ズウゥゥゥゥゥン…!
 両足を失った神人が大地に横たわる。もがきながら倒れたその巨体は、ビルを押し潰した質量が嘘のように、サラサラと粉雪が散るが如く霧散していく。
「……ふぅ…これで終わりですね」
 主を失った空間は終わりを迎える。陰鬱とした灰色の天井にヒビが入り、辺りを照らす光が淡い燐光から本来あるべき太陽へと切り替わっていく。
 空間の終わりを満たすものは、二つの光が混じり合う幻想的な輝き。
 その一連の現象が終わると、全てが夕焼けに染まった元の現実世界へと戻っていった。
 ……神人の相手をすることはいつまでたっても好きになれないけれど、この瞬間だけはいつ見ても美しいと思った。
 まるで世界が生まれ変わったような、この瞬間だけは……。
「…………」
 戦いの熱を冷ますように幻想的な光景の余韻に浸っていると、無粋な誰かの声によって現実に引き戻された。
「古泉ぃ~」
 ……っと。
 恍惚とした時間を台無しにされ、少しだけ恨めしい気持ちで振り返ると、そこに立っていたのはスーツ姿の森さんだった。
「ちょいと話があるから一緒に来なさい」


 森さんに連れてこられた場所は駅前ビル街の中にある人材派遣会社のオフィスビル。一見、普通のオフィスビルに見えるが、表向きの人材派遣会社という顔の裏には、機関の重要拠点というもう一つの顔も持っていた。
 ちなみに僕の表向きのバイト先でもあり、森さんの勤め先でもある。
 僕は今、そのビルの会議室で森さんと二人で向かい合って座っている。
「ま、取り敢えずコレを読んで」
 そう言って渡された物は一枚の書類だった。
 書式も判も機関の正式なもので、涼宮さんの監視任務を命じられた時に受け取った辞令書のそれと同じものだ。
「……ん?」
 そして、そんな正式で堅苦しい書類に似合わない単語がそこにはっきりと書かれてあった。
「……恋愛禁止令?」
「そう、アンタ恋愛禁止ね」



『恋愛禁止令 ~古泉一樹の暴走~』



「…ぷっ」
「…くっ」
「あははははははは」
「うふふふふふふふ」
 僕と森さんの笑い声だけが部屋に響く。
 …またまたご冗談を。
「恋愛禁止令なんて命令、聞いたことないですよ?」
 こんな書類まで偽造して…全く、質の悪い悪戯を考えますね。
 しかし、そんな僕の思いとは裏腹に、森さんは微笑みを浮かべたまま、きっぱりとこう言った。
「言っとくけど、冗談じゃないわよ?」
「…………」
 むぅ…流石は森さん、完璧な微笑だ。まるで本気で言っているような……って。
「本気なんですか!?」
「本気も本気。チョーマジ」
「何故!?Why!?」
 こんな理不尽かつ意味不明な命令があるものか!
「……言わなきゃ分からない?」
 森さんは少し残念そうに溜め息を吐く。
「アンタが女の子の尻を追い掛けてたせいで、何回閉鎖空間が出来たと思ってるの?」
「女の子の尻って……」
 そんなことをした覚えはありません!…と続けようとすると、森さんが別の書類を読み上げ始めた。
「先月末、涼宮ハルヒと彼が深刻な口論になっていた際、仲裁役をすべきアンタはクラスの女子の掃除を手伝い、その後三十分の談笑。結果、アンタが部活に出る前に二人は喧嘩別れ。閉鎖空間が発生」
「あれは…クラスの人間関係を円滑にするために仕方がないことですよ」
 仮にも僕が就いているのは潜入任務なんだ。周囲の人間に怪しまれる訳にはいかない。
 ……もちろん、女の子の頼みを断われる訳がないという本音も多分に混じるけど。
「そうかもね…でも、まだあるわよ?今月の頭、彼の友人の一人が作成した『フルカラー!全俺が選ぶ北高美少女ランキング~今年度決定版・詳細データ付き』を彼と二人で閲覧している場面を涼宮ハルヒに目撃され、その結果、閉鎖空間が発生」
 ……あれは失敗でした…涼宮さんがランク外ならともかく、まさか『要注意人物・性格編』にて大々的に取り上げられているなんて……。
 ……あの時は恨みましたよ、谷口君。
 言い逃れが出来ないミスを突き付けられて言葉を失っている僕に、森さんの更なる追い討ちが入る。
「極め付きは先週の土曜日。不思議探索にて彼と二人組になったアンタは逆ナンされた女子大生と喫茶店にてお茶。その現場に涼宮ハルヒが踏み込んできて修羅場化。その結果、大規模な閉鎖空間が発生」
「…………」
 しかし、男としてあの状況で断…あ、すいません。なんでもないです、はい。だから睨まないで下さい。
「全部間違いないわね?」
「……はい」
 ……全て僕が書いた報告書通りだ。こうして並べてみると、確かに迂濶な行動が目立つように思えるけど…。
「しかし、偶然そういう出来事が重なっただけですよ」
「偶然とかそういう問題じゃないの。心構えの問題よ」
 ……む。
「独り身の状態でこんな体たらくなのに、恋人なんか作ったらまともに任務をこなせるのかしらね?」
 こなせます…とは断言出来ないけれど…。
「だから現状ではアンタは恋愛禁止。女の子に現抜かす暇があったら、もっと真面目に任務に集中しなさい」
 そう言うと、森さんは反論は許さないとばかりにファイルを閉じて帰り支度を始めた。
 直属の上司にこんな態度を取られては、僕にはこう言うしか選択肢はなかった。
「……はい、分かりました」
 しかし、この時の僕は森さんが僕を戒めるためだけにこんなことを言ったのだと思っていました。
 …そうですね。いくらなんでも本気でこんな命令を出す訳ないですし、少し自重していればすぐに撤回されますよ、きっと。
 …しかし…次の日になって、僕は自分の認識が誤っていることを知るのでした。


 翌日の朝、1年9組の教室でそれは発覚した。
 朝のホームルーム前の和やかなムードに一人まったりとしていると、クラスの女子生徒が話し掛けてきた。
「古泉君、もう出てきて大丈夫なの?風邪って聞いたけど?」
 …風邪?…と、そうでした。
 昨日は珍しく授業中に閉鎖空間へ呼び出されたため、風邪による早退ということになっていた。
「えぇ、お蔭さまで。一日寝たらすっかりよくなりましたよ」
「そうなの?……じゃあ大丈夫だよね?」
 彼女は少し躊躇うように深呼吸してから、潤んだ瞳で囁いた。
「日曜日に映画行かない?……二人で」
 二人で、の部分を小さな声で言った彼女の顔は、ほんのり赤く染まっている。
 …これは…高校生活10ヶ月目にして最大級のチャンスではないでしょうか?
 …少し自重しようと決めたばかりだけど…こんなチャンスが二度もある訳がない…それに映画に行くぐらいなら…。
 と、そこまで考えたところで、バイブレーション設定にしていた携帯に着信が入った。
ブゥゥゥン…
「っと、失礼。メールです」

カチャ

差出人:森園生さん

もちろん映画なんか行っちゃ駄目よ☆
恋愛禁止令、忘れずにね☆

 思わずガバッと立ち上がり辺りを見回す。
 …どこだ?どこから見ている?
「こ、古泉君?」
 ……いや…落ち着け、冷静になれ、古泉一樹。森さんが校内にいる訳がないじゃないか…ということは…。
 ぐるっとクラスの面子を見回す。そこにはいつもと変わらない教室の風景しかないが…。
「まさか…!」
 この中の誰かが僕を監視をしているのか?
「……このタイミングでメールを受けたことにより、僕はクラスメート全員を疑わなければならない…くっ、僕を疑心暗鬼に追い込むつもりですか…」
「古泉君?どうしたの?いきなり一人でブツブツ言って…」
「…なるほど、人の心を利用した巧い作戦ですよ、森さん…」
「……あの、まだ調子悪いなら日曜日は…」
 ……彼女はどうでしょう?
 声を掛けてきたクラスメートをキッと睨む。
「ひっ…!」
 …嘘を吐いている様子はない…しかし、もし彼女が訓練を受けた人物なら全てが罠だということに…。
「あ、あたしそろそろ戻るね?日曜日のことは忘れて、じゃあ」
「あ…!」
 ……しまった……。
 彼女はこちらを振り返ろうともせず、足早に自分の席へと帰っていく。
 …何をやってるんだ、僕は…。
 自分に好意を寄せてくれていた女の子を疑うなんて…どうかしてる。
 逃した魚の大きさに呆然としていると、再び携帯が鳴った。

カチャ

差出人:森園生さん

自爆乙☆
考え過ぎよ、おバカさん☆



プチッ



 こめかみの辺りで、何かが切れる音が聞こえた。
 ふつふつと胸の奥から熱いものが沸き上がってくる。
「……ふ…ふふ……ふふふふふ…なるほど、本気で僕に恋愛させないつもりですね…」
 ……いいでしょう、森さん。戦争です。
 少しはおとなしくしてるつもりでしたが、そちらがその気なら僕も本気になりましょう。
 僕はあなたの包囲網をくぐり抜けて、潤いある高校生活を送って見せます。
 そして、監視任務も完璧にこなして、恋愛禁止令など無意味で不要なものだということを証明して差し上げましょう。
「見ていろ、森さん……いえ、森園生!」
 こうして、決意を固めた僕は、自分なりの宣戦布告として次の一文をメールで返信しました。

カチカチ…カチカチ…

『前から言おうと思っていたんですが…いい歳して文末に☆はないと思いますよ?』


「……はぁ……」
「…古泉君、なんか疲れてるわね?大丈夫」
 恋愛禁止令が出て三日目の放課後。僕が部室で机に突っ伏していると、涼宮さんが珍しそうに声を掛けてきた。
「はは…部屋に乗り込んできたアルバイト先の上司に、朝まで説教されまして」
 というか、帰ったら部屋にいた。どうやって入ったのかは恐くて聞けなかった。
 何故かメイド服姿で満面の笑みを浮かべた森さん。
 それはもう恐かったですね。笑顔で、優しく、ゆっくりと、語り掛けるように説教してくるんですから。
 ……滲み出る怒りのオーラだけは隠せてなかったですけどね…(ピー)歳…微妙なお年頃です。
「ふーん…何やらかしたか知らないけど、気を付けなさいよ?…ところで、キョン。ホームページのことなんだけど…」
「…なんだ?また面倒な注文か?」
 幸い涼宮さんは余り詳しい話を聞いてこないで、さっさと自分の作業に戻っていった。
 …いけませんね…監視対象に心配されるようでは、森さんを見返すどころじゃありません。
 パシッと軽く頬を叩いて気を引き締める。
「…ふぅ」
 なんとなく気分が滅入っているところに、朝比奈さんがお茶とお菓子を持ってきてくれた。
「はい、どうぞ。疲れている時には甘いものが一番ですよ」
「どうも、ありがたく頂戴します」
 …こういう時は彼でなくとも、彼女の笑顔には癒されますね。
「はい、お二人もどうぞ。長門さんも」
「ありがとう、みくるちゃん」
「どうも、ありがとうございます」
「……」
 それぞれが三者三様のリアクションを示す。
 ……今更ながら個性的な集団ですね、ここは。
 改めて四人の仲間たちを観察してみる。
 涼宮さんが無茶を言って、彼がそれに文句を言いながら付き合い、長門さんは一人静かに読書に没頭して、朝比奈さんがほんわかとお茶を淹れる。
 …そんな、なんでもない日常を見ただけで、やはりここが自分のホームなんだと実感する。
 もしも僕が団を辞めれば恋愛禁止令は解けるだろうけど…。
 …そんなこと出来る訳がないですよ。
 そんな風に一人で感慨に耽っていると、携帯のアラームが次のスケジュールを知らせてくれた。
ピッピピッピッピピ…
 …っと、そろそろ『彼』との約束の時間だ。
「少し生徒会室に行ってきます」
「生徒会…?」
 僕の発した『生徒会』という言葉に涼宮さんが反応した。
 …っと、しまった。
「何?まさか、いよいよ悪徳生徒会長の呼び出し?」
 ワクワクした目をしながら、自らの危機の到来を喜ぶ…流石は涼宮さんです。
 しかし、残念ながら生徒会長の登場はもう少し後の予定なので、彼女には今しばらく我慢してもらいましょう。
「いえいえ、クラスの用事なのでご安心を」
 そう言って、条件反射で森さん譲りの微笑を顔に張り付ける。
「そうなの?」
 もちろん涼宮さんもこの笑顔は作り物だと気付いてはいるだろう。しかし、僕がこの顔になった時は必要以上に突っ込んでこない。
 やはり、彼女は思った以上に常識的で聡明な方だ。
 ……少し寂しくもありますが。
 涼宮さんに会釈してから部室を出ようとすると、僕に遠慮をしない数少ない人物が顔を寄せてきた。
「本当に何もないのか?ハルヒ絡みの呼び出しじゃないんだな?」
 そう言う彼の目は真面目な色をしている。
「ええ、今回は本当に何もありません」
 しかし…口では気にならないようなことを言いながら、いつも涼宮さんの心配をしてますね。
「……俺は世界が崩壊したら困ると思ってるだけだ」
 はいはい、そういうことにしておきましょう。
 相思相愛なのは端から見れば一目瞭然なのに、何をまごついているのやら。
 …こっちは恋愛禁止なんて命令を受けているというのに…。
 ……少し面白くないので、軽く藪をつついてから行くとしますか。
「もう少し素直にならないと、誰かに取られちゃうかも知れませんよ?……例えば僕とかに」
「な…!?古泉!!」
バタン!
 もちろん、そんな気はこれっぽっちもありませんけどね。
 後ろから彼が何かを言っているのが聞こえますが、内容は聞くまでもないでしょう。
 ただ、急いで部室を出てしまったので、彼の慌て顔を拝見出来なかったことが残念です。
 さて、生徒会室に…。
「古泉一樹」
「え?」
 いきなり呼ばれた自分の名前に驚いて顔を上げると、そこには長門さんが立っていた。
「長門さん?どうやって先回りを…」
「……そんなことは些細な問題。それより先程の発言は本心?」
 先程の発言?…あぁ…。
「もちろん嘘ですよ。ちょっと彼をからかっただけです」
「……そう」
「長門さん…?」
 …これでも一年近く彼女と行動を共にしてきたので、多少は感情の動きは掴めるようになったと自負していたのだけれど…。
「……」
 その、人形の瞳を思わせる無機質な輝きは、識別不能な感情を湛えている。
「…えーと…」
 少しだけその正体が気になったけれど、残念ながらゆっくりと考察している暇はなかった。
「…すいません。人を待たせているので失礼します」
 そう言って、ちらりと彼女の瞳を盗み見る。
 …そこには、先程彼女が見せた感情の色は見て取れなかった。

「……そう」


 生徒会室というと、一般生徒にはなかなか立ち入りにくい場所かも知れないが、今の新しい生徒会になってからは僕にとっては学内の拠点の一つみたいなものになっていた。
コンコン
「失礼します」
 ノックをしてから扉を開けると、一人の男子生徒がこちらをジロリと睨んできた。
「……時間ぴったりか」
 オールバックに眼鏡、やや神経質そうな細い目と頬。彼は我々機関が仕立て上げた生徒会長、その人だ。
 少々性格的に危ういところもあるけれど、今のところは問題なく生徒会長役をこなしてくれている。
「それで、用件はなんだ?いよいよあの女の相手か?」
 面倒臭いといった雰囲気を隠そうともせず、気怠げに煙草を取り出す。
 言動からはなかなか想像が付かないけど、付き合ってみると意外に面白い人物で、僕は結構彼を気に入っていた。
「いえいえ、今回は個人的なお願いごとでして」
「お願い?」
 怪訝そうな表情の彼に、僕は恋愛禁止令から監視者の可能性の話までを簡潔に説明した。
「という訳で、大変心苦しいのですが、クラスメートの素性を洗わなければなりません。機関が本気の場合は無駄でしょうけど、一応調べておいて損はないと思いましてね」
 生徒会長である彼なら、ある程度の範囲まで調べることも出来るでしょう。機関メンバーを頼れない以上、僕には彼しか協力者がいない。
「理由は下らんが…まさかお前が監視されることを恐ろしがるとはな」
 そう言って、彼はくっくっと愉快そうに笑った。
 その歪んだ笑顔は、まさに悪の生徒会長そのものと言った感じです…ですが。
「その認識は間違ってますね。誰かに監視されることなど機関に所属した時に覚悟していますし、もう慣れてもいます。うちには敵対組織もいますから」
 そんなこと、僕が抱えている問題に比べれば些細なことだ。
「…では何故だ?」
「楽しい恋愛がしたいからに決まってるじゃないですか」
 彼の目を見据えて、きっぱりと言い切る。
 そんなこと、聞くまでもないでしょう?
「……そ、そうか」
 何故か彼は目を反らしながら頷いた。
 いけませんね……もしかして、彼も恋愛は精神病の一種などと言いたがる素直じゃない人種でしょうか?
 お望みなら、今ここで恋愛の必要性と素晴らしさを語って差し上げますよ?
「それは遠慮しておく」
 彼は気を取り直すように一つ咳払いをしてから、
「今日は水曜か…来週までには調べておいてやる。月曜にまたここに来い」
 と言い、二本目の煙草を吸い始めた。
 その様子を横目で見つつ、いつか彼に僕のバイブル『野菜な日々』を読ませてみようと心に決め、僕は生徒会室を後にした。


 さて、その後も森さんからの警告メールは鳴り止みませんでした。
 どうやらまだ年齢の件を根に持っているようで…内容もだんだん理不尽なものになっていきました。
 …しかし…。
 クラスの男子に肩を組まれたことについて警告を送ってくるのは、一体どういうジョークなんでしょうか?
 …それにしても、なかなか監視者も優秀ですね。
 鎌をかけるような行動を起こしてみても、なかなか尻尾を出す気配がない。
 機関か、それに近い組織で訓練を受けたプロと見て間違いないですね。
 機関でそれなりに訓練を受けたとはいえ、僕はただの高校生と大差はない。
 …相手がプロならば、その監視の目を誤魔化すなんて芸当はまず無理ですね。
 このままでは…森さん相手に証明する以前に恋人を作ることすら厳しいでしょう。
 …何か手はないのだろうか…?
 木曜日、金曜日、土曜日の不思議探索と無為に過ごし、何も打開策を思い付かないまま、そろそろ森さんに頭を下げようかという情けない選択肢が浮かんできた頃…。

 その天啓は、唐突に訪れた。

 それは潤いを求めて朝から『野菜な日々』を読んでいる時のことだった。
 ……そうか、この方法が残っていた。
「…なんでこんな簡単なことを思い付かなかったんでしょう?」
 流石は『野菜な日々』です。あらゆるシチュエーションを取り揃えていますね…。
 早速それを実行に移すために、僕は外出の準備を始めた。


 休日の北口駅前。市内の中心部に位置する私鉄のターミナル・ジャンクションは人で溢れ返っていた。
 それもそのはず、大きな都市へ遊びに行く者はここを利用する必要があるからだ。
 ならば、ここはナンパに適しているのではないか?それがナンパ初心者である僕が出した結論だった。
 そう、僕は今日、ナンパをしに来ている。
 学内が駄目なら学外で彼女を作ればいい。なんでこんな単純な話に気が付かなかったんでしょう、僕は。
「…とは言ったものの…」
 ナンパってどうやるんでしょう?
 『野菜な日々』で読んだみたいに片っ端から声を掛けていくのだろうか?漫画ではそれで失敗していたけれど…。
「あれ?古泉じゃん」
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには谷口君が立っていた。
「谷口君?」
「よう、古泉もナンパか?…な~んてな」
 どうやら彼もナンパに来ているらしい。
 …そう言えば彼はナンパが趣味だと聞いた覚えがある。
 …知り合いに言うのは少々気恥ずかしいけれど、ここは素直に本当のことを言ってしまおう。同じ狩場を利用するならすぐに分かることだし。
「実はそうなんです」
「マジか?お前はそういうタイプには見えないが?」
「はい、初めてです」
「…初めてね…その割には落ち着いてるな」
「そうでしょうか?」
 そろそろ話を切り上げてナンパに取り掛かりたいと思い始めた頃、谷口君はいきなり大声で説教を始めた。
「甘いぞ!古泉!」
「え?」
「貴様、顔が良ければナンパは成功すると思っているな?」
「そんなことは…」
「いや、その余裕のツラを見れば分かる。貴様は心の奥ではナンパを舐めている!」
 ……そうなのか?
 彼の言葉に自分というものが揺らいでいるのを感じる。今の彼からは普段の姿から想像が出来ないほどの説得力が滲み出ていた。
「そういったヤツがナンパに失敗していく様を俺は何度も見ている…自信は必要だ。しかし、自惚れはいらん」
 その言葉に、全身に稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。
 ……もしかして、僕にはナンパは無理なのか?
 そんな、ショックで呆然としている僕に、谷口君は優しく話し掛けてきた。
「あ~…なんだ貴様さえ良ければ俺と二人組でナンパをしようではないか…………決しておこぼれ狙いではないぞ」
 後半の台詞が聞き取れなかったが、このナンパマスターが僕に力を貸してくれるというのか…?
「12歳の時にナンパデビューを果たした、俺の全てを貴様に授けてやろう…どうだ?」
 じゅ、12歳…!?
 …神童というのは実在するんですね…。
 右手を差し出す彼の自信に満ち溢れた表情は、僕に迷わずその申し出を受けさせるのに十分な輝きを放っていた。
「……お願いします!」
 僕は彼の右手を力強く握り返した。
「よし!」
 こうして、僕はマスターを得たのだった。


「いいか、古泉。時間を気にしている女は駄目だ。ほぼ確実に待ち合わせ中だからな」
 なるほど…言われてみれば当たり前のことに感じるが、さっきまでの僕なら気付かないで声を掛けていたでしょう…危ないところでした。
「よし、アレ行ってみろ」
 そう言って彼は駅前のベンチに視線を送った。
 その視線の先には、かなりレベルの高い二人組が座っていたが…。
「……って、思いっきり時間を気にしてますよ、アレ?」
「レベルによって臨機応変に、だ。行ってこい!」
 …なるほど、そういうものなのか…よし!
「古泉一樹、行きます」
 僕は意を決してナンパデビュー戦へと挑んでいった。
 既にマスター谷口からレクチャーを受けている僕には、少しの躊躇いもない。
「すいません、少しよろしいですか?」
 声を掛けると二人がこちらに顔を向けてきた。
 おぉ、近くで見ると更に可愛い。これは何としてもゲットしたいところだ。
「今から友達と二人で遊びに行くところなんですが、もしよろしかったら…」
「よろしくねぇよ」
「……はい?」
 後ろから聞こえた野太い声を不思議に思い、ゆっくりと振り向いてみる。
 そこには見るからにヤバげなお兄さんたちが立っていた。
「もう、遅いからナンパされちゃったじゃない」
 そう言って、女の子たちはそれぞれ相手の男の手を取った。
 ……え~と、これはもしかして待ち合わせのお相手でしょうか?
「いつまで見てんだよ、ガキが!さっさと消えろ!」
「し、失礼しましたー!」

「……と、待ち合わせ中の女に声を掛けると、このような事態が発生することがある訳だな」


 その後も谷口君の指導の元に数組の女の人に声を掛けたけれど、芳しい返事は一度も得られなかった。
 ……というか、年上を狙い過ぎですよ。こっちが子供過ぎて、さっきから全く相手にされてませんよ?
「……厳しい相手を知っておけば後が楽になる」
 …素直に年上が好みだと言いませんか?
「…分かった。なら、次はアレだ」
 そう言って彼が指を指す先には……。
「……谷口君」
「なんだ?」
「僕たちは『人間』の女の子をナンパしてるんですよね?」
「そうだ」
「……『アレ』は人間ですか?」
 『野菜な日々』で見たことがある…あれは過去に流行した『ヤマンバギャル』という人種だ。まだ絶滅していなかったのか…。
「今までの結果で分かった。今のお前には経験値が足りない。あれはロープレで言うところのスライムだ。なにも本気で誘わなくてもいい、軽く話してメアドでもゲットしてこい」
 ……なるほど、一理ある…のか?
「俺は向こうに声掛けてくるから。またここでな」
「……はい」

 さて、皆さんご存知の通り、ヤマンバギャルというのは顔面を真っ黒に塗り潰し、目元だけを白くしたメイクをしている若い女性のことです。
 実物を見たのは初めてですが、正直な話、ちょっとした恐怖を感じます。
 ……大丈夫、相手も人間…話は通じるはずです。
「あ、あの」
「あ?何?アンタ?」
 ……一言話しただけなのに、あっさりと心が折れそうになった。
 落ち着け、古泉一樹。『野菜な日々』のヤマンバギャルの回を思い出せ。
 ……きっと素顔は可愛い。話してみたら実は性格がいい。あのメイクは男たちから自分を守るための武装に違いない…よし!
「今から友達と遊びに行くんですけど…」
「ウゼェ、消えろよ」

ピシッ

 今僕の顔を見れば間違いなくヒビが入っていることでしょう。
 まさか…僕は彼女たちに拒絶されているのか?
「なんかさぁ、アンタからはアタシら程度ならいつでも釣れる?みたいな空気を感じんだよね?」
「あと、無理してっしょ?」
「そうそう、なんか嫌々声掛けてる?みたいな?」
 そう言って彼女たちはゲラゲラと笑った。
 容姿が人間から離れていくと、本能まで鋭敏になるのだろうか?
 滅多に読まれることのない本心を、初対面の相手に読み取られるなんて…。
「あ、図星?」
「お兄さん、可愛いねぇ。固まっちゃってるよ」
「くっ…!」
 一瞬、カッとなって反論しようとしたけど……。
「…………」
 …急に自分のやっていることが恥ずかしくなった…彼女たちが言っていることは真実だ。
 …確かに、僕は心のどこかで彼女たちを見下していたんだと思う。
「ほら、何か言いなよ?」
「……そうですね」
「お?」
 …嫌々声を掛けるなんて彼女たちに失礼な行為でした。
「…すいません、失礼しました…」
「あ、ちょっと…」
「…お~い」
 足早に彼女たちの視界から消える。
 恥ずかしくて視界どころか、この世界からも消えてしまたい。
「…はぁ…駄目ですね、僕は…」
 …取り揃えず、谷口君が戻るのを待って…。
「……ん?」
 なにげなく周りを見てみると、同じようにナンパをしている男たちの姿が多数確認出来た。

『ねぇ?遊びに行かない?車でさ。ホラ、あそこに停めてるヤツ』

『マジ?じゃあさ、メアド教えてよ。今度連絡するからさ?』

『え?いや、違くて…ちょっと時間を聞こうと…ちょ、やめッ!WAWAWAWA!』

「…………」
 …その光景を見て、ふと思った。
 僕は何のために恋人を作ろうとしているのでしょうか?
 森さんに自分の主張を証明するため?
 監視者の目を欺くため?


 恋愛って…そんなことのためにするものだったでしょうか?


「……帰ろう」
 谷口君には申し訳ないですが、もうこれ以上戦いを続ける気力は僕にはありません。
 半日も持たずに尽きてしまった僕の精神力を、笑いたいならどうぞ笑って下さい……僕にはナンパは無理でした。
 部屋に帰って、シャワー浴びて、今日はさっさと寝てしまおう…。




「ねぇ?キミ一人?」




「ふぅん、一樹君は高校生なんだ?落ち着いてるからそうは見えないね」
 …今の状況を説明しましょう。
「北高なの?あ、私も卒業生だよ」
 目の前には少し年上くらいの綺麗なお姉さん。
 少し細身で背が高く、まるでモデルみたいなスタイルの人だ。
「あの坂キツイよねぇ?あ、そうそう岡部ってまだいる?」
 場所は駅前の喫茶店。
 彼女に誘われるがままに二人で入って、お茶をしている。
「ハンドボール部、新任教師だったあいつが作ったんだよ?私も誘われてさぁ…でも誰も入らなくてねぇ…」
 そう、いわゆる逆ナンというやつだ。

 ……神は僕を見捨てなかった……。

 神様、ありがとうございます…最後にこんな大逆転を用意して下さるなんて…。
「ほらぁ、なんかさっきから私ばっか喋ってるよ?」
「あ、失礼しました」
 それから、僕は時間を忘れて彼女と話し続けた。
 最近読んだ本のこと、期待している映画のこと、アルバイト先の愚痴、愉快な仲間たちのこと…。
 恋愛禁止令が出てからというもの、SOS団の皆としかまともな会話をしていなかった僕には、話したい内容が尽きることはなかった。
 そして、彼女は僕の話を楽しそうに聞いてくれる。
 ただ、それだけのことが、こんなにも幸せだなんて僕は知らなかった…。


 そうして、どれくらい話し続けただろうか?
 やっと僕の話題も尽き掛け、僕がコーヒーを口にして話が途切れたところで、彼女は少し恥ずかしそうにこんなことを尋ねてきた。
「今日初めて会って、いきなりこんなことを聞くのもアレだけどさ…一樹君はどっち?」
 ……どっち?はて?どっちとはどういう意味でしょうか?
「私はこんな格好してるけど、『リバ子』だからどっちも出来るわよ?」
 …りばこ?…彼女は何の話をしているんでしょうか?
 失礼とは思いながらも、先程から会話が噛み合ってない気がするので、僕は質問に対して質問で返すことにした。
「すいません、『りばこ』って何ですか?」
「知らないの?『リバ子』のリバはリバーシブルの略で、つまり『リバ子』っていうのは、タチもネコも両方出来る子のことよ」
 立ち?猫?何かは分からない。分からないけど…。
 ……なんでしょう?本能が逃げ出せと訴えている。
「あ~…雰囲気で判断しちゃったけど、もしかして一樹君ってノン気?そして気が付いてない?」
 『ノンケ』…?あれ?これはどこかで聞いたことが……あれは…確か…森さんに無理矢理読まされた…ホモ同…。


 ……まさか……!?


「知らずに付き合うのは主義に反するから言うけど、男よ?私」
「…………」
 …男?…♂?…この綺麗なお姉さんが実はお兄さん!?
 ……嘘でしょう?
 ツツゥ…と首筋に汗が走るのを感じる。
「…そんな…」
「でも大丈夫、一樹君は間違いなく才能あるから♪」
 才能って何!?そんな保証いりませんよ!
「ちゃんと優しく教えてあげるわよ…私も昔はそうだったから」
 そう言って、『彼』がガシリと僕の腕を掴む。その細い腕から想像出来ない力強さは間違いなく男のそれであり、簡単に振り払えそうにはなかった。
 ガンガンと鐘を打ち鳴らすかのように、脳が発している警戒は既に限界レベルに到達している。
「あ、あの、ちょっと…」
「最初は誰でも初めてよ♪」
 そう言った『彼』の顔は、男っぽいものになっていた。
 ……いや……。
「ねぇ……私の部屋、行かない?」





 いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!





「…しかし、逆ナンされた相手がゲイとはな」
 目の前でくつくつと心底楽しそうに悪徳生徒会長が笑っている。
 翌日、調査報告を受けに生徒会室を訪れた僕は、昨日の恐怖体験を彼に話していた。
 ……誰かに聞いて貰って楽になりたかったとはいえ、彼に話したのは失敗だったかも知れない。
「いい加減に笑うの止めて下さい」
 あの後、僕はコーヒー代だけ置いて、命からがら喫茶店から逃げ出した。
 確認する余裕なんてなかったので、その時に置いていったお札が一万円札だと知り愕然としたのは家に帰り着いてからだった。
「それはまた高い授業料だったな」
 彼はフン、と一つ鼻を鳴らして、真面目な表情に切り替えた。
「では、本題に入ろう。先週依頼された件だが…お前のクラスは全てシロだ。越境入学してきた人間、地元の人間、分かる範囲で全て洗った。しかし、経歴に怪しい点がある生徒はゼロだ」
 手渡された書類に目を通す。
 ……確かに容疑者足りうる材料は全く見当たらない。
「あとは盗聴や盗撮の可能性も捨てきれないからな。教室も隈なく調べた。しかし、こちらも問題なしだ」
 ……よくそんなことまで調べれましたね?
「なに、そういうのに詳しい人間が知り合いにいるだけだ…それより」
 彼は一通の手紙を取り出した。
「調査が終わった頃、森女史からメッセージを預かった。どうやら俺の行動はバレていたようだな」
 ……あの人も本当に謎ですね…機関に来る以前は某国の諜報部あたりにいたんじゃないでしょうか?
 受け取ったメッセージを開く。そこには一行だけこう書いてあった。

『無駄な努力は止めておきなさい』

 ……つまり、これは分かる訳ないから諦めろという警告でしょうか?
「で、これからどうするんだ?」
「…まだ恋愛については諦めるつもりはありませんよ……ただ、今回は目的を間違えていたように思いますね」
 チャンスは待とう…ただし、自分らしく、自分のために恋愛しよう。
 …あと、ナンパはやめておこう…。
「それと、監視者探しも諦めません。どういう人物が僕を監視しているのか、少しは気になりますからね」
 僕の返答に彼は「そうか」と答えて、少しだけ芝居掛った口調でこう続けた。
「なに、上がどんなに抑圧、規制しようと、抑え付けられる側は抜け道を見付けるものだろ…こんな風にな」
 そう言ってニヤリと笑い、彼は胸ポケットから煙草を取り出し火を点けた。肺の中にゆっくり吸い込んだ煙を、ふぅ~…っと吐き掛ける方向は職員室。
 ……これは彼なりの不器用な励ましなんでしょうか?
 僕はその様子を苦笑しながら眺めつつ、まだ見ぬ監視者に向かって、一人だけの決意表明をした。


 僕はあなたの監視を受けながらでも、最愛の人と出会って見せましょう。





カチ…

カチカチ…カチカチ…

「あれ?長門、携帯なんか持ってたのか?」
「……先日、買ってもらった」
「へ?誰に?」
「……内緒」

カチカチ…



End


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