僕と長門さんとを繋いでいた教科書文通の終焉は以外にもあっさり訪れた。
長門さんのクラスの今週最後の日本史授業の前の短い休み時間。
いつもの通り、9組に教科書を借りに訪れた長門さんの口から飛び出した言葉は僕を驚かせるのには充分だった。
「来週の初めに、新しい教科書が届くことになった。 あなたに教科書を借りるのはおそらくこれが最後。」
解かっていたことだった。
もともと、長門さんは教科書がある程度探しても見つからない場合は新しいものを買うと一番最初に仰っていたし、教科書が届くのに1、2週間かかると言っても、長門さんの教科書が無くなってもう既に1ヶ月近くが経過している。
そもそも、このような秘め事の類は長くは続かないのが大概の話の流れである。
なのに、僕はこの長門さんのとの2人きりの秘め事が永久に続けばいいなどと、妄想に近いことを心の奥で願っていたのだ。
「そうですか。 良かったですね。 教科書の業者にしては早い方ですよ。 元の教科書が見つからないのは……残念ですが。」
「そのことに関してはあまり気にしていない。 ……人の心を探ろうとしたために罰が当たったと思えば。」
「……はぁ。」
長門さんの言っている意味は良く解からない。 探る? 誰の心を?
「お陰で決心がついた。 礼を言う。」
「………?」
長門さんが意味深な台詞を残し、9組を後にしたときの教室内の空気は何故か生ぬるかった。
振り返れば、クラス一のおせっかい山田くんを中心としたクラスの面々が少し呆れるような、可哀相な目を見るような目で僕を見ているのに気づく。
「な、なんなんですか、その目は。」
「いや、お前、幸せ者なのか、可哀相なのか……。 とにかく、これはお前んとこのもう1人の男子部員にも言えることだが鈍感もほどが過ぎるとキツイぞ。」
「相手が長門で良かったな、古泉。」
「……長門、可哀相になぁ。」
「古泉くん、それはちょっとないよ。」
男女問わず、浴びせられるは僕への否定の句。 一体僕の何がいけないのか教えて欲しい。
そして、一番不可解だったのはこのことに一番におせっかいを書いてきた山田くんが何も言わず、僕の肩をぽんと叩いて、そのまま自分の席に戻ってしまったことだった。
その日の数時限後の休み時間に長門さんの手より僕の元に戻ってきた日本史の教科書には、いつものように長門さんのプリントアウトされたような美しい字で僕宛のメッセージが書かれていた。
このメッセージも、これが最後である。
しかし、不思議なことに最後のメッセージは明朝体ではなく、ブックマンオールドスタイルのような筆致でこう書かれていた。
Please wait for some day in the rain. <雨の日を待て>
あれからすぐ、試験週間が訪れ、僕と長門さんの教科書文通の話題は殆ど9組の中からは消えていった。
クラスの面々の目下の話題は1週間後に迫った定期試験に関するものである。
もちろんそれは僕にとっても他人事ではなく、学生として出来るだけ良い成績を取るため、そして涼宮さんが抱く古泉一樹のイメージに沿える様な人物像をキープするため、試験一週間前にも拘らず毎日行われる団活の後に、僕は『機関』の事務所に滑り込み、理系教科の鬼、森さんと文系教科の鬼、新川さんの地獄の勉強会を受けていた。
言っておくが、本当に彼等は鬼で勉強会は地獄そのものなのである。
背中とシャツの間に差し込まれた新川さんが学生時代から使っていると言う使い方を間違われた竹の30cm物差し、森さんのお手元にはファンシーショップで見つけたの、とのたまわれたピンク色の鞭、らしきもの。
どこら辺がファンシーなのか教えてください。 痛いです。 計算式間違う度に耳元でひゅんひゅん言わせないで下さい。 怖い。
……ちなみに、長門さんが待てと言った雨の日は、ここ1週間、全く訪れる気配がない。
「あーもーそこ違う! いい? ここはこっちの解法使った方が早いし、間違いも減るの。あんたの解き方でやったらケアレスミスが増えるばかりか時間がかかって、一問といてる間に他の問題が解けちゃうわ。」
「これ! ここの漢字が間違えとりますぞ! いくら数学の証明問題とはいえ、漢字を間違えるなぞ言語道断!」
「ちょっと待って! なにコレ、あんたこんなトコまで計算式書いてんの!? 暗算しなさい、暗算!」
「え、ちょ、まっ、いっぺんに言わないで下さい、僕は聖徳太子じゃないんですから!」
「……はい、ここまで全問正解。 なによ、出来るんなら始めからやりなさい。 全く、手間かけさせて。
はい、10分休憩。 次は日本史よ。 新川が模擬問題作ってきたから30分で全問正解しなさい。」
「無茶言わないでくださいよ、試験は50分目安で作られてるんですよ?」
「後の20分は見直しに当てるの。 常識でしょ。 それでなくてもあんた字が汚いからよく採点ミスされるくせに。 ペン習字やんなさい、ペン習字。」
ぐあ、人が気にしていることを……!! 僕の字が汚いのは小さい頃からずっとですよ。
いいじゃないですか、もう。 今更直るわけないし。 三つ子の魂百までって言うでしょう。
「まだ二十歳にもなってない若造が何を言うか! 古泉、貴様と言う奴は喝が足りん喝が。
大体、私が貴様ぐらいの頃はまともな筆記具もなくて、教科書だって……」
ああ、始まっちゃった……。 新川さんの昔話って長いんだよなぁ。 しかも同じ話ばっかり。
おまけに一体どこからどこまでが本当なのかさっぱりだ。 あなたそんなに年取ってるようには見えないんですが。
「しっかし、日本史なんて懐かしいわねぇ。 私、高校時代は世界史と地理だったから……」
背後で森さんの声がする。 この人は例え人の鞄でも……って言うのは語弊がありますね、僕の鞄をご自分の物と勘違いしておられるのか、結構勝手に開けちゃって中身を見ちゃうんですよ。
なんと言いますか、僕も森さんの持ち物の殆どを把握していると言っても過言ではないのですが。
森さんと僕の関係は上司と部下と言うよりはむしろ姉と弟と言った感じで、4年前に出会った頃から森さんは『機関』内では唯一の年下の僕を自分の弟分としてこき使……いえ、可愛がってくれているのですが……。 ときたま、すごくおせっかいなんですよねぇ。
一度、中学時代に滅多に学校行けない僕を心配してくれたクラスの女の子からの手紙を勝手に読まれて……。
なんというか、一応年頃の男子としては姉(のような女性)に持ち物を勝手に見られるというのは何とも……
って、あ――――――――ッ!!!!!!! 日本史の教科書!!!
「最近の歴史の教科書ってカラフルねぇ。 ってあんた、全然落書きとかないのね。
歴史の教科書は歴史上の偉人に色々書き足して、よりクールにするのが常識でしょ。 そのための教科書なんだから。
……あ、なーんだ、やっぱあんたもしてんじゃん。 落書き。 あれ? でも写真にじゃないの?
しかもなんか会話が成り立って……って、なにコレ!? 相合傘ー!?」
見つかったー!!! 一番見られたくない人に見つかった! そういや、中学時代の手紙も僕以上に大盛り上がりしてはしゃいでたっけ……
今もなんかすごいテンションですよ。 この人こういうのホント好きだから……
「なに、しかも相手、TFEI端末の長門有希じゃない! これ、あんたが書いたの? んなわけないか。 あんたがこんなに綺麗な字を書けるわけがないし。 誰が書いたのよ、コレ。」
「な、長門さんがデスヨ……と、言いますかそのTFEI端末って言い方……!!」
「そうよね、あんたの好きな子だもんね! うん、いいわ! 萌える! 超能力者×宇宙人。
ぶっちゃけ最初は団長×凡人と超能力者×未来人で行こうかと思ったけど、超能力者×宇宙人もいいわね!
基本私、ツンデレ×ツンデレ萌えだけど、へたれ×クーデレとか素直クールも好きなのよねぇ。
普段、クーデレのほうが攻めっぽいのに、いざとなるとへたれが急にカッコよくなるともうね……。 いいわぁ、萌える!
でも、おっしいわねぇ……古泉、どっかに未来人に釣合う男キャラ居ない? あ! 異世界人まだよね?
早く出てこないかしら……。 これで異世界人まで女の子だったらどうしよう……。
まぁ、無駄にイケメン男キャラ出て来てホモられるよりマシかしら……古泉、あんたどう思う?」
どうも思うか! と言い返したい。 そう、この森園生という女性は根っからカップリング狂なのだ。
本人曰く、腐女子ではなく「男女カプ厨」だそうだ。 僕にその違いが分かるわけもない。
しかもそれが、二次元や一次元で収まるならいいが、現実世界でもこの通りなのである。
とにかく森さんは恋愛至上主義者というか、なんと言うかで人の恋愛に口出しするのが大好きなのだ。
そのおかげで成就したカップルも居ないことはないが、極わずかである。 しかし、ホモられるって誰が? 誰と?
それから数刻、僕は森さんに根掘り葉掘り長門さんとの教科書でのやり取りについて質問攻めにあった。
予定の10分はとうに過ぎ、僕は先ほどの数学の模擬試験よりも体力を失い、もう息絶え絶えである。
「まぁ、いいわ。 で、古泉、古泉。 あんたら付き合ってんの?」
嫌にキラキラした眼で僕を見上げる森さん。 本当にこう言うの大好きだなぁ、この人。
人の事なんか構ってないで自分の恋路に熱を出した方が幸せになれるんじゃといつも思う。
誰か、この人をめくるめく恋の魔宮へ連れてってあげて! そうすれば少しは大人しくなるかもしれない。
「そんなわけないでしょう。」
僕がそう答えると、ほらすごくしょんぼりした顔。 別にあなたの恋路じゃないんですから。
「だって相合傘……。 ここにあんたと「良好な関係」でいたいって書いてるじゃない。
デートだってしたんでしょう? 2回も! 甘味屋と美術館。 あんたデートに美術館って高校生のチョイスじゃないわよ。」
「それは長門さんのクラスの僕のクラスの友人の妹さんが相手と「良好な関係」でいられるおまじないとか言ったのを、長門さんは友情かなんかのおまじないと勘違いと勘違いしてるんですよ。
それに、デートじゃありません。 クリームあんみつをご紹介したのと、美術館にご一緒しただけです!」
「ええ? あんたのクラスメートの妹が長門有希と同じクラスってこと? ややこしいわね。
で、何。 友情のおまじないと勘違いとか、それ、本人から聞いたの?」
まだ粘るか。 粘るならご自分の恋愛にすればいいのに。
「いいえ? でも、僕はコレくらいで彼女の気が僕に向いているなんて考えるほど自意識過剰じゃないですよ。」
「……あんたさ、確かに自意識過剰男はウザイわよ。 萎えキャラだわ。 でも、謙虚なのも度が過ぎるとウザイわよ、鈍感なんて褒め言葉じゃないんだからね。」
「若いうちは恥を掻く位が丁度いいと言うものです。」
新川さん、いつから居たんですか。
「最初から居ましたぞ!? 貴様、年配者を空気扱いか!!」
「で、例えば、例えばよ? この「良好な関係」ってのがあんたが考えるようなものじゃなかったとしたら、あんたどうすんの?」
さっきまでの明らかに楽しんでいる風な様子を引っ込めて、森さんは僕の方をじっと見てきた。
こういう顔をされると、僕は本当にどうしようもなくなる。 なんだかんだ言っても、森さんは僕にとって姉のような存在なのだ。
ある程度、意見したり反論できたりしても、こんな風に真っ直ぐ見られては嘘なんかつけるはずもない。
「嬉しくて……どうかしちゃうでしょうね。」
「嫌に素直じゃない。 もっと言い渋ると言うか、下手したら気づいてないかと思った。」
一体、僕は周りにどんな風に見られているんだ。
「気がついたのはつい最近ですよ。」
「そう。 で、あんたどうすんの? ううん、違うわね。 どうしたいの?」
森さんが、また、あの嘘を許さない目で僕を見上げる。 どうするの、ではなく、どうしたいの?と問うた意味を僕はなんとなく理解する。
彼女は、超能力者、古泉一樹ではなくただの古泉一樹に問うているのだ。
「あんた若いんだから、『機関』のことなんて気にしなくていいのよ。 第一、規則や暗黙の了解ってのは破るためにあるんだから。」
そして、彼女は敢えて僕に何も言わせない。 言う相手が彼女ではないからだ。 そう、僕が何かを言うべきなのは長門さんの他にいない。
「人を好きになるっていいことよ。 それをしなきゃ生きている意味なんてないわ。
まぁ、そう考えるのは女だけだってよく言うけどね。 でも、間違ってないと思うの。
誰かを好きになったら、好きな人がいる世界をもっといいものにしたいと思うし、もっと平和にしたいと思う。
好きな人に幸せになってもらいたいと思えば、その周りの人も幸せにしなきゃいけないし、そうしたらその周りの人の幸せも保証しなくちゃ。 「好き」って感情はね、世界を幸せにするのよ。」
だから、自信持ちなさい。 そう言って、森さんは僕の頭を軽くこついた。 その後ろで、新川さんもうんうんと頷く。
「相手が誰だって恋愛は恋愛だし、振られたなら振られたでいいじゃない。 立派な経験値よ。」
そして、日本史の教科書の件(くだん)のページぱしんと叩きながら、雨、降るといいわね。 と森さんは微笑んだのだ。
たしか、明日の降水確率は10パーセント。
<後編へ続く>