朝倉涼子が輪郭線を完全に喪い、跡形も残さず消滅する。
長門の与えた彼女へのラストワードが、消え失せ乖離してゆく彼女の鼓膜にまで届いたかどうか、確かめる術は最早ない。己の力で滅した元同胞に対し長門が覚えた感情は、単純な勝利への喜びに満ちて終われるものではなかった。
他に選びようがなかったとはいえ、後味の悪さは付随する。葬った彼女に対し、寂寞と羨望を抱いていたかつての己を長門は思った。
言うなれば彼女は模範だったのだ。
後退して行く未来を憂いて、思念体の意向に反した行動を取った。ヒューマノイドインターフェースとしては欠落しているようでいて、其の実どの情報端末より活き活きと「人間」の感情を、それは主に負に傾いたものではあったけれども、自前のものとして持ち合わせていた。朝倉当人は、その事実を自覚しきらぬままに。

朝倉によって改変されていた空間情報は、スノードーム内に組まれていたプログラムによって自動修正が始まった。溶解した飴のように周辺一切を同色に染めていた銀が伸びあがり、うねりながら元の廊下を模って修復を行ってゆく。
連結を解除される寸前までいった長門自身の肉体も、プログラムの影響下にてどうにか回復するが、貫かれた足腰のために喪ったバランスまではすぐに取り戻せなかった。立ち上がろうとしてよろめき倒れ掛かった身を、さり気なく細い両腕が抱き止める。
「相変わらずの無茶ぶりですね、長門さん」
穏当な女性の声が、長門を労ってやんわりと降る。長門は瞬き、琥珀の瞳の表層にその姿を映した。
喜緑江美里――長門と同じくTFEIの一人。長門は自分を助け起こすようにする喜緑を物言いたげに見据える。
朝倉の言質が正しいのであれば、彼女も既に長門を切り捨てていておかしくない存在なのだ。喜緑は元々、長門の暴走を未然に阻止するための監査を目的の一つとして、此の学校に派遣されていたのだから。
「誤解があるようです。情報統合思念体は貴女を見捨てた訳ではないんですよ?」
お転婆な妹を案じる物静かな姉の様に、喜緑はおっとりと微笑んだ。
「朝倉涼子から急進派『主』の位置をトレース、捕捉を完了。一斉掃討が始まっています。――つまりは、この計画自体が釣堀ということです。主流派は元々、急進派を容認するつもりはありませんでした」
淑女らしい微笑のもと、紡がれる解説は長門の推測をまた、越えていた。喜緑ののんびりとした解説が正気ならば、主流派が急進派を滅する為に、古泉の「機関」とその救援に向かう長門の行動までを見越し、策を弄して急進派を『嵌めた』ということに他ならない。

「何故」
長門の問いは端的だった。
「涼宮ハルヒの情報フレアの観測が成せない事は、主流派にとっても致命的。急進派の主張にも思念体からすれば正当性はあった。それなのに主流派は敢えて、急進派を掃討までして現状維持を貫いた。……それは、何故?」
「自律進化の可能性は、涼宮ハルヒ本人のみでなく、その周辺に波及していることに思念体が気付いたからです。――長門さん、貴女のことですよ」
「……わたし?」
鸚鵡返しにするしかない長門の呟きに、長門の髪を梳かすように手をやった喜緑は何処か嬉しげでもあった。
「感情という概念。地球上で貴女が獲得したそれは、思念体に随時送信され、分析を受け続けました。それは人類に見るべき価値を持たなかった思念体にとって理解の範疇を超えたもの。貴女がそれを得たことによって、思念体は可能性を夢見た。――その『感情』こそが、涼宮ハルヒの力の源に直結し、進化の鍵足り得るのかもしれないと」
それは同時に退化の可能性をも含有するものではあるけれど。
進化の方向性を見失い、停滞していた情報統合思念体が見出した、小さな人間の奇蹟。

「長門さん。貴女の未来を『既定事項』にするのは、貴女の選択です。……もう、気付いているのでしょう?
そのスノードームが、何時、どの時代から齎されたものかについても」
長門は、己の窮地を救った硝子の球体に眼を遣った。古びたアンティーク物、古泉一樹が長門に託した雪の結晶のような贈答品。けれど朝倉涼子を瞬時に打ち倒し、空間再生を図ることの出来るプログラムを内臓したそんなものが、この時代に残存している筈がない。

「貴女の規制は解除されました。全情報端末が貴女の支援に回ります。――長門さん」
巣立つ子を見送る親の眼差しをもって、喜緑は長門を後押しした。
涼宮ハルヒの可能性の波紋に飲み込まれ、『感情』を得た長門有希に朝倉涼子の他に。彼女らを見守って来た一端末の喜緑江美里までもが、確かに、人の持つそれと等価の親愛を形にする。存分に暴れて構いませんよと、茶目っ気を混ぜた一声と共に。
「貴女の大切な人を見つけに、いってらっしゃい」

憂慮する事項は、情報制御能力を再び取り戻した今、長門有希には何一つとして有りはしない。
長門は言われるまでもないと主張せんばかりに喜緑を見つめた。
「――同期を申請する」

『機関』傍に配置された情報端末に、その身をもって、古泉一樹を救いにゆく。統合思念体は愛娘の意思に、
ただ一言、

―――「許可」の、返礼をした。
















怒号と、叫喚が飛び交っている。

銃声に伏す仲間。機関銃の耳障りな騒音。古泉一樹は草叢に潜ませた身を縮め、散り散りになった仲間を案じながらグリップを握り直す。
非常時に備えて一通り、扱えるように訓練ならば積んでいたものの、まさか高校生の身分の内に手にすることになるとは思っていなかった拳銃。借り物のようにしっくり来ない黒光りするそれの重みが、古泉に否応なしに戦線を意識させた。
機関所有の山奥。他の支部との中継地が置かれた其処には、今から政府転覆を宣言しゲリラ活動に身を投じられそうなレベルの武器庫、弾薬庫があった。涼宮ハルヒ抹殺をもくろむ過激派が要所押さえにまず狙ったのはそこであり、機関の現状維持主張派と攻防戦が続いている。
応援要請は疾うに発されているから、暫く待てば各地から支援部隊が回ってくる。そうなれば過激派を抑え込むも容易だ。必要なのはそれまでの時間稼ぎであり、可能な限り犠牲を減らすことだった。

古泉はすっと深呼吸をする。
今回の彼等の反旗には、謎が多い。急に過激派が動き出したことも、それを機関の上層部が事前に察知し、食い止めることが叶わなかったことも、考えれば考えるほど奇妙な話だった。
立てられるのは一つの仮説。何らかの介入、人間の手に及ばないような上位の力が加わった事により、過激派が成功を過信し行動に踏み切ったとしたならば。
「死ぬ」未来を古泉自身に先に提示した未来人の思惑も気に掛かっていたが、手元にあるのは状況証拠ばかりで情報が不足している上、ゆっくり思考に浸る暇もなさそうだ。――敵が、倉庫を占領する為に近付いて来る。
古泉は身をやや持ち上げ、後退しながら低姿勢で狙いを定めた。

網膜の裏に、SOS団の面々の姿がちらつく。帰って、皆と一緒にパーティーを。長門さんを祝し、クラッカーを鳴らし、皆で騒いでケーキを食べて。涼宮さん、朝比奈さん、「彼」もきっと楽しく過ごせる一日になる。
解散時になったら、そう、改めて彼女に言おう。


「――!おい、向こうだ!」
古泉が引き戻した意識の先で、男が別方面の仲間に向けて銃を突きつけている。古泉はまずい、と反射的に引き金を引いた。乾いた音に、衝撃の反動が手首にかかる。ずうんと指先の痺れる感触、手が震えて痛んだ。弾は運よく反乱分子の一人の脚を貫通していたが、男の上げた痛烈な叫び声が、敵を此方に引き寄せていく。 

古泉が慌てて視線を走らせると、仲間の方は無事に逃げたらしく、先程まで棒立ちになっていた姿は見えなくなっていた。
とはいえ、ぐずぐずしているとすぐにまた群がってくる。離れなければと古泉が踵を返すその先に、見慣れぬ男が血走った眼で走り込んできた。違う角度から攻め込んできていたらしい敵の一味。

「野郎!」
唾棄するような叫びが聞こえ、駆け付けた男の銃口が古泉に牙を剥く。逃げろ、走れ、叱咤すべき脚が動かない。
まるで時を逸したような、スローモーションの中のような光景だった。口径何ミリの弾丸か、そんな事までは把握仕切れなかったにせよ、一直線に走るその一撃が古泉に目掛けて飛来して来ることをほんの一秒僅かの間に、古泉自身が理解した。銃弾が己の胸に、吸い込まれるように飛び込んでくる。視界が、刹那に白く染まった。――激痛は、遅れて古泉の半身を灼いた。 

「あっ……ぐ…!」
呻き声が漏れたが、それすら聞こえない。自分が倒れたのかどうかさえ、古泉には判断が効かなかった。フラッシュを焚かれたままの世界、視神経が焼き切れたように何も見えない。
か細く人の名を、彼自身が切望するように呼ぶ。現実に彼の腹部を赤く染めていた鮮血が、留まりを知らずに古泉の唇までも浸食して濡らし、地に染みこみゆく。

古泉一樹は遠退く意識をそのまま手放す寸前、――真っ白に埋もれたなかに薄い影を見たような気がした。 
ひとひら春の日に舞い降りる、それは、雪のように。

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最終更新:2020年03月11日 23:25