時間工作員の憂鬱
時間遡行完了。
現時間平面、目標時間と一致。
位置座標確認。所定どおり。
ここは、とある空港、仮眠室。
目の前のベッドに旅客機のパイロットが寝ている。
そのベッドの目覚まし時計の設定をずらすことが、彼女のなすべきことであった。
ゆっくりと伸ばした手が止まった。指先が震えている。
躊躇。それは、上級工作員としての彼女にはあってはならないこと。
しかし、多くの人々の命運が左右されるとなれば、躊躇するのも当然のことであった。彼女のような優しい人間であれば、なおのことだ。
突然、強烈な頭痛が彼女を襲った。
自分ならざるものの声が、脳裏の奥で明滅している。
禁則よりもさらに強力で根源的な呪縛。「第一原理」と呼ばれている洗脳であった。
誓いを、義務を……。
規定事項と我々の時空の保全に奉仕せよ。
その忌まわしきTPDDを身に着けている限り……。
その声は、静かに、しかし、明瞭に、繰り返される。
吐き気がしてきた。
自分の意思とは無関係であるかのごとく、止まっていた手が再び動き出す。
その指がなすべきことを正確に実施した。
TPDD起動。
移動した先は、十数時間先の空港のトイレだった。
胃液を便器の中に吐き出す。
吐き気はおさまった。
待合室に出て、座席に座る。
目の前の大画面のテレビは、旅客機墜落事故を報道していた。
画面をスクロールしていく死亡者リストの中に、確認すべき氏名を見つける。
情報通信デバイスを通じて、報告を送信した。
────工作対象の死亡を確認。
時刻設定がずれていた目覚まし時計によって予定よりも早めに起きてしまったパイロットは、再び眠ることができず、寝不足のまま旅客機を操縦。
判断ミスから、墜落事故を起こす。
それが史実であり、「機関」時空工作部にとっては重要な規定事項であった。
事故で死亡した乗客の中に「機関」時空工作部の形成過程を阻害するであろう人物の先祖が含まれていたのだ。
規定事項を守るために殺されたのは、たった4歳の女の子であった。
この任務は部下には任せられない類のものだった。殺人禁則が予め解除されているのは、上級工作員だけだから。
彼女の裁量で部下たちの殺人禁則を解除することも可能ではあった。しかし、彼女には、このような任務を部下に押し付けるつもりはなかった。それは責任逃れであるから。
もうここにとどまっている理由はない。
逃げるように再びトイレに駆け込む。
上級工作員朝比奈みくるは、憂鬱な気持ちのままTPDDを起動し、所属する時間平面へと帰還した。