1
アナルについて書く。
アナルは言うまでもなくケツの穴である。しかしある時の俺にとってそれは宇宙にも等しく無限の時間にも近かった。ある人間はこう言った。
「アナルは僕の生きがいです。アナルなくして人類の未来はありません」
大げさだった。言うまでもなく彼の頭の中はいかれているのだ。しかしいかれているというのは時として、自分ではなく世界そのものであることがある。それを勘案してもこの場合、彼には間違いなくいかれポンチの落款をくれてやれる。高校時代、俺の世界はそのようにして回っていた。傍目から見れば相当に奇矯であり、俺から見れば相応に奇特であった。
そしてそれら二つに大差はないのだ。仮に俺が校舎の屋上から飛び降りたとしても、あいつらであれば「そんなこともあるわね」と言って受け流したかもしれない。
*
「ねえ、今日あたしたちは何回セックスしたかしら」
枕元でハルヒが言った。俺たちは大人になっていた。高校時代は過ぎてみれば電車から見る景色の一点でしかなかった。しかしそれは見過ごせない景色であり、その証拠のひとつとして今ここにハルヒがいた。俺たちはあれから数え切れないほど様々な行為に及んだ。ある期間、俺はその回数を数えたくてしょうがなくなったので、情動にしたがってみた。
すなわち俺たちは一年間に8692回手を繋ぎ、2110回キスをし、264回セックスをした。こと俺について言えば、それとは別に62回マスターベーションをし、85回男に掘られかけた。
人は放っておいても女と寝るし、男に掘られる。そういうものだ。
高校を出た俺は大学に進学し、それなりの毎日を過ごし、それなりの友を得、それなりに酒を呑み、それなりにマンガを読み、それなりに小説を読み、そして音楽を聴いた。
俺は高校を卒業する時に童貞を喪失したが、相手はハルヒではなかった。高校時代憧れていた先輩でもなかった。厳密には人類ではない文芸部員でもなかった。
相手は男で、俺は人生のトラウマの実に98%をそこに費やした。いや、費やされた。
「んあっ、いく、いきますキョンたぁん!」
ひどく冷静だったのを覚えている。そうか、こうして男は掘られるのか、と、童貞喪失という一大事において、俺はいささか平常心を持ちすぎていた。
*
「ねえキョン、あたしたちいい加減マンネリだと思わない」
ある日の夜、二度目のセックスを終えて俺とハルヒはベッドに横たわっていた。相応の倦怠感が室内にわだかまっており、相当の沈黙が室内を支配していた。確かにマンネリだった。たまに思い出したように俺たちは喧嘩をし、結果八割をハルヒが白星で飾った。そういうものだ、と俺は自分に言い聞かせた。
「キョン。これ訊いていいかしら」
「何だ」
「高校時代、あなた古泉くんとつきあってたわよね」
「ああ」
「やっぱりそうなの。いいの。解っていたわ。いつかこんな日が来るって。そしてそれは避けられないって」
言い出したのは自分ではないのか。
「マンネリね、あたしたち」
しかし悲しいほどハルヒの言葉には現実味があった。そして俺は卒業式に古泉と交わった日のことを、煙霞の彼方に見える巡視船を見るように思い浮かべていた。
マンネリとはすなわち単調、均一化、画一的の謂(いい)であり、まさしく今の俺たちに当てはまる言葉だった。思えば世の中のあらゆるものはマンネリを繰り返すことと、それを打破することで成り立っている。今川焼を売る店は狂ったようにあんこを生産し続け、飽きられるとクリームとチョコレートに手を出す。それも飽きられると今度はジャムやツナを挟んでみる。つまりはそういうことだ。
「別れたいのか」
俺はハルヒに言った。彼女は静かに首を振って、
「そうじゃないの。ねえ、マンネリって素敵なことだわ。カタカタ四文字の言葉って大体あたしは嫌いだけど、この言葉は好きよ。そしてキョン、あなたが今でも好き」
そう言って俺たちは今日36回目のキスをした。悲しいことにいささかの悦びもそこにはなかった。
あろうことか俺はまだ古泉との過ちを思い出していたのだ。
*
船について話す。
実を言うと俺は高校時代初めて船に乗った。すさまじく酔った。当時、回数を数えることに愉楽を見出していなかった俺は、一体あの時何回嘔吐したのかをまるで覚えていない。
「そんなことどうでもいいじゃないの。それよりあなたの精液が少し黄色いことの方が気になるわ」
そう言ったのはハルヒではなかったと思う。
ともかく、船は酔う。あの夏の合宿旅行について思い出す時、俺は意図的に吐いた場面を頭から排除することにしている。人は放っておいても吐かないが、吐くときはナイアガラの滝より盛大に吐くものなのだ。
「ねぇキョンたん、僕たちとうとうひとつになれました」
無理矢理一仕事終えた古泉は言った。俺はてんで聞いちゃいなかった。これでハルヒに童貞を捧げる機会は永遠に失われたのだと思っていた。そして当時の俺には、それはフィリピン海よりも深い悔恨をもたらすことに思われた。今後いくらハルヒとセックスしようとも、それはみな二番目以降なのだ。
放課後の文芸部室には大抵超能力者と未来人と宇宙人がいた。そして俺とハルヒがいた。今にして思えば、あれらはみなあの場にいた人物の演技だったのかもしれない。俺は入学直後に催眠術にかかり、以後三年間を昏睡したまま過ごしていたのかもしれない。それを醒ましたのが卒業式の同性による強姦だったのだ。
そう思うと納得がいった。すなわちあれは必要なことだったのだ。
そうして俺は大学に入り、つつがなく社会人になった。
一般事務はまるで向いていないと知るや、半年で営業に転職した。ルート開拓に苦杯をなめたこともあったが、事務職に比べれば遥かに向いている仕事だった。そんな日々が六年続いた。その間に俺は主任になり、係長になり、課長になった。異例のスピードで出世をしてしまうと、急に世の中が白黒になったような錯覚がした。六年の間に幾人もの女性と関係を持ったが、今この場には誰もいなかった。
そうして俺はある日、涼宮ハルヒに電話をした。
「好きだ。つき合ってくれ」
「そうね。それもいいかもしれないわ」
13年越しの恋であったのかもしれない。その夜、俺たちは13年分の思いを解き放つように抱き合った。この時初めて俺はセックスを心地よいものだと感じるようになった。
室内にはサージェントペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンドの一曲目がかかっていた。
新聞にはオイリーヘアの古泉一樹が写っていた。大学を卒業すると同時に渡米し、政界に手を出したが失脚、贈収賄でとうとう捕まったらしい。いつかそんなことをする男だと思っていた。
高校時代の友人と言えば、谷口に先日ばったり再会した。ハッテン・カフェという行きつけの喫茶店にふらりと現れた昔の友は、なんと性転換手術をして女性になっていた。
「ひさしぶりね」
「そうだな」
「あたしのこと、覚えてる?」
「誰だっけ」
「んもう。谷口よ。お馬鹿さんねあなたも」
そうかもしれなかった。馬鹿、という言霊には、どうもこそばゆい響きがある。
「機会があればまた会えるわ。それじゃね。シーユー」
店内にはオスカーピーターソンのジャズがかかっていた気がする。そして谷口とはそれ以来会っていない。会いたくない、というわけではない。ただ、何か大きな流れのようなものによって俺とあいつは再会し、同じ流れによって会っていない。そういうことだ。
*
俺はハルヒの乳房をまじまじと見ていた。
それは磨かれた陶器よりもすべすべしていて、初雪のように光り輝いて見えた。
しかしそこに最初のような軒昂はなかった。思えばあの日、初めてハルヒを抱いた夜、俺はそこに古泉を重ねていたのかもしれない。卒業式の後の、淡い陽光が清浄な白をもたらす校庭の片隅で、俺はあいつに何かを吸い取られたのかもしれない。その代わりに、あいつは俺を三年間の夢から引き戻したのだ。
「ねえキョン、あたしの考えていることが解る?」
「いいや。自分の考えていることすらよく解っていないからな」
「あたし、あなたの考えていることを考えていたの。そしてそれはたぶん当たっているのよ。でもね、たとえマンネリでも、あたしはまだあなたの傍にいるわ」
「嬉しいよ」
そして俺たちは三回目のセックスに興じた。
三十路を過ぎた、ある夜のことだった。
2
高校二年生の秋、校舎の中庭に落ちる枯葉を見ていた。
「どうしたのよ」
ハルヒが俺に言った。
「枯葉を見ているんだ。こうしていると頭の中でビートルズが聴こえてくる。例えば今はサムシングがかかっている」
「ジョージ・ハリスンの曲ね。あたしあれ苦手だわ」
「俺もあまり好きじゃなかったよ。でもね、世の中の物事というのは全て変わっていくんだ。今この時でもそう思うよ。近頃は好きになってきたんだ。感性が変わってきたんだろうね」
「感性の変化はあたしにもあるわね。たぶんあなたよりずっと強くめまぐるしいわ」
そうだろうと思う。ハルヒはSOS団を立ち上げたのだから。そこに全てが収斂していた。あらゆる物事は流転していく。たとえば高校に入った頃、俺はハルヒを美人だと思っていた。一週間後には変人だと思っていた。もう一週間のうちにブラジャー越しの乳房を見た。その間、ハルヒの髪型は周期変動を続けた。
しかしこう考えることもあった。変わっているのは俺なのではないか。俺の中で何か突飛な、コペルニクス的転回にも相当する激変が起こり続けていて、俺はそれを全く認識していない、周囲もまた認識していない。世界は実は変わっていないものの、俺が変わっているおかげで全てが変わっているように<見える>。
「どうしたの。浮かない顔をしているわ」
「気にしなくていい。ちょっと寝不足だったんだ」
「また自慰にふけっていたの」
「違うよ。寝るのが遅くなっただけさ」
実はふけっていた。
*
昼休み、俺は部室で古泉と話していた。
「誰も来ませんね」
「来ないな。あるいは見えないだけかもしれない」
「確かに。長門さんや朝比奈さんが僕たちの目に見える保証などどこにもありませんね」
そのような会話をしていた記憶がある。あるいはそれは間違いかもしれない。
「この頃あちらもご無沙汰ですよ」
「奇妙な能力は使わないほうがいいと思う」
*
前の年。
俺は古泉に連れられて灰色をした空間に向かい、そこで青白い巨人を見て、赤い光の玉を見て帰ってきた。ああ、こうして物事は終わりを向かえるのか、と思った。印象派の絵のように、一度見たら忘れられない光景というのがある。ハルヒの上半身、朝比奈さんの全身、長門の眼鏡、古泉の全て。何も人物に限る必要はない。大学入試や梅雨時の営業接待、国木田の結婚式の仲人、翌日の朝五時に起きて見た厳寒の空。雲ひとつなく、真っ青の淵が朱に染まって行く場面は、一生忘れないのだ。
そうして記憶に焼きついた光景は、節目ごとに強烈なイメージとなって思い出される。それは何をしているかに関係なく、例えば事務の女の子とのキスの最中、残業明けの帰りの車中、大学仲間との三年ぶりの飲み会。そうした場面場面で、俺はハルヒの上半身や閉鎖空間での出来事について思い出しては忘れた。
ある時は真冬の居酒屋で鍋をつついていた気がする。そこには高校時代の同級生の誰かがいて、それはまず間違いなく女性だった。あるいは女性のような誰かだったのかもしれない。
「アンコウ鍋って食べにくいわね」
「でもこれはきりたんぽ鍋だよ」
「いいのよ。私にとってはアンコウ鍋なの」
やれやれ。
「この後だけど」と彼女は言った。「久し振りにどうかしら」
「構わないよ」と僕は言った。隣のサラリーマンの眼鏡が湯気で曇っていた。冬だったのかも
しれない。
*
「あなたって最高だわ。あたしにとっては」
ハルヒの声だった。久し振りに俺たちは抱き合っていたのだ。俺はかれこれ四回射精し、まだまだ余力を残していた。しかし精神的にはそれほどでもなかった。
ハルヒは俺の精液を満足そうに眺め、やがてレーゾン・デートゥルと名前をつけた。
室内には止め忘れたレット・イット・ビーのCDがかかっていた。ディグ・イット。やがて聞き慣れたピアノの音色とともに表題曲が流れた。
なすがままに。
その通りだった。あらゆる出来事が俺の前を通りすぎ、そしてそれは加速し続けてとうとう捕まえられなくなってしまった。もしかしたら、一年前なら届いたかもしれない。しかし一年前にはもう戻れない。戻ったところでどうにもならないことを俺は体感によって知っているのだ。
「みくるちゃんのことを思い出しているのね」
ハルヒは悲しい顔で笑った。俺は黙って頷いた。
朝比奈さんとは多くの時間を共有し、二人だけでいることもかなりあったのだが、あいにく彼女にまつわる記憶は一切がもやに包まれていた。
「記憶抹消を受けた可能性がある」
誰かがいつかそう言っていた。しかし今の俺には関係のないことだった。仮に朝比奈さんに関する手がかりを得たところで、俺に彼女を幸福にする術はないのだ。
朝比奈さんは現実感を欠いたような笑い方をする人だった、という漠然とした印象だけが胸の奥底にぼんやりとゆらめいている。そのイメージの中で、彼女は確かに口を動かし、言葉を発するのだが、それが何なのか俺には聞きとれなかった。どのような聞き方をしても、どれだけ距離を縮めてみても、それは全くの無音となって虚しく空を打つだけだった。歳を取るごとに思い出す回数は増えていき、ある時俺はベッドで一人泣いた。覚えている限り五年ぶりに涙が出た。熱く重たい鉛を胸の井戸に沈められて、中の水が突然沸騰して溢れるように、俺はおいおいと泣いた。
「キョン。あたしがついているわ」
ハルヒがそっと寝室に入ってきて、軽いキスの後で言った。
「朝比奈さんは帰ってこないんだ」
「知っているわよ。あたしも、何回も悲しくなったわ。でもそれ以上に、だからこそあなたといる今を大事にできるのよ。こうして話している以上に、ずっとずっと大事に想っているわ」
本当にありがたいことだったが、俺はハルヒに言葉を返せなかった。胸の中にある鉛の温度は、まだまだ冷めてくれなかったのだ。
しかし、翌日になると俺は綺麗さっぱり彼女のことを忘れてしまった。「おかしな人ね」とハルヒは笑ったが、果たして昨日俺は誰の顔を思い出していたのだろうと首を傾げ、解らないまま町内を3kmほど走って、それから本屋に行ってカラマーゾフの兄弟を買って帰った。上巻の中ほどで読書は止まり、それから二週間一向に進んでいない。
それから二ヶ月経って、今度は小学生の頃に初恋の相手だった従姉妹について思い出していた。
今にして思えば、彼女はとても官能的な娘だった。俺は当時小学五年生で、彼女は高校生だったはずだが学年は思い出せない。あの頃の俺にとって、中学生も高校生も区別がほとんどなかった。制服を着ていて、自分よりずっと上のお兄さんお姉さんという印象だけを抱いていた。
従姉妹の家へは車で三十分ほどかかる。いつも決まって父親の運転するカローラに乗り、妹が突飛な行動に出ないように気を配っているうちに到着していた。
「キョンくんこんにちは」
彼女はいつも決まって俺にそう挨拶した。冬場の印象が強い。タートルネックのセーターに、銀色に光るチョーカーをしていた。あれはもしかしたら彼氏からの贈りものだったのかもしれない。彼女は肩口までかかるつややかな髪を妖精めいた仕草で払う癖があった。その後で、少し困ったように俺と妹の方を見て笑うのだ。「ように」と言ったものの、もしかしたら本当に困っていたのかもしれない。そう思うのはこの時期よりずっと後のことだ。
通過儀礼のような親戚家族同士の挨拶が終わると、俺と妹は決まって彼女の部屋に通された。年頃の女の子らしいお洒落な家具が心拍数を上げた。妹はそんな俺をよそに、磁石のように従姉妹に張り付いていた。
「うふふ。かわいいわね」
彼女は実の妹のように六歳児を可愛がっていた。俺はというと視線の置き場に常に困っていた。壁にかかった制服を見るとやたらと顔が熱くなり、従姉妹の笑顔を見るとそれは倍の温度になった。
「音楽をかけましょうか」
そう言って彼女はマジカル・ミステリーツアーのCDをかけた。ビートルズを聴いたのはこの頃が最初だった。
俺はかしこまって正座した。ものの十五分で足がピリピリし始め、それは顔に表れていたはずだった。
「キョンくんは本を読むんだっけ?」
彼女は笑顔のまま、細く背の高い書棚から何冊か取り出して、そこから選んで推薦した。
「ああ、これはSFね。よく解らなかったのよ」
そう言って彼女は青い背表紙の一冊を脇に寄せた。
「これはためになったわ。どうせ忘れてしまうのでしょうけどね」
次に出したのがドストエフスキーだった。当時の俺には表題の「と」しか読めなかった。
何より気になって仕方なかったのは、セーター越しにぴたりと線の出る彼女の胸元だった。相応に膨らんでいて、うっかりすると俺の股間は充血してしまっていた。身体の反応を隠すのに四苦八苦した覚えがあるが、
「ねえ。この場面、素敵だと思わない?」
彼女が近付いてきて、本の中のある文章を指し示した。いい香りが鼻腔を満たし、俺は全身が火照るのを感じていた。帰った後で、トランクスの中を確認したかもしれない。
まず間違いなく、彼女は俺の反応を解っていて接近したのだと思う。あの時の笑顔には、当時の俺の年齢では察知できない含蓄があった。大体月に一度訪れる彼女との時間は、永遠に続けばいいとさえ思えた。そしてそれは体感時間としてはとても長いものだった。
妹がたびたび茶々を入れてきていたはずだが、彼女は実に巧妙にそれをあしらっていた。妹の天真爛漫な性格を見抜いてのことだろう、と今の俺は検討をつけている。
*
やがて帰る時間が来ると、名残惜しく思う俺の心情を読み取っているかのように彼女は玄関先まで見送りに出てきていた。
「またね、キョンくん」
そうして手を振った後で車は走り出し、振り返ると彼女はこちらへウィンクをした。
あの部屋で聞いたストロベリー・フィールズ・フォーエバーが、時折耳の中でわんわんと鳴る。
他にも彼女からはあらゆる高揚を与えられたものの、最後に年上の彼氏と駆け落ちをしてしまった。以来二十年余り会っていない。生きていれば三十台半ばを回ったところのはずだった。
「今日は誰の思い出に耽っていたの」
ハルヒに嘘はつけなかった。まだ頭の中でジョン・レノンの曲が流れていた。俺が返答に困っていると、
「まあいいわ。たぶんあたしは一生会わない人でしょうし」
そう言ってキスをした。その日は早く寝た。
*
美しい小説には、大抵胸に残るフレーズがあるものだ。
それは冒頭の一文かもしれないし、途中に挟まれる台詞かもしれない。新訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読みながら、俺はふとそんなことを考えた。真冬の弱々しい光が窓辺を照らしていた。
「どうぞ」
「すまない」
ハルヒが淹れたコーヒーはいつも苦かったし、彼女はそれを自分でも解っていたが、互いに不平を言うことは一度もなかった。探せばいくらでも見つかるものをわざわざ探す必要はない。
当分俺が彼女たちとの時間を思い出すことはないだろう、と思って、ページを繰った。
3
エレベータ・ホールに立っていた。
硬質な黒い壁と天井に、真っ白な蛍光灯が全体を照らしている。白と黒の空間にいるのは俺だけだった。身につけているのは学校の制服。冬用ブレザー。これはおそらく記憶の中だ、と検討をつける。見渡すと、この部屋には12のエレベータがあるようだった。すべてがこの階に止まっていて、ランプは24のところで点灯していた。24階ということらしい。
「どれに乗ればいいんだ」
俺は呟いた。どれも見た目は全く同じだった。考えているうち、思考がポーク・ソーセージへと向かい始めた。腹が減っていたのだ。バンズにレタスと挟んで食べたかった。
「どれでもいい」
隣の人物が言った。そこにいることに今気がついた。女子制服、ショートカット。「君は」と言いかけて、長門有希というのが彼女の名前だと思い出した。
「どれでもいいのかい」
「いい」
埃一つないホールの中は、小さな声でも相当に残響した。やがて音が止むと、そこには完全な静謐が訪れる。時を止めたようだ、と俺は思い、途端にサージェント・ペパーズの最後に入っている奇妙な音声のリピートが頭に鳴り出した。頭を振ったものの、笑い続けるような数秒間のループは延々と鳴り続けた。
「これにしよう」
俺は目の前のエレベータの横に取り付けられたボタンを押した。上へ向かうボタンだった。
「……」
無言のまま有希はついて来た。
「ここはどこなんだろう」
「解らない」
簡潔に有希は答えた。それは彼女の美徳と言えた。往々にして女性というのは余計 な話をしたがるものだが、彼女においてはそのようなことは一切なかった。俺が考えて
いるその間にもエレベータは上昇を続けていた。オレンジ色のランプは24と1028の間
にひとつ記された「・」のところで点滅を繰り返していた。点滅するたび、白と黒の世界にオレンジ色が入ってくるようになった。白、黒、オレンジ、白、黒、オレンジ。目がちかちかして、眩暈(げんうん)感に捉われる。
「まだ着かないのかい」
「あと二分」
有希の言葉にはまたしても迷いがなかった。やれやれ、と俺は階数表示に目を戻す。すると先ほどまであった表示が消えていた。
「なくなってる」
「よくあること」
ここでも有希は迷わなかった。それどころか退屈しているようにさえ思えた。ふいにハルヒの悪戯っぽい笑顔が浮かんできて、消えた。それきり思い出せずにいると、とうとうエレベータは1028階に着いた。
ドアを出ると俺は強烈な既視感に襲われた。またエレベータ・ホールがあったのだ。しかも先ほどと全く同じつくりをしていて、やはりドアが12あった。
「どうなってるんだ」
「こっち」
今度は有希が先導した。俺はそれに続いた。
「終わった」
「そうかい。助かるね」
何分経ったのかよく解らなかった。社長のような男性は、俺たちより先に部屋を出て行った。
「一体何しにここへ来たんだい」
「それはあなたには理解できない」
やれやれ。
「帰っていいのかな」
「こっち」
有希はまた俺を先導して、来たのと同じドアからエレベータ・ホールに戻った。
そこから24階まで戻るのは、来た時に比べてひどく簡単なことに思えた。体感時間は百分の一くらいだった。
*
真冬の風を背中に浴びて、俺はバーの中に入った。
一人で二時間ほど酒を呑んでいると、女性に声をかけられた。店内放送の年代特集は、カム・トゥゲザーのカバーを流し始めた。
「どこかで会ったことがないかしら」
俺と同年代に見えた。控えめな服のせいか、それとも顔立ちが幼いのか、二十台後半と言っても疑われない容貌をしている。
「解らないな」
「きっと会ったことがあるわよ。あたしには解ります」
彼女は橘京子と名乗った。確かにそんな人物と高校時代に会っていた記憶がある。
しかし思い出そうとすると、なぜか意識は店内放送へと向かってしまう。俺は首を振
った。
「あの時は楽しかったわね」
京子はそう言ってバイオレットフィズのグラスを揺らした。社長室の光景がフラッシュ
バックした。
「どうしたの?」
「いいや。何でもないよ。それより、俺は君をどうにも思い出せないんだ」
「無理もないわ。もう二十年近く前のことなのよ」
無理もない。その通りではあっても、何かとても大事なものを忘れてしまったような、
ひどい喪失感と虚無感があった。それらはアルコールでほろ酔い状態になった頭の上 を旋回していた。
「年は取りたくないな」
「そんなことないわ。だって避けて通れないのよ。それなら否定的になっていてはいけな
いと思うの」
そうして俺たちはそこから二時間ほど昔話をした。もっぱら俺が聞き役に回ったものの、やはり彼女と高校時代に会っていた記憶は戻ってこなかった。夜半過ぎに別れ、自宅へ戻るとハルヒが静かに寝息を立てていた。俺は頬にキスをして、明かりを消した。
4
去年の秋に俺は友人と再会した。
「久し振りだな」
「そうだな」
ゲット・バック。原点回帰という言葉はまさに彼と会う時のためにある。俺が高校を卒業してから、藤原とはちょくちょく会うようになった。今となっては、彼が本当に未来人であったのかは解らない。例によって古泉が俺を掘る前の催眠効果が見せていた幻惑なのかもしれない。
「うまくやってるか」
「まあまあだな」
俺は答えた。三十半ばにして未だ子供はいないが、先日俺はハルヒにプロポーズした。彼女は俺の生涯において最も美しい輝きを瞳に宿していた。涙を一筋流した後で「喜んで」と言ってくれた。数日が経過するうちに、じわじわと喜びが身体に満ちていくのを感じた。なぜもっと早く言わなかったのだろうと思ったが、そうしていたらあの輝きは見られなかったかもしれない。黄熱灯のシェードが照らす室内で、俺たちは誓いのキスをした。高校時代に返ったかのような瑞々しい口づけだった。
「ハルヒと結婚することになった」
「そうなのか。そりゃよかった」
藤原は心底安堵したように祝福してくれた。当時の仲間で素直に祝辞を述べてくれるのは、今となっては藤原くらいしかいなかった。
外では秋雨が街路を打っていた。そのせいか、アナルズバーの店内にはあまり人がいなかった。マスターが俺の知らないジャズをかけた。三杯目の酒はほどよく体内を巡った。心地のいい夜だった。
「君はどうなんだい」
「僕か。そうだな。そろそろ再婚するのも悪くないかもしれない」
藤原は過去に一度伴侶を得、四年後に別れたらしい。ただ一人の長男は妻が引き取り、養育費は藤原が払っていると言う。
「未来では貨幣は意味を持たないんだ」
これには言い知れぬ説得力があった。ゆえに俺は特に詮索したりはしなかった。
ともかく、藤原は定期的にこの時代に来ている。高校時代からは図れぬことだったが、俺にとって現代と呼べるこの時代が好きらしい。
「古風なものも目新しいものも、瀟洒(しょうしゃ)なものも猥雑なものも溢れているからな。見ていて飽きないんだ」
「確かに。飽きない代わりに疲れやすくはあるけどな」
「それは気の持ちようだ。力加減一つでうまくやっていけるようになる。例えば――」
と言いかけて、藤原は口をつぐんだ。言いたくないことに突き当たったらしい。
「もう飲まないのか」
俺はカクテルをシェイクする女性店員に目をやりつつ言った。長めのポニーテールがスタイリッシュだった。
「飲もうか。なにせ二年ぶりだ」
そう言って彼はジントニックを注文した。俺もグラスを空にして、同じものを頼んだ。
「出会いはあるんだ。けれどどれも恋愛にまで発展しない。まるで色味があせてしまったみたいに、無味乾燥としているんだよ」
藤原は近況を語る途中でそう呟いた。
「その点お前は幸福だと思う。たぶん、お前たちはずっとうまくやっていける。流行に乗るように付き合って、熱が冷める前に分かれる二十台の男女とは違うさ」
「そう言われると重責に思えるな」
零時近くになって、ピアノトリオの生演奏が始まった。俺たちのいる席は、丁度ステージとは対角の位置にあった。ウッドベースと控えめなドラムに乗るピアノの音階が上っては下り、下っては上った。まるでどこか遠い場所から聞こえてくる音楽に思え、過ぎ去った二十代の日々と、その向こうに白い岸辺のように輝く高校時代を想起していた。
「思い出してるのか」
藤原はあっさりとそれを見抜いた。
「まいったな。相変わらず君は鋭い」
「そうでもないぜ。あんたは顔に出やすいのさ。いささかオーヴァー・リアクションのきらいがあるな」
「ハルヒに鍛えられたからな」
藤原と話していると、あの三年間は幻ではなかったのだと思うことができた。二年前もまったく同じことを考えた。しかしさよならを言った後で、やはり想像上の出来事だったのではないかという疑念にとらわれるのだった。
「大丈夫だ。あんたの高校時代は確かにあった。あれが幻だと言うなら、この世界はまるまる夢という名の海の藻屑になるさ」
*
やがてピアノトリオが演奏を終え、まばらな拍手が鳴ってアナルズバーは閉店した。
「またな」
「ああ。今度は二年以内に会えるといい」
雨は上がっていた。藤原がタクシーを呼びとめて去っていくのを俺は見送り、その後で俺も別会社のタクシーを捕まえた。
「いやぁ、寒いですねえお客さん」
「そうですね。最近はめっきり冷え込んできました」
運転手に答えた後で、俺は彼の顔に妙な既視感を感じた。
「あの」
「はい。どちらまで向かいましょうか」
「いいえ。あの、すいませんが以前にどこかで会っていませんか?」
「私が。お客さんと? ……いいや、会っていませんねぇ」
「そうですか」
それでは、と俺は自宅の住所を告げ、やがて車は深夜の大通りを滑っていった。
まばらな街灯が等間隔に歩道を照らすのを眺めつつも、やはり彼とどこかで会っているような気がして落ち着かなかった。しかし再度問うような真似はしなかった。
*
家に帰ると今日もハルヒは眠っていた。地球上で最も安らかな寝顔かもしれない、と思った。ハルヒがこうして傍にいてくれるならば、向こう二十年くらいはうまくやっていけるだろう。
起こしてしまわぬよう、キスは避けて、一分ほど寝顔を見守った後で明かりを消した。
5
高校一年の九月だった。本当に暑い初秋だった。秋と呼ぶのもおこがましいほどだった。
「乗ってください」
俺は古泉に連れられて黒塗りのタクシーに乗った。明らかに他のお客を乗せているとは思えないハイヤー。
「今日はどこへ行くんだ」
先々月はカマドウマに始まった情報生命体を駆除するのに方々へ走り回る羽目になった。願わくばあのような厄介で煩雑な事態にならないことを、と俺は内心で呟いた。
「『機関』の任務で街まで出ます。あなたも退屈でしょうから、たまにはお付き合い願おうかと思いまして」
笑顔しか知らないSOS団副団長は言った。
「何か音楽をかけましょうか。運転手さん、お願いします」
古泉が言い終わらぬうちに、カーステレオからノルウェイの森がかかりだした。音楽が流れると、不思議なことに車はほとんど信号に捕まらなくなった。今の気分に中期ビートルズはそぐわなかったが、無粋な注文を述べるのは遠慮した。
「涼宮さんの精神が荒れ出しています」
「またか。あの青い巨人をお前は依然倒し続けているのか」
「そうですよ。慣れてはいますが、やはり億劫でもあります。願わくばあなたがもう少し彼女と親密になっていただければ――」
以降の台詞は覚えていない。聞き流したのだろう。
車は陽が落ちるまで走り続けた。高速に乗り、遠いところまで。
「到着したようです」
降りたのは四ヶ月前とは違う場所だったが、そこからそう遠くない地点だろうと見当をつけた。人通りが多く、家路につく学生や会社員がひしめいていた。
「こちらへ」
古泉は細い街路へ迷うことなく入っていった。裏通りと言って差し支えのないような、さびれた、それでいて長い道だった。途中からくねくねと折れ曲がったうえ勾配があり、ポリバケツや通りがかりの黒猫や迷い込んだ老紳士や見たこともない種類の潅木や「イパネマ娘」という名のパブの裏口やらが続いていた。古泉の後に続いていた俺は、こいつの背中がだんだん大きくなっていくような妙な感覚がしてかぶりを振った。「こういう場所は初めてですか?」と奴は訊いた気もする。しかし、何が「こういう場所」なのか俺にはさっぱり解らなかった。そもそもこれは本当に『機関』の任務なのか、だとすれば俺を連れてくる必要がどこにあったのか、今日中に無事家に帰れるのか、妹の笑顔が見られるのか、そういえば鞄を車内に置き忘れたとか、そのようなことを延々考えているうち、いつしか道は下り階段に変わっていた。まだしも明るかった裏通りは、小型のランプが左右の壁に交互に連なる黒っぽい通りへと変化した。古泉に「まだ着かないのか」と言おうとしたが声にならなかった。もはや前を歩いているのが男なのかすら定かでなかった。ひょっとしたら男装したミシェルファイファーなのではないか、ここはカリフォルニア州なのではないか、などと考えていると、とうとう前に誰もいないことに気がついた。なおも階段は地下道に変わっていて、どこか知らないところからぴたぴたと水の垂れる音が聴こえていた。なおもランプは左右交互に連なっていて、俺にはそれがまるで異世界への通行路に思えた。
最終更新:2009年06月22日 18:11