少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。

「光陰矢のごとし」 といえば、時間は一瞬のうちに通り過ぎてしまうものだからウカウカしてるとあっと言う間になくなってしまうものだ、というダラダラやボヤボヤを戒める意味のことわざだ。

実際若いうちは、時間なんていうものはあまり先見的に考えていなかったし空気と同じであって当然、気にするほどのものでもないと思っていた。

35歳といえば 「年をとった」 と言われたり 「まだまだ若いじゃないか」 と言われたりする微妙なお年頃なわけだが、最近俺も時間の有用性というものを真剣に考えるようになってきた。

きっかけなんて物は本当に些細な物で、ただ近所のパチンコ屋に入り浸っていたら元金割れてるわ、気づくと夜になってるわで、見たかったテレビ番組の終了に間に合わずただただヘコんだことが原因だ。よくよく考えると我ながら、本当にどうでもいい理由だと思う。

ともかく。そんなわけで俺は自分の生きてきた35年間の時間、つまり半生というヤツを振り返ってみる気になったわけさ。

いろんなことがあったよ。なんせ内容量が35年分だもの。

 

オギャーと生まれて義務教育というものを強制的に受けさせられ、厳しい受験戦争を斜めから見るように傍観しつつも、そこそこの県立高校に入学。高校卒業して後、専門学校に入学。様々な人たちとの出会い、別れがあった。甘酸っぱい思いでもあれば、ほろ苦い思いでもある。友人に裏切られたこともあった。200円貸したまま、結局返してもらえなかったりな。

その後、たまたまバイトで入った近所の興信所で探偵という職業を肌で実感。そこでの仕事に強い衝撃を受け、俺にはこの職業しかない!と唐突に思いつき、師匠の下で必死になって探偵作法ABCを学んだのだ。

今は無理だが、当時はしかるべき場所に届けを出してさえいれば誰でも簡単に私立探偵を名乗ることができた時代だったから、俺は師匠の下で学んだ知識経験をフル活用して、独立後がんばった。ガムシャラに働いて働いて、働きまくって。気づくと、そこそこ名の通った探偵になっていた。

思えば、あの頃が一番楽しかった時期かもしれない。余計なことを考える余裕もないような生活だったが、それでも好き勝手やって暮らしてたし、自分はきっと社会の役に立っているんだという抽象的で漠然とした達成感もあった。猪突猛進で、あまり世の中が見えていなかっただけかも知れないが。

しかし、そんなある意味充実していた日々も、突然終わりを迎えることになった。

友人の国木田がいなくなり、朝比奈さんが消えた。

そして、朝倉涼子も姿を見せなくなった。思えば今までの人生で、あれが一番こたえたことだったかもしれない。

そっから俺は、当時住んでいた町が、唐突に色彩を失ったテレビのように思え、夢うつつで泥沼の中に沈んでいくような心持のまま、倦怠感にひきづられてズルズルと生まれ育った田舎に帰ってきた。

それからずっと今まで10年間。惰性といってもいいくらいズルズルズルズル生まれ故郷で探偵をやってきた。

 

今の生活に不満足があるわけじゃない。今は今でいろんな楽しみや仕事の遣り甲斐も感じているが、なぜだろう。

あの日。10年前まで感じていた日々に比べれば、今はやけに目の前のガラスが曇っているように思える。

何がいけないとか、何がどう変わったということもない。同じことをやっているだけの日常だ。毎日毎日、あの頃となにも変わらない生活を営んでいるつもりさ。

なのに。最近、ふと気づくと、10年前のうら若き青年時代を回顧していることがある。

確かにあの頃には、今にない物がたくさんあったことは認めるが……

 

 ────また。いつか。プラネタリウムに連れて行って

 

あの引越しの日のワンシーンが、今でもまざまざと脳裏に浮かぶことがある。

あの町に戻りたいとは思ってないのに。まだ俺は、あの頃に未練があるんだろうか。

いや。これは年のせいなんだ。年とったら、昔の栄光ばかり追うようになりがちだと言うし。悔しいが、これはきっと年のせいなんだ。

 

 

そんなことを悶々と考えている俺の元へ、一通の封筒が届いた。

それはキョンと涼宮ハルヒの結婚式の案内状だった。

不意に、俺の視界の色彩が一段強くなったような気がした。

 

 

 

朝早く起き、ダラダラとした足取りで家を出た俺は、結婚式の招待状を手に新幹線に飛び乗った。

正直いってキョンはまだしも、涼宮ハルヒの顔がうまくイメージできなかった。あいつ、どんな顔してたっけ。実際顔を合わせたことがある時間はちょっとだけだし、ずいぶん昔のことだ。覚えていなくて当然か。キョンのヤツはきっと苦労人の顔になってるんだろうな。

などと考えながら列車内でペットボトルの茶を飲み窓外の風景を見ていると、またくらくらと眠気がやってきた。

 

 

「涼宮さんもですが、彼もなかなかの頑固者ですね。まったく。過去の悲恋を振り切るのに10年もかかったのですから」

式場の前で10年ぶりに出会った古泉一樹は、俺の脳内キョンの顔よりもさらに苦労人っぽくダンディーにふけていた。よくは覚えてないが、あのわがまま大王の腰巾着なんだ。そりゃ苦労もするわ。

聞くところによれば、古泉はあれから10年間、ずっと涼宮のお世話係をやってたらしい。なんという暇はヤツ。

「でも、それももうお役御免です。肩の荷が下りた思いですよ。これからは、彼女のお世話は旦那さんに全て一任することになりましたので」

晴れ晴れとした笑顔で、古泉は嘯いた。

「少し、寂しい気分でもありますがね。一人娘を嫁に出す父親の心境とでもいったところでしょうか。でもこれからは、僕は僕だけの人生を歩めるわけですし、涼宮さんは涼宮さんなりの幸せをつかんだわけですから。非常におめでたいことだと思います」

お決まりのにやけ顔で、古泉はそう言った。

ここだけの話、お前本当は、涼宮のこと好きだったんじゃないか? なんだかんだで14年間もあのわがまま女のお世話してきたんだろ。常人に勤めきれる役じゃないぜ。

「さあ。それはあなたのご想像にお任せしますよ」

それだけ言うと、古泉は俺の肩を軽く叩き、また後でお会いしましょう、とホールの方へ去っていった。

 

 

式場内に入る前に受付で芳名を書き、式場の職員らしき姉ちゃんにご祝儀を手渡した。ちなみに祝儀袋の中身はうちの近所のスーパーマーケットの商品券だ。どうせここにある祝儀袋の中身はどれを開けても似たり寄ったりの金額のピン札が入っているに違いない。だからこそ、是非この俺のご祝儀をジョークとして受け取っていただきたい。ひとりの昔なじみからの、ささやかな和みをプレゼントフォーユーだ。

会場に入ると、既にたくさんの人が集まっていた。あ、言い忘れていたけど、今日は洋式の結婚式場ね。

なんだかごくごく普通のリーマンっぽい人から、見るからに社会的地位を持っていそうな人まで様々だ。おそらく普通っぽい人はみんなキョンの来賓で、偉そうな人はみんな涼宮サイドの『機関』の人間なんだろう。

『機関』という言葉が妙に懐かしくて、口元がゆるんだ。

しかしまあ……見るからに知らない人ばかりだ。当然といえば当然だが。

 

ぶらぶらと自分の指定席を探していると、背後から誰かが俺の肩を叩いた。

振り返ると、そこには見覚えのある女性が立っていた。見覚えはあるのだが、それが誰なのかイマイチ明瞭でない。一応候補者の姿が頭に浮かんだが、その人物と同一人物であるという確信はない。

確信はないが、もしかしてお前、長門か?

「ひさしぶり。やっぱり、谷口さんだったのね」

どことなくあどけなさの残るショートヘアーの女性は、上機嫌の小動物を思わせる表情でくすりと笑った。

「全然かわってないんですもの。すごく分かりやすかった」

心底うれしそうにくすくす笑う長門を見て、俺はなんと返答してよいか分からず頭を掻いた。

 

俺の記憶には10年前の長門のイメージしかないものだから、それと今の長門との間にある大きなギャップが横たわっており、どうにも信じられず困惑していた。でもまあ何つぅか、10年も経つんだ。相変わらず小柄な童顔だが、これはこれで成長しているということが分かって少し安心したような気分でもある。

「どうしたの?」

いや、なに。俺の頭の中の17歳の長門を27歳現在に変換するのに手間取っただけだ。もう大丈夫。慣れたから。

「女性にむかっていきなりそれはないでしょ。でも、ふふふ、そういうところも、本当に変わってない」

そうか。最初こいつとの対応に困ったのも、これが原因だ。昔の長門はシャイなところがあってあまり積極的にしゃべったりしなかったし、聞こえるか聞こえないかのギリギリラインの音量だったが、今の長門(大)はそんな在りし日のシャイガールを思わせない普通の大人である。

お前は変わったな。と苦笑まじりに呟き、俺はようやく見つけ出した自分の席に腰を下ろした。

俺の席は、長門の席の隣だった。

 

「私ね。今度、独立して正式に私立探偵をやることになったの」

両手の指を絡ませながら照れくさそうにそう言う長門の横顔が、なんだか輝いて見えた。そう言えばこいつ、小説家になってプロレスラーになって探偵になるのが夢だって言ってたもんな。ドリームカムトゥルーってやつか。

小説家の方はどうか知らないが、この外見じゃプロレスラーにはなれていないようだ。当然か。

「さすがにプロレスは無理だったわ。残念。でも小説家の方は、実はまだあきらめてないんだ」

長門は少し照れたふうに肩をすくめてみせた。

本当によくやるよ。こいつは。俺はテーブルの上にあった水を一口飲み、嬉しそうに微笑む隣人から目をそらした。

こいつを見ていると、余計なことばかり思い出される。

 

「ねえ」

なに?

「それで、いつ連れっててくれるの?」

どこへ?

「どこへって。プラネタリウム。忘れたの? もう10年も待ってるんだけど」

ああ……。

悪い。

 

 

 

キョンと涼宮ハルヒの式は、何と表現したものか、非常に無秩序なランチキ騒ぎだった。

最初の方はまともで静粛で厳かに粛々と式次第に則って進行していたのだが、いかにも機嫌の悪そうな涼宮が途中で 「つまらない!」 とわめき始め、司会や新郎が必死になだめようとするも、一生に一度の花嫁衣装を振り乱し、大股でテーブルの上に足をかけてやたら楽しげに歌い始める始末。ヤケ気味の古泉もそれを援護して騒ぎ始めるから手のつけられない騒ぎになってしまった。

とうとう周りもそれにつられてテーブルクロスは剥ぎ取られ、声が飛び交う皿も飛ぶ。歌う踊るは序の口で、酔ったいきおいで寝ころぶ唸る。もう指定席なんて関係ない。椅子はあるけど立席状態。いやいや。タガが外れた群衆って面白いね。

新郎新婦の生い立ち、なんていう結婚式でありがちな退屈きわまりないウ○コ映像を延々と見せられるんだろうかとウンザリして来たんだが、これじゃ映像紹介どころか花束贈呈もありやしない。俺個人としてはしんみりしたのより、こっちの方が健康的でダンゼン好みだから、まったく不満はないがね。あはははは、もっとやれ!

一部泣きそうな顔したスーツ姿の人たちが退室するのが見えたが、そんなの関係ねぇ。新婦がノリノリで新郎は諦めているんだ。誰が迷惑することがあろうか。あ、式場の人が迷惑するか。まあいいや。一生に一度の恥のかきすてだと思えば、キョンのヤツも気が楽になるだろう。たぶん。

それよりも俺が驚いたのは、涼宮ハルヒは10年前に比べて年相応に成長を遂げているにもかかわらず、キョンの野郎は10年前とほとんど変わらない外見だったということだ。遠目に見ただけだから気づかなかっただけで、近くでみたらそれ相応という顔立ちになっているのかも知れないが、あいつは元からフケ顔だったからあまり違和感がない。

 

真っ赤な顔をして古泉が 「マッガーレ」 と言いつつへし折ったスプーンを投げつけてきたので、俺も日本酒というものをグイグイやって真っ赤な顔化し、「シネ」 と言ってスプーンを投げ返してやった。

聞くところによると涼宮ハルヒは下戸らしいのだが、素面のまま 「やあ」 「とお」 「てやあ」 「楽しいわ!」 とわめき散らしながら、酩酊した犬のように式場内を走り回っていた。よほど楽しいわ!と思っているのだろう。とんでもない花嫁である。

とうとう飲むだけでは飽きたらずリバースし始めた者まで出てきたので、そろそろついて行けなくなった俺は、皿の上からエビの尻尾をつかんでこそこそと式場から外へ出た。

 

 

ロビーに行くと、戦場から撤退した負傷兵のように式場から逃げ出してきた来賓たちが粛々とした面持ちでゆったりくつろいでいた。そうだよな。あれだけ騒いでいたら、まともな一般人はついていけないよな。

などと思いながら客用ソファーに腰をかけると、となりにキョンが座っていることに気づいた。

お前、新郎がこんなところで何をしているんだ……?

「さすがにあのノリにはついて行けなくなってな。しばらく休憩だ」

情けない顔でキョンは、後ろ頭をかきながら頼りなげに声をもらした。

新婦を置き去りにしてビバークとは、いい根性をした新郎である。お前、そんな体たらくでこれからの長い夫婦生活を乗り切っていけるのか?

「……そう言われると心配になってくる」

そんなので、どうして結婚するなんて気になんてなったんだろうね。独り者の俺にはそのへんの理屈が分からん。

「なんでだろうな。真面目に考えると余計に分からなくなってくる。どうして俺、ハルヒと結婚する気になったんだろう」

知るかよ。成田離婚はやめとけよ。偶然空から落ちてきた雷が頭上に直撃しないとも限らないぜ。

「でもな。滅茶苦茶なヤツではあるけど、あいつと一緒にいると、楽しいんだよな。疲れるけど、でもそれも含めて。10年前のあの事で沈んでた俺をずっと励ましてくれていたのは、あいつなんだ。ハルヒがいたから俺は立ち直れたし、ハルヒがいたから俺は自分を見失わずに済んだ」

俺は持っていたエビの尻尾にかじりついた。だんだんノロケてきやがった。

「あいつは俺を必要としてくれて、ずっと俺を励ましてくれたんだ。今度は俺が、あいつの傍にいて安心させてやろうと思ったんだ。ただ、それだけだ」

キミも僕もお互いが必要なんだから一緒に仲良くいましょうね、ってことか? ああ、エビうめぇ。

「俺、何かおかしなこと言ったか?」

いや。真面目な顔して愛は地球を救うとか言ってみたり感涙してみたりしてる連中よりはずっとマシなんじゃね? まあ独り者の俺が言ったって説得力はないが、結婚なんてのは忍耐だよ。耐えて忍んで自分と相手との距離を保って相互に手をとりあって生きていくことなんだ。だからお前、あれだよ。耐えて忍べなくなった連中が浮気したりだな、俺たち探偵のところへ相談にきたりするんだよ。

だから、最初から理想ばかり語ってない分、救いはあるんじゃね? まあ最初から理想の理の字もないって言うのも、寂しい話だが。

「理想ならあるさ。俺、ハルヒを幸せにしてやるつもりだ」

式場の方向から、なにやら怒声をあげながらブーケを振り回してこっちへ駆けて来る涼宮ハルヒの姿が見えた。ついに新郎がいなくなっていたことに気づいてしまったのか。

気づくの遅くね?

「やれやれ。またさわがしいのに見つかっちまったな」

手のかかる愛娘のかわいいイタヅラを嗜めるバカ親のような顔で、キョンはソファーをやおら立ち上がった。

「朝比奈さんにも、あいつのことよろしくって頼まれちまったしな」

キョンは横目で俺に微笑みかけ、ブーケの花束をひっちゃかめっちゃかにしてバラまきながら突っ込んでくる涼宮ハルヒの方へ歩き出した。

ま、せいぜい頑張れよ。忍耐だぞ、忍耐。慣れるより慣れろだ。

「また。10年後くらいに会おうぜ」

それも悪くはないな。と思った。

 

 

結局、式は当初の予定を派手に座礁させた挙句、会場全体をメチャクチャにかき乱し、半熟卵をダンボール箱に入れて振り回したような感じにブチ撒いて、疲労と騒乱の坩堝のうちに終了した。それでも、なかなか楽しい結婚式だったぜ。年に一度くらいなら、こんな式に出席するのもいいかもしれない。

「またあなたとは、どこかでお会いしたいものです」

と言って、帰り際に古泉が俺に引き出物を手渡してくれた。

そうだな。10年に一度くらいならそれもいいかもしれない。

俺の憎まれ口に苦笑する古泉に背を向けて会場を出た俺は、帰路の途中で引き出物を開けてみた。中には白い丸皿にまじって、うちの近所のスーパーマーケットの商品券が入っていた。

 

 

「谷口さん」

目の前に、引き出物の袋を持った長門が立っていた。

やあレディー。今日はよく会うね。

その引き出物の箱開けてみなよ。中にさびれた商店街の商品券が入ってるんだぜ。笑っちまうよな。

「今、ひま?」

チョコレートを買ってとねだる女の子のような表情で、長門がこっちを見ていた。

 

 

見慣れない町並みの中を、長門に連れられて歩いていた。しかし、なぜだろう。前にこの通りを歩いたことがあるような気がする。

あの角を曲がると、左手にコンビニがあったはず………って、ないか。そりゃそうだよな。初めてくる場所なんだから。

でも、なんでだ。初めてくるはずの場所なのに、ずっと前から見知っている所のような気もする。

こんな風景は見覚えがないのに。何故かここの空気は俺の脳漿を泡立てる。

「もう少しだよ」

俺の隣をてくてく歩く長門が、なにがおかしいのか、笑いをこらえるように目を細めて先を急ぐ。

「ここらへん。もうずいぶん変わっちゃったから」

やけに古びたタバコ屋の前を通りすぎる。あれ、今のタバコ屋……。俺、どっかで見たことがあるような。

「この町も。3年前に市町村合併で町名が変わって以来、ずいぶんあちこちが変わったから」

高架下を抜けて電柱を直角に曲がったところで、俺ははっとした。

 

ここは。

あはは。なんだ。何を考えてたんだ、俺は。

バカじゃねぇの? さっさと気づけよ。

 

 

「ようこそ。長門探偵事務所へ!」

満面の笑みで、長門は俺の前で仰々しく両手をひろげた。

そこには、小汚いボロっちい、バカみたいに薄よごれた木造建築二階建てのアパートが建っていた。

しばらく俺は、そのオンボロ建築を呆然と見つめていた。

なんだよ。まだ取り壊されてなかったのかよ。

10年前となにも変わらない光景が、そこに残っていた。

 

10年間。ずっと俺の頭にかかっていた靄が晴れ、すーっと光がさしこみ、セピア色だった油絵が3DフルCG画像に移り変わっていくように、リアルに厚みが増していく。

ちょっと笑えた。

長門。お前。まだここにいたのかよ。

お前だったらこんなところに拘らなくたって、もっといいところにだって事務所構えられるだろうに。50階建てマンションの最上階とかさ。

「そんなのイヤだよ。私には、必要ないよ。そんな事務所。私はここがいいの」

得意げな顔で、長門は錆びかけた階段を駆け上った。

「おかえり、兄貴」

 

 

足元の地面に、うっすらと見覚えのあるシミが残っていた。

そうだ。俺はここで、10年前長門お握手したんだ。トラックの狭い荷台の上から、俺はあいつに手を伸ばしたんだ。

「長門探偵事務所はまだ私一人しかいないから、正職員を随時募集中なんだ」

アパートの二階から、長門が俺に向かってまっすぐ手を伸ばしていた。

 

「給料は基本歩合制だけど、まかない付だよ」

俺に向かって差し伸べられた手が、ふらふら2,3度揺れた。まるで俺がその手を、握り返すのを催促しているように。

「コーヒーも、好きに飲んでいいよ」

俺は、なんだかその光景が、まるでブラウン管の向こう側の出来事のように思えて、すこし苦笑した。

「だから……だから、また一緒に………」

 

 

階上の長門が、ふるえるような目で俺を見つめていた。

馬鹿野郎。泣くようなことじゃないだろ。まったく。なんか俺が泣かせたみたいで、世間体が悪いじゃないか。

考えたら俺、今朝からずっと動きっぱなしなんだよな。新幹線降りてから式場まで歩きだったし式場ついたら着いたで新婦が暴れだすし、ようやく式が終わったと思ったら、今度はお前に連れまわされて。こんな小汚いところまで引っ張ってこられて。

ああ、疲れた。俺は客人としてここに来たんだ。コーヒーの一杯くらい出しても罰はあたらないと思うぜ。

俺は飄々とした足取りで階段を昇っていき、ぶらぶらしている長門の手をとって部屋のドアノブを握らせた。

俺に手を伸ばしても戸は開かないぜ。ドアノブをひねらないと扉っていうものは開かない仕組みになってるんだ。

うん。と長門は小さくうなづいた。

 

「また、昔みたいに2人で探偵事務所をやろう」

昔となにも変わらない大きな瞳を輝かせ、長門は前髪をかきあげた。

昔みたいにとは言っても。昔とまったく同じようにとはいかないだろうがな。

「でも、いいじゃない。それでも。時代は変わっても、変わらないものもあるでしょう」

その通りだ。と思ってショートカットの後に続いて敷居をまたいだ。

そうだな。このアパートだって10年前と変わらずあったんだ。こんな慌ただしい世の中にだって、ずっと変わらないものがあっても、いいよな。

 

10年前のトラックの荷台から、俺の中の時間はずっと停まっていた。それはこの町に時計を置き忘れてきちまったからだ。その置き忘れていた時計を、ようやく今、取り戻したように思える。

おっと。時計なんて小洒落た言い回しは、俺の柄じゃないな。端的に言えば、畢竟俺はずっとこの町に未練を残していたんだ。

厭なことのあった後だったからもうこの町にはいられないと思いここを離れたが、今なら分かる。それは間違いだったんだな。

俺はこの町に愛着を持っていたんだ。辛いことや苦しいことがあっても、そんなの比べ物にならないくらいの居心地の良さを。

だが俺は意識上でそれに気づかず、辛いことがあったからって、この町を捨ててしっぽ巻いて逃げちまった。まったくもってチキン野郎だよな。チキン南蛮だ。

長門にも、ずいぶん迷惑かけちまったようだ。

 

「ここが玄関。少し立て付けが悪いから気をつけて。こっちがトイレ。それで、ここがキッチン」

部屋に上がった長門が逐一部屋の中を紹介していく。知ってるよ。そんなこと。

事務所の中も、昔と同じままの姿で、昔と同じままのにおいだった。

過去の世界へタイムスリップをしたような気分になり、俺は引き出物の袋を床へ放り出して部屋の奥の探偵椅子に腰掛けた。

「ダメだよ、そこはもう、私の席なんだから!」

ぷりぷり怒りながら湯飲みを提げた長門が台所からやってきた。

そう言うなよ。10年に一度くらいは座らせてくれたっていいだろう。長門、お茶。

「私が社長なのに……まあ、いいか」

 

 

部屋の隅につんである本の山に目をやると、ずいぶんたくさんの法律関係の書籍があることに気づいた。

お前、あんなに法律の本かき集めて、どうすんの? 弁護士にでもなるつもりか?

「法律に疎いようじゃ、探偵なんてやっていけないじゃない。兄貴、そのへん大丈夫なの?」

訝しい物を見る目を向けるなよ。俺だってこの仕事やって長いんだ。法律には詳しいんだぜ。当たり前じゃないか。

「なんだか昔から、兄貴って頭が悪そうに見えてたんだよね」

……もしやもしやと思っていたが、この野郎、とうとう口に出して言いやがったな。しかも本人を目の前にして。

いいだろう。やってやるよ。こうなったら法律合戦だ。そっち系の知識で勝負してやんよ。なにがいい? しりとりか? 山手線ゲームか? モノポリーか? 勝負形式はなんでもいいぜ。

「モノポリーって……。ずいぶんな自信だね、兄貴。いいよ。法律学科首席だった私がお相手してあげる」

面白いじゃないか。負けた方は、罰ゲームな。

「いいよ。罰ゲームくらい。負ける気はないから。勝負の方法は兄貴に任せるよ。なんでもどうぞ」

言うじゃないか。ますます面白い。それじゃ、こうしよう。

勝負はかけっこ! この先の公園に先に着いた方が勝ちな! よーいどん!

「あ! 兄貴ずるい!!」

 

 

 

 

ばたばたと慌しくアパートを飛び出した谷口と長門は、つかみあったまま夜の路地裏を駆けて行った。

半開きの部屋の扉が、風にゆれてぎいぎいと軋んでいる。

部屋の棚に立てられていた写真立が、かたりと倒れた。

誰もいなくなった部屋の中で、蛍光灯の明かりを受けながら、引き出物の袋がかさりと音をたてた。

 

静かな夜だった。

 

 

 

 

 ~谷口探偵の事件簿 完~


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