長門有希は、疑っていなかった。どれだけ人が脆弱であるか、どれだけ人が宇宙の知性から育まれたヒューマノイドインターフェースとは根本から異なっていることを知っていても。
また明日に、と微笑んだ古泉一樹の微笑を。
誕生日。欣快の至りとなるであろう、愛すべき時間が訪れるだろうことを、少しも。





「……『転校』……?」
ハルヒの、呆然とした呟きが、文芸部室に反響する。無理もない、凡そ信じられないような出来事が、感知しないところで巻き起こっていたことをたった今、知らされたばかりなのだから。――それでも、ハルヒの立ち直りはまだ早かったと言えただろう。自失が怒りに取って代わるのは言葉を理解した上での反抗だ。認めない、という一心の感情。
「馬鹿言ってんじゃないわよキョン!古泉くんがそんな急に転校なんかする訳ないじゃない!古泉くんはSOS団副団長なのよ!?」
「俺にも詳しい話は分からん!ただ、あいつが学校にいないってのは確かなんだ!学担に確かめても答えは同じだった。嘘も冗談でもない、古泉は――」
「どういうことよ!?だって、今日は有希の…」
飾り輪の掛かった窓、クラッカー、色とりどりの菓子、シャンパンを模したドリンク、それからホールケーキ。午前授業で学校が終了すると同時に、ハルヒが家庭室の冷蔵庫から引っ張り出してきたそれは、昨晩ハルヒがみくると共同制作したものだった。机に並べられたそれらを眺める長門には、二人の罵り合いのような叫び声が遠かった。昨日長門に「楽しみですね」と微笑んでいた古泉に「転校」をするような素振りはなく、また古泉一樹という少年の人格を鑑みるなら、別れの一言もなくSOS団員全員の前から姿をくらますなどということは断じて有り得ない。
有り得ない事が、起きてしまったのだ。 


長門を痛ましげに見たハルヒは、唇を引き結び、頬を憤りに上気させて走り出した。文芸部室の扉を蹴破る勢いで廊下に飛び出す。少年が慌てて追うも遅い。
「ハルヒ!」
「あたし、直接教師に問い質してくるわ!」
足音が遠ざかるのは早かった。もう疾走したところで、ハルヒを振り向かせることは叶わないだろう。それくらいの計算は、振り回されている身である少年にも良く分かっていたのだ。

「……くそ、どうなってやがる…!」
伸ばした腕を下ろし、吐き捨ててパイプ椅子に苛立たしげに座り込んだ少年の傍では、みくるが既に泣き出していて、啜り上げながら涙で濡れたハンカチを握り締めている。最初に古泉がいなくなったことに気付いたのは、この朝比奈みくるだった。クラスメートの女子が目をつけていたらしい美形が転校したとかどうとか、という話を聞いたみくるが、まさかと友人の鶴屋に相談したところ、彼女は単身一年九組の古泉が所属していたクラスに飛び込んでいき――ひっ捕まえられた情報は、噂と寸分違わなかった。
携帯にかけても、「おかけになった電話番号は――」と機械的な音声が流れるだけ。自宅突撃をするにも、彼等の内の誰一人古泉の住まいを知らなかった。長門なら調べられるだろう、という目論見も、彼女が首を横に振ったことで泡に帰した。
長門には、規制プログラムが掛かっていた。情報統合思念体に課せられたそれは、暴走を事前に食い止めるための予防策であり、統合思念体との継続的な接続を遮断するものだ。残るのは長門が持つ単体としての能力だけだったが、その力を駆使しても古泉の足跡を追うことは不可能だった。
長門は自分の能力が一般人により近くなることを、否定したり嫌悪したりはしていなかった。寧ろ、誇っていたと言ってもいい。けれど、それも万事が上手く進んでいた、平穏な毎日であったからこそだ。
非常時に役に立たない力への歯痒さを、まだ長門は出力できないでいる。古泉がいたら微笑んで、大丈夫ですよと頭を軽く撫でていただろう一幕を、長門は望んだ。
それが恋しいということなのだと。告げたなら彼は、嬉しげに再び笑って見せたことだろうに。 




―――重苦しい沈黙が、室内に下りた。誰も予感を口にはしないだけで、想定していた。打つ手のない現状。

唐突に、乾いたノックの音が木造の扉を震わせて、着席し頭を抱えるようにしていた少年はびくりと跳ね上がった。みくるも「ひっ」と小さな声を上げる。長門は無言。三者の視線が、廊下と文芸部室を隔てる一枚の遮蔽に向けられる。
開いた先から、爽やかなスマイルを張り付けた副団長職の少年が、「遅れてしまってすみません」と顔を出す――そんな錯覚に、全員が囚われた。期待を破ったのはやはり、外で待機していたそのノックの主の声だった。
「失礼を、致します――よろしいですか?」
不吉な想像を現実に解き放つ使者の訪問は、間もなく。女性の形をとって現れた。
『機関』に所属する古泉一樹の上司、森園生。


何時戻るか分からないハルヒの事を気にしながらも、彼等は唯一の手懸りであろう女性を室内に招きいれた。みくるがお茶を出すのに、森は丁寧に腰を下り、謝辞を述べてから口をつける。少年は、そんな森の姿に以前世話になっていた折とはまた違った感触を受け取った。消沈している、というべきか、疲れ果てたと呼ぼうか、そんな具合だ。堂々とした物腰と熟練した技量にて、数多くの危機においてSOS団に助力していた彼女は、明らかに精力を薄くしていた。 

「よく此処まで入って来られましたね……いや、そんなことはどうでもいい。単刀直入に聞きます。説明を、頂けますよね」
少年は息を吸った。
「――古泉は何処ですか」
焦りを隠しもしない、ただ必要な事項を得ることのみを優先した真摯な問い。森は手の中の茶を机上に戻し、疲労の色濃い眼を真っ直ぐに固める。
「古泉一樹は、死にました」

森はオブラートに包むことも、抽象的な言い回しにくるむこともなく。頬の筋肉を硬直させ、眼を見開いたままの彼等を見返し、ただ。
「――死にました」

まるで彼女自身が死者であるかの様な、虚無的な声が落ちた。憐れみも悼みも、削ぎ落としていたそれに、長門はまた一つ未知の感情をそのヒューマノイドの心に得た。古泉の、昨日の帰路での笑みを幻視するままに。――長門有希は、茫然と、恐怖していた。


古泉一樹が、死んだ。


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