地獄の猛火を思わせる、尋常ではなく暑かった夏もようやく落ち着き、虫の声も聞こえ始めてきた。
さて、つい最近、ある一人の人間のせいで、俺は今までとんでもないことに巻き込まれてきていた。
今まで起きた面倒ごとは、基本的にはハルヒが関わっているものであった。
しかし、ここ最近のゴタゴタは、まあハルヒも関わってはいたものの、それに輪を掛けて面倒ごとを起こすのが得意な奴が起こしたものだった。
佐々木の閉鎖空間に神人を生み出したり、その中でお菓子に因んだ必殺技を繰り広げたり、キャンプインをしたり、怪しい三種の神器を常備していたり……あまり関わりたくない奴ではある。
一時期必死に食事や買い物に誘われたりしたが、奴の組織の罠と言う可能性も否定できないから、殆どは断っていた。
その甲斐があってか、最近はあまりみかけなくなったし、ようやく俺も一息つけ……
「こんにちは。お久し振りです」
……。
ああ、幸せの青い鳥が逃げて行く~追いかけなきゃ~
「ちょっと、どこに行くんですか!」
待て~パトラッシュ~
「青い鳥じゃなかったんですか!?」
ちっ、ばれたか。ならばこれならどうだ!?
「あ、佐々木だ。ほらあそこ」
「え!?どこです……って、逃げないでください!!」
やだ。お前には関わりたくない。面倒ごとはハルヒが持ってくるものだけでも十分俺の許容範囲を大きく超えているんだ。
その上超異端児にして超問題児のあいつ――橘京子の事など構ってられん。
俺は体育の授業で測定した100m走のタイムを大きく塗り替えるペースで走り出した。
橘もわきゃわきゃ言いながら追いかけては来るものの、距離はどんどん離れていく。
さすがにハルヒみたいな人外身体能力は備えてないようだ。よし、このまま振り切……
「うわぁぁぁぁん!!キョン君がいぢめる~!!あたしとの関係なんて、所詮遊びだったんだぁ~!!」
た、橘!?何をいきなり叫び出すんだ!?
驚いて足を止める俺。振り返ると、両手で目を隠して、嗚咽を上げる橘の姿。
や、やめろって……
「うわぁぁぁあん、あたしなんて、どうせその場限りの道具、玩具だったんですぅ~!!ふぇぇぇぇん!!」
橘は泣きやむどころか、むしろ周囲の人に解説するかのような声で叫び始めた。
そして群がる人、人、人……
周りには通り掛かりのサラリーマン、お話好きの主婦連中、幼稚園から帰宅中の母子……皆一斉に橘の方を見ていた。
近くのおば様連中からひそひそ話が聞こえる。
『まあ……あんなにかわいい子を……』
『全く、ひどいわね…………』
『やるだけやってポイ捨てなんて……使い捨てもここに極まれりね』
『怖い時代になったこと。くわばらくわばら』
こらこらこら。おばちゃん達よ。何を勘違いしてるんだ。
「ねぇ~ママァ~。あのお姉ちゃん、あっちのお兄ちゃんの玩具なの?どんな風にしてつかうの~?あたしも欲しい~」
「こ、こらっ!指差すんじゃありません!!まだあなたには早いわ!!」
お母さん、あんたの方がお子さんより勘違いしてますよ……
「な、なあ、君……」
ん?さっきまで呆然と突っ立っていたサラリーマンのおっちゃんが声を掛けてきた。
「ど、どうせ捨てるんだったら、ぼ、僕にくれないか?じゅ、10万で……」
「とうっ!!」
「ぷぎゃっ」
……さっきまで泣いていた橘は、いつの間にか復帰してサラリーマンその1にフランケンシュタイナーをカマし、沈黙させた。
「キョン君、助けてくれてありがとう~」
……いや、お前が自分でやっつけたんだろ。
「やっぱりあたしにはあなたしかいません!ずっとついて行きます!」
そう言って抱き付く橘。
こらっ、何をする!人前でいきなり抱き付くなっ!
パチパチパチ……
何故か拍手をもらう俺たち。いや、正確には橘に、か。
「お姉ちゃん!感動したわ!!」
「その男を放すんじゃないわよ!」
「兄ちゃんも、ちゃんと責任とりなよ!!」
おばちゃん達の拍手に見舞われ、俺はその場を逃げるように立ち去った。
……橘。いい加減手を振るのは止めろ。
そして、俺はこの界隈をうろつく事ができなくなり、またしてもこいつのせいで余計な事件に首を突っ込む事になってしまった。
クソやろう。
「……で、何の用だ?」
「まあまあ、そんなに怒らないでください。この店のベルギーワッフルおごりますから。美味しいんですよ、ここのベルギーワッフル」
「…………」
あの場所にずっと滞在していると、勘違いが指数関数的に増加の一歩を辿ってしまうため、俺はやや離れたところにあった喫茶店に逃げる様に駆け込んだのだ。
近くの喫茶店じゃないのがポイントだ。近くの喫茶店だと、そのままやじ馬が張り付きそうだったからな。
俺はハルヒ並の不機嫌オーラを放ちつつ、橘を睨め付けていた。こいつに関わってから一度足りとも良い事がないのはなぜだろう。
「はい、あーん」
……って、おい!何しやがる!!
「だから、さっきのお詫びのベルギーワッフル」
そう言う意味じゃない!何でお前が食べさせようとしてるんだ!!
「え?ダメですか?キョン君はこんなのが好きかなーって思ったんですが……」
いやまあ、確かに嫌いではないし、橘だってアレな性格を除けば美人の部類に入る。傍から見たらかなり羨ましい光景に見られるだろう。
……うーん、俺の知り合いは美人だらけで嬉しい限りなんだが、どうも皆性格が破綻をしている(朝比奈さんは除く。長門は及第点ギリギリ)。
贅沢を言っているみたいだが、どうにかならないものかね。
「その件は後回しだ。それより、お前の今回の目的を教えろ」
「は、はあ……」
言うなり橘は黙ってしまった。時々俺を上目遣いで見ながら、すぐに目線を下げる。そんな事を繰り返していた。
「なんだ、言いにくい事なのか?」
「ええ、まあ……」
「言いにくいってことは、頼みにくい、つまり無茶な頼みなんだな。じゃあ協力できない。それじゃあな」
俺が席を立とうとすると、
「あ、待ってください!い、言います!」
橘が慌てて止めに入った。
その後も橘は「言わなきゃ……」とか、「でも……」とか、「恥ずかしいけど……」とか、ひたすら唸っていた。
ただ、俺が『言わないなら帰るぞ』と言う度に慌てて止めに入っていた。
正直、面倒ごとは勘弁して欲しいのだが、橘があまりにも必死なため、俺は観音様並の慈悲の心を持ちつつ、今もこうして橘が喋るのを待っていたのだ。
そして――
「あ、あの!聞いてください!!」
ああ、いくらでも聞いてやるから早く喋ってくれ。
「わ、わたっ、しの、おっ……おっ……おおおお…………」
なんだ。おっとせいか?
「ち、違います!」
じゃあはっきりみんなに分かるくらい大きな声で言え。次言わなかったから本当に帰るからな。
「ええっ?ま、待ってください!分かりました、言います!……あ、あたしの……」
大声で言いなさい。
「ううっ、いじわる……分かりましたよ、一度しか言わないですから、ちゃんと聞いてくださいよ。あたしだって、恥ずかしいんですから……」
そして橘は宣言した。店に響き渡るような、抑揚のある、澄み切った声で。
「キョン君!あ、あたしの、お、おっぱいを……大きくしてくださいっ!!!」
――結構騒がしかった喫茶店の店内は、一気にサイレントモードになった。
喫茶店のマスターは、カップから溢れてもなおコーヒーを注ぎ続けている。
ウエイトレスのねーちゃんは、目を真ん丸にしながらこちらを凝視している。
「……わ、わかりましたか?みんなに聞こえるくらいの大声で言ってみましたけど……」
――プチ
「馬鹿かお前わぁぁぁぁぁ!!!!!」
「ええっ!?なんでですかぁ!?」
「んなこと大声で叫ぶな!!」
「だ、だって……『大声で言え』って言ったの、キョン君ですよ?」
「時と場所と雰囲気を考えろー!!!」
はあ、はあ、はあ。
何でこんなに馬鹿なんだ、こいつは。ああああ、頭が痛い。もう勘弁してくれ。俺が何をしたって言うんだ?
もういやだ。
「橘。帰る。後は頼んだ」
「へ?あ?待ってください!」
今回こそ俺は無視して出て行った。
この店にも、二度とこれないな……やれやれ……
「うむ……話は何となく分かった。だが、何故俺に頼む?」
橘が爆弾発言をカマした後、俺は一目散に店から脱出を図り、逃げ切った……と思ったのだが、いつの間にか橘に回り込まれており、再び対峙してしまったのだ。
橘は『あんな発言した後、あたし一人で突っ立っていたらいい見せ物じゃないですか!ひどいですぅ~』と言って泣き出したため、またしても俺はこやつを慰めるはめになったのだ。
落ち着かせる事約十分、ようやく橘が本来の目的を話してくれた。
曰く、橘が所属する組織の中で、橘は結構偉い地位にいたみたいなのだが、突然重役会議で役職を更迭されたそうだ。その理由が、胸が小さいから、というどーでもいいものだったのだ。
復讐に燃える橘は、見返してやろうとバストアップを試みたのだが、如何せん簡単にバストアップする方法など知るはずもなく、俺を頼って来た、と言う事らしい。
「はあ……あの、こんな事を頼める知り合いはキョン君くらいしかいないので……」
「普通、そんな会話は女の子同士でやるんじゃないのか?」
「そうなんですけど、その……あたし、学校では、パッドを入れてて大きく見せていたんです。だから同級生にそんなこと相談できません」
「因果応報、策士策に溺れるってやつだ。あんまりヘタな事はするなってわけだ」
「……気をつけます」
「それなら他校の知り合い……佐々木とかに相談してみたらいいんじゃないのか?」
「それこそ禁則事項中の禁則事項です!絶対言っちゃいけませんよ!」
どこかで良く聞くフレーズを交えながら橘は俺の案を拒絶した。
「そうか?あいつは意外と飄々としているし、何よりお前の組織の事を良く知っているはずだ。下手に小細工するより、正直に話した方が話が通じるんじゃないのか?」
「……正直に話した方が余計協力してくれませんよ」
「ん?何か言ったか?」
「いーえ、何も。ですから、協力お願いします」
ここで俺は頭を捻る。前回こいつに協力してやったばかりに、俺は散々な目にあったからな。
「……あ、勿論タダとは言いません。報酬を差し上げます」
俺の心境を読み取るが如く堰を切る橘。
何だ?報酬って。
「これでどうですか!」
橘は互い違いに折られた長い紙を取り出した。そこには――
『肩叩き 一回15分200円を何と半額にしちゃうんです!んんっ……素晴らしい!券』
「どうですか?素晴らしいでしょ?あたしの肩叩きは組織の中でも人気あるのです!それを半額でできるなんて、お兄さんついてるぅ~……って、あれ?なんで椅子からずり落ちてるんですか?危ないですよ?」
「…………」
俺、三度沈黙。
「あの……ダメですか?組織じゃこれ、オークションにかけられてるんですけど……」
……人に頼みごとをするのに、お金を取るようなことをしてどうする……
てか橘の組織よ。たかだか200円の半額券をゲットするためにオークションを開催するとは……
やっぱり変な奴の集まりなのかもしれない。
「じゃあ、フットマッサージと、岩盤浴もつけますから」
いらんいらん、俺は男だ。もう少し実りのあるものにしてくれ。
橘は少し悩み、代替案を提案した。
「……んー、わかりました。では、あたしのお気に入りの店のパティシエが作るスイーツをおごりますから。ご迷惑をかけた日は必ず、毎回奢りますから。それならいいでしょ?」
まあ、それくらいならいいかもな……
わかったよ、やってやる。
「ありがとうございます!とっても嬉しいです!!」
そう言って手を握ってくる橘。こ、こら……!
俺は思わず辺りを見渡し、ハルヒや佐々木がいないかを確認してしまう。
……良かった、いないようだ。こんなシーンを見られたら、また前回の二の舞、いや、三の舞い(そんな言葉あったか?)になり兼ねん。
わかったから手を放せ。
「まあ、いいじゃないですか」
やたらニコニコして語り出す橘。俺としてはやめてもらいたいのだが……よし、これならどうだ?
「あ!ささ……」
「ええっ!」
『ささ』の二文字で、慌てて手を放す橘。
「どどどどどどこですかぁぁぁ……」
明らかに動揺しとる。
「ああ、ほら、この人差し指の部分」
「……は?」
「ささくれが痛みだして、どうしようか悩んだんだ」
「…………」
「どうした?」
「……いじわる」
ちょっとむくれた感じで言う橘はなかなか可愛く……なんでもない。
ま、ともかく、これからはこの方法で、橘の暴走を止める事にしよう。
「バストアップか……さて、何をしたらいいんだろうな……」
俺はブツブツとつぶやきながら、橘からの願い――胸を大きくする方法を考えていた。
俺は女性ではないので、正直そんな事を考えた事は一度もなかったし、それ以前に女の子から相談を受けるとは完全に想定外であった。
ただ、一般的に広く言われることくらいは知っている。「牛乳を飲む」とか、「大豆製品を食べる」と言ったものだ。
それを橘に進言したところ、前者は『毎日2リットル飲んでますけど……その、効果は……』と言って口ごもってしまった。
じゃあ後者どうなんだと聞いたところ、『お豆腐とか、納豆とか、豆乳とか、余り好きじゃないんです』と言い切った。
おいおい、お前本気で胸を大きくしたいと思ってんのか?
「これでも、一応本気のつもりなんですが……」
じゃあ好き嫌い言ってないで何でも食べろ。お前の場合、好き嫌いが多いから胸に栄養が行かないんだろ?
「そ、そんなことありません!あ、あたしだって胸に……栄養が……その……」
肯定できないんなら反論するなよ……
「うう……悔しいのです……」
橘はなおも言い訳がましいことをぶつぶつ呟いていた。
ま、悔しかったらちゃんと目的を成就するよう、好き嫌いなく食べるこった。そうしたら、朝比奈さんの半分くらいの大きさには……おおっ!そうだ!
「どうしたんですか?」
恐らく胸から生まれてきたバストの化身……いや、申し子、でもないな……天女が俺の近くに居たというのに、その事を失念していたとは!これ程今までの諸行を悔いた事は無いだろう。
「いや、ちょうど良いモデルがいた事を思い出したんだ。あの人の人となりを見習えば、もしかしたら大きくなるかも知れないな」
「本当ですか!」
「ああ、今から呼び出すからちょっと待ってくれ」
俺はそう言いつつ、携帯を取り出し、指を滑らせた。
………
……
…
半時程過ぎた頃、パタパタと足音を立てながら、朝比奈さんがやって来た。
ふわふわ揺れる胸……ではなく、栗色のウェイブした髪が堪りません。
「はあ……はあ……お待たせ致しました、キョン君。それで、ご用件は……?」
「こんにちは。お久し振りね」
「……あ、あなたは……」
しまった!!よくよく考えたら、橘は朝比奈さん(みちる)誘拐の首謀者じゃないか!
橘は今現在そんな気はないかもしれないが、朝比奈さんは違うだろう。彼女は恐怖に怯えてしま い、教えを請うどころか、逆に反発してしまう可能性すらある。
「あ!いや……あたしは……」
橘もそれに気付いたのか、返答に困っているようだった。
「あの……キョン君……」
朝比奈さんが非難染みた目を俺に差し向けている。
俺は決して悪い事をしようとはしていないが、朝比奈さんの目線は、閻魔大王ですら嘘をつく事を憚ってしまう、それほど繊細でかつ物憂げなものだった。
俺は堪らず、本当の事を言いかけようとした。
その時。
「あ、あの……その人……誰ですか?」
『ぬぐぁ?』
俺と橘はノーミーンズな奇声をあげ、互いに向き合っていた。
(た、橘!どう言うことだ?)
俺は小声で語りかける。
(さあ……あたしにも……)
つられて小声の橘。
おかしい。朝比奈さんが橘に誘拐されたのは既知の事項だし、朝比奈さんが知らないはずはないのだが……
(あ……もしかして……)
(何か思い出したのか?)
(はい。そう言えば、彼女を誘拐した時、麻酔薬で直ぐに寝かしたんでした。多分彼女はあたしたち誘拐実行犯の顔を覚えてないんじゃないんでしょうか?)
なるほど。それなら朝比奈さんが橘を初対面だと思うはずだ。何にせよ、良かったのかも知れないな。朝比奈さんに余計な心配をかけなくて済むし。
「キョン君、二人でこそこそしてないで、何がなんだか教えて欲しいんですが……」
安心したのも束の間、朝比奈さんが頬を可愛く膨らませた。このお方は喜怒哀楽どの表情をしても可愛くも美しくもある。
こんなイノセントでピュアなお方を、頭の一部がロストしている橘に引き合わせるのは間違いだったかもしれない。
俺はこの時、そんな感情に見回れた。
いや、確実に間違っていた。まさか、橘があんなことやそんなことをするとは思ってなかったからな……
朝比奈さんが橘を覚えていなかったこともあり、俺は改めて橘を紹介することにした。
「朝比奈さん、彼女は橘京子っていいます」
「改めまして、こんにちは。橘京子です」
「あ、はい。こんにちは。朝比奈みくるです。あの、以前お会いしたような口調だったんですけど、どこかで会いましたっけ?」
「あっ……と、ほら!以前駅前で皆さんと会ったじゃないですか!」
「ああ……そう言えば……そうでしたね。ごめんなさい、忘れちゃってたわ」
朝比奈さんが橘のことを覚えていなかったのは偶然とは言え好都合だ。橘と俺の関係は、中学の時の同級生って事にしとこう。
俺は何やら雑談を始める女の子二人を尻目に、朝比奈さんにバストアップの秘訣を探る、壮大なプランを立てていた。
俺の計画はこうだ。
イ.朝比奈さんを呼んだ理由については、橘がお茶について知りたい、ってことにする。
ロ.朝比奈さんは自分と同じ趣味の知り合いができて、感激。喜んでお茶の事を色々教える。
ハ.日増しに仲良くなって行く二人。お茶の話題以外にもプライベートな話をするようになる。
ニ.そして女の子の体の悩み――つまり、胸についても違和感なく語り合う。
ホ.朝比奈さんの力を借り、橘の胸は50パーセントくらいアップ(当社比)。目的達成、ミッションコンプリート!
どうだ、完璧なプランだろう?
欠点としては、ちと時間が掛かることだ。だが怪しまれないように探るには、これが最適だと思う。
それと朝比奈さんには悪いが、橘の面倒を見てもらう事にしよう。
はっきり言って、橘は扱いがやたらと難しい。
ハルヒみたいな暴走列車ではなく、佐々木のような蘊蓄とぼやきを連発するキャラでもない。
説明はし辛いのだが、橘はあの二人とはそれぞれ直角を成しながらも、違う次元では平行の関係を保っているベクトルみたいなものだ。
ドットもクロスもゼロっていう、ハミルトンさんも真っ青な御仁だ。
しかし、ベクトルの絶対値はもしかしたらハルヒ以上かもしれん。
そんな奴に悠長に構っていられるほど俺も……
「わひゃ!……ちょ……たち……ばっ!……キョンく……ああん!」
俺が脳内で橘をうまく丸め込む皮算用を立てていると突然、朝比奈さんの悲鳴が聞こえてきた。
俺はその声に驚き、振り返って二人を見ると……
…………げ。
「…………」
無言で、一心不乱に朝比奈さんの胸を揉み続ける橘の姿があった。
「な、なにしてやがる!」
「あややや!やめ……ひゃっ!」
朝比奈さんの抵抗も空しく、橘は朝比奈さんが朝比奈さんである部分を弄っていた。
「いい加減にしろ」
俺は朝比奈さんに覆い被さっている橘を無理矢理引きはがした。
なんか昔同じことをやった気がする。朝比奈さんの胸は、同性でも触りたくなるようなフェロモンか媚薬でも詰まっているのだろうか?
それはさておき、橘、なんでそんなことをやったんだ?
「……くやしい」
は?
「なんで身長はモスキート級なのに、なんでここはヘビー級なのよー!くーやーしーぃー!」
……そんなアホな理由で……
「だって……だって……あたしの方が身長は高いのに……胸は……ううっ……」
いつの間にか、橘の口調は涙混じりになっていた。
胸にコンプレックスがある大概の女性が、朝比奈さんみたいな人に対して持つその感情は、男の俺でも分かる……気がする。
そのためだろうか、俺は橘を叱りつけるつもりだったのだが、なぜかその気になれず、自暴自棄気味の橘と意気消沈気味の朝比奈さんをただ呆然と見る事しかできなかった。
――ここで橘を諫める事ができなかったのが、俺の不幸の始まりだった――
俺はその場にへたりこむ朝比奈さん、そして橘の姿を見て、さてどうしたもんかと首を傾いでいた。
俺の心理的には朝比奈さんの傷付いたハートを一刻も早くリペアしたいのだが、まず先にしなければいけないのは、橘の暴走を止めることだ。
なんか以前にもまして橘が奇行に走り始めている。こいつを止めない限り、朝比奈さんは橘にもてあそばれる確率が325パーセント程増加してしまう。それはさすがに忍びない。
俺は橘の肩を叩き、優しく諭してやる。
「落ち着け橘。あの巨大なツイン・マウンテンは忌むべきものではないんだ。遠路はるばるやってきた、チャンピオンなんだ」
「ぐす……チャンピオン……ですか?」
「そうだ。多忙なところ、わざわざお前を鍛えるために出向いてきたんだ」
「わたしの……ために?」
「王者が力を貸してくれるんだ。思いっきりぶつかってみろ」
「…………」
「王者相手では、修行はつらいものがあるかもしれない。圧倒的なその存在にうちひしがれるのも良く分かる。だけど、それを乗り越えてこそお前の胸はランクアップできるんだ!」
「ら、ランクアップですか!?」
「そうだ。今から頑張れば三階級制覇は夢じゃない!!」
「さ、三階級制覇!!」
「やれるな、橘」
「はい!頑張ります!!」
橘のやる気は完全に目覚めたようだ。これはまるで、神人退治の修行中、挫折から復帰した時と同じ状況だ。今ならやれるかもしれない。
「橘よ、朝比奈さんの胸を借りてこい。文字通りな。朝比奈さんに秘訣を教わってくるんだ!!」
「はい!!」
ネガティブな橘は心機一転、態度を180°変え、ポジティブスマイルを振りまきながら朝比奈さんに近付いて行った。
「あ、あの、朝比奈さん!!」
「……なんでしょう……?」
未だ傷心中の朝比奈さん。少々怒っているようにも見える。
「あ、あの……さっきはすみません。あれはあたしの国の挨拶なんです」
嘘でさっきの失態を誤魔化すつもりらしい。
「あたしの国……ですか?でも、日本人に見えますけど……」
「あ!いや!あたしは日本人なんですけど、両親が外国人なのです!」
両親が外人ならお前もフォーリナーだろうが。
「ああ、そうなんですかぁ、そうですよね」
朝比奈さん納得しちゃってるし。
「それで、どこの国の人なんですか?」
「え!えと……パ、パンデモニウムです!」
どこだそりゃ。そんな地名の国聞いた事ないぞ。
「わあ……そうなんですかぁ……すごいですぅ……その国って、銀細工とミラクルフルーツと【禁則事項】で有名な国ですよね?」
『は……?』
橘並びに俺沈黙。
俺は知らなかったのだが、パンデモニウムという国は本当に存在する……らしい。
なお、【禁則事項】の内容は俺の口からは到底説明できないので察して欲しい。
「あっ……!この時代はまだ……!ごめんなさい!今の忘れてください」
「は、はあ……」
生返事をする橘。……もしかして、未来に存在する国なのだろうか?あんまり知りたくもないのでこれ以上は聞かない事にする。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
「あの……ですね、大変申しにくい事なんですが……」
またしても言いごもる橘。
(こら、言いたい事はちゃんと言え!思いを伝えろ!)
「は、はい!あの、朝比奈さん!」
「な、何でしょうか?」
――そして橘は言い放った。
「どうしたら、そんなお化けカボチャ並みのおっぱいになるんですか!」
「え……お化けかぼちゃ……?」
「だって、おかしいじゃないですか!人間の範疇を超えてますよ!そのおっぱい!!」
「えええ!?」
「食べたものの全ての栄養がおっぱいにいってるとか、おっぱいの中に何か寄生してるとかしか考えられません!!」
「…………」
「それに、それだけ大きいと、肩も凝るし、ウエストラインが見えなくなるし、何よりスケベな男性に凝視されまくりです!今すぐ、速攻、削ぎ落としなさい!!」
「馬鹿かお前はぁー!!」
ぱこぉぉぉぉーん!!
俺が隠し持っていた便所のスリッパ(なぜ持っていたかは聞くな)が、橘の脳天に直撃し、清々しいまでの音を響かせた。
「いったぁーい!なにするんですかぁ!!」
「それはお前だ!朝比奈さんになんて事言いやがる!!」
俺は朝比奈さんを指差して橘を非難する。朝比奈さんは先ほどから放心状態である。
「だ、だって、キョン君が『言いたい事はちゃんと言え』って……」
「時と場所と雰囲気を考えろぉー!」
「あ、その言葉、2回目ですね。もう少しボキャブラリーを豊かにしましょうよ。
そうじゃないとデートで女の子にすぐ飽きられちゃいますよ」
「知った事かぁぁ!お前は脳みそを豊かにしやがれ!!」
「うわ、それはちょっとひどいのです。あたしだって一生懸命なんですよ。ほら、良く言うじゃないですか。『人間万事塞翁が馬』って」
「意味が分からん!!それに古事の使い方が間違ってるわ!!」
「ええっ!そうなんですか!?あの古事の意味って、元々行き当たりばったりの行動をした方がいいよ、って意味じゃないんですか?」
「元々の意味なんか知るか!少なくとも今使って良い言葉じゃないわ!」
「まあまあ、怒ってばっかりだと体に良くありませんよ。高血圧は万病の元、なのです」
「俺の血圧を上げてるのはおのれのせいじゃあ!!」
だめだぁ!こいつはぁぁぁぁっ!!
話せば話すほど会話がずれてくる。その上、橘の回答は右斜め39°の角度を成してコンプトン散乱を生み出しやがる。
ヘリウム原子も二次電子もガンマ線も、全てが一体化され、非共鳴伸縮振動から寄生発振した増幅光が俺に降り注ぐ。それはある意味、みくるビーム以上のパワーを持っていた。
「とにかく!早く朝比奈さんに謝れ!」
「ううっ……そうしたいのはやまやまですが……でも、あの胸は、全世界、いえ、生きとし生ける貧乳女性の敵です!教えを乞おうにも、あたしの内なるものが拒否します!『あいつは敵だ!災いだ!禍々しいものだ!』って囁いてくるんです!!」
「二重人格かお前は!!もうなんでもいいから早く……」
「……キョン君」
びくっ!
俺はあまりに寒々しいその声に、思わず震えてしまった。声を発したのは……
「キョン君、わたしを弄ぶために呼び出したんですか?」
「い、いえ、違います。朝比奈さんに教えていただきたい事が……」
「何ですか?わたしも暇じゃないんですから、早くしてください……」
朝比奈さんは、あくまで淡々と会話を続ける。
ちょっと待て。マジで怖いぞ、朝比奈さん。
もしかしてこれは、俺が今まで見たこともない、朝比奈さんのマジギレ状態なのかもしれない。
なんかひたすらやばい。
頭の中でワーニングランプが点滅を繰り返している。
く、こうなったら仕方ない。橘に話をさせてもまた変な方向にねじれ曲がってしまう。俺から朝比奈さんに頼む事にしよう。それしか方法がない。
「あ、朝比奈さん、あの、お願いと言うのはですね、朝比奈さんのように胸を大きくしてほしいんです!」
バッシーン!!
「……キョン君、そんな趣味があったなんて……幻滅です……さよなら……」
朝比奈さんは、俺の頬に手形を残し、帰ってしまった……
「あ~ぁ、ダメですよキョン君。主語が抜けてるのです。朝比奈さん勘違いしちゃいましたよ。あれはもう嫌われちゃいましたね?」
「……橘」
「はい?なんでしょう?」
「……誰のせいで、こんな事になったかは、分かるよな?」
「……いえ、あの……ごめんなさい」
俺に謝るより、もう少し早く朝比奈さんに謝ってくれ……
ああ、しばらく口を聞いてくれないだろうな、朝比奈さん……
※橘京子の憤慨 その2に続く