タイムカプセル(鬱予定注意)

   芸術家はどんなに恐ろしい夢であろうと、その先が啓示するアポロ的なものを見るためにその奥へと突
き進むのだとニーチェは言った。アポロ的なものとは、チョコレートのようなものなのだろうか。もしそうなら、
恐怖を克服したその先には必ず甘いお菓子のような幸せが待っているのだよと先人の哲学者は啓蒙した
ということになる。なんとも甘い考えだ。
   怖い夢なんてものの奥にあるのは結局はもっと怖い夢しかないのだ。深層心理から引きずり出された
アトモスフィアに弄ばれて、萎縮した心臓をさらに狭窄されて喘ぎ苦しむだけだ。しかし唯一救いなのは、
それに終わりがあるということだろうな。

         ○   ○   ○

   目覚めてからどれほど経ったんだろう。小さな椅子に腰を下ろすと溜息が出た。色を忘れた灰色の世界
が窓枠に切り取られて壁に列挙されている。どうやら俺はまたこの世界に招かれたようだ。まったくもって、
忌々しい。
   だが、今回は舞台が違うようだ。机の小ささや教室の様相などから、どうやら今度は小学校らしい。俺が
今いるここは三階の六年三組で、その教室の後ろ壁一面に貼られている「希望」の習字の百面相が静寂
極まるこの空間に妙なざわつきをもたらしていた。一つだけ、A4サイズという限定された半紙の白面にこれ
でもかと黒墨の領土を広げた末、大きすぎてひどく不恰好となった「希望」に惹かれた。直感で閃いた名前
がそこに拙く踊っていた。
「6年 3組 涼宮 ハルヒ」
   声がくぐもって響いた。戻ってきた静穏に、不安と寂しさが相乗りしてやってくる。
   ここはもしかしてあいつの記憶の中なんだろうか。または、夢か。どちらにせよ、あまり良い気色でない
のは確かだ。未だあいつは現れないし、また、俺しかいないということにも違和感がある。
   この教室で目覚めてから校舎内を探索したが、あいつはどこにもいなかった。もちろん他の誰かがいた
わけでもなく、あのときのような古泉や長門の救援はまだ期待している最中だ。非現実的な現実とは裏腹
にまったく進展のないこの世界で途方にくれた結果、この教室に舞い戻ってきたということだ。
   チクタク音すら止められて凍りついたままの三時の時計を見つめていた、間一髪、悪寒が走った。音ら
しきものが聞こえた気がしたからだ。いや、これは確かな音だ。幻聴じゃない。
   床を這うような擦り切れた音は、どうやら校庭のほうから聞こえているようだった。

         ○   ○   ○

   校庭の片隅にある棕櫚の木の近くで音が生まれ、赤いランドセルが揺れていた。近づいて声をかけると、
しゃがんでいた女の子は穴を掘る作業を中断した。黄色い帽子の下の大きな双眸と幼いながらも精悍な
その顔は、やはりあいつに似ている。というより、恐らく小学生のときの本人だろう。背負っているランドセル
の赤さがところどころで茶色の薄い上塗りをしたような色になったいるのがわかった。
「何をしてるんだ?」
   しゃがんで穴を覗き込むとA4半紙を横に二枚並べたくらいの長方形をした大きめの缶が埋もれている
のが見えた。土色に汚れた蓋には「ハトサブレ」と「6年3組のタイムカプセル」と書かれている。風もない
空気の中からほのかに土の香りが漂った。
「タイムカプセルに大事なのを入れちゃったから、取りたいの。大事だから入れたんだけど、大事だから
やっぱり取り出さなきゃいけないって思って。でも、」
   女の子は目を細めて哀願するように穴を見つめた。
「すごく固くて、どうしても開かないの。大事なのがあるから開けなきゃいけないのに、どうしても開かない
の」
   ポロポロと涙をこぼして女の子の声は徐々に震え高くなっていった。「もうずっとこうしてるの」と最後に吐
いて、とうとう号泣してしまった。俺の知っているあいつからは想像もつかないほどに脆弱なこの子に驚き
つつ、この子をなだめすかすために穴の中の蓋に手をかけた。
「俺にまかせろ、こんなもんちょろーんとだな……」
   軽率な俺の発言とは違って蓋は頑として開こうとしなかった。少しの手ごたえもなく佇み続ける開かずの
蓋に四苦八苦する俺を、女の子はしゃっくり混じりに眺めていた。
   普段は食べないヨーグルトによって腹部の秩序を崩壊された時のような怒声を上げたところで、急にぶ
わっと蓋が浮遊した。
「よし! 取れた!」
   ようやく腹部の混沌を鎮圧したときのような笑みを浮かべた俺に、女の子は困った顔でかぶりを振った。
聖なる夜に想いを馳せ合う純愛カップルのように蓋は缶に密着してぶら下がっていた。

         ○   ○   ○

「お兄ちゃんは、こんなこと考えたことある?」
   シャベルを蓋の隙間にさしこんで小学校のときに習ったテコの原理を復習している俺に女の子は訊いた。
女の子は少し前に親父と野球を観に行ったこと、そのときの人の多さに驚愕したこと、それから計算した
日本の人口の数だけでも尋常ではないこと、そしてそれによって自分がいかに矮小な存在であるかとい
うこと。踏み切りの記憶がデジャヴとなって蘇り、侘しさが俺の中にたちこめた。
「夥(おびただ)しい数の生命と人生が折り重なってる世界で、あたしはいったい何のためにいるのかわか
んなかった。どうしてあたしはパパとママの間に産まれて、どうしてあたしはここにいて、どうしてあたしは
あたしなの?」
   不安と焦燥が入り混じった心底困った顔でいる女の子に、俺はしばらく無言でいた。
「お兄ちゃんも、おんなじなんだね……」
   女の子ははぁと嘆息をついたが、心なしか少し安堵しているようにも見えた。俺は気付かないふりをして
ひたすらシャベルを蓋の隙間に打ち付けていた。金属音がひどく煩わしく聞こえた。

         ○   ○   ○

   子供の頃、俺はどうして産まれてきたのかと両親に尋ねたことがある。「それは私達があんたを授かりた
いって願ったからよ」と両親は応えた。俺は納得できなかった。それは確かな事実ではあったが、もっと意
味のあるものや深い重みのあるものを望んだ。事実を事実として受け入れたとき、俺はそこで立ち止まって
しまうような気がした。
   もっと違う何かがあると思う。
   疑問は命題となり、日常にまでなった。ふと気付くと考える人の像のように便所で考え込んでいたり、何
かをしていても常に心の隅で影が蠢(うごめ)いていた。
   俺は何者なのだろう。俺は何故ここにいるのだろう。俺は何故俺なのだろう。
   中学のときにピークがきた。俺は俺を探すために、ひたすら非普通のものを探した。常識の範疇から外
れて見れば、俺は俺を見つけることができるかも知れない。
   そして俺は佐々木と出合った。

   他とは違う自分を纏った佐々木に俺は答えを求めた。佐々木なら俺を見つけてくれると思った。
「キミにはこの本を薦めるよ」
   心得顔で佐々木は言った。「その手の自己形成に僕は精髄しているわけではないが、キミの建築に携
わることにはやぶさかではない。是非とも読後のキミを拝見したいよ」
   差し出してきた本の装幀は随分とコミカルなものだった。

         ○   ○   ○

「俺がこの星の、この時代の、この国に生まれたっていうことは、ロッキー山脈がアメリカ大陸にあるのと
同じくらい、確かに動かしようのない事実だ。それ以上の価値を見出すには、自分を欺かせなければなら
ない」
   ある本からの言辞をまるまる使って佐々木に言った。「俺は俺を欺くことにしたよ」

         ○   ○   ○

   文字通りテコでも動かなかったハトサブレ缶に俺は手を休め、もしかするとこの中には宇宙が詰まって
るかもしれないと夢想しながら傍観していた。傍には人間の内に秘めた狂気を曝け出しているような体裁
をした棕櫚の木が身じろぎもせずに聳え立つ。鈍色に彩られた世界の中では黄色の校舎でもあまり栄え
ることができないようだ。周りにある唯一動きそうなものといったら、しゃがんでいる少女だけである。
   少女はしばらくの間、俯いて黙っていた。微かな息遣いが静穏の世界に響く。
   俺は再度の挑戦を試みた。ハトサブレ缶の一角に手をかけると、なんと蓋がクッと微動した。そして──
「学校の中に入ろう」
   すっと立った少女に手を引かれ、あっという間に俺は六年三組にまで舞い戻ることになった。こういう強引
なところはこのときにもう出来上がってたのか……
   いや、違った。競歩のような速さで駆け上ってきた少女は胸を押さえ握っていた。加速した動悸を落ち着
かせようと青冷めた深呼吸をする。吹き上がる汗を袖で拭って、少女は悪夢を追い払おうとした。
   脇に抱えていたハトサブレ缶が少し重くなったような気がした。

 

つづく

 

 

OCN規制のため、本スレに投下できなくて涙目です。

そのため臨時避難用スレにSSができ次第一レスずつ投下していきたいと思います。

一レスずつの連載には意図があるのですが、煩わしいようでしたらすぐに中止します。

わがままな作者でまことに申し訳ありませんが、みなさんと一緒に楽しんでいきたいと思っています。

何卒よろしくお願いします。


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