遠くの幹線道路を、1台の車が滑っていく音がした。一瞬だけ夜の空気を震わせ、再び訪れる静寂。静寂。
時刻は午前3時半。
かれこれ何時間こうやって横たわっているかわからないが、どうにも今夜は眠れない。
何度か姿勢を替え、そのたびに今度こそとしばらく目を閉じてみるものの、頭の中はいまの季節の夜空のように冴えきっている。
たまたま買っておいた未読の小説も、読み始めて間もなく肌に合わないことに気づき、栞を挟むこともなく閉じてしまった。
俺はとうとう目元に腕を当て、はあ、と大きな溜息をついた。
やめておけばいいのに。
少しでも音を出したり体に刺激を与えれば、それだけ眠れなくなるのは当然なのだ。


うっすらと目を開くと、拡がった瞳孔にも眩しすぎない程度の蒼く涼しい光が、窓辺を照らしているのがわかった。
カーテンの隙間から、その一部が部屋に侵入している。
雲ひとつない夜空にひんやりと浮かぶのは、下弦の月。
人間の視力では捉えきれないほどゆっくり、少しずつ、少しずつ、カーテンの陰に再びその身を隠していくのを、無為に眺めていた。


突如、聞き慣れた電子音が世界を支配する。
こんな夜中にまで律儀に仕事をしなくてもいいのに、机上のケータイが何食わぬ顔でメールの受信を知らせていた。
家族が目を覚まさないよう、慌しくも静かにベッドを降り、スピーカー部分を指で押さえつつ画面を開く。
いったい誰だよ、こんな夜中に。
まあ午前3時半に他人の迷惑も考えずに連絡を入れてくる奴なんて、自分の交友関係をざっと眺めれば1人しか思いあたらないのはすぐに分かるのだが、そんな冷静な分析をするよりも前に、受信メールの最上部に表示された名前で納得。
おいおい、あいつは……まったく。
その傍若無人さに呆れるのは毎度のことながら、こんな日だ、ふっと笑みもこみ上げてしまう。


 起きてる?


違和感。
至極まっとうな文面ではあるのだが、いやだからこそ、こいつがこんなメールを打つとは。
「おう」とだけ返信しつつ、こいつがメールの文面はおろか日常会話でも文末に疑問符をつけたことがかつてあっただろうか、とつい本気で考え込みそうになる。
相手の状況を確認するメールなど無しに、いきなり要件を突きつけてくるのが、こいつのこいつたる所以だとさえ認識していたからな。


まもなく、ケータイはメールの受信音とは違う、通話の着信音を奏でだした。
この時間にはさすがにやかましいので、1コールが鳴り止む前に出る。


「なんで起きてんのよ」


開口一番それだった。「もしもし」と言う隙さえ与えず。


「悪いかよ」


と返してちょっと咳払いをする。眠ってはいないが寝起きということになるのか、声が変になっていた。


「明日も学校あんのよ」
「わかってるよ」
「授業中寝るんじゃないわよ」


おまえだっていつも寝てるくせに。


「あたしはいいの。あんたみたいに成績悪くないんだから」


たしかにハルヒと俺の成績には天と地ほどの差がある。が、授業中なんて俺はふだんから寝てるんだ。
明日だけ頑張って起きていたところで、答案用紙の丸の数が変わるわけではあるまい。


「で、どうしたよ。こんな夜中に」
「べつに。なんとなくよ」


まあ、思い当たる節がないわけではない。
それを考えると、こんな適当な答えにたいしても、無碍に非難を浴びせるようなことはできない。
もっとも今日だけは、夜中にこいつから突然のメールが来た時点で、怒る気なんてゼロだったのだが。
たとえ、よく眠れる夜だったとしても。


つまり、俺も気が昂ぶってるってことか。


「月」
「え?」


脈絡もなく単語だけ放ってきたので、いま何を言われたのかわからなかった。


「空。月、見える?」


相変わらず単語だけ並べたセリフだったが、夜中のくせに冴えた頭でようやく理解。


「ああ、見えるぞ」


言いながら窓辺に足を向け、カーテンを少し開く。それだけで、少しひんやりした空気に包まれた気がした。
さっきベッドの中でぼんやりと見ていたときから、どれくらい動いたのだろう。
ハルヒは一瞬だけ沈黙して、「そう」と返した。「見えるのね」


「見えるけど、何だ?」


ハルヒは俺の言葉に答えなかった。
なんとなく沈黙を破ってはいけない気がして、そのまま月を眺める。
またさっきみたいに、確認できないほど遅い月の動きを追おうとしかけたところで、


「あんた、いまどこ? 部屋?」


なんか今日は、会話の仕方がいつにも増して唐突だな。


「もちろん」
「部屋のどこ?」


よくわからんことを聞いてくるやつだ。


「窓のあたり」
「バカじゃないの。風邪引いたらどうすんのよ。バカは風邪引かないけど。さっさとベッドに入りなさい」


おまえが俺をベッドから這い出させたんだろうが、というツッコミを抑え、はいはいと従わせてもらう。
正直、少し体が冷えていた。
まだぬくもりを宿している布団に潜り込み、落ち着く体勢をみつけて一呼吸してから、「入ったぞ」と告げる。
気持ち、さっきよりも深く布団を被った。


「あんた、いまどう向いてる? 右? 左? 仰向け? まさかうつ伏せじゃないわよね」
「んーと、右だな」


そんなこと聞いてどうするんだ。
ところがハルヒはさらに、


「左向きにしなさい」


と言う。


「あんた背骨が曲がってんのよ。授業中寝てるときだっていっつも右に動いてるんだから。いいから左向いて寝なさいよ」


まあ、こいつの言動が理解不能なのは、いまに始まったことじゃない。
しかし、今日のはなんだかいつもと性質が違うような気もするな。
ごそごそと身を左に向け、受話器を右耳に当てた。


「ちゃんと左向いた?」
「ああ」


すると、耳への当て方が変わったせいか、ほんの少し、ほう、と、ハルヒの息遣いが聞こえたような気がした。


何だろうね。
寝床に入るというだけの行為も、僅かにか体力を消費する運動なのだということがわかる。それとも布団を深く被ってるせいか。
自分の心臓が、いつもより強く血を送っている気がする。耳で鼓動を聞くというより、そのまま骨や筋肉を伝って主張する感じ。


いや、そうじゃないだろうが、馬鹿野郎。
もう自分をごまかすのはやめろ。
ついさっき、そう誓ったばかりじゃないか。
あの後、学校からの帰り道で。


「キョン」


自分を戒めるのに気をとられていた。


「ん?」
「なんで起きてたの?」


いきなり素直な感じで聞いてきやがる。


「おまえはなんで起きてたんだよ」
「……べつに」


珍しくも、ちょっと口をつぐんだ感じが面白い。


「テスト近いし。勉強してたのよ。まあ焦ってしなきゃいけないほどでもないけど、一応ね」


見え見えの嘘。その返答で、小さな加虐心が頭を覗かせた。


「夜更かしは美容によくないぞ」
「……は?」
「可愛い顔を台無しにしないように、早く寝ろ」


顔から火が出そうだ。馬鹿な2人の高校生ぐらいしか起きてないような夜更けで、しかも電話でじゃないと、こんな言葉を口走るなんて考えただけでも鳥肌が浮く。
ハルヒの方はというと、「あ」とか「は」とか「う」とか、なんかそういう、呆気にとられたときについ口をつきそうな間投詞ばかりしか並べられずにいるらしい。
そんな態度が、さらに恥ずかしさを倍増させやがる。おいこら何とか言えよ。


ハルヒの反応は面白いのだが、さすがにこれ以上は俺自身が耐えられそうになかったので、「じゃあな」とだけ告げて通話を切ろうとしたとき、


「……明日、覚えてなさいよ」


とだけ、受話器のむこうで絞り出すのが聞こえた。



恋人同士になった、その日の夜だ。
気が昂ぶって寝付けずにいたのも分かるだろう?


でも、相手があいつだから、考えてしまうわけだ。
今夜眠気が襲ってこなかったのは、もしかしたら、あいつがそう望んだからじゃないのか。
証拠となるのかどうかはわからないが、電話を終えた俺の意識は、それについて深く考察する間もなく、急速に深い闇に呑まれていったのだった。
身体と心に残る、奇妙な――――だがたしかに心地好くもある――――熱とともに。


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