Close Ties(クロース・タイズ) 第一話
時刻は午前6時。
通常の有機生命体-人間である朝比奈みくるにとってはまだ睡眠中、または起床時間だろうか。
私が彼女だけを家に呼び出したのは理由があった。
朝比奈みくるはすでに制服へと着替えていたので話はある程度長くできるが、覚醒しきっていない表情は見ていて申し訳がない。急いで伝えることを伝えて登校前に仮眠をとってもらうのが良いだろう。
私はテーブルの前に座った朝比奈みくるにお茶を出してから、テーブルの上に二つ折りのやや無骨なデザインの黒い携帯電話を置いた。
「…えと、携帯電話買ったんですね、長門さん」
残念ながら携帯電話を自慢するために呼び出したわけではない。
「これは統合思念体からもたらされた通信機」
「通信機を必要とするんですか?」
朝比奈みくるは訝(いぶか)しげに携帯電話を眺めた。彼女の疑問はもっともだ。統合思念体と常にリンクしている私に通信機など必要ない。きっと彼女自身がやっていた未来もだ。
「その通信機が必要となる状態に、私はなる事が先ほど決定した。つまり私は有機生命体、人間として涼宮ハルヒの観察を続ける事となった。既に私の体内で置換プロセスが開始されている」
朝比奈みくるの瞳孔が大きく広がった。驚愕するのも当然だ。
きっと私に人並の感情があれば、当事者である私は眼球がこぼれ落ちるくらいに目をむいてしまっていただろう。
朝比奈みくるが押し黙ってしまったので、私は先を続ける。
「統合思念体は危惧を抱いている。原因ははっきりと究明できていないが、現在の涼宮ハルヒ最大の関心事は私自身。私から通常の人間から得られるべき反応を得られないため。知っての通り、閉鎖空間が頻発している。あなたがまともに休めていないのは解っている。昨今の涼宮ハルヒの動向を把握するために多大な労力を必要としている時に、ごめんなさい」
私は座ったまま、両手を床について頭を垂れた。
「や、やめてください長門さん!わたしの事なんて気にしなくていいんですよ!」
朝比奈みくるは慌てて私の頭を上げさせたが、私はまだ言葉を尽くし切れていない。
「本来この報告は本日午後十時までであればいつでも良かった事。にも関わらず私はあなたをこんな時間に呼び出してしまった。私は…」
恐らくこの事を誰かに話したかったから。自分自身の一個体にはエラーが処理しきれなかった。つまり私の利己的判断で迷惑をかけたという事だ。
「そ、そんな!だって長門さんはこれから人間になれるんですよ?そんな素敵な事を教えてもらえなかったら、私拗ねちゃう所でしたよ」
朝比奈みくるの言う意味が良く解らない。素敵な事なのだろうか。私にはそう思えなかった。
「ええと、つまり午後十時に人間になるという事なんですね?そんな顔しないで下さい!わたしちゃんとサポートしますから」
朝比奈みくるの声はリビングルームに響きわたるほど大きくなっていた。少々興奮しているのだろうか。
「もう!そんな大事な事ならキョン君と古泉君にも教えてあげないといけないじゃないですか!」
彼女の疑問は尤もである。しかし私は彼等を呼び出さなかった。
「彼は私の能力に依存して己を保っている面が垣間見える。私が有機生命体となる事で今の状況を解決できる事が確約されるまで彼には話さない方が良いと判断した」
彼も昨今の涼宮ハルヒの精神不安定ぶりを知ってはいるが、理由までは解っていない。
「それは…一理ありますね」
じっと朝比奈みくるは私の次の言葉を待っていた。
彼女が聞きたがっているのは、何故古泉一樹をこの場に呼ばなかったかという事だ。
「古泉一樹については…ごめんなさい」
「あ…いえ、いいんですよ!それはいい判断ですから!誰よりもずっと疲れてるんですし!」
急に朝比奈みくるの顔を直視できなくなってしまった。後ろめたい、という感覚。それに加えて、私を見つめるあの笑いっぱなしの顔が浮かんでくる。まるで目の前にいるかのようだ。
私の顔の前で、銀塩フィルム式カメラのシャッター音を模した電子音が響いた。
「ほら、今こんな顔してたんですよ?すっごく可愛いと思いません?」
私の前に差し出されたのは、ややうつむき加減で視線を斜め下に逸らしたヒューマノイドインターフェースの顔が映る携帯電話だった。
「分からない」
私は素直に認めた。本当に分からない。
朝比奈みくるは小さく含み笑いを浮かべていた。
彼にこんな顔見せたら一発なのにな、などという暗号めいた表現の独り言が気になるが、きっと私が知る必要のある事柄では無いだろう。
「そうだ長門さん、もう今から自分を変えちゃいましょう!さ、わたしの事をみくるちゃんって呼んで下さい!」
何故急に親しい呼び方を求めるのか。朝比奈みくるは私の事を嫌っているとばかり思っていた。それとも彼女自身これを契機に変えようとしているのか。
どちらにしろ、私自身いつまでもフルネームで相手を呼ぶ気は毛頭無かった。
「…朝比奈さん」
私は一学年上の先輩に失礼の無い呼称を採用する事にした。
「もう!みくるちゃんでいいのに。じゃあ、キョン君」
「キョン君」
彼女の推奨する呼び方を採用すれば良いと言うことだろうか。とりあえず合わせるしかないだろう。
「じゃあ次は、ハルヒ」
何故急に下の名前で呼び捨てなのだろうか。
「ハルヒ…あなたは彼女を涼宮さんと呼んでいるはず」
「他人は他人、自分は自分!私と一緒じゃ個性が光りませんよ」
想像以上に人間とは難儀だ。人間には個性が必要なのか。
「じゃあ、次は、一樹君」
「………」
口が正しく発音しようとしないのはどうした事か。朝比奈みく…朝比奈さんの満面の笑みを浮かべた顔が近づいてくる。
朝比奈みく…朝比奈さんは古泉一樹をそんな風に呼べと私に強要したいらしい。瞳の中に脅迫めいた光が宿っているのは気のせいではないだろう。
「…一樹君」
事務的な口調になってしまった。再びシャッター音がする。
どうやらまた私は彼女の心の琴線に触れる顔つきをしていたようだ。
「可愛い…!さ、もう一回古泉君の事呼んで見ましょう!」
結局二人で朝食を取り、登校時間になるまで何度『一樹君』と呼ばされた事か分からないが、嫌な気はしなかった。むしろ一樹君と呼ぶのが普通なのではないかという気持ちになってくる。
登校中、朝比奈さんは携帯電話から煙が出るのではないかと思うほどメールを打っていたが、それは各々が所属する組織への報告活動なのかもしれない。
指の動きを見てしまえばどんなメールを書いているかは解読できるが、それはプライバシーを侵す行動だ。慎むべきだろう。
それにしても、なぜ携帯電話を持っていない方の手で私の手を握ったまま歩いているのだろうか。