今日はあたしの高校の卒業式だ。
どこまでも青く晴れ渡る空の下、あたしはいつもと同じように高校へと向かって歩いている。
高校生活も今日で終わりかと思うと、少し寂しい気もするが、かといって高校での学生生活が充実していたかというとそうでもない。
毎週毎週が同じことの繰り返し、単調で退屈な日々を苦痛に思ったことは何度もあった。よく言えば無難な学生生活だったが、何の刺激もない毎日にいいかげんうんざりしていたのを、昨日のことのように思い出す。
せめて大学生活ぐらいは、充実した日々を送りたい。そう切に願いつつも、大学生活といえども、それほどたいした事があるわけではないだろうと、冷めた目で見ている自分がいるのも事実だ。
まあ、大学生になったからといって、そうそう刺激的なことが毎日あるわけはないだろう。
あたしはいつからこんなに自分の人生を達観して見つめるようになったのだろうか。小さい頃、あたしが中学生だった頃は、こんな風ではなかったはずなのに……
あの当時も、あたしは何の刺激もない毎日にイライラしていた。しかし、あの頃は、今の自分には無い何かを持っていたような感じがする。
それに、この街を歩いていると、何気ない日常のひとコマを見ているだけなのに、たまに既視感のような懐かしさが胸に込み上げてくることもある。
何か、何かとても大切なものを、あの東中学校のグラウンドに忘れて来てしまったような気がするが、それが何なのかわからないことが、とてももどかしい。
でも、多分それは、あたしの気のせい。おそらく、刺激を求めるあたしが作り出した偽りの過去、偽りの記憶、そういうものなのだろう。
敢えてその答えを求めるとすれば、それは知ってしまったと言うこと。中学の頃は心のどこかに「もしかしたら」という感情があったが、今ではもう、そういう感情すら抱くことはない。
あたしはあの頃に比べて、色んなことを知り過ぎてしまったのだ。そう考えると、知ってしまうということは、時に残酷なことだと痛感する。
そんな物思いに耽りながら、通いなれた通学路を歩いていると、後ろから「バシッ」と背中を叩かれた。振り向くと、そこにはひとつ前の席のクラスメートがいた。
「おはようハルヒ、どうしたの朝からメランコリックな顔しちゃって」
「え、あたしは別に普段と変わりないわ」
そう答えると、彼女はふーんといった表情で、あたしの顔を覗き込んだ。
「ハルヒでもやっぱり卒業式の日には泣いちゃったりするんだ」
「だから、あたしは普段と変わりないって言ってるでしょ」
あたしがちょっと声を荒げると、彼女はいたずらっぽい笑顔を作って、あたしに見せた。
「ははは、ゴメンゴメン。それよりさ、この間の古泉一樹くん、知ってるでしょ。隣町のイケメンの男の子。
彼、四月から東大に行くんだってさ。だからみんなで見送りに行こうって話があるんだけど、ハルヒも一緒に行かない?」
「ん、あたしは別にいいよ」
「なによ、つれないなあ。まあ仕方が無いか。この間、彼をいっしょに見に行ったときも、あんた興味無さそうだったからね」
彼女は空を仰いで、遠い目をしながらそう答えると、再びあたしに笑顔を見せて言った。
「もしかして、もう既に好きな人とかいるのかな。だったら、あたしにだけは教えてよね。内緒にするなんて水臭いぞ」
「そんな奴いないよ」
あたしが俯きながらそう言うと、彼女はあたしの答えを聞いて溜息をついた。
「あ~あ、中学時代の涼宮さんはいったいどこに行ったのやら。あのころはあんたは毎日突拍子も無いことをして、正直あたしも近寄りがたかったのに、いまはまるで抜け殻みたいだよ。
やっぱり、あのグラウンドに落書きしたときに叱られたのが原因なのかな。まあ、やりすぎとは思うけど、だからといってそんなに落ち込まなくてもいいのに」
彼女の言葉を聞いて、あたしが中学生だった頃の記憶が脳裏に浮かんでくる。
夜の校舎に忍び込み、ひとりで中学校のグラウンドに織姫、彦星宛にメッセージを書いた。でも、当然のことながら何も起こらなかった。
あたしはそのことに絶望して、その日から不思議探しをすることを止めた。世界とはこんなものだという諦観が、あたしの心を支配した瞬間だった。
「まあ、人生長いんだし、恋愛でもして楽しまなきゃ損よ!」
彼女はそう言いながら、あたしの背中をバシッと叩いて、あたしの目の前から去って行った。
あたしは大きく溜息をついて、再び物思いに耽りだした。ああそうか、あの日から、あたしは「もしかしたら」という感情を捨ててしまったのね。
あの中学一年生の七夕の日に……
ふと、あたしの心に些細な疑問が生じた。
「あれ、あの日、あたしはひとりだったかしら……」
何かが心に引っかかるような気がした。しかし、それが何かまではわからない。深い心の奥を探ろうとしたとき、予鈴のチャイムが鳴り、あたしは我に返った。
あたしは、遅れないように、小走りで自分の教室へと向かった。教室に入ると、今日が卒業式ということを除けば、いつもの日常の光景がそこに広がっていた。
数人の親しいクラスメートが、あたしに「おはよう」と声をかけてくる。あたしは彼女達と挨拶を交わして、自分の席に着いた。
しばらくすると、担任が教室に入ってきて「4月からは社会人としての自覚を持って欲しい」とか「光陽園学院のOBとして恥ずかしくない行動を」等、ありきたりの文句を壇上で話し始めた。
少し感慨深くはあったものの、これから体育館で校長先生からも同じような話を聞くのだと思うと、何度も同じような話を繰り返さなくてもいいのにと、不満に思った。
どうなのかな、学校の先生っていうのは、担当したクラスの生徒の顔や名前を全員覚えているものなのかしら。あたしたちにとって先生は一人だけど、先生にとっては数十人、しかも毎年入れ替わる。彼らを全員覚えていられるのだろうか。
そんな物思いに耽りながら、あたしはぼんやりと、壇上で感情を込めて話す担任の姿を眺めていた。
卒業式は無難に過ぎた。周囲には泣いている娘もいたが、あたしは、予想通りの内容の、退屈な校長先生の話なんかでうんざりだった。まあ、ほんの少しだけもらい泣きしそうになったのは、みんなには内緒だ。
教室で、親しかった友人数人と別れの挨拶を済ました後、卒業証書の入った筒を持って、あたしは帰宅の途についた。
あたしの前の席に座っていた、朝方話し掛けてきたクラスメートの姿は見えなかった。彼女は学園内でも人気者だったし、おそらく別のクラスに呼ばれて行っているのだろう。
一月後には訪れるであろう大学生活に思いを馳せながら、とぼとぼと歩いていると、例のクラスメートが校門のところであたしを待っていた。
「遅かったね、ハルヒ」
彼女はそう言いながら、あたしに微笑みかける。
「これから用事あるのかな? もし無いんだったら、あたしにつきあってくれないかしら?」
「え、うん、別にいいけど……」
「OK! 決まりね。じゃあ、まず図書館にいきましょう。今日中に返さなければならない本があるの」
あまり気乗りはしなかったが、彼女のことは嫌いじゃなかったのでつきあうことにした。
よく考えてみれば、あたしは中学時代の悪名が轟いていた為、最初の頃は、クラスの中で浮いた存在だった。でも、彼女が周囲の友人とあたしの橋渡しの役割をしてくれたため、いまでは親しい友人が彼女の他にも数人いる。
そういう意味では、彼女に感謝しなければならないのだろう。もし彼女がいなければ、あたしは中学、高校と独りぼっちで過ごしたかもしれないからだ。
あたし達は、他愛ない話をしながら、図書館へと向かった。彼女は卒業後、県外の大学へと進学するらしい。だからあたしと会うのは、今日が最後になるかもしれないと言っていた。
彼女の言葉を聞いて、少しだけ心に不安がよぎった。大学に入学して上手くやっていけるだろうか。考えてみれば、親しい友人は皆、県外に進学している。
あたしが、心に浮かんだ不安を彼女に訴えると、彼女は笑いながらこう言った。
「ふふふ、ハルヒなら大丈夫よ、心配すること無いわ。大学に入れば、すぐ友達もできるよ。それよりもハルヒがあたしのことを忘れてしまうかもしれないってことの方が心配だわ」
「そんなことは無いわ。多分、あんたはあたしの一生の親友だわ」
「ふふふ、ありがとう。でも、もしそんなに心配なら、大学で彼氏でもつくったらどうかしら」
彼女はそう言いながら、悪戯っぽくあたしに微笑みかけた。彼女の言葉を聞いていて、ふと奇妙な疑問が頭に思い浮かんだ。
「あれ、あたしはいつから彼女と知り合いになったのだろう」
気がつけば彼女はあたしの傍にいたような気がする。しかし、そんな疑問は、彼女との他愛ない会話の中で、すぐに頭の中から消え失せた。
図書館に着くと、彼女は返本の手続きをした後、新しく借りる本を物色し始めた。最初はあたしも本棚に並んだ本を眺めながらぶらぶらとしていたが、大して興味を引く書籍は無く、脇の椅子に腰を下ろした。
あたしは、そのまま目を閉じて、再び物思いに耽りだした。
周囲に知り合いのいない状況で、大学生活が送れるのだろうかといった不安や、退屈だった高校三年間に対する不満、何かやり残したことがあるような後悔にも似た気持ち、そういった複雑な感情があたしの心を支配する。
どれぐらいの時間そうしていただろう。
ふと見ると、彼女が、貸出口のカウンターで、なにやら親しげにふたりの娘と話している様子が覗えた。ひとりはショートカットのおとなしそうな娘で、もうひとりは栗色の髪に幼い顔立ちの娘だった。
三人が話しているのを見て、二人に見覚えがあると思ったのと同時に、既視感のような感覚に襲われた。ずっと昔からこの光景を見つづけてきたような錯覚に陥る。
しばらくの間、三人は楽しげに談笑をしていたが、彼女はあたしが見ていることに気づくと、ふたりに手を振って別れてから、あたしの方に近づいてきた。
「ごめんごめん、声をかけてくれればいいのに」
「知り合い?」
「うん、そうだよ。髪の短い娘は長門有希さんって言って、この図書館でアルバイトをしてるんだけど、この四月から県外の大学に進学するから辞めるんだって。
もうひとりの娘は朝比奈みくるさん。確か看護学校に通ってるって聞いたけど……詳しくはよく知らない。
ふたりともこの図書館でよく会うんで、親しくなっちゃってね。でも、四月からばらばらになっちゃうんで、寂しくなるなって話をしてたんだ」
「ふーん」
胸にモヤモヤしたものを抱えながら、あたしがそう答えると、彼女は見透かしたような目であたしを見ながら言った。
「もしかしてヤキモチを妬いているのかな」
「そんなんじゃないよ」
「ふふふ、心配しなくても、あたしはハルヒとずっと親友だよ。例え離れ離れになってもね」
「だからそんなんじゃないってば!」
むきになって答えるあたしを見ながら、彼女は悪戯っぽく笑っていた。
その後、彼女は図書館につきあってくれたお礼にと、駅前の喫茶店で何かおごると言ってくれた。あたしは最初、遠慮したが、しばらく会えなくなるからと説得され、申し訳ないと思いながらつきあうことにした。
喫茶店に向かう途中、横断歩道で信号を待っているとき、突然、どこからか強い視線のようなものを感じた。辺りを窺うと、道を挟んだ向こうの男子高校生があたしの方をじっと見ているような気がした。
多分、北高の生徒のようだが、どうしてあたしを見ているのだろうか。突然、強烈な既視感があたしを襲う。それはいままでいろんな場所で感じていたのとは段違いのものだった。
それと同時に、いまの世界が壊れてしまうような恐怖に襲われた。なぜ、そのように感じるのかはこの時、理解ができなかった。
信号が青になり、あたしはなるべく平静を装いながら、隣の彼女に何気ない話題を振り、横断歩道を渡る。たかだか数メートルの距離が、横断歩道を渡りきる時間が、永遠と錯覚するぐらい長く感じられる。
件の男子高校生は、強い決意を宿したような目でこちらを見ていたが、あたしが彼女と話している様子を見ると、一瞬唖然とした表情をした後、何もすることなく通り過ぎていった。
あたしは、心の中で胸を撫で下ろすと、彼女に気取られぬよう平静を装ったまま駅前の喫茶店に入り、片隅のテーブル席に座った。
ふと、彼女の顔を見ると、どこか寂しげで悲しそうな、にもかかわらずどこか安心したような、そんな複雑な表情をしていた。こんな顔の彼女を見たのは初めてだ。あたしは心配になって彼女に声をかけた。
「どうしたの? 何かあったの?」
あたしが声をかけるまで、彼女の視界にあたしは入っていなかったようで、不意に声をかけられてびっくりしたような様子で、あたしの方を見ると、
「え、いや、何でもないよ、心配しないで。それより何を注文しようか。好きな物を注文していいよ」
と、戸惑いながら答えた。
直感的に、彼女がさっき交差点の横断歩道で会った男子高校生のことを考えているとわかった。いま彼女が悩んでいるのは、彼のことが原因かどうか聞きたかったが、喉元まで出かかったその疑問を、あたしは飲み込んだ。
彼女の表情や仕草が、そのことを聞いて欲しくないと言っているように思えたし、なにより聞いてしまうと彼女との今の関係が壊れてしまうような気がしたからだ。
注文したアメリカンコーヒーとハーブティーが運ばれてくる間、彼女はいつものように他愛ない話題をあたしに振ってきた。傍から見れば、普段と変わりない彼女に見えるが、あたしには彼女が無理をしているのがよくわかった。
いったい彼は何者なのだろう。彼女の昔の恋人なのだろうか。しかし、普段の彼女なら何気なくさらりと、そのことをあたしに話してくれそうなものだが……
いま、あたしが彼女に違和感を持っているということは、勘の鋭い彼女ならとっくに気づいているはずなのに、何も言わないということは、よっぽど言いにくいことなのだろうか。
あたしは彼女といつもどおりに話しながら、ほんの少しだけ彼に嫉妬にも似た感情を抱いた。あたしの知らない彼女を知っているであろう彼に……
注文したハーブティーを飲みながら、彼女とひと時を過ぎした後、喫茶店から出てあたしと彼女はそれぞれ帰宅の途につくことになった。
「じゃあね、しばらく会えなくなるけど、お元気で」
あたしがそう声をかけると、彼女は無言のまましばらく俯いていたが、顔をあげ真剣な眼差しであたしの顔を見つめて、意を決したような様子で言った。
「ハルヒ、いまは何を言っているかわからないだろうけど、覚えておいてちょうだい。もうすぐ、あたし達の間に本当の別れが訪れるかもしれない。
でも、例えそのときが訪れても、あたしはずっとあんたの傍にいるよ。だから悲しまないで欲しい。自分の運命を素直に受け入れて欲しい」
彼女が突然、このようなことを言い出したことに驚愕した。その言葉の真意を尋ねようとしたが、あたしが声をかける間もなく、彼女はあたしの前から走り去って行った。
 
 
 
 
それから一月余りが過ぎ、あたしは地元の国立大学へと通いだした。予想したとおり、大学生活はあたしにとって充実したものとは言い難かった。
親元からの通学だったので、高校に通っている頃とそれほど周囲の環境に変化は無く、むしろ高校時代の友人が県外に出てしまったため、高校生活以上に寂しく感じた。
高校時代に比べて自由な時間が増えたことも、あたしにとっては苦痛だった。なぜなら、あたしには自由な時間を使ってする事など無かったからだ。あたしは突然に与えられた自由をむしろ持て余していたのだ。
なにより、大学に入って最も痛感したことは、いつもあたしの傍にいてくれた件のクラスメートの存在の大きさだった。
彼女のおかげで高校生活が潤滑に送れているということは、高校時代に何度も意識したことではあったが、彼女がいなくなったことで、あらためてその認識を、強烈に再確認することになった。
大学に通いだして数週間で、あたしは彼女に早く会いたいと願うようになっていた。確か彼女は八月の休みには帰省すると聞いているのだが……
そんな鬱々とした日々を過ごしていたある日のこと、あたしはいつものように大学からの帰りに、何をするでもなくぶらぶらと街中をさまよっていた。
周囲にはスーツに身を包んで疲れきった顔をしたサラリーマンや、買い物かごを片手に下げて仲間内でおしゃべりしている主婦の姿があった。彼らの姿はあたしの未来を暗示しているかのようでもあった。
「いつか、あたしも大人になって、ああいう風になっていくんだな……」
人は誰でもいつか大人になる。そして社会を構成する一員となって、職に就き、家庭を築くことになる。そこにあるのは平凡な日常の反復。
それが悪いことだとは言わない。誰しもがそうやって大人になっていくのだから。毎日がめまぐるしく変化し、面白くてたまらないという人は、おそらくごく一握りの選ばれた人だけだろう。
だが、いまのあたしには、あまりにも何も無さ過ぎる。将来への期待も、腹を割って話せる友人も、寄り添っていたいと想う愛しい人もいない。独りぼっちだ。
心の中が絶望のような虚しさで満たされていくのがわかる。
昔は、小さな頃は、確かに、今ではもう忘却のかなたに消えてしまった、大切な、言葉では言い表せない、何かを持っていたと思うのだが……
そんな物思いに耽りながら、呆けたようにふらふらと歩いていると、ふいに後ろから聞き覚えのある声をかけられた。
あたしが、我に返り、振り向くと、校門で待っていた彼女とは違う同じ高校の友人がそこにいた。
「どうしたのハルヒ、元気ないんじゃない」
「んー、ちょっとね、そういう年頃なのよ」
「彼女と別れて、寂しいんじゃないの」
「まあ、それもあるけどね。あんたこそいま何してるのよ? 確か大学には進学しなかったんだっけ?」
あたしがそう尋ねると、その友人は誇らしげに胸を張って、いまの自分の境遇をあたしに話してくれた。彼女は夢を叶えるために、専門学校に通っているということだった。
彼女は、夢に向かって進んでいる、いまの自分の生活が、とても充実していると語っていた。自分の目標をしっかりと見据える彼女の姿が、あたしにはとても眩しく映った。
あたしは彼女に、いまの大学生活で抱えている不安を話した。誰かに聞いてもらえば、少しは気が楽になるかもしれないと思ったからだ。
彼女はあたしの打ち明けた悩みを聞くと、笑いながらこう言った。
「ハルヒは何でもかんでも真面目に受け取りすぎなのよ。将来のことって言ったって、大半の大学生はそんなこと考えずに大学生活を謳歌しているはずよ。
だからハルヒも難しく考えずに、パーッと遊んで大学生活を楽しみなさいよ。後でいまを振り返って後悔しないようにしなきゃ」
「でも、遊ぶっていったって……どうすればいいかわかんないわ。サークルにも入ってないし……あんまり集団行動は好きじゃないの」
彼女はほんの少し悩む素振りを見せた後で、名案を思いついたという表情であたしに提案した。
「そうよ、彼氏を作ればいいんじゃない。ハルヒほどの美人なら、男なんて選り取りみどりよ。それでその彼氏にエスコートしてもらうのよ」
「でも、男の子とはあんまり話したことがないから……」
「大丈夫だってすぐ慣れるよ。って言うか、ハルヒってどんなのがタイプなわけ。例えば……」
そう言いながら、彼女は周囲を見渡し、ひとりの男性を指差して言った。
「あんな子はどう? ちょっと頼りなさそうだけど、優しそうでいいんじゃない」
彼女が指差した男性の姿を見て、あたしは驚愕した。それは、あの横断歩道ですれ違った北高の男子生徒だったからだ。こんな偶然があるだろうか。なによりあたしには、彼がこちらを覗っているように思えた。
あたしの普通ではない様子を見て、彼女は戸惑いながら
「え、な、何、どうしたの? 知り合い?」
と、あたしに聞いてきた。だが、彼女の声が遠く聞こえなくなるほどに、言い知れぬ恐怖があたしの中にこみ上げてきた。
「ご、ごめん」
そういい残して、あたしは彼女のほうを見ることなく、その場から走り去った。
偶然? いや、偶然にしてはできすぎている。でも、彼があたしをつけまわしているという確証はない。だから、今日たまたま、彼はあそこに居ただけかもしれない。
でも、もしこれが偶然でなかったらどうしよう。こんなときに彼女がいてくれれば相談できるのに……
恐怖と不安で頭が一杯になりながらも、あたしは何とか自宅にたどり着くことができた。
その日を境に、あたしは自分の周囲を見回すようになっていた。そして頻繁に彼の姿を目撃することに気づいた。
偶然ではない。いわゆるストーカーと言う奴なの。そんなものはテレビの中だけの話だと思っていたのに……
でも、いま現在進行形であたしはそのストーカーにつきまとわれている。どうしよう、家族や警察に言うべきだろうか。だが、なぜかその気にならない。
あたしは彼を何処かで見たような気がする。それに彼女との関係も知りたい。過去に彼と彼女の間に何があったのかを……
どうしよう……
彼女以外の親しい友人何人かに相談したが、皆、警察に言うべきとの意見だった。本来、そうするのが一番正しい方法なのだろう。だが、あたしの本能がそれをするなとあたしに訴える。
数日間、あたしは迷いに迷った挙句に、彼を問い詰めることにした。もちろん、なるべく人の多い場所と時間を選んでだ。
例の喫茶店前で、あたしは勇気を振り絞って彼の方に歩み寄り、なるべく怖い顔を作って彼に問い質した。
「失礼ですけど、どうしてあなたはあたしをつけて来るのですか? 迷惑なんですけど!!」
「いや、お、俺は……」
彼は戸惑ったように後退りすると、そのまま踵を返して逃げ出そうとした。
「待ちなさい!」
逃がさないように、あたしは彼の腕を掴んだ。その手には何かを握り締めているようだった。
そのままもみ合いになり、あたしと彼はバランスを崩して、道の真中に倒れこんだ。そのとき彼の握り締めていた拳が開け、中の物が倒れこんだあたしのすぐ目の前に転がった。
それは銀色の指輪だった。
「指輪?」
それを認識した瞬間、周囲の世界が灰色に染まり、騒音や雑踏が止んだ。あたしは立ち上がり、周囲を見渡すと、まるで時間が止まったかのように人も車もすべてのものが静止していた。
何が起こったのかわからず、茫然と立ち竦んでいると、後ろから靴音が聞こえてくる。振り向くとそこには卒業式の日に別れた、クラスメートだった彼女が立っていた。
「おめでとう、ようやくあなたは真実にたどり着いたわ」
「え、ど、どういうこと? いったい何が起こっているの?」
あたしの質問を聞いて、彼女はほんの少しだけあたしから目を逸らしたが、すぐにあたしの方を見て、奇妙なことをあたしに尋ねてきた。
「ハルヒ、あたしの名前を呼んでみて」
「え、なんで?」
「いいから」
あたしは彼女の名前を呼ぼうとしたが、彼女の名前が思い出せなかった。そして、あたしは、このときになって、一度も彼女の名前を呼んだ記憶が無い事に気付いた。
中学、高校と、最も近くにいたはずの親友の名前を呼んだことがない。そんなことが在り得るのだろうか。しかし、現実にあたしは彼女の名前を呼ぶことができないでいる。
あたしが途方に暮れていると、彼女は予想外のことを言い出した。
「知らなくても不思議ではないわ。もともとあたしには名前がないから。あえて名乗るなら、あたしの名前は『涼宮ハルヒ』」
「ど、どういうことよそれ?」
「あたしはあなたの分身、いうなれば影。あの日、東中学のグラウンドで、あなたは彼に出会うはずだった。なのに、世界が改変され、あなたは彼に出会うことができなかった。
識閾下に改変される前の記憶を持っていたあなたは、彼に会えない寂しさに耐え切れなくなり、識閾下に眠っていた彼に対する想いを自分の心から切り離した。
同時にあなたは、不思議を探求する好奇心や、周囲の意見を押し切って自分の意見を通す強引な自我までをも切り離した。
なぜなら、改変前の記憶を持つあなたは、無意識の内に、それらが集団生活を営むのに支障をきたすことを知っていたから。
そしてあなたは、自分から切り離された心の半分に形を与え、彼の代わりに自分を庇護してくれるように望んだ」
「じゃ、じゃあ、あんたは……」
「そう、あたしはあの日、東中学校のグラウンドであなたの心より切り離されたもうひとりのあなた」
彼女の言葉を聞いて、あたしの心の隅に引っかかっていた疑問が次々に氷解していくのがわかった。
東中学のグラウンドに忘れてきた何か、様々な場面で遭遇する既視感にも似た感覚、そしてキョンを見たときに感じた強烈な心の動揺、そのすべてにあたしは解を得たのだ。
「あたしはあの日より、ずっとあなたの傍で、あなたを見守っていた。それがあたしがあなたに与えられた役割だったから。
好奇心や強引さを失ったとはいえ、周囲に溶け込み成長していくあなたを見るのは、あたしにとって、いつの間にか喜びに変わっていたわ。
できればずっとこのまま、あなたのことを見守っていたいとさえ考えたこともあった。
でも、もうお別れ。
あたしは彼の代わりでしかない。あなたは彼に出会い、そして真実を知ったのだから。だからもう、あたしの役割は終わったの」
彼女の言葉があたしの心に突き刺さった。常にあたしの傍にいて、あたしを見守ってくれた親友が、いままさにこの世界から消えようとしている。
「ま、待って、行かないで、あたしあんたがいなくなったら、独りぼっちになってしまう。だから……」
戸惑いながらそう言うと、彼女は、あたしのほうに歩み寄り、あたしの頬を撫でて、優しく微笑んだ。
「あなたは独りではないわ。この世界にはたくさんの、あなたの友人や仲間がいる。そしてキョンもいるわ。これからは彼が、あたしの代わりになってくれる」
「で、でも……だからって、なんであんたが……消えなきゃならないのよ……」
あたしは、涙混じりの声で、必死に彼女に訴えた。彼女は、少し困った顔をして、幼い子供に言い聞かせるように、あたしに言った。
「どんなに居心地がよくても、雛鳥はいつか巣から離れていかなければならない。それがどんなに辛いことであってもね。
あたしは自分の役割が果たせたことを誇りに思っているわ。そしてあなたが無事、巣立ちしてくれたことを嬉しく思っている。だから最後は笑って見送って」
彼女は、優しく微笑んでいるものの、その目には決して揺らぐことはないであろう決意が宿っていた。これ以上、あたしが何を言っても彼女の決意は変わることなく、むしろ彼女を困らせることにしかならないだろう。
あたしは彼女のことが好きだった。だから最後ぐらいは彼女を安心させて別れたい。
「わかったわ。あたし頑張ってみるよ。あんたのいない世界で。だから……だから……」
「あたし達は別れるわけではないわ。あたしはいつでも、あなたの心の中で、あなたを見守っているわ。だから心配しないで」
そう言うと、彼女は光の粒のようになってあたしの周囲を取り囲み、そして消えていった。最後に「ありがとう」という言葉を残して。
一面灰色だった世界に色が戻り、止まっていた時が動き出して、日常の喧騒が帰って来る。
世界が元に戻るのと同時に、あたしの心に忘れていた感情がこみ上げてきた。中学生だったころに持っていた心の欠片、SOS団の仲間に対する信頼や友情、そしてキョンへの想い……
そうか、あたしはあの夜、東中学校のグラウンドで泣いていたんだ。この世界にたった一人取り残されたような気がして、織姫と彦星を眺めながら、あたしは涙を流していたんだ。
あの夜、識閾下で来ると信じていたはずのキョンが来なくて、そのことが辛くて、独りぼっちの自分が寂しくて、あたしはあの夜に彼女と出会ったんだ。
あたしの頬を一筋の涙が伝った。この涙は彼女への感謝の気持ち、そして決して彼女のことを忘れないという決意の印。
「ハ……ハルヒ……」
キョンが、どこか不安げな表情で、心配そうに声をかけてきた。
「キョン……」
あたしはキョンの方を振り向かず、茫然と前を向いたままキョンに話し掛けた。
「キョン……あんた、あの横断歩道であたしに会ったはずよね」
「ああ、確かに俺は……」
「なのにあんたは、あたしに声もかけずに立ち去っていった。あんたはいつもそう。あたしの気持ちを考えもしないで、いつもあたしを振り回した挙句に、あたしの下から去っていく。
そんなあんたの行動に、あたしがどれだけ辛い思いをしてきたか、あんたにわかる? そうやってあたしの想いを踏み躙るなんて許せないわ」
キョンの反論を遮り、前を向いたまま淡々と、あたしはキョンへの思いを語りかけた。
「スマン……」
「でも、あんたは最後の最後には、あたしの下に帰ってきてくれた。だから……」
そう言った後、あたしはキョンの方を振り向き、優しく微笑みかけた。
「今回だけは許してあげるわ」
「ハルヒ……」
あたしの言葉を聞いて、キョンの表情が笑顔に変わっていくのがわかる。キョンの顔を見て、あたしの心にキョンへ想いがこみ上げてきて、涙が溢れてきた。
「こ、今回だけなんだからね」
「あ、ああ、ごめんなハルヒ、長い間待たせてしまって。もう俺は何処にも行かない。ずっとハルヒの傍にいるよ。だから許してくれ」
そう言いながら、キョンは、涙声で強がるあたしを、優しく抱き締めてくれた。あたしはキョンの胸に顔を埋めて啜り泣いた。
長い間、夢にまで見ていた光景、それがようやく現実のものとなった瞬間だった。
どれぐらいそうしていただろう。周囲から拍手が沸き起こった。あたしが顔をあげて辺りを見回すと、いつの間にかあたし達の周りに人だかりができていた。
「熱いぞ、兄ちゃん! お嬢ちゃんをしっかり守ってやんな!」
「お嬢ちゃんも幸せにね」
見知らぬおじさんやおばさんが、口々に声をかけてきて、キョンは驚いたような、戸惑った顔で周囲を見回していた。あたしも顔から火が出るほど恥ずかしくて、つい俯いてしまった。
でも、悪い気はしなかった。あたしが渇望し、追い求めていた幸せを、みんなが祝福してくれているように思えたからだ。
雲の切れ間から顔を覗かせた太陽が、あたし達ふたりを照らし出し、初夏の爽やかな風が、あたしのポニーテールの髪を揺らす。
改変されたこの世界も、あたし達の前途を祝福してくれているように思えた。

 


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