Close Ties(クロース・タイズ) 第四話
朝。体が異常に重たい。
そして眠い。なんとか立ち上がってはみたものの、睡眠が足りないと私の脳と四肢が訴えている。一体この状況はどういう事か。
横になりたいという気持ちに負けて布団を敷いてそこに潜り込み、そして昨日の出来事をずっと反芻していたのは覚えている。
私が有機生命になったという事をすぐ実感した。
生物特有の体臭が私から立ちこめていた上に、髪の毛はあらゆる方向へと自由に波打ってしまっていた。
シャワーを浴びるという行為が必要だと判断し、実行する。人間とはなんと煩わしい行為を、それこそ沢山毎日繰り返さねばならないのだろう。
足がふらつく上に、体は摂食を極端に拒む。思考速度が極めて低い。これが人間なのだろうか。
鏡に映った己の顔が濃い桃色をしている上に歪んで見える。人間になると私はこんな姿になるとは思いも寄らなかった。
しかし気にしてなどいられない。いやがる体に白米だけを無理矢理水と共に流し込んだ。
シャワーという行程が増えたために時間が足りなくなってしまった。
ハルヒに貰ったニット帽があるに関わらず、風が吹く度に耳が痛くなる。中に着ているカーディガンとコート、そしてなにより朝比奈さんがくれたマフラーのありがたみを初めて感じた。手につけている黒い手袋が無ければ、私の両手はきっと凍傷ですぐに使い物にならなくなっていたかもしれない。
これらを渡された時、私は彼女達になんと答えたのだろうか。今からでも改めて感謝の言葉を述べても遅くはないだろうか。
空が青い。雲一つ見えない事に感動を覚えた。太陽はまぶしすぎて直視できないが、その明るさに感謝したい気分だ。
口から出る白い吐息も、制靴が奏でるこつこつという音も、なんだか楽しい気分にさせられる。有機生命体になってから初登校という自分の置かれている状況を忘れてしまいそうだ。
しかし、その楽しいという未体験の気分も学校へと近付く度に増えてくる生徒達の姿を見るにつれ、異なる感情へと変化してきた。
皆すれ違う度におはようと挨拶をしたり、そのまま一緒に会話を始めたり楽しそうだ。たまに見知った顔が私の方を見ては来るが、挨拶はしない。
そうだ、私は人に挨拶を返した事など一度として無かった。まして自分から挨拶した事もない。もし挨拶された時、どうやって返せば良いのか。
長い坂道を上るのはこんなに辛いとは、人間の身になって初めて知った。しかし今はもっとこの坂が長ければいいのにと思ってしまう。
教室に入ったら挨拶をしようにも、挨拶というのはどういう声色で、どんな気分ですれば良いかも分からない。
先にハルヒや朝比奈さん達に会いに行くのはどうか。しかしどう言えば感謝の気持ちが通じるのだろう。いや、気持ちなどという定義が極めて曖昧な情報を伝達するというのを言語だけで行うのは困難だ。
しかし私は人間であり、これからは情報伝達を言葉で行わなくてはならないのだ。
徐々に両耳の痛みが酷くなってきた。側頭部には心臓の鼓動に合わせて痛みが走るようになってきた。
この感覚はなんだろう。沢山の同じコートを着た生徒達、中には見知った顔もいる。沢山の声が聞こえるが、あまりにも多すぎる。どの会話も情報として収集ができない。
助言を求められないものかと、急いで統合思念体と唯一の繋がりになってしまった携帯電話を鞄の中から取り出した。ヒューマノイドインターフェースとしての知識は残っているらしく、操作方法はすぐ分かった。電話帳を開くが、そこにあったのは、自分が元々知っているSOS団団員の名前が並ぶだけだった。
これは統合思念体には自らコンタクトを取る事ができなくなってしまったということに等しい。この状況について何らかのバックアップがなければどんな指令もこなせるはずがない。
沢山の人間の中で、私は一人孤立していた。たくさんの声がして、足音がする。
違和感を覚え初めていた私の足は、ついに次の一歩を踏み出せなくなった。
怖い。
視界に入る人も、耳に入る声や足音も、立ち止まっている私を追い越す際に少し触れる沢山の肩も、すべてが恐ろしい。
ここから逃げなくては。これ以上前には進めない。
私はきびすを返して坂を駆け降り始めた。
「おはよー有希っこ!忘れ物かーい?」
誰が私に呼びかけているのかなんて分かっている。私はそれに対してどう返事して良いか分からない。
それ以上に、怖い。安易にただ「おはよう」または「おはようございます」と返して良いのだろうか。それで私が信用しても良いと感じているこの人物との関係性を崩さずにいられるのだろうか。
もう何もかも分からない事だらけだ。
腹部と喉に違和感が走る。呼吸器だけでなく、体全体がもう限界だと私に訴えかけてくるが、私は止まれない。
しかし、信号のない交差点に差し掛かった時、私は横断歩道に踏み出す寸前で止まった。大きなトラックが多数の北高生徒を威嚇するように、アクセルをふかしながら交差点に進入してきたのだ。
あれに衝突していたらどうなっていただろう。今の私は肉体という不自由な個体を持つ一人の人間に過ぎない。
怪我をして痛みと戦う事になるのか。
それとも、死ぬのか。
死ぬとはどんな気分なのだろうか。自分が消えてしまうとはどんな感覚なんだろう。
私は再び走っていた。もうどこにも逃げ場などないのは分かっていたが、走るしか自分には選択肢がなかった。
自分のマンションに駆け込み、エレベータのボタンを叩く。すぐ扉が開いてくれた。慌てて乗り込んで自分の住む階のボタンを押したところで、私は膝をついた。
立っていられない。なんとか壁伝いに歩いて部屋へとたどり着き、震える手で何度か失敗しつつも鍵穴に鍵を刺して解錠し、ドアを開けた。
部屋にはいくつもの家具が追加されていた。小型の液晶テレビや座椅子は、十数分前まで存在しなかったはずだ。自分の部屋ではないのだろうか。
「う…!」
部屋が醸し出している強烈な違和感に、私は耐えきれずに嘔吐してしまった。嘔吐とは体が訴える危険信号だ。しかし私には対処方法が分からない。
たった今吐き戻した物で汚してしまった玄関マットだって私の知らないものだ。
薄汚れた数枚の座布団は消えている上に、ちゃぶ台は女性らしいデザインの丸テーブルに変わっていた。
もっとよく見れば細かな物品に変化があるのだろうが、霞む目ではそれ以上見つけることができない。
そうだ、クローゼットの中はどうなっているのだろう。不安になった私は、酷い痛みを放つ足で無理矢理立ち上がり、クローゼットを開いた。やはり、知らない服だらけだった。
こんな物すべて不要だ。私に必要な物はこんな物ではない。
私の大切な物はクローゼットの中の定位置に、しっかりと置いてあった。
真っ白なレザー生地のショルダーバッグは何も変わる事無くそこに存在していた。
このショルダーバッグだけではない。ニット帽もマフラーも、手袋も、そして優しく包み込んでくれた鶴屋さんの暖かさも、全て奪われてはならない物だ。
例えそれが主の命令であろうと、私は逆らうだけの感情を手に入れた。
何故そこまで思うのかなんて簡単な質問だ。昨日までの自分なら、これらをどう表現して良いか分からなかったが、今日の私なら、これらを端的に、的確に表現する言葉を知っている。
宝物。私の宝物だからだ。
これらだけは奪われる訳には行かない。
ショルダーバッグの中に、全て一緒に詰め込み、しっかりと鞄を抱きしめる。
私の体力はここで限界だった。暖を採るために寝室の布団に潜り込んだが、体の熱はどんどん奪われていく。口の中に残った胃液らしき匂いが更に胃の内容物を吐き出してしまえと責め立ててくるようだ。
苦しくて仕方がない。だけど、これは私の経験する事ができなかったものだ。単なる偽装有機生命体に過ぎない存在ではなくなった。皆と同じ存在になった証しだ。
胸に抱え込んだバッグから、革製品特有の匂いがする。
物質に頼るこの地球において、形のある物はいずれ必ず劣化し、朽ち果てるという定めが、酷く疎ましい。
あの時、これを受け取った時、私は確かに感じた。この物に宿った人の、古泉一樹の思いを感じたはずだ。
今は、それがもっと強く感じられる人間になったのだ。
残念ながらそうでは無いと結論付けせざるを得ない。
彼らとの関係は、今日で終わりだからだ。
過去がどうあれ、宇宙人ではなくなった私に涼宮ハルヒが興味を示すはずがない。彼女は恐らく無意識に私の異質さを感じ取っていたから、団員として迎え入れたのだろう。
有機生命体置換の際の指令には、涼宮ハルヒと行動を共にせよとあったが、今の私は彼女に接近する事もできず、体の内側から湧き出るような寒さに震える人間に成り下がってしまった。しかも、この状況にどう対処して良いかも分からぬ愚かな人間にだ。
並みの人間なら、きっとこの様な状況に対処する方法を自然に学んでいるのだろうが、統合思念体から情報を得られないスタンドアローン状態に陥った私は、一切の対処方法を知らなかった。
頭部、特に眉の高さより上が熱く、脈拍が高まる。
見知らぬ壁掛け時計が目に入る。霞む目で、辛うじて十時を回った事が確認できた。
人間になってから十二時間。たった十二時間で私は、自身の体を保つ事ができなくなってしまった。
私は死を迎えるのか、それとも朝倉涼子と同じ道を辿るのか。分からないし、考えたくも無い。
「ごはっ…!」
まだ胃の中に残っていたのか、胃液と共に吐瀉物が昇り、喉を満たした。
バッグを抱え込んで、横向きで寝ているせいか、すぐに口の中から流れ出していくが、私はそれを止める体力がなかった。
「ご…ふ…」
呼吸が出来ない。私の脳は最後の力を振り絞ってこの事態を対処しようと咳を出そうとしているらしいが、生憎、私の体は一切動かなかった。だけど、冷静なる私の精神は喜びという感情を湧き立たせていた。これは、肉体が保てなくなってしまう事。有機生命としての死を私が迎えるという事なのではないか。
そう、皆と同じ、人間として最期を迎える。それは役目を失ったプログラムが記憶媒体から削除されるという、私が最も嫌う終焉とは違うからだ。
きっと、最後の瞬間、私はそんな事を考えていたのだろう。
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