Ready?
古ぼけたパソコン画面に浮かび上がった、簡潔な文句。
超常現象等起こるべくもない、普通に普通が揃った世界。長門が蓄積したエラーを暴走させた結果、非日常が捩れて正常になったあの時空で、俺は俺の意思でエンターキーを押し込んだ。――言っておくが、あの瞬間に俺が選び取った道だ、後悔はない。あれは俺の、選択だったんだからな。
だが俺は考えた事もなかったのだ。あの瞬間に消滅して行ったあの一度きりのSOS団、其処に生きていたあいつらが何を望み思って「消去」されて行ったかなんて。都合で生み出され俺の決定に無きものとなったあいつらの生が、回り回って俺が選び取った此の世界に還ってきたのだとしても、きっと俺には彼等の心底の想いを汲み取ったりは出来ないのだろう。
そうだ、何の事情も知らぬ奴等から見たら、それは他愛もない日常に埋もれた話だったかもしれない。異常事態であったとはいえ、世界崩壊の危機に直結するような、宇宙規模の大爆発が発生する悲惨な大事には掠りもしなかったし、あいつの明瞭過ぎる変容すら知る術もなかった人間の方が大勢だったろうからな。
――ただ俺は、
俺にはそれは酷く忘れ難い光景で、出来る限り二度とお眼にかかりたくないもんであり、尚且つ知るところのなかった奴の心情を僅かにも剥き出しに見せ付けられた、
そんな息苦しさを伴う記憶であったりするのさ。
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意味もなく、無性に胸騒ぎがして、虫の報せを聴いたような心地――そんな経験はないだろうか?
その日が、俺にとってはそうだった。妹のプロレス目覚まし機能にて強制的に目覚めさせられた後も気分がすっきりせず、瞼が重い。気怠さが抜けきれないまま朝食にありつけばソース瓶を肘で倒して母親から小言を貰う。スニーカーの靴紐が妙に固くて履きにくかったり、乗ろうとした自転車のタイヤが緩かったり、何時も枕元に突っ込んである携帯が見つからなかったり――まあそういう些細な積み重ねが予感に膨れ上がるわけだ。
幸先良くねえなあという具合に。
――それでも大したこととは思っていなかった、そのときは。
何故か、といえば根拠とは言えんかもしれんが、理由は勿論ある。俺はその昨日、割と恥かしい経緯を経つつも、傲岸不遜な団長様涼宮ハルヒに振り回されて日曜を過ごし、それなりの手順を踏む暇もなくデートめかしたウインドウショッピングの後で夢オチと思われていた以来の白雪姫的なあれをやらかし、……真っ赤に染まった耳朶を隠しつつ、百万ワットの笑顔で別れたあいつのことを覚えていたからだ。青春の一ページにその日のメモリアルが深く刻み込まれた瞬間だった。
昨日までの友達、今日から恋人。
要するに俺は鼻歌を奏でても別に罰は当たらないんじゃないかというくらいには、浮かれていた。惚気を奮発するのも不毛だから止めておくが、まあそういうわけだ。誰だって好きな奴とようよう結ばれる段階に来て、次の日に破局が待っているだとかお先真っ暗な方向に悲観する人間は少ないだろう。俺もそうだったというだけだ。
俺が異変に気付いたのは、今や脚が覚えきったクラスに辿り着いて座席に腰を落ち着け、珍しくまだ来ていなかったハルヒを待ち――影が差したところで振り返って、「よお」と幾分か弾みのついた声を掛けたときだった。
俺より遅れて登校してきた割りに、静かだな、とは思ったのだ。機嫌のいい日なら尚更、ハルヒは俺の顔を見るなり日課の如くマシンガントークをかまして人の話なんか耳を貸しやしない女だというのに、まさか一晩眠れないくらい興奮気味に、気分も長らく上昇気流だったのが俺だけということはあるまい。
「……ハルヒ?」
俺の声に、椅子を引いていたハルヒは、唇を窄めるようにしながら、俯き加減の顎を引いた。
「――なに」
俺はそこで、決定的に、何がしかが起こったことを確認するはめになった。
向かい合えばその差異は一目瞭然だった。ハルヒの肩で切り揃えられていた筈の髪が、たった一晩のうちに、初対面の日のように、――背筋を覆う程の長さに達していたんだからな。ポニーテールにするには理想的な長髪、自己紹介の奇想天外ぶりに驚いて振り返ったときの衝撃が蘇る。
唖然として固まった俺に、明らかにトーンを落としたハルヒの声が被さる。
「なによ、キョン。そんなに人の顔じろじろ見るもんでもないでしょ」
黒曜石の瞳が潤んで、涙を溜め込んだみたいに光っている。いつもの九官鳥みたいなけたたましさはなりを潜め、借り物の猫のような大人しさだ。無駄に整った鼻筋、見惚れるような艶やかな髪、桜色の唇、上気した頬、勝気な眼差しも持ち合わせた紛う事なき涼宮ハルヒ。だというのに表情筋を余すところなく動かしてのあの笑顔が、太陽から月明かりくらいにまで明度を落としている。パーツが同じだけの別物のように、纏う空気そのものが異質なものに変化している。同一人物なのは確かなのに、性質のみをそっくり取り替えられてしまったみたいだ。
違和感の相乗。俺は混乱した。なんだ、いったい何がどうなってる?
「……ハルヒ、昨日のこと、覚えてるか?」
お前が言い出して、俺を引っ張りまわして、最後はまあ雰囲気に流されて俺からだったが――初めて、厳密には二度目のキスをして「また明日」と別れた全貌。これはかなり勇気の要る問いだった。それでも別人みたいなハルヒの変貌ぶりを目にすると、疑わずにはいられなかったのだ。此処が確かに俺の世界なのかどうかを。
「昨日?SOS団の活動日だったわね。それがどうかしたの」
「違う、活動は皆予定がつかないってんで休止だっただろ。昨日は俺とお前の二人きりで繁華街に出たはずだ」
「何言ってるのよ、そんなはずないわ。昨日はみくるちゃんも有希も、……古泉くんもいたし、いつも通りクジで班別行動して、収穫なしで終わったじゃない。変なキョン」
一方的に送信不能な会話。「変な」どころか、俺は今朝までのトリップするくらいの浮かれ気分が、急速に冷めて凍りついちまったような心持だぜ。当たって砕けろの大告白大会もお前の笑顔もリセットだなんて冗談なら大概にしろと叫びたいぐらいだ。
俺は本気で喚き散らしそうな自分を抑えた。誰がわざわざ掘ってくれたのかは知らないが、悪意に満ち満ちた酷い落とし穴だ。引っかかって物の見事に全身まで嵌って土までかけられた。俺の希少な珍しいテンションの高さを返せ、と毒づきたくもなる。
こいつはハルヒだが、ハルヒじゃない。少なくとも、俺が昨日抱き締めたハルヒではないのだ。
「話は終わり?だったらもういいでしょ。黒板向きなさいよ。もうHRじゃない」
ハルヒの拒絶に幾らか傷ついている自分を省みながら、俺は姿勢を正した。――何かあった、それは間違いないが、原因がさっぱりだ。
こういう時頼れるのはSOS団の万能選手の長門。場合によっちゃ朝比奈さんや古泉にも協力要請がいるが、あの三日間のように世界自体の改変だといたらあいつらもその影響を受けていないとは限らない。周囲の奴等がハルヒの様子を不審がってないところからして、可能性も高そうだ。
確認は早い方がいいな。何もないことを祈るばかりだ。
昼休みに差し掛かるのを待たず、最初の休み時間に突入すると同時に、俺は注がれるハルヒの視線から逃げるように文芸部室に急いだ。長門がこの事態を察知しているなら、待っていてくれるだろうと踏んだからだ。
「おいおい勘弁してくれよ。痴話喧嘩か?」という谷口の冷やかしは例によって無視した。