白雪姫の真相
 
 簡易シミュレーターが空中に展開する無数の曲線と記号と数式で構成された光の樹形図を見上げながら、朝比奈みくるは溜息をついた。
 
 彼女は行き詰っていた。
 
 シミュレーターが示すキョンと涼宮ハルヒの結末は、彼女の満足にいくものではなかった。
 なぜなら、それは彼女が知っている史実からずれていたから。
 二人は結婚して幸福な一生を過ごすはずなのに、なぜか二人とも生涯独身という結末になっていた。
 まだ、時間軸の上書きは観測されてないが、何かの拍子に上書き現象が発生しないとも限らない。そうなれば、このシミュレーション結果が現実となってしまう可能性があった。
 何かが足りない。それは、どこかの時点で介入する必要があるということ。
 問題は、二人の結婚が規定事項として認定されるかどうかだ。二人が結婚しなくても、今のこの時間平面には影響がないと判断されれば、上書きが発生しようとも放置されることになる。
 二人が結婚するかしないかという問題は、道端に転がっている石ころの位置が10センチずれてましたという程度の瑣末なことでしかない可能性も否定できないのだ。
 そのような瑣末な差異による時間軸上書き効果は一定の時点で終息してしまい、その時点以降の未来には影響を与えない。時間軸の再帰性と呼ばれる性質である。
 
 問題はもう一つあった。
 二人が北高に入学した春に発生した特殊閉鎖空間。そこから二人が帰ってくる確率について、規定事項管理局はシミュレーションを放棄していた。データがないので、シミュレーションは不可能だというのだ。
 世界改変を行おうとしていたのだからSTCデータ上に痕跡が残るはずなのだが、いくら観測してもその痕跡が見つからない。おそらく、涼宮ハルヒの力によって完全に消し去られたものと推測されていた。
 あの特殊空間は、完全なブラックボックスということだ。
 このままでは、世界改変が成功してこの時間軸が完全に上書きされてしまう可能性が残ってしまう。
 二人があそこから戻ってくるという規定事項をなんとしても確定させなければならないのだが、そのためにどのような介入を行なうべきなのか、検討もつかなかった。
 
 
 
 朝比奈みくるは、簡易シミュレーターをポケットにしまって、自室を出た。とある人物の部屋へと向かう。
 「機関」時空工作部最高評議会の一員であり、かつ、情報統合思念体の端末でもある存在、すなわち、長門有希の部屋であった。
 
 部屋のドアに手を触れる。DNAがチェックされ、部屋の主に来客が告げられたはずだ。
 ほどなくして、ドアのロックが開錠された。
「失礼いたします」
 朝比奈みくるが中に入ると、長門有希が読書をしている光景が目に入った。この組織を牛耳る長老の昔から変わらぬ趣味だ。
 朝比奈みくるは促されるままに、長門有希の向かいの席に座った。
 長門有希は、ぱたんと書物を閉じると、簡潔に問うた。
「用件は?」
「御相談したいことがあります。お時間は大丈夫でしょうか?」
「今日は評議会の開会は予定されていない。時間は充分にある」
 
 朝比奈みくるは、現在行き詰っている点について、率直に話した。
 それに対して、長門有希はこう答えた。
「私は、あのとき、あの閉鎖空間にいる彼に対して、一つの示唆を与えた」
「示唆……ですか?」
「そう。sleeping beauty、と」
「眠り姫ですか」
「涼宮ハルヒは、あのとき、二人で夢の世界に引きこもろうとしていた。そんな彼女の目を覚ますものは……」
 長門有希の言葉を、朝比奈みくるが引き継いだ。
「王子様のキスというわけですね」
「そう。しかし、私の示唆だけでは、説得力が弱い。あの時点では、彼の私への信頼は、低くはないにしても、高いとはいいがたかった。よって、未来人から類似のヒントを与えることによって、説得力をより高める必要があると判断する」
「なるほど。それが私の役目ですね。私は『白雪姫』とでも言っておきましょうか」
「それでよい。そして、これは、あなたのもう一つの問題をも解決する。閉鎖空間内での二人の口付けという要素を加えて、シミュレーションを修正してみて」
 
 朝比奈みくるは、簡易シミュレーターを取り出し、作動させた。
 空中に展開された光の樹形図が、さきほどとは違う形を示していた。
 ある曲線のある一点にまとわりついている記号と数式が、とある事象の確率を示している。
 
 キョンと涼宮ハルヒが結婚する確率99.86パーセント。
 
「そもそも、彼は異性間の友情に疑問を持たない人間。その心理傾向からすれば、SOS団における様々な経験は、本来的には、彼の涼宮ハルヒへの友情を深める方向にしか作用しえない。それが二人が恋愛関係に至らない主要な原因である」
「でも、キョンくんが涼宮さんを女性として意識せざるをえないような出来事があれば、それも変わってくるということですね」
「そう。特殊な状況下で口付けをしたという事実は、鮮烈な記憶として残ることになる。彼の意識の奥底から離れることはない。彼のような誠実な性格であれば、なおのこと」
「なるほど。でも、問題が一点だけ残ってますね。長門さんと私の示唆に、キョンくんが従うかどうかは、不確定です」
「やはり、あなたは優秀」
 長門有希は、朝比奈みくるの能力の高さに賛辞を送った。
「そう。まさに、問題はその点にある。あの閉鎖空間には外部からの干渉が不可能である以上、事態の進展はあの二人だけにかかっている。そして、あの二人自体が第一級のイレギュラー要素」
「もしも、失敗したらどうなると思います? やはり、世界が改変されて、この時間軸も上書きされてしまうのでしょうか?」
「それはない。彼が口付け行為をしなくても、あの閉鎖空間は崩壊する」
 長門有希の断言に、朝比奈みくるは、驚きの表情を浮かべた。
「なぜですか?」
「彼は、涼宮ハルヒと二人だけの世界にとどまることを最後まで拒否する。これは、彼の心理傾向からして確実。そして、彼のその態度に絶望した涼宮ハルヒは、閉鎖空間を崩壊させた上で、廃人と化す可能性が高い。
植物状態というべきかもしれない。それこそ、王子様の口付けでなければ、目覚めないような」
「……」
 朝比奈みくるは絶句した。
 それこそ、考えられうる最悪の事態だ。
「このような事態に陥れば、世界改変がなされなくても、我々の規定事項のほとんどすべてが破壊されるといっても過言ではない。その補正は不可能に近い」
「危険な賭けですね。いっそのこと、あの閉鎖空間が発生することを未然に防いだ方がよろしいのではありませんか?」
「あなたは本当にそう思うか?」
 
 朝比奈みくるは答えることができなかった。
 実は、今自分が言ったことは、一度シミュレーションしてみたことがあるのだ。
 その結果は、惨憺たるものだった。
 あの時点で、「機関」と情報統合思念体に、涼宮ハルヒが有する世界改変能力の本当の恐ろしさを肌で実感させなければ、その後の規定事項は成立しえないのだ。
 
 話を打ち切ったのは、長門有希だった。
「以上を踏まえて、計画を練り直してもらいたい」
「かしこまりました。御相談に応じていただきありがとうございました」
 朝比奈みくるは、一礼して立ち去っていった。
 
 
 
 
 
 ────白雪姫って、知ってます?
 ────これからあなたが何か困った状態に置かれたとき、その言葉を思い出して欲しいんです。
 
 ────最後にもう一つだけ。わたしとはあまり仲良くしないで。
 
終わり


|