"我々は時折、悪夢から目覚めた瞬間に自らを祝福することがある。我々はおそらく、死んだその瞬間をみずから祝福することであろう"
 
俺の尊敬する人物が遺した言葉だ。現実こそが、悪夢。人は死によってのみ開放され、安息を得ることができる。
 
「あぁっ……はぁっ……はぁ……」
 
擦れた哀韻が、曝け出された白い咽喉から漏れていた。
僅かに上下する胸は、呼吸が薄くなっていることを示し、不定期に痙攣する指先は、
既に体の自由が失われていることを物語っている。瞑目の時が近いのだろう。
 
「なぁハルヒ―――俺達は一体、何処で間違っちまったんだろうな」
 
返事は元より、期待していなかった。自問できないが故の、他人を媒介にした間接的質問だ。
尤も、現況を悔悟する権利など俺にはなく、自答する権利もなかったが。
 
「ぁ……ぁあ…………が……」
 
喘ぎに発音の意思が混じる。ただ純粋に、憐れだと思った。
自然と視線を逸らす。網膜に映りこんだのは、何もかもが紅に染め上げられた、文芸部室の情景。
傾いた西日が、カーテンの隙間から溶け出し、澱んだ空気と融和し始めている。だが、俺は完全な融和が不可能であると知っていた。
ある一点から滲み出し徐々に広がりつつある朱色が、定刻の染色を、異質な混濁へと変えているからだ。
 
「……………………………」
 
ふと、視線を回帰させる。倒れ臥して尚微動していた四肢は、既に静止していた。
豊満な双丘の合間から、どくどくと噴出していた血液は、穏やかな溢流となっている。
漆黒の眸子に光はなく。僅かに開かれた唇は色を失っていて。妖艶な肢体は、死体へと昇華していた。
二指で、優しく瞑目させてやる。今までありがとう。そして――
 
「おやすみ、ハルヒ」
 
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 
褪せた世界。
幼少の頃、世界に施された装飾が、真実であると疑わなかった俺は、
しかし時間の経過につれて、現実的な思考を獲得していった。
勿論それは世の子供達の例に漏れぬ、普遍的な成長過程に過ぎない。幻想は亡失される故に幻想と呼称される。
俺はその後、平凡な暮らしを経て、至極凡庸な性格と風貌を手に入れた。
世界が褪せたままであろうとも、彩色する努力を放棄して、退屈な現実に甘んじていた。
 
 
涼宮ハルヒと、邂逅を果たすまでは。
 
 
さて、俺が今から始めるのは、とても退屈な話だ。
ストーリーテラーとして、用意した話に負の形容をするのは如何なものかと、懐疑された方もいるだろう。
悪いことは言わない。呆れ、失望したのなら、今すぐ踵を返すがいい。
事実は事実であって、逓増しようが偽装しようが、退屈話が退屈であることに変わりは無い。
しかし、それを踏まえて尚、追随して下さる方には、俺はせめてもの謝意として、仔細な情景描写を約束したいと思う。
 
それでは、退屈な話を始めよう。
 
 
(1)
 
 
SOS団に強制的に入団させられ、嫌々ながらも死刑を懼れて文芸部室に足を運ぶうちに
放課後の行動を決定付けられてしまっていた俺は、一度噛みあったレールから脱線するのも面倒だったので、
習慣化したその行動を継続していた。ノックの後、舌足らずな応答を確認してドアを開ける。
 
「御茶、淹れますねぇ」
 
柔和な微笑に、鬱積していた疲弊は砂塵となって消えていく。
毎度の事ではあるが、メイド姿の朝比奈さんは途轍もなく愛らしい。
天使が地上に舞い降りているとするならば、未来にも希望が持てるというものである。
感動と共に礼を述べてパイプ椅子に腰掛ける。眼福を相殺する、アルカイックスマイルとの対面だ。
 
「おや、彼女はご一緒でなかったのですか?」
「遅れるんだと。そのうち来るだろ」
「そうですか。ところで、将棋は如何でしょう。詰め将棋を愉しんでいたのですが、対人戦には適いません」
 
敬語口調は古泉の常だ。個性と言えなくも無いのだが、やはり違和感が付帯していることは否めない。
尤も、その違和感も秀麗な顔立ちやすらりとした体躯に似合い、ミステリアスさを醸し出しているのだが。
俺が顔を顰めつつ承諾すると、超能力者は謝辞を述べ、機械的に駒を配置し始めた。
窓際に視軸を転じさせる。
 
「……………」
 
此方も相変わらずの、不可思議なオーラが展開されている。
唯一の文芸部員にして宇宙人の長門有希は、静謐な双眸を膝上のハードカバーに臥せていた。
紙面に踊っているのは、点描としか認識できないほどの細かな活字だ。
勿論遠目による錯視だが、それほどの文章が詰め込まれているということだろう。
 
「……………」
 
と、俺の熱視線に気付いたのだろうか。顔が、二秒半の時間をかけて持ち上がる。
眼鏡越しの視線は、しかし硝子の干渉など瑣末なことであるとでもいうかのように、俺の瞳を射抜いた。
心の内を見透かされているような感覚に、眼の奥が痺れを訴える。読心術か?
 
「はぁい、キョンくん」
「ありがとうございます」
 
と、俺がアイコンタクトによる意思疎通を試行していると、お茶が運ばれてきた。
琥珀の瞳の引力も、My sweet angelには適わない。白磁の御手から湯飲みを受け取り、口をつける。
直後、俺が洗練された味わいに、天にも昇る心地になったのは言うまでもない。
妙味の詳細については、俺の語彙力では表現しきれないので割愛するが、
いやはや、この玉露を賞味できるだけでも、文芸部室に足を運んだ甲斐があるってもんだ。
だが俺が漸く安息の一時を手に入れて、ほっと一息ついていると、
 
「遅れちゃってごめん!」
 
けたたましい爆音と共に、我らが団長様のおでましである。
どうもこいつの脳内辞書には、平和や安閑などの穏やかな単語は欠落しているらしい。
 
「みっくるちゃーん、お茶お願いね! って此処にあるじゃない!」
 
しかもハルヒはどう錯視したのかは不明だが、俺の湯飲みをむんずと奪い取ると、
情緒もへったくれもない豪快な飲みっぷりを見せて、満足げに頷いた。
 
「ぷっはぁ。ああ、美味しかった」
「平然と感想を述べてんじゃねえ」
「何よ。団員のものは団長のもの、団長のものは団長のもの、でしょう」
 
何処かで聞いたことのある科白だね。盗人猛々しいとはまさにこのことだと思う。
 
「お前にはお前の湯飲みがちゃんと――」
「煩いわね! あんたの詭弁なんかききたくないの」
 
何かに急かされているかのように、早々に会話を切り上げたハルヒは、団長席に向かう。
俺はこの悪行は法によって裁かれなければならぬ、と憤慨したが、
喜色満面のハルヒを一瞥して、諦めた。恐らくこいつの天上天下唯我独尊っぷりとは、
この先も長らくお付き合いしていかなければならないのだろう。忌々しいことに。
今から嘆息しているようじゃ、数ヵ月後にはノイローゼになって精神病院で廃人と化しているに違いない。
先程から含みの在る笑みを浮かべた古泉と、おぼんを抱きしめた朝比奈さん、
眼鏡のフレームをつい、と上げた長門は、飽く迄俺とハルヒの接触に干渉しないと決め込んでいるみたいだしな。
数刹那の懊悩を経て、やれやれと溜息を一つ吐き出し、盤面に視線を落とす。
結果の見えている勝負事よりは、行動予測が不可能なハルヒを眺めているほうが一興かもしれない。
そんな愚考を放擲して、俺は駒を手に取った。
 
 
 
     晩春の放課後。世界は、平和に満ちていた
   崩壊の罅は俺の瞳に映らず、静かに亀裂を深めていく
 
 


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