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 アナルについて書く。
 アナルは言うまでもなくケツの穴である。しかしある時の俺にとってそれは宇宙にも等しく無限の時間にも近かった。ある人間はこう言った。
「アナルは僕の生きがいです。アナルなくして人類の未来はありません」
 大げさだった。言うまでもなく彼の頭の中はいかれているのだ。しかしいかれているというのは時として、自分ではなく世界そのものであることがある。それを勘案してもこの場合、彼には間違いなくいかれポンチの落款をくれてやれる。高校時代、俺の世界はそのようにして回っていた。傍目から見れば相当に奇矯であり、俺から見れば相応に奇特であった。
 そしてそれら二つに大差はないのだ。仮に俺が校舎の屋上から飛び降りたとしても、あいつらであれば「そんなこともあるわね」と言って受け流したかもしれない。

       *

「ねえ、今日あたしたちは何回セックスしたかしら」
 枕元でハルヒが言った。俺たちは大人になっていた。高校時代は過ぎてみれば電車から見る景色の一点でしかなかった。しかしそれは見過ごせない景色であり、その証拠のひとつとして今ここにハルヒがいた。俺たちはあれから数え切れないほど様々な行為に及んだ。ある期間、俺はその回数を数えたくてしょうがなくなったので、情動にしたがってみた。
 すなわち俺たちは一年間に8692回手を繋ぎ、2110回キスをし、264回セックスをした。こと俺について言えば、それとは別に62回マスターベーションをし、85回男に掘られかけた。
 人は放っておいても女と寝るし、男に掘られる。そういうものだ。



 高校を出た俺は大学に進学し、それなりの毎日を過ごし、それなりの友を得、それなりに酒を呑み、それなりにマンガを読み、それなりに小説を読み、そして音楽を聴いた。
 俺は高校を卒業する時に童貞を喪失したが、相手はハルヒではなかった。高校時代憧れていた先輩でもなかった。厳密には人類ではない文芸部員でもなかった。
 相手は男で、俺は人生のトラウマの実に98%をそこに費やした。いや、費やされた。
「んあっ、いく、いきますキョンたぁん!」
 ひどく冷静だったのを覚えている。そうか、こうして男は掘られるのか、と、童貞喪失という一大事において、俺はいささか平常心を持ちすぎていた。

       *

「ねえキョン、あたしたちいい加減マンネリだと思わない」
 ある日の夜、二度目のセックスを終えて俺とハルヒはベッドに横たわっていた。相応の倦怠感が室内にわだかまっており、相当の沈黙が室内を支配していた。確かにマンネリだった。たまに思い出したように俺たちは喧嘩をし、結果八割をハルヒが白星で飾った。そういうものだ、と俺は自分に言い聞かせた。
「キョン。これ訊いていいかしら」
「何だ」
「高校時代、あなた古泉くんとつきあってたわよね」
「ああ」
「やっぱりそうなの。いいの。解っていたわ。いつかこんな日が来るって。そしてそれは避けられないって」
 言い出したのは自分ではないのか。
「マンネリね、あたしたち」
 しかし悲しいほどハルヒの言葉には現実味があった。そして俺は卒業式に古泉と交わった日のことを、煙霞の彼方に見える巡視船を見るように思い浮かべていた。

 

 マンネリとはすなわち単調、均一化、画一的の謂(いい)であり、まさしく今の俺たちに当てはまる言葉だった。思えば世の中のあらゆるものはマンネリを繰り返すことと、それを打破することで成り立っている。今川焼を売る店は狂ったようにあんこを生産し続け、飽きられるとクリームとチョコレートに手を出す。それも飽きられると今度はジャムやツナを挟んでみる。つまりはそういうことだ。
「別れたいのか」
 俺はハルヒに言った。彼女は静かに首を振って、
「そうじゃないの。ねえ、マンネリって素敵なことだわ。カタカタ四文字の言葉って大体あたしは嫌いだけど、この言葉は好きよ。そしてキョン、あなたが今でも好き」
 そう言って俺たちは今日36回目のキスをした。悲しいことにいささかの悦びもそこにはなかった。
 あろうことか俺はまだ古泉との過ちを思い出していたのだ。

        *

 船について話す。
 実を言うと俺は高校時代初めて船に乗った。すさまじく酔った。当時、回数を数えることに愉楽を見出していなかった俺は、一体あの時何回嘔吐したのかをまるで覚えていない。
「そんなことどうでもいいじゃないの。それよりあなたの精液が少し黄色いことの方が気になるわ」
 そう言ったのはハルヒではなかったと思う。
 ともかく、船は酔う。あの夏の合宿旅行について思い出す時、俺は意図的に吐いた場面を頭から排除することにしている。人は放っておいても吐かないが、吐くときはナイアガラの滝より盛大に吐くものなのだ。

 

「ねぇキョンたん、僕たちとうとうひとつになれました」
 無理矢理一仕事終えた古泉は言った。俺はてんで聞いちゃいなかった。これでハルヒに童貞を捧げる機会は永遠に失われたのだと思っていた。そして当時の俺には、それはフィリピン海よりも深い悔恨をもたらすことに思われた。今後いくらハルヒとセックスしようとも、それはみな二番目以降なのだ。
 放課後の文芸部室には大抵超能力者と未来人と宇宙人がいた。そして俺とハルヒがいた。今にして思えば、あれらはみなあの場にいた人物の演技だったのかもしれない。俺は入学直後に催眠術にかかり、以後三年間を昏睡したまま過ごしていたのかもしれない。それを醒ましたのが卒業式の同性による強姦だったのだ。
 そう思うと納得がいった。すなわちあれは必要なことだったのだ。
 そうして俺は大学に入り、つつがなく社会人になった。
 一般事務はまるで向いていないと知るや、半年で営業に転職した。ルート開拓に苦杯をなめたこともあったが、事務職に比べれば遥かに向いている仕事だった。そんな日々が六年続いた。その間に俺は主任になり、係長になり、課長になった。異例のスピードで出世をしてしまうと、急に世の中が白黒になったような錯覚がした。六年の間に幾人もの女性と関係を持ったが、今この場には誰もいなかった。
 そうして俺はある日、涼宮ハルヒに電話をした。
「好きだ。つき合ってくれ」
「そうね。それもいいかもしれないわ」
 13年越しの恋であったのかもしれない。その夜、俺たちは13年分の思いを解き放つように抱き合った。この時初めて俺はセックスを心地よいものだと感じるようになった。

 

 
 室内にはサージェントペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンドの一曲目がかかっていた。
 新聞にはオイリーヘアの古泉一樹が写っていた。大学を卒業すると同時に渡米し、政界に手を出したが失脚、贈収賄でとうとう捕まったらしい。いつかそんなことをする男だと思っていた。
 高校時代の友人と言えば、谷口に先日ばったり再会した。ハッテン・カフェという行きつけの喫茶店にふらりと現れた昔の友は、なんと性転換手術をして女性になっていた。
「ひさしぶりね」
「そうだな」
「あたしのこと、覚えてる?」
「誰だっけ」
「んもう。谷口よ。お馬鹿さんねあなたも」
 そうかもしれなかった。馬鹿、という言霊には、どうもこそばゆい響きがある。
「機会があればまた会えるわ。それじゃね。シーユー」
 店内にはオスカーピーターソンのジャズがかかっていた気がする。そして谷口とはそれ以来会っていない。会いたくない、というわけではない。ただ、何か大きな流れのようなものによって俺とあいつは再会し、同じ流れによって会っていない。そういうことだ。

       *

 俺はハルヒの乳房をまじまじと見ていた。
 それは磨かれた陶器よりもすべすべしていて、初雪のように光り輝いて見えた。
 しかしそこに最初のような軒昂はなかった。思えばあの日、初めてハルヒを抱いた夜、俺はそこに古泉を重ねていたのかもしれない。卒業式の後の、淡い陽光が清浄な白をもたらす校庭の片隅で、俺はあいつに何かを吸い取られたのかもしれない。その代わりに、あいつは俺を三年間の夢から引き戻したのだ。

 


「ねえキョン、あたしの考えていることが解る?」
「いいや。自分の考えていることすらよく解っていないからな」
「あたし、あなたの考えていることを考えていたの。そしてそれはたぶん当たっているのよ。でもね、たとえマンネリでも、あたしはまだあなたの傍にいるわ」
「嬉しいよ」
 そして俺たちは三回目のセックスに興じた。
 三十路を過ぎた、ある夜のことだった。



       2

 

 

 高校二年生の秋、校舎の中庭に落ちる枯葉を見ていた。
「どうしたのよ」
 ハルヒが俺に言った。
「枯葉を見ているんだ。こうしていると頭の中でビートルズが聴こえてくる。例えば今はサムシングがかかっている」
「ジョージ・ハリスンの曲ね。あたしあれ苦手だわ」
「俺もあまり好きじゃなかったよ。でもね、世の中の物事というのは全て変わっていくんだ。今この時でもそう思うよ。近頃は好きになってきたんだ。感性が変わってきたんだろうね」
「感性の変化はあたしにもあるわね。たぶんあなたよりずっと強くめまぐるしいわ」
 そうだろうと思う。ハルヒはSOS団を立ち上げたのだから。そこに全てが収斂していた。あらゆる物事は流転していく。たとえば高校に入った頃、俺はハルヒを美人だと思っていた。一週間後には変人だと思っていた。もう一週間のうちにブラジャー越しの乳房を見た。その間、ハルヒの髪型は周期変動を続けた。
 しかしこう考えることもあった。変わっているのは俺なのではないか。俺の中で何か突飛な、コペルニクス的転回にも相当する激変が起こり続けていて、俺はそれを全く認識していない、周囲もまた認識していない。世界は実は変わっていないものの、俺が変わっているおかげで全てが変わっているように<見える>。
「どうしたの。浮かない顔をしているわ」
「気にしなくていい。ちょっと寝不足だったんだ」
「また自慰にふけっていたの」
「違うよ。寝るのが遅くなっただけさ」
 実はふけっていた。


       *

 昼休み、俺は部室で古泉と話していた。
「誰も来ませんね」
「来ないな。あるいは見えないだけかもしれない」
「確かに。長門さんや朝比奈さんが僕たちの目に見える保証などどこにもありませんね」
 そのような会話をしていた記憶がある。あるいはそれは間違いかもしれない。
「この頃あちらもご無沙汰ですよ」
「奇妙な能力は使わないほうがいいと思う」

       *

 前の年。
 俺は古泉に連れられて灰色をした空間に向かい、そこで青白い巨人を見て、赤い光の玉を見て帰ってきた。ああ、こうして物事は終わりを向かえるのか、と思った。印象派の絵のように、一度見たら忘れられない光景というのがある。ハルヒの上半身、朝比奈さんの全身、長門の眼鏡、古泉の全て。何も人物に限る必要はない。大学入試や梅雨時の営業接待、国木田の結婚式の仲人、翌日の朝五時に起きて見た厳寒の空。雲ひとつなく、真っ青の淵が朱に染まって行く場面は、一生忘れないのだ。
 そうして記憶に焼きついた光景は、節目ごとに強烈なイメージとなって思い出される。それは何をしているかに関係なく、例えば事務の女の子とのキスの最中、残業明けの帰りの車中、大学仲間との三年ぶりの飲み会。そうした場面場面で、俺はハルヒの上半身や閉鎖空間での出来事について思い出しては忘れた。
 ある時は真冬の居酒屋で鍋をつついていた気がする。そこには高校時代の同級生の誰かがいて、それはまず間違いなく女性だった。あるいは女性のような誰かだったのかもしれない。


       *
「アンコウ鍋って食べにくいわね」
「でもこれはきりたんぽ鍋だよ」
「いいのよ。私にとってはアンコウ鍋なの」
 やれやれ。
「この後だけど」と彼女は言った。「久し振りにどうかしら」
「構わないよ」と僕は言った。隣のサラリーマンの眼鏡が湯気で曇っていた。冬だったのかも
しれない。

       *

「あなたって最高だわ。あたしにとっては」
 ハルヒの声だった。久し振りに俺たちは抱き合っていたのだ。俺はかれこれ四回射精し、まだまだ余力を残していた。しかし精神的にはそれほどでもなかった。
 ハルヒは俺の精液を満足そうに眺め、やがてレーゾン・デートゥルと名前をつけた。
 室内には止め忘れたレット・イット・ビーのCDがかかっていた。ディグ・イット。やがて聞き慣れたピアノの音色とともに表題曲が流れた。
 なすがままに。
 その通りだった。あらゆる出来事が俺の前を通りすぎ、そしてそれは加速し続けてとうとう捕まえられなくなってしまった。もしかしたら、一年前なら届いたかもしれない。しかし一年前にはもう戻れない。戻ったところでどうにもならないことを俺は体感によって知っているのだ。
「みくるちゃんのことを思い出しているのね」
 ハルヒは悲しい顔で笑った。俺は黙って頷いた。
 朝比奈さんとは多くの時間を共有し、二人だけでいることもかなりあったのだが、あいにく彼女にまつわる記憶は一切がもやに包まれていた。
「記憶抹消を受けた可能性がある」
 誰かがいつかそう言っていた。しかし今の俺には関係のないことだった。仮に朝比奈さんに関する手がかりを得たところで、俺に彼女を幸福にする術はないのだ。
 朝比奈さんは現実感を欠いたような笑い方をする人だった、という漠然とした印象だけが胸の奥底にぼんやりとゆらめいている。そのイメージの中で、彼女は確かに口を動かし、言葉を発するのだが、それが何なのか俺には聞きとれなかった。どのような聞き方をしても、どれだけ距離を縮めてみても、それは全くの無音となって虚しく空を打つだけだった。歳を取るごとに思い出す回数は増えていき、ある時俺はベッドで一人泣いた。覚えている限り五年ぶりに涙が出た。熱く重たい鉛を胸の井戸に沈められて、中の水が突然沸騰して溢れるように、俺はおいおいと泣いた。
「キョン。あたしがついているわ」
 ハルヒがそっと寝室に入ってきて、軽いキスの後で言った。
「朝比奈さんは帰ってこないんだ」
「知っているわよ。あたしも、何回も悲しくなったわ。でもそれ以上に、だからこそあなたといる今を大事にできるのよ。こうして話している以上に、ずっとずっと大事に想っているわ」
 本当にありがたいことだったが、俺はハルヒに言葉を返せなかった。胸の中にある鉛の温度は、まだまだ冷めてくれなかったのだ。
 しかし、翌日になると俺は綺麗さっぱり彼女のことを忘れてしまった。「おかしな人ね」とハルヒは笑ったが、果たして昨日俺は誰の顔を思い出していたのだろうと首を傾げ、解らないまま町内を3kmほど走って、それから本屋に行ってカラマーゾフの兄弟を買って帰った。上巻の中ほどで読書は止まり、それから二週間一向に進んでいない。
 それから二ヶ月経って、今度は小学生の頃に初恋の相手だった従姉妹について思い出していた。
 今にして思えば、彼女はとても官能的な娘だった。俺は当時小学五年生で、彼女は高校生だったはずだが学年は思い出せない。あの頃の俺にとって、中学生も高校生も区別がほとんどなかった。制服を着ていて、自分よりずっと上のお兄さんお姉さんという印象だけを抱いていた。
 従姉妹の家へは車で三十分ほどかかる。いつも決まって父親の運転するカローラに乗り、妹が突飛な行動に出ないように気を配っているうちに到着していた。
「キョンくんこんにちは」
 彼女はいつも決まって俺にそう挨拶した。冬場の印象が強い。タートルネックのセーターに、銀色に光るチョーカーをしていた。あれはもしかしたら彼氏からの贈りものだったのかもしれない。彼女は肩口までかかるつややかな髪を妖精めいた仕草で払う癖があった。その後で、少し困ったように俺と妹の方を見て笑うのだ。「ように」と言ったものの、もしかしたら本当に困っていたのかもしれない。そう思うのはこの時期よりずっと後のことだ。
 通過儀礼のような親戚家族同士の挨拶が終わると、俺と妹は決まって彼女の部屋に通された。年頃の女の子らしいお洒落な家具が心拍数を上げた。妹はそんな俺をよそに、磁石のように従姉妹に張り付いていた。
「うふふ。かわいいわね」
 彼女は実の妹のように六歳児を可愛がっていた。俺はというと視線の置き場に常に困っていた。壁にかかった制服を見るとやたらと顔が熱くなり、従姉妹の笑顔を見るとそれは倍の温度になった。
「音楽をかけましょうか」
 そう言って彼女はマジカル・ミステリーツアーのCDをかけた。ビートルズを聴いたのはこの頃が最初だった。
 俺はかしこまって正座した。ものの十五分で足がピリピリし始め、それは顔に表れていたはずだった。
「キョンくんは本を読むんだっけ?」
 彼女は笑顔のまま、細く背の高い書棚から何冊か取り出して、そこから選んで推薦した。
「ああ、これはSFね。よく解らなかったのよ」
 そう言って彼女は青い背表紙の一冊を脇に寄せた。
「これはためになったわ。どうせ忘れてしまうのでしょうけどね」
 次に出したのがドストエフスキーだった。当時の俺には表題の「と」しか読めなかった。
 何より気になって仕方なかったのは、セーター越しにぴたりと線の出る彼女の胸元だった。相応に膨らんでいて、うっかりすると俺の股間は充血してしまっていた。身体の反応を隠すのに四苦八苦した覚えがあるが、
「ねえ。この場面、素敵だと思わない?」
 彼女が近付いてきて、本の中のある文章を指し示した。いい香りが鼻腔を満たし、俺は全身が火照るのを感じていた。帰った後で、トランクスの中を確認したかもしれない。
 まず間違いなく、彼女は俺の反応を解っていて接近したのだと思う。あの時の笑顔には、当時の俺の年齢では察知できない含蓄があった。大体月に一度訪れる彼女との時間は、永遠に続けばいいとさえ思えた。そしてそれは体感時間としてはとても長いものだった。
 妹がたびたび茶々を入れてきていたはずだが、彼女は実に巧妙にそれをあしらっていた。妹の天真爛漫な性格を見抜いてのことだろう、と今の俺は検討をつけている。

       *

 やがて帰る時間が来ると、名残惜しく思う俺の心情を読み取っているかのように彼女は玄関先まで見送りに出てきていた。
「またね、キョンくん」
 そうして手を振った後で車は走り出し、振り返ると彼女はこちらへウィンクをした。

 あの部屋で聞いたストロベリー・フィールズ・フォーエバーが、時折耳の中でわんわんと鳴る。
 他にも彼女からはあらゆる高揚を与えられたものの、最後に年上の彼氏と駆け落ちをしてしまった。以来二十年余り会っていない。生きていれば三十台半ばを回ったところのはずだった。
「今日は誰の思い出に耽っていたの」
 ハルヒに嘘はつけなかった。まだ頭の中でジョン・レノンの曲が流れていた。俺が返答に困っていると、
「まあいいわ。たぶんあたしは一生会わない人でしょうし」
 そう言ってキスをした。その日は早く寝た。

       *

 美しい小説には、大抵胸に残るフレーズがあるものだ。
 それは冒頭の一文かもしれないし、途中に挟まれる台詞かもしれない。新訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読みながら、俺はふとそんなことを考えた。真冬の弱々しい光が窓辺を照らしていた。
「どうぞ」
「すまない」
 ハルヒが淹れたコーヒーはいつも苦かったし、彼女はそれを自分でも解っていたが、互いに不平を言うことは一度もなかった。探せばいくらでも見つかるものをわざわざ探す必要はない。
 当分俺が彼女たちとの時間を思い出すことはないだろう、と思って、ページを繰った。



       3


 エレベータ・ホールに立っていた。
 硬質な黒い壁と天井に、真っ白な蛍光灯が全体を照らしている。白と黒の空間にいるのは俺だけだった。身につけているのは学校の制服。冬用ブレザー。これはおそらく記憶の中だ、と検討をつける。見渡すと、この部屋には12のエレベータがあるようだった。すべてがこの階に止まっていて、ランプは24のところで点灯していた。24階ということらしい。
「どれに乗ればいいんだ」
 俺は呟いた。どれも見た目は全く同じだった。考えているうち、思考がポーク・ソーセージへと向かい始めた。腹が減っていたのだ。バンズにレタスと挟んで食べたかった。
「どれでもいい」
 隣の人物が言った。そこにいることに今気がついた。女子制服、ショートカット。「君は」と言いかけて、長門有希というのが彼女の名前だと思い出した。
「どれでもいいのかい」
「いい」
 埃一つないホールの中は、小さな声でも相当に残響した。やがて音が止むと、そこには完全な静謐が訪れる。時を止めたようだ、と俺は思い、途端にサージェント・ペパーズの最後に入っている奇妙な音声のリピートが頭に鳴り出した。頭を振ったものの、笑い続けるような数秒間のループは延々と鳴り続けた。
「これにしよう」
 俺は目の前のエレベータの横に取り付けられたボタンを押した。上へ向かうボタンだった。
「……」
 無言のまま有希はついて来た。

 
 エレベータの中にボタンは4つしかなかった。閉まる、開ける、24F、1028Fだけだ。
「1028階だって?」
「珍しいことではない。この宇宙ではありふれた現象」
 俺は有希を見た。控えめな美しさを誇る彼女は無表情だった。有希がそう言うならば、確かにそうなのだろう。俺は頷いて1028階のボタンを押した。エレベータが上昇しだした。頭の中のリピートは今は止んでいた。俺はあらためてエレベータの中がどのようになっているか見渡した。何のことはない、普通のエレベータだった。先ほどまでのホールと似たデザインの黒い密室。蛍光灯がやはり天井から照らしていて、白と黒の光景しか見えなかった。腹が鳴って、俺はまたポーク・ソーセージについて考え始めた。バンズに今度はレタスと目玉焼きもついている。真っ白な皿の横に透明で清潔なグラスを置き、オレンジ・ジュースをたっぷりと注いだ。
「今何時」
「え」
 間抜けな声が出た。有希が時間を訊いてきた。しかし俺は時間を表示するものを
何一つ身につけてはいなかった。携帯電話はもとより、腕時計も持っていない。そこ
で俺は彼女が宇宙人であったことを思い出した。
「君には解らないのかい」
「解らない」
 そうらしい。そうでなければ彼女が俺に時間を訊いたりするはずがないのだ。常識を 超えたエレベータのせいで、そんな簡単なことまで解らなくなってしまっていた。
「ここはどこなんだろう」
「解らない」
 簡潔に有希は答えた。それは彼女の美徳と言えた。往々にして女性というのは余計 な話をしたがるものだが、彼女においてはそのようなことは一切なかった。俺が考えて いるその間にもエレベータは上昇を続けていた。オレンジ色のランプは24と1028の間 にひとつ記された「・」のところで点滅を繰り返していた。点滅するたび、白と黒の世界にオレンジ色が入ってくるようになった。白、黒、オレンジ、白、黒、オレンジ。目がちかちかして、眩暈(げんうん)感に捉われる。
「まだ着かないのかい」
「あと二分」
 有希の言葉にはまたしても迷いがなかった。やれやれ、と俺は階数表示に目を戻す。すると先ほどまであった表示が消えていた。
「なくなってる」
「よくあること」
 ここでも有希は迷わなかった。それどころか退屈しているようにさえ思えた。ふいにハルヒの悪戯っぽい笑顔が浮かんできて、消えた。それきり思い出せずにいると、とうとうエレベータは1028階に着いた。
 ドアを出ると俺は強烈な既視感に襲われた。またエレベータ・ホールがあったのだ。しかも先ほどと全く同じつくりをしていて、やはりドアが12あった。
「どうなってるんだ」
「こっち」
 今度は有希が先導した。俺はそれに続いた。
 
 有希が入ったのは向かいにある右端のエレベータだった。しかしそれは厳密にはエレベータではなく、誰かの部屋の入口だった。ぱっと見では社長室のようなところで、向かいの壁は全面が窓ガラスになっていて、そこから向こうは都会の夜景がどこまでも続いていた。1028階ともなればかなりの高さになるはずだったが、雲はひとつもなかった。ずっと下のほうをヘリコプターと思しきプロペラがクルクル回って飛んで行った。
 有希は一つだけある机に近づいた。この部屋の主は今留守にしているようだった。手前にある応接用のソファを避けて、俺も彼女に続いた。
「二分待って」
「また二分か」
 今度の二分は先ほどよりも長く感じられた。直立不動で夜景を眺めていると、いつまでも時間が続いて、しかし時計の針は全く動いていないような錯覚に陥った。

       *

 ドアが開いたのは息が詰まるほどの静寂で室内が満たされた後だった。彼はかっちりと仕立てられた黒のスーツを着て、ブランド物の銀縁眼鏡をかけ、ローファーを絨毯にすとすと沈ませて机まで歩いてきた。
「待たせてすまないね」
「いい」
 いかにも社長らしい外見の中年男性に有希は迷いなく答えた。それから彼女は社長と何やら二言三言話し合っていた。俺はその間、夜景の遠くに点滅するヘリポートの明かりを注視していた。早く終わればいいのに、と思った。それはあまりに非現実的な夜だった。盆踊りをしながらラスベガスに来て、そのままカジノに行って檜風呂に入っているような唐突さだった。
「終わった」
「そうかい。助かるね」
 何分経ったのかよく解らなかった。社長のような男性は、俺たちより先に部屋を出て行った。
「一体何しにここへ来たんだい」
「それはあなたには理解できない」
 やれやれ。
「帰っていいのかな」
「こっち」
 有希はまた俺を先導して、来たのと同じドアからエレベータ・ホールに戻った。
 そこから24階まで戻るのは、来た時に比べてひどく簡単なことに思えた。体感時間は百分の一くらいだった。

       *

 真冬の風を背中に浴びて、俺はバーの中に入った。
 一人で二時間ほど酒を呑んでいると、女性に声をかけられた。店内放送の年代特集は、カム・トゥゲザーのカバーを流し始めた。
「どこかで会ったことがないかしら」
 俺と同年代に見えた。控えめな服のせいか、それとも顔立ちが幼いのか、二十台後半と言っても疑われない容貌をしている。
「解らないな」
「きっと会ったことがあるわよ。あたしには解ります」
 彼女は橘京子と名乗った。確かにそんな人物と高校時代に会っていた記憶がある。    
しかし思い出そうとすると、なぜか意識は店内放送へと向かってしまう。俺は首を振
った。
「あの時は楽しかったわね」
 京子はそう言ってバイオレットフィズのグラスを揺らした。社長室の光景がフラッシュ
バックした。
「どうしたの?」
「いいや。何でもないよ。それより、俺は君をどうにも思い出せないんだ」
「無理もないわ。もう二十年近く前のことなのよ」
 無理もない。その通りではあっても、何かとても大事なものを忘れてしまったような、
ひどい喪失感と虚無感があった。それらはアルコールでほろ酔い状態になった頭の上 を旋回していた。
「年は取りたくないな」
「そんなことないわ。だって避けて通れないのよ。それなら否定的になっていてはいけな
いと思うの」
 そうして俺たちはそこから二時間ほど昔話をした。もっぱら俺が聞き役に回ったものの、やはり彼女と高校時代に会っていた記憶は戻ってこなかった。夜半過ぎに別れ、自宅へ戻るとハルヒが静かに寝息を立てていた。俺は頬にキスをして、明かりを消した。



       4


 去年の秋に俺は友人と再会した。
「久し振りだな」
「そうだな」
 ゲット・バック。原点回帰という言葉はまさに彼と会う時のためにある。俺が高校を卒業してから、藤原とはちょくちょく会うようになった。今となっては、彼が本当に未来人であったのかは解らない。例によって古泉が俺を掘る前の催眠効果が見せていた幻惑なのかもしれない。
「うまくやってるか」
「まあまあだな」
 俺は答えた。三十半ばにして未だ子供はいないが、先日俺はハルヒにプロポーズした。彼女は俺の生涯において最も美しい輝きを瞳に宿していた。涙を一筋流した後で「喜んで」と言ってくれた。数日が経過するうちに、じわじわと喜びが身体に満ちていくのを感じた。なぜもっと早く言わなかったのだろうと思ったが、そうしていたらあの輝きは見られなかったかもしれない。黄熱灯のシェードが照らす室内で、俺たちは誓いのキスをした。高校時代に返ったかのような瑞々しい口づけだった。
「ハルヒと結婚することになった」
「そうなのか。そりゃよかった」
 藤原は心底安堵したように祝福してくれた。当時の仲間で素直に祝辞を述べてくれるのは、今となっては藤原くらいしかいなかった。
 外では秋雨が街路を打っていた。そのせいか、アナルズバーの店内にはあまり人がいなかった。マスターが俺の知らないジャズをかけた。三杯目の酒はほどよく体内を巡った。心地のいい夜だった。
「君はどうなんだい」
「僕か。そうだな。そろそろ再婚するのも悪くないかもしれない」
 藤原は過去に一度伴侶を得、四年後に別れたらしい。ただ一人の長男は妻が引き取り、養育費は藤原が払っていると言う。
「未来では貨幣は意味を持たないんだ」
 これには言い知れぬ説得力があった。ゆえに俺は特に詮索したりはしなかった。
 ともかく、藤原は定期的にこの時代に来ている。高校時代からは図れぬことだったが、俺にとって現代と呼べるこの時代が好きらしい。
「古風なものも目新しいものも、瀟洒(しょうしゃ)なものも猥雑なものも溢れているからな。見ていて飽きないんだ」
「確かに。飽きない代わりに疲れやすくはあるけどな」
「それは気の持ちようだ。力加減一つでうまくやっていけるようになる。例えば――」
 と言いかけて、藤原は口をつぐんだ。言いたくないことに突き当たったらしい。
「もう飲まないのか」
 俺はカクテルをシェイクする女性店員に目をやりつつ言った。長めのポニーテールがスタイリッシュだった。
「飲もうか。なにせ二年ぶりだ」
 そう言って彼はジントニックを注文した。俺もグラスを空にして、同じものを頼んだ。

       *
「出会いはあるんだ。けれどどれも恋愛にまで発展しない。まるで色味があせてしまったみたいに、無味乾燥としているんだよ」
 藤原は近況を語る途中でそう呟いた。
「その点お前は幸福だと思う。たぶん、お前たちはずっとうまくやっていける。流行に乗るように付き合って、熱が冷める前に分かれる二十台の男女とは違うさ」
「そう言われると重責に思えるな」
 零時近くになって、ピアノトリオの生演奏が始まった。俺たちのいる席は、丁度ステージとは対角の位置にあった。ウッドベースと控えめなドラムに乗るピアノの音階が上っては下り、下っては上った。まるでどこか遠い場所から聞こえてくる音楽に思え、過ぎ去った二十代の日々と、その向こうに白い岸辺のように輝く高校時代を想起していた。
「思い出してるのか」
 藤原はあっさりとそれを見抜いた。
「まいったな。相変わらず君は鋭い」
「そうでもないぜ。あんたは顔に出やすいのさ。いささかオーヴァー・リアクションのきらいがあるな」
「ハルヒに鍛えられたからな」
 藤原と話していると、あの三年間は幻ではなかったのだと思うことができた。二年前もまったく同じことを考えた。しかしさよならを言った後で、やはり想像上の出来事だったのではないかという疑念にとらわれるのだった。
「大丈夫だ。あんたの高校時代は確かにあった。あれが幻だと言うなら、この世界はまるまる夢という名の海の藻屑になるさ」


       *

 やがてピアノトリオが演奏を終え、まばらな拍手が鳴ってアナルズバーは閉店した。
「またな」
「ああ。今度は二年以内に会えるといい」
 雨は上がっていた。藤原がタクシーを呼びとめて去っていくのを俺は見送り、その後で俺も別会社のタクシーを捕まえた。
「いやぁ、寒いですねえお客さん」
「そうですね。最近はめっきり冷え込んできました」
 運転手に答えた後で、俺は彼の顔に妙な既視感を感じた。
「あの」
「はい。どちらまで向かいましょうか」
「いいえ。あの、すいませんが以前にどこかで会っていませんか?」
「私が。お客さんと? ……いいや、会っていませんねぇ」
「そうですか」
 それでは、と俺は自宅の住所を告げ、やがて車は深夜の大通りを滑っていった。
 まばらな街灯が等間隔に歩道を照らすのを眺めつつも、やはり彼とどこかで会っているような気がして落ち着かなかった。しかし再度問うような真似はしなかった。

       *

 家に帰ると今日もハルヒは眠っていた。地球上で最も安らかな寝顔かもしれない、と思った。ハルヒがこうして傍にいてくれるならば、向こう二十年くらいはうまくやっていけるだろう。
 起こしてしまわぬよう、キスは避けて、一分ほど寝顔を見守った後で明かりを消した。



       5


 高校一年の九月だった。本当に暑い初秋だった。秋と呼ぶのもおこがましいほどだった。
「乗ってください」
 俺は古泉に連れられて黒塗りのタクシーに乗った。明らかに他のお客を乗せているとは思えないハイヤー。
「今日はどこへ行くんだ」
 先々月はカマドウマに始まった情報生命体を駆除するのに方々へ走り回る羽目になった。願わくばあのような厄介で煩雑な事態にならないことを、と俺は内心で呟いた。
「『機関』の任務で街まで出ます。あなたも退屈でしょうから、たまにはお付き合い願おうかと思いまして」
 笑顔しか知らないSOS団副団長は言った。
「何か音楽をかけましょうか。運転手さん、お願いします」
 古泉が言い終わらぬうちに、カーステレオからノルウェイの森がかかりだした。音楽が流れると、不思議なことに車はほとんど信号に捕まらなくなった。今の気分に中期ビートルズはそぐわなかったが、無粋な注文を述べるのは遠慮した。
「涼宮さんの精神が荒れ出しています」
「またか。あの青い巨人をお前は依然倒し続けているのか」
「そうですよ。慣れてはいますが、やはり億劫でもあります。願わくばあなたがもう少し彼女と親密になっていただければ――」
 以降の台詞は覚えていない。聞き流したのだろう。
 車は陽が落ちるまで走り続けた。高速に乗り、遠いところまで。

「到着したようです」
 降りたのは四ヶ月前とは違う場所だったが、そこからそう遠くない地点だろうと見当をつけた。人通りが多く、家路につく学生や会社員がひしめいていた。
「こちらへ」
 古泉は細い街路へ迷うことなく入っていった。裏通りと言って差し支えのないような、さびれた、それでいて長い道だった。途中からくねくねと折れ曲がったうえ勾配があり、ポリバケツや通りがかりの黒猫や迷い込んだ老紳士や見たこともない種類の潅木や「イパネマ娘」という名のパブの裏口やらが続いていた。古泉の後に続いていた俺は、こいつの背中がだんだん大きくなっていくような妙な感覚がしてかぶりを振った。「こういう場所は初めてですか?」と奴は訊いた気もする。しかし、何が「こういう場所」なのか俺にはさっぱり解らなかった。そもそもこれは本当に『機関』の任務なのか、だとすれば俺を連れてくる必要がどこにあったのか、今日中に無事家に帰れるのか、妹の笑顔が見られるのか、そういえば鞄を車内に置き忘れたとか、そのようなことを延々考えているうち、いつしか道は下り階段に変わっていた。まだしも明るかった裏通りは、小型のランプが左右の壁に交互に連なる黒っぽい通りへと変化した。古泉に「まだ着かないのか」と言おうとしたが声にならなかった。もはや前を歩いているのが男なのかすら定かでなかった。ひょっとしたら男装したミシェルファイファーなのではないか、ここはカリフォルニア州なのではないか、などと考えていると、とうとう前に誰もいないことに気がついた。なおも階段は地下道に変わっていて、どこか知らないところからぴたぴたと水の垂れる音が聴こえていた。なおもランプは左右交互に連なっていて、俺にはそれがまるで異世界への通行路に思えた。
 
「古泉。どこだ」
 俺は謎の地下通路をひたすらに歩き続けながら、三度そう呼んでみた。堅いはずの壁は音をまったく跳ね返さず、俺の声は闇に吸い込まれた。足を止めようと思ったが、なぜだが身体が言うことを聞かなかった。
「どうなってるんだこれは」
 頭の中でもう一人の俺が叫んでいた。壁に向かって弱々しく拳を打ちつけていた。ふと、水のしたたる音がしなくなったことに気がついた。いつからだろう。解らない。果たしていつの間にこんな現実感を欠いた迷路に迷い込んでしまったのか解らないのと一緒だ。特別喉が渇いているというわけでもないのに、なぜだかカフェ・モカを飲みたくてたまらなかった。そして俺はハルヒにもう一度会いたかった。もしかしたらもう会えないかもしれないと思い、その感覚が恐怖に似ていることに戦慄した。しかし鳥肌はたたず、暑くもなく、寒くもなければ生温い感じもなかった。今の自分が身体を持っているかどうか定かでなかった。ともすれば思考を形成する脳すら存在していないかもしれない。であるならば俺が今いるのは一体どこなのだろう。涼宮ハルヒや朝比奈みくる、古泉一樹、長門有希といった人物は本当にいたのだろうか。北高という母校は本当にあったのだろうか。今や俺は歩いているという意識を持っていなかった。動く。辛うじて近い言葉を選ぶなら、動くとか転がるとかが近い。
 突然真っ白に視界が開けた。
 目が慣れるまでにだいぶ時間がかかり、視覚と同時に他の感触も復活した。
 どういうわけか学校の中庭に俺はいた。見渡すと、古泉が傍らで微笑をこちらによこしていた。
「俺はどうしていたんだ?」
「寝ていたようですね。体育祭の予行練習というのも退屈なものです」
 そう言われて初めて古泉と、俺が体操着を着ていることに気がついた。
「初めから体操着だったか?」
「そうですよ。間もなく涼宮さんが呼びに来るでしょう」
 と言うや、丁度いいタイミングでハルヒが現れ、俺たちを校庭へ促した。そして、俺はさっきまで見ていた、何か名状しがたき風景を綺麗に忘れてしまった。

       *

「昔そういうことがあったんだ。今思い出したよ」
「不思議ね。聞けば聞くほど不思議だわ。どうしてあの時言ってくれなかったの」
「だから忘れていたんだ。二十年も経って思い出すとは、人間の脳は不思議だな」
 俺とハルヒは冬の朝の食卓を囲んでいた。白く透明感のある朝だった。ベーコン入りの二つ目玉焼きが、こちらへ笑いかけているように見えた。俺はママレード・ジャムを塗ったトーストをかじって、椅子に乗った新聞紙に目を落とした。古泉一樹のその後が小さく記事になっていた。しかしそれは今の俺にとってどうでもいいことだった。
「やっぱりあなたは古泉くんが好きだったのよ」
「そんなことはないよ」
「そうなのよ。あたしが思うのだから間違いないわ」
 やれやれ。
「今日はどこへ行こうか」
 俺は仕方なく、この後のドライブへと話題を移した。
「水の見えるところがいいわ。川とか海とかね」
「どっちも歩いて行けてしまうな」
「それじゃ散歩にしましょう」
 ハルヒはあっさりと予定を変更してしまった。俺は特に反対することもなく、冷めて久しいコーヒーを一口啜った。



       6


 目を覚ますと隣に女が寝ていた。
 当時の俺は二十代であり、営業の仕事に精を出している真っ只中にあった。仕事と同様に女漁り(とまで言うのは行きすぎではあるものの)にも火がついて、このように気がつくと朝が来て隣に名も知らぬ女が寝ていることが日常茶飯事だった。
 俺はトランクス一丁のままベッドから起き出して適当にラジオをかけた。アイ・フィール・ファインが流れ出した。悪くない、と思う。そのまま洗面所に行って顔を洗い髭を剃り、キッチンへ向かうと湯を沸かしてパンを焼き、卵を一つ焼いて簡素な朝食とした。殻が一欠け入っていた。女はその間眠り続けていたが、俺は無視して日常と変わらぬ朝の行動を実行していた。やがてスーツに着替えると、「鍵はポストに」と書き置きして家を出た。

       *

 この頃の俺はまさしく仕事人間だった。
 朝会社に着くと、まずは駅のキオスクで買った日経紙に目を通し、コーヒーを一杯入れて日報を打ち、それから課長に報告してオフィスを出、営業先を回遊魚のように巡回して取引先との親交を一段階深め、昼はドトールでまたコーヒーを飲んだ。大抵はミラノサンドのAからCをローテーションし、飽きるとサンドウィッチ、あるいは他のファーストフードを利用した。残った時間で書店に向かい、二日に一度は文庫本を購入していた。
 しかしこの日は本を買わなかった。先日購入した「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」上下巻をまだ読了していなかった。快調に進んではいたが相応に長かったため、まだ下巻の三分の一ほどまでしか読んでいない。 
 午後も午前とは別の出先を巡り、途中で三十分ほど休憩を入れ、社に戻って課長に報告すると、自席に着いてデスクワークに取り掛かった。ふと、向こうの机の事務の女の子と目が合った。が逸らされた。彼女とはこれまでに七回寝た。六回目に彼女の家へ行った際、誤って精液をシーツに放出してしまい不満を買った。それが直接の原因では明らかにないが、近頃距離ができている。やがてはこのまま自然消滅するのだろう、と俺は思った。
「君」
「はい」
 課長に呼ばれた。俺は席を離れて窓際へ向かう。
「例の件は考えてくれたかね」
「はあ」
「はあ、じゃないよ。部長も娘が行き遅れないか気が気でないんだから。どうかここは私の顔を立てると思って、頼むよ」
 見合い話だった。部長の娘は今年で32になるらしく、本人の意思と言うよりは八割方が父親である部長の意思で、縁談相手を探しているようだった。すでに社の何人かは犠牲になったらしく、とうとう俺のところまでバトンが回ってきた。
「ではお受けします。日時はいつでもいいので、決定したら知らせてください」
「いつでもいいって君ねぇ」
「失礼します」
 そう言うと俺は席に戻って仕事の続きに取り掛かった。このような日々が何千日も続いていたのだ。
 

       *

 一時間半ほどの残業を終えて家に帰ると、書き置きが見慣れぬ字体のものに変わっていた。
『どうして私がこの家にいたのかよく解らないけれど、とりあえずお礼を言っておくわ。もう会うことはないでしょうけど』
 やれやれ。
 俺は書き置きを折りたたんで捨てようとし、いったんやめてテレビの上に置いた。テレビは週に一度点ければいいほうだった。

       *

 あまり来ることのないバーは、ジャズ・ピアノの生演奏が売りであるらしかった。
 フローズン・ダイキリを飲んでいると、隣から声がかかった。
「暇かしら」
「忙しいんだ」
「暇じゃないの」
「まあね」
「友達と賭けをしているんだけど。どうして大人はお酒を飲むのかしら」
 俺はそこでようやく振り返って彼女の顔を見た。ちょっと背伸びした大学生くらいの背格好だった。俺は彼女を仮にナズナと呼ぶことにした。
「意味がないからさ」
「へえ?」
 彼女はちょっと面白そうに目尻を細め、
「意味がないからお酒を飲むの?」
「それが大人というものだよ。反対に、意味がないと気がすまないのが子供さ」
「面白い意見ね」
「ところで何の賭けだい」
「この質問に答えてくれるかどうかよ。あたしの勝ちみたいね」
「それはよかったね」
 俺はマスターにスクリュードライバーを注文した。
「何か飲むかい。奢るけど」
「あたしはいいわ。もう今日は十分」
 確かに彼女の顔はわずかに赤かった。
「ね。それじゃ意味があることも、反対にないこともする人はどうなるの?」
 彼女の質問に僕はしばし首を傾げ、
「大人であり子供なのさ」
「なるほどね」
 マスターがこの時だけ我々の方を見ていた気がする。
「あたしここ最近、自分がどうかしてしまったような気になるのよ」
「どういう意味だい」
「周りの景色がこう、速く流れていくのよね。解るかしらこの意味」
「解るよ。ミニ・クーパーに乗っているような気分がするんだ」
 俺が言うと彼女はまた目を細めて笑った。
「それはだんだん速度を上げていく。しまいには特急列車、いや、ロールス・ロイスにしておこうか。ともかくそうなってしまう」
「それって遅くなってないかしら」
「そうかな。まあともかく、そういう感じだよ」
「へえ」
 彼女はマスターにコーク・ハイを頼んだ。
「もういいんじゃなかったの」
「気が変わったのよ」
 そこから俺とナズナは自分の小学生時代がどのようであったかを話して、そのまま彼女の家へ向かって二人で寝た。思いのほか酒が回っていたせいか、ペニスは勃起しなかった。そのほうがよかっただろう。

       *

 文芸部室から中庭を見ていた。
 そこではハルヒ、朝比奈さん、長門有希の三名が何やら密談していた。
「どうしました。何か他のものを見ているような顔ですよ」
 古泉が脇から声を発した。
「いいや、何でもないさ」
「そうですか」
「なぁ古泉」
「何でしょう」
「ミニ・クーパーに乗ったことはあるか」
「は。何ですか急に」
「いいや、何でもないさ」
 以降二十年間、俺は一度もミニ・クーパーに乗っていない。



       7


 長門有希を捜していた。
 二十代後半のことだった。その衝動は俺の胸の中をめらめらと焼く炎のように這い出でて、ディーゼル・エンジンの百倍ほどの原動力で俺を突き動かした。どういうわけか、高校を出てから十年間、俺は長門有希の存在を綺麗さっぱり忘れてしまっていた。正直に言えば今でも顔が思い出せない。イメージのそのまた残滓のそのまた破片のような、淡く儚く朧で尊い輪郭だけが、画用紙に滲んで見えなくなる雪の結晶のように、一瞬だけ表れてはまた内奥へと潜っていった。顕現と消滅を繰り替えす傍ら、何としても有希を探し出さなければならないという決心が俺の中で灼熱のマントルのように煮えていた。そうして俺は懐かしい市内へと赴き、有希を捜す日々が始まった。

       *

「キョンくん、あたしと来てくれますか」
 朝比奈さんに言われたのは、確か高二の秋であったと思う。その時の彼女は、何やらこれからライオンを猟銃で数十頭狩るかのような、彼女に似つかわしくない決意を示していて、俺は当惑した覚えがある。おそらくまた時間移動するのだろう、という経験則から来る予想は見事に的中し、二分後に俺はひさびさの時間酔いを経験してふらふらになった。
 しかし、これまでの時間移動と決定的に異なる点が一つあった。
 それは移動し終わって、酩酊感から立ち直る間に、半ば直感的に悟ることができた。何やら肌に感じる空気というか、鼻腔をくすぐる匂いというか、そのような五感、もしくはそれを超えた体感が違和を訴えていたのだ。
「朝比奈さん。ここは……?」
「未来です。十一年後の」
 彼女は簡潔に述べた。俺は瞠若して辺りを見渡した。季節こそ元いた時代と同じ晩秋であったが、見ている風景とは別に、何か根本的に「違う感覚」がひりひり伝わってきた。それは気圧かもしれないし舞い散る何らかの粒子かもしれないし、はたまた街並みの一部を形作る建造物であるのかもしれなかった。
「ここに来た理由は簡単です」
 朝比奈さんは俺が次の質問を考える遥か前に言った。俺は依然として眼下に広がる見慣れた、しかし決定的に記憶と違う光景を唖然として眺めていた。大気を固めて顔面にぶつけられたような衝撃があった。実際のところは実に静穏とした天候で、空のずっと高いところを遠くの山岳地帯からはぐれてきたのだろうトンビが舞っていた。しかし俺はそんな何気ない風景に釘付けにならずにはいられなかった。思えば未来に跳んだのはこれが初めてなのだ。
「未来、ですか……ここが……」
「今から未来のあなたに会いに行きます」
「え?」
「あたしたちで未来のあなたを励ますの。『頑張って』って。あたしもよく解らないんですけど、でも大切なことみたいで」
「それも例の最優先なんとかコードですか?」
「いいえ。あたしの、その……上の人が……」
 そこまでで言いたいことは何となく解った、要は大人になった彼女からの伝言らしい。それがまったくの私信であるのか、俺には検討もつかなかった。
 どうも現在位置が解っているらしく、未来の『俺』の元へはものの三十分で到着した。
 『俺』は川沿いの、かつて朝比奈さんが俺に正体を明かしたあのベンチに座って、中
空を見上げていた。ずっとずっと遠くにある見えないものを、何とかとらえようともがいて、結局見えなかったような顔をしていた。不思議なことに、未来の自分を見たことによる感慨というか、その手の興奮は一切なかった。
「君たちは……!」
「キョンくん……ですか?」
 もちろん隣に俺がいたものの、朝比奈さんはベンチに腰かける『俺』にも同じ呼称を用いた。不覚にも涙腺がゆるみかけた。なぜだか解らない。朝比奈さんの春風のような声が、まるで福音のように優しく遠く、響いて聞こえた。
「朝比奈さん……!? どうしてここに?」
 俺は疑問を抱いた。『俺』は俺の未来存在であるはずなのに、どうして過去に俺がこ こへ来たことを知らないのだろう。しかし、『俺』と朝比奈さんが話をする過程で、その疑問は氷解した。ただ単に忘れていたのだ。俺にとっては信じがたいことだった。朝比 奈さんと同行したことを忘れるなんて不覚もいいところである。いっそ小突いてやりたい。そうすれば少しは記憶に残るかもしれない。だが俺はそんなことはせず、代わりに 何としても今日この日のことを忘れまいと心に誓った。
「あのぅ、頑張ってください。どういうことか、あたしにはよく解りませんけど……」
「頑張れ。今の俺はあんたをちょっと不甲斐なく思ってるみたいだ」
 口をついて勝手に言葉が出てきた。ごく自然に発せられた思いだった。
 すると、長い間社会人生活をしているだろう、そのまんまな風体の『俺』は、困憊していた表情をみるみる回復させて、
「ありがとう。本当にありがとう」
 そう言って、何と泣き出した。俺は無性に落ち着かなくなった。朝比奈さんは母親のように『俺』に向けて心配の眼差しを送っていた。

       *

 今の今まで、完全に忘れていた。
 記憶は合致した瞬間に、計り知れぬほど莫大な感動を俺にもたらした。
 気づいた瞬間にはもう遅く、俺はでたらめにむせび泣いていた。まずは捜している長門有希の顔を思い出した。あいつは結局ただの一度も笑わなかった。笑顔の作り方を知らないままだった。そしてどこかへ消えてしまったのだ。
 次に俺は高校時代の文芸部室での日々を思い出した。二年、三年と学年が上がるにつれ、まるで日増しに紅く鮮やかに色づく、この晩秋の葉のように寥々とした感傷をもたらしていた、高校時代を。
 そして大学生以降の記憶が、まるで三倍速のロードムービーを見ているかのように一瞬で駆け抜けた。それは高校時代と比較して、何とも無味乾燥とした時だった。
「ありがとう。朝比奈さん……『俺』…………」
 気がつくと彼女と彼は消えていた。
 まるで今まで幻を見ていたように忽然と、綺麗さっぱりどこにもいなくなってしまった。
 しかし俺は迷うことなくベンチから立ち上がり、長門有希の捜索を続行した。
 俺は北高へ行った。有希のマンションへ行った。市立図書館へ八年ぶりに行った。他にも野球グラウンドや鶴屋山、思いつく限りのあらゆる場所へ行った。そこには確かに過去の面影があり、かつての俺たちがいた。パズルのピースをひとつひとつ確認していくかのような行路は夜中まで続いた。俺は時々壊れた水道管みたいに涙をこぼしては、高校時代を思い出した。それは魂とも呼ぶべきものを、もう一度己の中に引き戻す作業にも思えた。
 
 しかし、長門有希を見つけ出すことはとうとうできずじまいだった。

       *

 やがて俺は今住んでいる市街に帰ってきた。
 翌日は底なしのタンクみたいに酒をあおり、夜半にひどく吐いた。そこでもまた無闇に泣いた。もう二度とあの日々は戻ってこないのだと思った。そんなこと、この十年間で一度も思わなかった。すべては移ろい、流れ、過ぎ去り、忘れゆくものだと思っていた。しかしそうではないのだ。いつかどこかで、自分にとって最も重要だった歳月を思い出す時というのが人にはあるのだと、俺はそう思った。
 数年後、思い出したようにハルヒに電話をかけ、やがて結婚することになったのは、間違いなくこの時期の長門有希捜しが遠因になっていたと思う。過ぎ去った過去から、ただひとつだけ、離さずに抱きしめていることができたのだと思った。それは誰にでもできることではなかった。逃してしまった人を俺は何人も見てきた。もしかしたら俺もそうなっていたかもしれないし、あるいはこれからそうなるのかもしれない。
「どうしたの?」
 俺はハルヒをずっと抱きしめていた。
 セックスはおろかキスですらすることはなく、ただただ、抱きしめていた。
 そうしていると、ハルヒはやがて質問することをやめて、俺の背中にそっと両手を回してくれた。
「ありがとう」
 俺はそう呟いた。ハルヒに聞こえていたかは解らない。


 これで俺の短く長い追想録はひとまず区切りとなる。
 少なくとも俺の中で、大切な記憶としていつまでも残ればいいと願っている。


 (了)

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