確信どころか、根拠も薄いただの勘だ。俺の想像はもしかしたら羽ばたく鳥を撃とうとして地上に穴を空ける猟師くらいには的を外しているかもしれないし、寧ろそうであればいいのにとさえ思っていた。
ただ、あのハルヒに情報操作を起こさせる程影響を与えられるような人材は限られていて、また改変世界から齎された感情に引き摺られる余地があり、尚且つハルヒの性質及び能力を熟知している人間。消去法で考えると、該当者は一人くらいしか思い当たらなかったのだ。
屋上に続く階段を一段飛ばしに駆け上がり、錆び付いたドアを蹴破るようにして潜る。二時限目のチャイムを背後に聞いたが、構うか。元のハルヒを取り戻さないことには、まともに授業を受けていられる自信もなけりゃ度量もない。情けなかろうが女々しかろうが、二度と手離さないことをつい昨日に誓ったばかりなんだから、大目に見て貰いたいところだ。
俺は上がり込んだコンクリート平面上に足を下ろし、『そいつ』と対峙した。

「授業はどうした、優等生。黄昏るには、幾らなんでも早過ぎるだろ」

長門の宣言通り、『その人物』は屋上に居た。襟際までボタンを詰め、着崩す必要性も感じないと言いたげな、涼しげな目付きを僅かに天へと逸らしている。だが俺の掛け声にゆるりと向けられたその眼差しは、らしくなく、暗澹としていた。少なくともこれまで俺が眼にした事のない類の表情だ。お前でもそんな顔つきになることがあるんだな。精神的な安定状態にかけてはSOS団でもぶれのない奴だと勝手に思っていた、俺の主観は随分偏っていたのかもしれん。
「……その御言葉、そっくりお返しさせて頂きますよ」
パーソナリティとしていた性格付けからすれば基準値を大いに乱していると言っていい、投槍になった感を滲ませる、乾いた響きが耳に付く。
厭味なくらいの均整の取れた痩身に、風に髪を靡かせる姿は妙に様になっていた。吹き抜ける上空は、こんな状況でなければ、昼寝に丁度良いと欠伸の一つも漏らしたくなるような快晴だ。異質なのは、笑みの仮面を御し切れていない、――これまでの振る舞いとは明らかに態度を逸した、古泉一樹だった。


「正直言いますと、貴方が此処まで来てくれるのではないかと勝手ながら期待していました。奇蹟を必然とする性質ではありませんが、叶いましたね。僕の居場所の割り出しは長門さんの力ですか?」
「ああ。……だが言い添えるなら、長門は俺に誰が此処にいるとは言わなかったぜ。俺の思い当たった奴が此処にいる、あいつが俺に教えたのはそれだけだ」
後は自らで、答えを見つけるようにと突き放した長門。あいつなりの不器用さで、古泉を慮ってのことなんだろうな。
古泉は微笑を張り付かせた口元を歪め、芝居じみた礼をして、改めて向き直り手摺に凭れた。俺に否定の言を吐かなかったということはつまり、古泉とハルヒの変容は何らかの因果関係にあるという俺の当てずっぽうレベルの憶測が正しかったと、そういうことなのか。

「……ハルヒが起こした改変の事は、もう知ってるのか」
「ええ。何せ、昨晩改変の場に居合わせましたからね。というより、直接的な契機を僕が作ったと断言してしまっていいでしょう」
「――ハルヒに何をした?」
声が、緊張に強張った。
古泉は自嘲を覆うように、偽悪的な微笑を宿す。俺は既視感に囚われた。あの改変世界で、転校生だからという理由のみでハルヒの傍らに在ることを赦されていた古泉が浮かべた自虐的なそれと、酷似していたのだ。

「押し倒して無体を働いた」

ぎょっとした。底なし沼から頭を出した幽霊が発しそうな、昏い声。反して、乗せられた情緒はあくまで淡々としている。
「――そう言ったら、あなたはどうします?」
「それが本当なら思う存分殴ってやるよ。再起不能になるまで顔面たこ殴りの乱闘パーティだ」
「……でしたら、お受けする事になるでしょうね。事実ですから」
やれやれと、嘲るように唇を曲げ、吐き捨てる。蔑みを一心に込めたような、およそ古泉らしからぬ声色だった。
もう疲れてしまったのだと言わんばかりに。 


「うんざりしていました。取り分け、あなたと涼宮さんに対してね。あなたは知らないのでしょうが、 僕は涼宮さんが好きだったんですよ」

驚天動地、という訳じゃなかったからこそ、俺は唇を噛んだ。
知らないんだろうって?ああそうだな、思いつきもしなかったさ。あの世界でお前が俺に思いがけない告白をするまではな。お前がハルヒに付き従う理由が、機関と世界保全のため以外にあったなんてこと、平素のお前を見てる限りじゃ見抜ける奴もほんの少数だろう。――これは、言い訳なのかもしれないが。
古泉は、ふるりと首を振った。

「好きだったとは言っても、過去形でしたよ。自覚したところで機関から派遣された僕と保護の対象の彼女では立場が違い過ぎますし、何より涼宮さんが好きなのは貴方でした。想いは諦めて、貴方と涼宮さんが早くに結ばれるように画策もしましたね。彼女が笑顔で居られる事が僕の喜びでしたから、葛藤もなかったんです」

そんな、平和にハルヒの幸せを祝福する心情が急変したのは、一週間前の活動日だという。長門の話を聞き齧った限りでは、それが恐らく『解凍』の始まりだったのだろう。改変世界の古泉の感情が、修正されたこの古泉に宿ることで発生した。
だが、感情の境界線の何処までが本来の自分のものか、何処からが改変世界に由来するものなのか。線引きは不可能だ。古泉にとっては、嘘偽りない、固有の己の感情だったということなんだろうが。

「何が引き金か……今となっては思い出せませんが。あるんですね、尽きかけていた燻りが、風もなく再度燃え上がるなんてことが。
――僕は涼宮さんに、二度目の恋をした。どれだけ自分を宥めすかしても、今度は諦め切れなかった。涼宮さんの情愛を一身に受けている貴方を憎みました」
決定打は、昨日のお二人のデートですよ、と古泉は俯いた。
「……お二人のキスシーンを目撃してね。嫉妬に理性を飛ばしたわけです」
作り笑いも滑稽なほどの自虐と蔑視だ。
古泉は俺を見て、はっきりと笑った。


「貴方と別れて、帰宅途中だった涼宮さんを無理やりに連れ出して、憤り任せに、彼女に色々と吹き込みました。在る事無い事を、それこそでたらめにね。貴方が涼宮さんに付き合っているのは義務感からで、本命は別に居る。涼宮さんははただの当て馬。昔付き合っていた彼女がいたという噂は本当で、実は現在進行中…エトセトラです。醜い中傷を並べ立てて……何せ正常ではなかったので自分が何を捲くし立てたかまで正確に記憶していませんが、涼宮さんが改変を起こしたのはその直後ですよ。僕の話を幾らか信じた故でしょうか?だとしたら、彼女も案外単純――」
ふざけるな。
それ以上は聞いていられなかった。俺は拳を固めた。半ば自暴自棄になっているのだろう、流暢に詳細を語る古泉目掛けて腕を振りかぶる。古泉は避ける動作一つ見せず、俺を死人のような眼で見ていた。
標的を思いっきり殴りつけた瞬間、骨に響く、硬い感触が拳に走る。手ごたえがバウントした。

この馬鹿野郎、思い知れ。

古泉は眼を見開いて、凍っている。フェンスががしゃんと振動に鳴った。――俺が握り拳を、直にたたきつけた効果によって。


「悪いがな、古泉」
無機物を殴打した分跳ね返ってきた衝撃で、痛みに手が痺れる。瞠目したきり呆気にとられたように俺を凝視している男に、俺は言ってやった。
「わざわざ殴られる為に人を挑発するような奴をご丁寧に殴ってやるほど、俺は人が良くないんでね。自罰趣味なら自分で自分を殴ってりゃいいんだ」
 
俺に殴られるために敵方に寝返りましたとあらぬことを言い始めそうな、偽悪的な例の笑みすら被りきれていない、それじゃあ新人のピエロより性質が悪いぞ、古泉。俺のサンドバックになろうって腹だったのかもしれないが、お前が気を晴らすのに利用されるのは御免だぜ。俺は割りと本気で怒ってるんだからな。


「……貴方は」
本当に敵いませんねとぽつりと漏らした、古泉は片手で眼を覆うようにし、ぐったりと天を仰いで息をついた。わざわざ暗黒面を押し出したような笑みが、綺麗に剥がれ落ちる。残ったのは素の、取繕いも何もない能面の古泉だ。
「お膳立てにも乗せられてくれない、あらゆる意味においてのイレギュラー。涼宮さんが貴方を選んだ理由も、今ならよく分かりますよ」
「誉め言葉には聞こえんがな」
「僕にとっては、この上ない褒め言葉の心算です」
自嘲の笑みすら履く気力を喪っている様子の古泉は、暫くそのまま放心したようにしていたが――間を置いてから落ち着きを取り戻したようだった。
改めて向き直ると、懐から薄っぺらい茶封筒を引っ張り出して、俺に差し出してくる。なんなんだ、唐突に。
「涼宮さんに渡してください」
「なんだ、こいつは」
「退団届です。SOS団、いえ、北高にこれ以上居る訳にはいかなくなったのでね。範囲としては瑣末と呼べるものであっても、世界を改変させる事態を引き起こしたのですから……。僕に課せられた責務を思えば、重罪です。『機関』も、涼宮さんの精神を脅かした僕を北高に置くことはしないでしょう」
「お前――」
俺は苦心惨憺をふいにされた労働者の気分になった。
やっぱり、何もわかっちゃいねえ。無駄に博識を演出するくせに、イルカが何故哺乳類に分類されるのかを知らない学生並みに読解力のない奴である。俺が折角殴るのを我慢してやったのに、このままでは結局一打撃食らわせてやることになりそうだ。 

「お前は、本気でハルヒがお前の世迷言を真に受けて、自分の性格を改変したと思ってんのか?」
だとしたら、相当の馬鹿だと言わざるを得ない。そりゃあ、日頃の扱いを鑑みればお前が誰よりも一番にハルヒに優遇されてるってことはないだろうがな。
お前一人がSOS団から居なくなって、それでハルヒが暢気に笑っている日常を続けられるような奴だとお前が本気で思っているんなら、ハルヒの精神分析家を自認していた肩書きまるごと返上して貰おうじゃねえか。

俺は古泉の胸倉を掴んだ。締め上げるように引っ張って、長身の奴の眼に睨みを効かせる。


「――ハルヒを見縊るな、古泉」


俺はあいつを信頼している。俺が告げた言葉、感極まった末の抱擁と、思い出すにも恥かしいが認めざるを得まい、二度目のキス。俺にハルヒの想いが形にせずとも伝わったように、あいつにも俺の気持ちは十二分を過ぎるくらい伝わっていた筈だ。どんな巧妙な支度があったとしても、古泉が勢い任せにぶちまけた台詞を、あいつが一字一句丸ごと鵜呑みにすることはないと断言できる。

「あいつが否定したのは、自分の性質を改変してまで正したかったのは、俺との関係じゃない。気が付いてないんなら俺が言ってやる!あいつがそれほどショックを受けたのは、他の誰でもない『SOS団の副団長』が自分を嫌っていたのかもしれないとハルヒが思ったからだ」

ハルヒが、古泉を好きだから。それは勿論色恋沙汰のLOVEというわけじゃないだろう、それくらいは俺も自惚れている。だが、仲間として団員として、かけがえのない古泉一樹として、ハルヒだって古泉を必要とし信頼し愛していた。

古泉に追い込まれたとき、俺がそんなことを言う筈がないとハルヒは思っただろう。切羽詰った古泉が真摯にぶつける害意を、ハルヒは「自分がそこまで古泉に嫌われていた」と受け取った。それがやり切れないストレスとなって改変が起きた。
がさつでも我侭放題でもなく、大人しく控えめである、涼宮ハルヒになることで。古泉に受け入れて貰えることをあいつは望んだのだ。

「まさか、……有り得ません」
古泉は茫然と、視線を落とす。俺を通過した目線は、昨夜に自分のした事を思い起こしているようだった。俺は皺になった古泉の制服から手を離し、一歩分を退いて間を取る。
古泉は全身で震えていた。
「涼宮さんが僕を、そんな風に思ってくれていたわけがない。貴方にならいざ知らず、僕に嫌われていたことにショックを受けて、なんて……。朝比奈さんや長門さんに対してと同等の感情を、僕にも、彼女は向けていてくれたというんですか?」
「ハルヒは転校してきた『お前』を傍に置いたんだろう。あいつの男遍歴を聞けば分かるだろうが、付き合って一週間保った奴でさえ稀なんだぜ。確かに一番じゃなかったかもしれんが、あいつは少なからず『お前』に対しても好意を持ってたんだ」
敢えて消滅した別の世界での事を持ち出し、今のこいつになら伝わるだろうと言い含める。
なあそうだろう、ハルヒ。七夕の夜から地続きにあの世界でも生きていた、黒髪を背まで伸ばした、強気なハルヒの瞳を思い起こす。お前が改変に髪を伸ばしてみせたのは、それをこいつに示してやりたかったからじゃないのか。


改変世界から逆流した感情を呑み込んで、古泉は二人分の古泉の感情を得た。奇抜な、非日常からは掛け離れた、超能力も持たず機関にも所属せず、平々凡々な毎日を過ごしていた古泉一樹。俺の居ない世界でハルヒに出遭い、ハルヒが神かもしれないだとか創造主かもしれないだとかそんな括りは一切抜きにして惹かれ、だからこそ己の立場という足枷も無く、俺に対しての遠慮もなく、財布代わりに甘んじながらも一途にハルヒを慕っていた、敬語で振舞う「謎」でも何でもないただの古泉一樹。
古泉を凶行に走らせたのは、恐らく、その改変世界の古泉一樹の感情なのだ。どちらも本物には違いない、だが環境を異にしていた為に質も大きさも同一ではなかったハルヒへの想いを、自制しきれなかったんだろう。 
やったことの罪悪はどうであれ、こいつばかりを責められない。 あの世界の古泉を消したのは俺なのだ。後悔はなかった、それでも、エンターキーを押したのは俺だ。
だからこそ、俺は言うべきなのだ。お前もSOS団の仲間に違いないんだ、駒でなく便利だから重用されるだけの副団長でなく、ハルヒにとって大切な友の一人なのだと。
手渡された封筒を突き返す。受け取らないなら、破り捨てるまでだがな。
「こんなもんを俺に渡すより先に、やるべきことがあるんじゃねえのか」
お前が真実、ハルヒにしたことを悔いているのなら。告げると、青褪めた古泉は唇を噛み締める。血が滲みそうなくらいに、張った歯に皮を引き攣らせていた。

――そのとき、背後の、ドアの金具が軋んだ。
小柄な姿を校舎内から覗かせたのは、俺に助言を与えてくれた眼鏡を付属物にしている長門。そしてその長門に連れられる様にして、もう一人。

古泉が戦慄く。長門の陰に潜んでいたその面は、これまでの話をこっそり聞いていたのか、今朝方の様子とも比較にならない、怖いくらいの真顔だ。俺はそんな表情に、出遭ったばかりの不機嫌な時のあいつを思い出していた。
古泉は眼に見えて狼狽し、俺に意を求めるように眼で訴えかけてくるが無視。丁度いい、長門が連れて来てくれたんなら後は手間が省けていい。
「ハルヒ。古泉が、お前に話があるそうだ」
「っ――!」
古泉が信じられん、という驚愕をありありと浮かべて俺を見る。そんな眼をしても無駄だ。事の発端はお前なんだから、落とし前も自分で付けろ。それがきっとSOS団団長様の望みでもあるんだ。

何時もの風を切る歩き方ではない、ゆったりとした歩調で。
ハルヒが古泉との距離を縮め、目前に立ち止まる。

「……涼宮、さん」
古泉が戸惑いを声に零す。自分が手荒な真似をした結果、ハルヒが自分に怯えると、憶測してでもいたのだろうか。だが、ハルヒに竦む素振りは微塵もない。性格を弄ってみても、その本質は負けん気が強くて辞さず媚びず妥協しない、やはり涼宮ハルヒなのだ。
古泉が気障ったらしい端整な面持ちを、くしゃりと歪める。神様に平伏するように、箍が外れた様に、膝から崩れ落ちて、――何度も何度も血を吐くように咽喉の奥から繰り返した。

「すみません……。すみません、すみません、すみません…!」
ごめんなさい、涼宮さん。そう言い募る古泉に、学ラン姿の、ジョン・スミスに羨望を抱いた古泉が重なる。消失世界の古泉。消した古泉。
「あんな酷いことを…言うつもりではなかったんです。貴女を傷つけるつもりはなかった、全部、出任せの嘘で、……僕は」
「いいよ、古泉くん」

ハルヒが微笑する。古泉の頭に掌をのせ、神聖な場の儀式の様な一枚絵図。姫と騎士、そんな陳腐な表現じゃない、神とされるハルヒと超能力者の古泉じゃない。
それは非日常に憧れる、一般的とは言い難くとも力無きハルヒで、対するのはそんなハルヒを慕うただの古泉だ。
そんなただのハルヒが、ただの古泉を赦した。

ハルヒは泣いていた。ごめんね、と小さく呟いて、古泉の頭を掻き抱いて蹲る。
古泉はうつ伏せて、声無く静かに涙を流した。
それは間に入り込めないくらいに心臓を締め付けられる、胸に痛く、忘れ難い光景だった。 



(→後編)


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