」
 沈黙。
 そこまでは全く考えていませんでした。
「いや、あの……えっと、じゃあ、朝比奈さん」
 俺が苦し紛れに名を呼ぶと、朝比奈さんが肩をビクッと震わせた。
 何にもしてないはずなのに、犯罪でも犯したような気分に苛まれる今日この頃。
「あー……うん、そうだ。一度アジトに戻って、喜緑さんのところを訪ねてもらえませんか。何とか協力をお願いしたいんですが」
 たまには考えずに話し始めてみるもんである。俺の口から零れ出たその言葉は、今の状況に対して真に適切な案であったと我ながら思うね。
 さて、当の朝比奈さんは、瞼で大きな目をパチクリと往復させて、
「ええっと……それ、あ、あたし一人でですかぁ?」
「いえ、もちろんもう一人付けますよ」
 冗談じゃない、一人だなんて危険すぎる。
 これ以上誰かを傷つけたくはないんです。朝比奈さんほどの可憐なお方は特に。
「僕がご同行いたしましょうか?」
「却下」
「冗談です」
 冗談だかマイケルだかは知らんが、こいつにだけは任せられん。それこそ朝比奈さんが傷物になる可能性がある。
 そんなことになったら、こいつを殴り倒すどころじゃすまんね。
「それに僕は姫様のお供をすることが至上命題でもありますから」
 知るか、そんなもん。
「橘、頼めるか」
 消去法っていったら橘に失礼だが、実質余るのはこいつしかいない。
 女二人だけだが、橘だったらそこらへんの雑魚くらいは倒せるから大丈夫だろう。
「任せてください。あたしがついているからには、朝比奈さんに指一本触れさせません!」
 頼もしい言葉だね。若干信用はしかねるが。
 しかし、おい、あからさまに古泉を睨むのはやめなさい。
「大丈夫よ、橘さん。古泉くんには好きな人がいるから。みくるちゃんに手を出すようなマネはしないわ」
 と、ハルヒ。
 ちっとばかり肝を抜かれたが、まあ確かに、こいつなら普通の付き合いをしていても何ら不思議はないな。
 しかし古泉は、何やら分かっていないといった表情で、
「僕に、想い人ですか? そんな方はお見受けしないように存じますが……」
「あれ、古泉くんって森さんのこと好きじゃないの?」
 終始ニヤケ面だった顔が固まった。心なしか青白くなっている気もする。大丈夫かよ、こいつ。
 数秒の後、古泉はやっとのことで有機活動を再開し、
「有り得ません、絶対!」
 明確な拒絶を感じるね。
 森さん、という俺にとって未知のワードは、そんなに古泉の琴線に触れるものがあるのか。
「ふーん、そうなんだ。あたしは結構お似合いだと思うけどなあ」
 と、ハルヒが含みのある笑いをしながらのたまった。
 古泉は未だにしどろもどろ。主従関係の常を見た。
 うむ、しかしこれはいい弱みを握れた。さすがハルヒと言うべきか。
「ま、それでも健全な男女が二人きりだったら何が起きても不思議じゃないわね」
 というわけで、なんだかんだで結局、喜緑さんのところには朝比奈さんと橘の二人で行ってもらうこととなった。
「ところでみくるちゃん!」
「は、はい」
「アジトって何、どこにあんのそれ?」
「えっとぉ、城下町の」「城下町! ああもう、それじゃあそんな格好してちゃダメじゃない。あたしが見繕ってあげるから、こっちに来なさい!」
 朝比奈さんが全て話し終わる前に一気にまくし立てたハルヒは、その勢いを持続したまま、年下と間違えてしまいそうな彼女をテントへと引きずっていった。そんな彼女の手には巻き込まれた橘の姿が。
「ひょえええ」
 荒野に虚しく響く二重の叫び声。
 それをバックグラウンドとし、俺は近くの岩に腰掛けた。
「ふう」
 今更になって体に痛みを感じる。それこそこれまで経験したことがない、焼けるような痛みだ。
 アメージング。少しだけだが、みんなと触れ合えたことで安心したから再発したんだろうな。
 などと、俺に似合わなずセンチメンタルな気分を味わっていると、
「お隣、失礼します」
 失礼させません。
「冷たいですね。お姫様にはあんなに優しいあなたが」
 俺は女には誰にでも優しいんだよ。紳士として当然のたしなみだ。
「いえいえ、しかしあれには驚かされましたよ。あなたの口からハルヒ、とはね」
 お前は一度その減らず口を釘で打ち付けた方が良さそうだ。今なら俺が自ら承ってやる。
「ご遠慮願います。ところで、朝比奈さんたちはあなたのアジトとやらに行くとして、僕たちはどうするんですか?」
 沈黙、再び。
「まさかとは思いますが、何も考えていないなんてことは……」
「悪いか?」
 開き直るほかなかった。
「まあ悪い悪くないで言ったら、10:0の割合で悪いかと」
 100%じゃねえか。だいたいさ、お前も何か考えろよ。
 誰か知り合いに石になった人間を元に戻してくれるやつとかいないのか?
「残念ながら」
「……そうかい」
 俺は少し残念そうに言った。端からこいつに期待なんてしてなかったがな。
 その言葉を境に、それ以上古泉が話しかけてくることはなかった。俺は延々と続く荒野を見ながら思う。
 今日はやけに沈黙が続く日だ。
 
 
「おっまったせー!」
 一キロ先にも聞き取れるような声が沈黙を一突き。それは近くの山々にぶつかって、若干のエコーがかかっている。
 俺は遠くからも聞こえてくる反響音にも耳を傾けつつも、目の前に降臨した三人の天使を眺める作業に躍起となった。
 ……はずだったのだが、俺はハルヒ一人から目を離すことができなかった。そりゃ朝比奈さんも素晴らしいんだが……むう、こりゃどうしたもんかね。
 それにしても人間塞翁が馬。辛いことがあったと思えばこれだ。これだから人生というやつは面白いのだろうけどな。
 なんて俗物的な考えをしていると、ハルヒが多少訝しげにこちらを一瞥し、
「どしたの?」
 分からないことは訊く、当然のこと。5歳児にだって簡単に行うリアクション。
 しかし、それを答える側となると話は別だ。訊ねる側に比べ、飛躍的に上昇した言語レベルが必要とされる。ある所説によると、返答は限界への挑戦とも称されるそうだ。
 まともに返す場合は少しでも相手に伝わりやすくするため、ごまかす場合は少しでも質問の主から遠ざけようとするために尽力する。
 そして、今回の俺のケースは後者にカテゴライズされ、上手くそれを実行しようとした結果、もれなく辞書にも載ってしまいそうな悪い例を披露してしまった。
「えっと、だな……そう、空は青いな、と思って」
 ポカーンとした表情のハルヒ。朝比奈さんと橘はその隙にとハルヒの腕から脱出し、おしゃべりモードに突入した。
 二人の「綺麗ですねー」というレスポンスを耳の端で捉えながら言葉を反芻し、よくよく考える。
 前述すら弾いてしまう、悪い例にすら分類されない超絶タームを自らが発したということに気付くのに、それからそう長くはかからなかった。
「……あんた、何言ってんの? バカじゃない」
 ぐぅの音も出ないほどの的確さ。反論の弁も無いとはこのことを指すのだろう。
 俺が言葉に詰まったところを見ると、ハルヒは古泉に森さんのこと言及したときと同種の顔をして、
「はっはーん、もしかしてあたしに見とれてたってわけね。ほら、素直に言っちゃいなさい、今なら許してあげないこともないから」
「ああ、めちゃくちゃ綺麗だ。三人の中で誰よりも」
 恐ろしいほど滑らかに口から言葉が出た。これが若気の至りであろうか。いやはや、怖いもんだね。
 虚を突かれ、呆気にとられていたハルヒは徐々に頬を赤く染め上げた。お話中だったはずのお二人も顔を真っ赤にしている。
 ん、ああ、古泉は説明する気にもなれん。強いて言えば、殴りたくなるような顔をしていたよ。
「ふ、ふんっ! よく分かってんじゃないの! アホのあんたにしてはマシな答えね!」
「そりゃどうも」
 褒められているのか貶されているのかイマイチよく分からん。
 しかしまあ、ハルヒの照れた顔が見れたからよしとするか。
「照れてなんかなーい!!」
 
 
 ……そんな軽口を挟んだ三時間後――
「――おい古泉、てめえやっぱり道間違えたんじゃねえのか」
「そんな筈はないと思うのですが……」
 またその返事か。だとしたら、どうしてこんな状況なのか説明してもらおうかね。認めたくないが、認めざるを得ない。
 
 
 現在、俺たちは遭難している。
 
 
 話は三時間前に遡る。つまりは、俺とハルヒのたわいもないやり取りが終わった辺りだ。
 「そろそろわたしたちは行きますね」という朝比奈さんにしては珍しい、モデラートのリズムのお言葉が契機だった。
 俺は「一段落したらこっちから連絡します」と残し、名残惜しくも二人と別れた。
 
 ある程度の距離まで二人を見届けると、ハルヒはくるりと俺に向き直り、
「で、あたしたちはどうすんの? もちろん決めてあるんでしょうねえ?」
 と、そのときの俺が最も追求されたくないゾーンに土足でずんずん踏み込んできた。
 ハルヒの顔に浮かぶ悪の笑み。それによると、どうもこちらの様子が分かって訊いているらしい。ここはスキップを使ってもらいたかった。
 それに俺は特にボロを出すようなマネはしなかったはず……ああ、あれか。シックスセンス恐るべし。
 
 さて、悪魔の笑みの効能なのか、俺の手乗り文鳥並みメンタルに与えられたダメージは、存外大きいものとなっていた。
 そして、そのように精神を病んでいたためであろう。古泉に助けを求め目配せなどしでかす始末。
 しかし、そんな俺の大英断をダンゴムシのごとく丸め込み、あいつは我関せずとばかりに朝比奈さんたちが旅立った方角を細い目で眺めている。
 ……後で覚えてやがれよ、くそっ。
 わずかの時間、古泉をシバくという別ベクトルの感情に想いを馳せていると、いつのまにやら、ハルヒは笑顔を極悪から得意満面に変化させ、胸を張りながら物申す。
「あたしの知り合いに王女様がいてね、その人なら何でも協力してくれると思うの」
 この言葉に反応したのは他ならぬ古泉。
「なるほど、鶴屋さんですか」
「そ、古泉くんも分かってるじゃない」
「確かに彼女なら快く協力してくれるでしょうからね」
 完全に蚊帳の外にいる俺。
「そういうわけよ! あたしたちの目的地は鶴屋さんとこで決定ね!」
 ふむ、別に反対する理由もない。よし、じゃあ俺たちも行くとするか。
 佐々木、待ってろよ。
 
 
 ――と意気込んどいてこの様だ。
 情けない、ああ情けない、情けない。
 一句読んでみたが気休めになるわけでもなく、余計にブルーになった。心の中も猛吹雪である。
「だいたい、この山は絶対通らなきゃならんのか? もっと安全なルートはねえのかよ」
「ごちゃごちゃうるさいわよ! これが一番近い道なの! ちょっとでも早く佐々木さんを助けたいんでしょ!」
「そりゃそうだが……」
「じゃあ文句は言わない! いいわね?」
「……了解しましたよ、お姫様」
 だが、本格的にマズいんではなかろうか。先程から延々と同じ場所を歩いている気がする。あ、だから遭難か…………へっくしょん…………にしても、寒いな……。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「あんた、首寒そうね」 ん、そういやマフラーとかしてなかったな。
「しょうがないわね、はい、これ」
 自分が巻いていたマフラーを外して、ずいっと突き出す。
「いいよ、お前が巻いてろ」
 いくら寒いからと言って、女の子から防寒具を奪い取るほど落ちぶれちゃいないさ。
「うるさい! 大人しく言うこと聞きなさい」
 ハルヒが「とりゃー」と嬌声を流しながら俺の首目掛けて飛びついてきた。
 同時に、腕に柔らかいものを感じ、理性がフライングしかける。……生きててよかったなあ……。
「あなた方がいれば凍死する心配はなさそうですね」
 遠い目で戯れ言を抜かすな、バカやろう。
「いや、しかしですね……あれ…………」
「おい、どうした?」
「……急に、眠気が……」
「あたしも……何だか……眠い……」
 おいおい、冗談じゃねえぞ。
「お前ら、絶対寝るんじゃねえ! 本気で死んじまうぞ…………いっ!?」
 二人の体がフェードアウトしていく。雪が溶けていくように。
「……んだよっ、これ……くそっ、ハルヒ! 古泉!」
 俺の叫びも虚しく、やがて、二人の体は完全に消失した。
「…………嘘、だろ……」
 情けなくも、泣きそうになったとき、ふと、そう、何の前触れもなく突然に、背中を冷たい汗が流れた。
 二人が消えたからか……いや、違う。
「……お前、誰だ……?」
 あまりの威圧感に意識を失いそうになったが、何とか紡ぐように言葉を吐き出す。
 吹き荒れる吹雪の奥で、そこだけがぼやけている。夏の日の、蜻蛉みたいに。
「――涼宮……ハルヒ――」
 対峙するだけで気絶しそうなほどのプレッシャーを受ける。 佐々木と共に戦った怪物より、遥かに強い。
 
 ハルヒに借りたマフラーが顔にぶつかり、俺を現実に返した。
 冷静になった俺は、そいつの言葉を省みる。確かに言った、涼宮ハルヒと。
「――――連れ戻す――――」
 結論。
 こいつは俺が倒さなければならない。あいつらが消えたのはこいつの仕業だ。
「……ハルヒは渡さねえ」
「――無謀――」
 無謀、か。
 確かにお前の言うとおりかもしれん。だがな、それでも……やるしかないんだよ。
 
 
「俺がみんなを守るんだ」
 


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