わたしには行く充てがなかった。
わたしには名がなかった。
名のないわたしは虚無であり、其処に在ることも認められない異端だった。

――名前がないから幽霊なのだと、少女は告げた。微笑んだ少女はわたしを知っているようだ。銀河系に分布する闇の様にくっきりとした黒い瞳が瞬いて、星屑の発光の様に極小の瞳孔が同意を求めわたしに迫った。

「あなたも同じでしょう」
そうかもしれない。わたしは確かに幽霊だった。幽霊と会話する幽霊は、わたししかいなかった。
「どこへでも行くことはできます。あなたの行きたい場所はどこですか?」
義務。役割。意味。存在の証明。第一に掲げねばならぬもの。持っていた筈の答えを、少女が明かす。わたしに彼女が翳してみせる。
風が温かく、日差しは柔らかだった。わたしは微睡みに落ち掛けていた眼を覚まされた。美しい水色の空に、銀色の光を少女は与えてくれたのだ。

「××××へ行こうと思っていたのではないのですか?」

小さな世界だった。
ちっぽけな、振り抜けば砕けてしまう薄命の世界だった。
それでも其処に白く、透明な結晶は降り注ぐ。――わたしが名を得た、それが、わたしの生誕だった。











幾ら願を掛けようとも、別離の定刻はやってくる。傍に在り、ただ座って落ち行く赤の中に居た二人の何者の侵入も赦さない空間は、古泉が「……時間のようです」と席を立ったことでふつりと切れ、崩れた。
重ねて握っていた掌が解ける。触れ合っていた仄かな熱が霧散する。
長門は古泉を引き止めなかった。古泉は既に戻る事を前提に話を進めていたし、それを打ち破るのが無理だろうことも、古泉の機関への帰属意識を目の当たりにしてきた長門には察することができた。……手渡されたスノードームに成すべきことを把握した今は、不要なわだかまりを残すことで古泉を困惑させ縛りたくない、という思いが、先に立っていた。
古泉の袖を軽く摘んで、長門は去り行く間際の少年を見上げた。下げられた形の整った眉が、決心しつつも奥底では煮え切らない少年の心情を表現している。これで最後かもしれない、「死」の未来が翌日に横たわっている以上は、偶発的な「奇蹟」を都合良く信じられもしない。苦心は当然のことと言えただろう。

長門には、一旦古泉を送り出す前に伝えたいことがあった。
今少年を鼓舞するに相応しい言葉を捜す。見つからない、ときは。……彼女はこの二年近くの間に学んでいた、言葉を操れないなら、素直に心情を発露するべきという訓戒。やらないで後悔するよりはやって後悔した方がましというのは、長門のバックアップとして派遣されていた少女の口癖であったが。

「――あなたを死なせない」
それは、「未来」の在り方さえ物ともしない宣誓。
祈りでなく、願いでなく、そうするのだという意思。誰かに恣意的な思惟と蔑まれても、揺るがないだろうことを誓った。少なくとも一定以上の干渉が涼宮ハルヒに影響することを慮るなら、宇宙知性としてもあるまじき言動である。古泉が目を丸くした。
「長門さん…?」
「信じて。わたしがあなたを救いに行くこと。……諦めないで」
流石に想像外だったらしい、驚きの吐息が古泉の薄く開いた唇から漏れる。長門の眼差しに中てられたように、悲壮感を沈めた少年はひとたび、晴れやかにも思える穏当な笑みを浮かべた。
謳うようにそのフレーズを口の中でなぞる。信じます、と。 

願わくばこの部室で、また会いましょう。
文芸部室の扉が、彼を廊下に橋渡し、重く閉じられた。夕陽に染め上げられた赤い世界が溶け出して、後には長門が独り立ち尽くした。少年が帰っていく――未来人に導かれて己が在るべき時へ。



「――追い掛けなくてもいいんですか?」

気配なら疾うに感知していた長門は、扉から慎重に眼を離し、死角に視点を置いた。長門が常の活動時に決まって座るパイプ椅子の傍。窓際に背を凭れさせていたその女は、窮屈そうに胸をぴったりしたスーツに押し込めて、栗色の艶のある髪を流した妙齢の美女だ。些か、美し過ぎるほどの。
長門は淡白な声を投げ掛けるに意識した。長門は持ち前の思考力の積み重ねにより、古泉の死から連動した凡その検討を終えていた。事の発端に関わるものが何か、それすらも。
「あなたが此処に現れるなら、問題ない。……違う?」
「うふ。それは確かに、違いませんね。――お久しぶりです」
返す女は厭味なく、ただ、切なさを込めて微笑んだ。
今更敢えて説明する必要もないだろう、二十を過ぎる年を数えた未来工作員であり、美しく賢才に成長した朝比奈みくる、当人。古泉を今過去に送ったならば、此の場に居ては可笑しい筈の人材だった。

「今、古泉一樹は『昨日』に戻った筈。でも、廊下で待機していた朝比奈みくるとあなたは同一ではない」
「ええと、そうですね。廊下で待っていた『私』は、此処にいる私よりも少し過去から来た私です。何のために、私が二人もここに来たか……長門さんには分かっているみたいですけど」
長門は掌に残ったスノードームに眼を落とした。模造雪が舞う、小さな結晶を。
「これを与えられたときに、分かった。古泉一樹の死も、それを救いに向かうことも規定事項。それならわたしには昨日への移動手段が必須となる」
「はい。でも、詳細は禁則事項ですから、あまりお話できませんけど。――でも、選ぶ権限は長門さんにありますから」 

朝比奈みくるは屈み、長門に視線を寄せた。長門はふと、何処かでその黒瞳を見たことがある、そんな気がした。切り取られた布の狭間から覗いた瞳、あれは夢だったろうか。

「分岐点があります。はっきりと大きな――長門さんの大事に纏わること、将来を決定付けるかもしれないことです。私と共に行かない道も、選択肢には有り得ます」
みくるの念押しを、長門は意に介さなかった。古泉に約束し、長門自身にも約束を済ませた後だ。小さく首を横に振り、長門は表明した。何が現地に待とうとも、叶える為に手段を選ばない。
 
「わたしは、古泉一樹を救う。気持ちは変わらない」
「……そうですか」
みくるは綺麗に、今のみくるを喚起させる甘い幼さを宿して微笑った。淡い桃色の唇が艶やかな曲線を描く。
「長門さんなら、そう言ってくれると思っていました」
ウインクを一つして、花の香りを漂わせ誘いを掛けるように裏返した手を、みくるは伸ばす。みくるを見据えた長門はその手を、掬うように取った。白く細い指が、ベビーピンクの切り揃えられた爪と絡む。

平衡感覚を狂わせる時空の捩れに取り込まれる寸前に、女の声。聞き覚えのある響きのその優しさを懐かしむように、長門は耳を澄ませる。喩えるならば、祈祷の文句を聞く聖職者の心境に、近しいものであったろうか。

―――思い出せそうで、思い出せない夢だった。
解け掛けた記憶の蓋が、少しずつ、表出を望んで持ち上がろうとしていた。


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