泣き喚いて森に掴み掛かるように、その言葉を即座に現実のものとして当て嵌め、喪失への激情を露にすることのできた者はいなかった。――彼等は放心していた。長門有希までもが、そうだった。
「私は皆様に、謝罪しなければなりません」
森の声はあくまで起伏のない、義務を読み上げる事務員のような代物だったが、其処にどんな感情が眠っているのか、少年には読み取ることができなかった。泣き腫らした痕跡でもあれば、分かり易く彼女の悲しみを察せられたのかもしれない。けれど、保護対象としてきた彼等の前でそんな醜態を晒すような愚を犯す森園生ではなく、また彼女が機関のプロフェッショナルであることを彼らはよく知っていた。

「昨夜のことです。機関内部で、大規模なクーデターが発生しました」
「クー、デター……?」
みくるの鸚鵡返しに、森は肯定を返す。
「我等も長い時をかける間に、一枚岩ではなくなっていました。派閥が絡み合って牽制し合っているような状態が続いていた。クーデターの主犯は、涼宮ハルヒを殺せば超能力から解放される、と主張する者たちで、機関内でも少数派だったのです。問題視されるレベルではなかった。ですが……」
言葉を切って、爪を掌に食い込ませる。
「涼宮さんの力が間もなく消滅しようとしている――そんな時期を契機と見たのか、何時の間にあれだけの人員を抱え込んでいたのかは私どもにも不明です。全く突然のことでした。圧倒的な武力で一時機関は制圧され、応戦した同士達の間に多数の犠牲が出ました。……古泉も、そのときに」
森は語尾を落とすと、立ち上がり、深々と頭を垂れる。軍式の様な洗練された礼だったが、そんな彼女の所作に気を払う者はいなかった。
「古泉の、超能力者達の保全の為に機関は在りました。申し訳ありません」
最後に能面のように動かさなかった面を歪め、
「あなたたちの、古泉を――護れなくて、ごめんなさい」
素の一言を、彼女は吐いた。 


森はそれから、反乱分子は駆け付けた応援によって無事「殲滅」を終えたこと、涼宮ハルヒ及びSOS団に今後危害が加わることはないと約束した。古泉を転校扱いにしたのは、ゆるゆると消滅に移行している涼宮ハルヒの力を古泉の訃報で不安定な状態にし、情報改変能力の発露が起きるのを防ぐためだという補足も行った。
我慢の限界を迎えたのは、堪える様に唇を噛み締め、森の話の一部始終を聞いていた少年だった。それは、おかしいんじゃないか、と。
「転校の処理を取る前に、出来ることはまだあるでしょう!そうだ、ハルヒに全部ぶちまければいい!あいつが望めば古泉は助かるかもしれない。俺が切り札を使えば――」
「それで大規模な情報爆発が発生し、世界改変が起こり、此の世が此の世のものでなくなっても?」
容赦のない、断絶の溝に、少年はたじろいだ。私情より世界を重んじた、あくまで冷徹な響き。森園生がわざわざこの部室にまで出向いた理由を、彼等は遅れて悟った。
彼女は釘を刺しにきたのだ。
「私達が最も恐れているのはそのことです。涼宮さんの力は減少傾向にあった、それを揺さぶり起こせばどんな反動が来るか。力の消滅は『機関』、そして所属の超能力者達にとって悲願でした。古泉一人のために、あなた方は世界を狂わせても構わないと仰るのですか」
絶句した彼に、女は仮面を払って悲しい微笑を刻む。面々から反論がないことを見て取った森は、長居は無用と判断したものだろうか、目を伏せた。
「御無礼を申しましたこと、お詫びします。――お茶、ご馳走様でした」
「い、いえ……」
きゅっと目元を潤ませたままのみくるが、強く森を睨むように視線を押し返す。可愛らしい敵意に、森はまた笑みを消失させ、一礼した。
踵を返し扉の向こうに消えてゆくまで、誰も、何も、言わなかった。



――果たして、森園生の試みは正しかったと言えたろうか。
彼女が述べたのは機関の総意であったにせよ、それを直に、彼等に律儀に報告する義務もなければ、利点も薄かった。恨みつらみを一身に引き受けつつ、古泉一樹を諦めろと勧告する。随分と拙いやり方ではないか?


事実、諦念には早かった。彼は、森とのやり取りに逆に意思を貫く覚悟を固めたように、扉から眼を離した。内心をせめぎ合った迷いもあったろう。だが、彼は古泉の明暗を分けるかもしれぬ貴重な時間を、その葛藤に割かなかった。
出し抜けに、佇んでいた少女を呼ぶ。

「朝比奈さん。過去に飛ぶことは、できませんか」
狼狽を見せたみくるはしかし、少年の一本槍を背負った眼に、屈み気味の姿勢を正した。涙の滲んだ跡を拭う。
「……許可が、下りません。申請はしてるんですけど……ごめんなさい、キョンくん」
「長門、お前は」
静かな、落ち着いてさえいる少年の明瞭な声色に、長門は、自分が想像を超えて衝撃を受け動揺していることに思い至った。森との会話の間もそうだ、内容を分析して然るべきところで、思考を停止していた。
古泉とは酸いも甘いも分け合った親友同士とはいかず、場合によりけりではあるが一時期には煙たがってさえいた筈の少年は、それでも、補充の効かない唯一無二の仲間として古泉一樹を救う気でいる。
「俺は機関の都合なんか知ったことじゃない。あれで止められると思ってたんなら、SOS団も見縊られたもんだ。――うちの我儘な団長様をサポートできる副団長は、古今東西探し回ったってあいつくらいしかいないってのに」
最後まで、あらゆる手を尽くす。長門は、その「何が何でも」の彼の決意に――たったひとつ、縋るものを見つけた。希望、という名の。 

「わたし個人の力で出来る事は少ない。現在は異時間同位体との同期も封じられている」
「……そうか」
「でも、わたしは古泉一樹を助けたい」
少年は、誰もが挫けるだろう其の極地に、力強く笑ってみせた。
「勿論だ。今日は、とんだバースデーになっちまったが――絶対、あいつを助ける。それで、お前のパーティーのやり直しだ」
ハルヒと朝比奈さんのお手製のケーキを全員で食って、古泉を冷やかしながら腹抱えて笑う一日のやり直しだ。誓いのように放たれたその言葉を、長門は永劫忘れないだろうと、思った。 






日の暮れ時が接近すると、鮮烈な色彩を宿す空。昨日の下校の折も、こんな夕焼けに色付いていたことを長門は記憶に照らした。差し込む光の先に、昨日は、夢のように綺麗な雪が降っていた。長門への祝福だと古泉が言った、すぐに融解して儚く水に還る白い結晶に、見守られるようにして別れた。――今日こんな事態に陥るとは、長門自身、予想出来なかったことだった。

ケーキは空気に晒した侭では悪くなってしまうと家庭室の冷蔵庫に速やかに戻され、少年とみくるがそれぞれ去った後、人の減った部室内は閑散とした印象を強めた。賑やかな日常が一人の死にあっさりと転化してしまう、その脆さを、まだ彼女は知らなかった。SOS団の誰かが欠けた事はなかった。ましてや、「付き合いませんか」と交際を申し入れられて以降、限りなく近しくあった少年が喪われることなんて。
一先ずは今もあちこちに飛び込み、教師やら生徒やらを質問責めにしているだろうハルヒの回収に少年が赴き、みくるはパーティーに誘う予定だった鶴屋に事情を釈明に戻っている。部室に残ったのは長門だけだったが、直に合流の手筈だ。実際は、彼らが長門に気を遣い、独りきりの時間を持てるようにと席を外したというのが正しかったのだが。 

長門は、つい先日この部室で交わした台詞の逐一を巡らせた。
『ご一緒してもよろしいですか』
にこり、と笑んで手持ちの書物を長門に掲げて見せた。古泉の微笑は何時の間にかいつでも長門の傍に、当たり前に在るものになっていた。意識せずとも、古泉を捜せば笑顔に出遭う。長門にとっての、安らぎの一つに変わっていた。
『今度、近場に大型の書店が出来るそうなんです。日曜日、予定が合いましたら行ってみませんか?』
あの日重ねなかった掌が、もう、此処にない。取り戻す。取り戻さなければ。けれど、どうやって。
独りの問答が、懐かしい声を呼び覚ます。
『――長門さん』

「――長門さん」

対有機生命体インターフェースにも、人間を模した「鼓膜を震わせる」という表現が可能なら。長門は震えた鼓膜が得た音情報の真偽を、――己の耳を、疑った。 

腰掛けた椅子から、窓へと注いでいた視線を長門は振り向かせる。陽の色に染まる部室。キィ、と軋んだ扉の音。 立つ影は、古惚けた白壁に濃く延びて。
制服姿の古泉一樹が、長門に向け、冗談めかして優しげに微笑みかけた。 


「こんにちは。……幽霊の、古泉一樹です」 

それはまるで、日頃の部室での一ページのように。



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