「じゃあ今日は」
歯痒さを捻じ込んで圧したような、――外見は平素と変わらぬ声が喫茶店の一角に響く。
「これで終了。明日は予備日に空けておいたけど、そのまま休みにしちゃっていいわ。また明後日、部室で会いましょう」
涼宮さんが宣言し、彼が苦虫を噛み潰したと表現するに相応しい皺を眉間に刻み、朝比奈さんは俯き、長門さんは唇を結んだまま。
八月三十日、午後。
僕はウインナーコーヒーの熱が冷めるのを、カップに押し当てた指の腹でじっと、数えていた。彼女が席を立ち、無言の聴衆に関せず客席をすり抜け、自動ドアを潜って店員の「ありがとうございました!」という掛け声を浴びながら去ってしまうまで、そうしていた。
多分、皆が分かっていたのだろう。涼宮さんの遣り残したことは果たされておらず、三十一日を過ごしても、その次に訪れるのは九月一日ではないだろうということを。心なしか空気は重く、場はやるせない諦観に満ちていた。万策尽きるまで何がしか、彼女が八月を終えたと実感できるような策を練って抵抗を試みるべきだった、と悔やむのは幾らでも出来る。結局僕も、彼も、翻意に足るような方策を捻り出せなかったのだ。六千回近くをふいにしてきた過去の僕等と同じように、この軸の僕等も恐らくリセットされて八月十七日に舞い戻る。それだけの、話。



各々が沈むままに解散し、僕は稀少にも、彼と帰路を共にしている。斜陽に細めた目の端に、青く繁る樹木が連なる、整備された並木道。路奥には住宅地の狭間に小さな公園が見え、小学生、それも低学年ほどの少女達が大縄跳びをしている様子が見て取れる。此の世の異常を知らぬ故に何ら左右されることなく無邪気な笑い声を上げていられる、幼い子供たち――羨望にかられたのは、ごく、僅かの間であったけれど。
「色々やったな、今夏は。こんな目まぐるしい夏休みを何千回もやって正気を保ってるのが不思議なくらいだ」
「それは涼宮さんの記憶消去の賜物ですね。とはいっても、完璧な記憶抹消を受けてしまうとまた発覚が遅れてしまいますから、無限ループに陥らないとも限らない。既視感を得られている事を有難いと思うべきでしょう。今期も明日限りで逆戻りの可能性が色濃いですし」
「もしかしたら何事もなく九月一日が来てた……なんてのは都合のいい夢話か」
「あの涼宮さんの様子を見る限りでは、難しいでしょうね」
「次に十七日に巻き戻ってから、長門に早めに教えて貰えるように頼んだりは出来ないもんかね」
「……それは、」
彼が、わざとらしく溜息をついた。しまった、と思わず口を噤む。反応を試されていたらしいと感付くのが遅過ぎた。何か対応にミスをしただろうか、と振り返るも自分の所作に不備があったとは思えない。
「――古泉。お前、長門と何かあったのか」
「何も、ありません。何故そのようなことを?」
「いつもニヤケスマイル顔を崩さない野郎が、長門が居る間限定でえらく深刻な空気放出してたら、そりゃ何かあったかと思うだろ。……何もないってんなら、俺には直接関係のない話だし聞くつもりもないけどな」
ふい、と眼を逸らす彼は、最後にぽつりと零した。
「やり残した事があるなら今のうちにやっとけよ。ハルヒの二の舞はごめんだ」 

彼の貴重で婉曲な気遣いは、何故だか耳に残った。けれど僕はどうとも応じられず、微笑を口の端に寄せるだけだった。長門さんに吐き出せない最後の言葉を忘れるのが怖くて、哀れなくらい脅えていた己が、僕の総てだ。そのことすら彼女に知られていたのだから、情けないことこの上ない。
此の侭何事もなかったように三十一日を迎えることが一番いい。想いを無くしてしまっても、次の時間軸の僕はそんなことも分からないまま笑っているのだろうから。突き当たりで道を別れ、僕は一人自宅のマンションに歩を進めながら考える。今晩は眠れるだろうか、と。
夕焼けに染まる遠方、赤く赤く地を灼く光。夏が終わるのだと思った。得体の知れない底辺を抉るような感情の奔流が、胸を締めつけて止まなかった。

――来るは、八月三十一日。









ピ、ピ、ピ、という電子音を止めて、布団から這い出る。
朝八時にセットしておいたのだが、どうやら無用に終わった。結局朝日が昇るまで息を潜めるようにして潜り込んでいただけで、睡眠を満足に補充できなかった脳は倦怠感を抜け切れない。連日の疲労が濃い身体を引き摺り、対極に冴えた眼で今現在の僕にとってはラストサマーとなるだろう部屋の篭った空気を吸った。
洗顔を終え着替えと朝食を済ませると、ベッドに腰掛け、僕は暫し窓外を眺めた。空調を作動させていない室内は蒸し暑く、汗が首裏を湿らせるけれど、敢えて換気に動く気にもなれない。機関での仕事に不慣れな頃、一時期鬱病のような状態に陥って苦しんだ事があったが、その折とよく似ている。どうでもいい、という投げ遣りの精神。何も手につかない自失状態。知人がこんな僕の姿を目の当たりにしたら、さぞ眼を瞠ることだろうことを想像して乾いた笑いが漏れた。

特に何をしようとも、定めていなかった。何が出来る気もしなかった。世界が今日を限りに終わる訳でもないのに大袈裟な事だと自分を嗤ってみても、誤魔化せないものは確かにある。今この状況においては意味を得られない残滓のようなものと知っていて。
一夏と呼ぶにはまだ短い。
あっさりと、泡沫の如く生まれて還る二週間の自覚。長門さんの、金魚のあしらいが風流な浴衣姿は、正統派の趣を感じさせ、立ち姿がとても綺麗だった。アイスを差し出したとき、バニラを選んだ彼女の眼には明瞭に「好み」を選択した意思が窺えて、心が弾んだことを覚えている。読書に視線を落としている彼女の、まばたきの瞬間、揃った睫が柔らかく下りるその横顔を見ていると、心が洗われるような気さえした。
「彼」には及ばないかもしれないが、当初よりは交わす言葉も増えて。
滲み出るように想いというものは、望まずとも止め時を逸してしまうものなのだと、知った。 

僕はただ、夏を回顧しながら時が過ぎるのを待っていた。時折ベランダに出て風に吹かれ、時折意味もなくテレビをつけて、バラエティ番組のレギュラー達が交わすやり取りをBGMに転寝をした。回想の内にも時計の針は刻々と回転し、三十一日は早足に進む。
日が翳り、光度を落として世界が沈んで行く錯覚。感覚は喪失していた。地平線が黒ずみ藍色が湛えられて、居場所を報せなかった星が自己を主張するように光を放ち始める。点々と、白。それから一層更けた夜には街の喧騒は掻き消えて、寝所にて人がおやすみなさいを言い交わす時刻。
何事もなかったならば、僕はそのまま日付を越していたかもしれない。――否、実際に、そうするつもりでいたのだ。
明かりのない室は闇に沈む。車のヘッドライトが、通り過ぎる度に大窓の桟を白く際立たせた。静寂に積もる寂寥が、心を硬く冷たくしていく。終焉の予感を募らせる。皆はもう眠っただろうか。

静けさを破ってベッド付近から穏やかなメロディーが流れ出したのは、丁度23時を回った時間帯。
空をぼんやりと見つめていた僕は、耽っていた思索から現実へと引き戻された。
特有の電子音が奏でるビートルズの楽曲。枕元に転がる、闇の中で七色に色彩を巡らせながら明滅する携帯電話。タイミングを見計らったかのようなそれに、僕は息を詰めた。 

ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード。
――着信?
おかしい、僕は携帯にバイブレーション機能をつけていたはずで、またこの曲を着信音に設定した覚えもない。そんな奇怪な現象に思い当たる節はない。僕は闇中にイルミネーションのように光るそれを呆然と見つめていたが、咄嗟に閃いたことがあった。
思い当たる節――あった。一人いる。遠距離からでもその情報操作能力で携帯音どころか機種までも軽々と変更出来そうな人物、それから僕がこの曲を好きだと告げたことのあるたったひとり。

『長門さんは、日頃、音楽などを聞かれたりは?』
『ない。……あなたは』
『僕ですか?そうですね、僕は洋楽が好きです。ビートルズの、ファンの評価は別れますが、特に――』
天体観測の夜、場を凌ぐ苦し紛れに問い掛けていた一シーンを思い出した。
まさか、でも。震える手で携帯を掴みあげて画面を開く。
着信、長門有希。

「……もしもし。長門さん、ですか」
『来て』
「――え?」
『公園前にいる』

要件終了とばかりに通話が切れた。何がなんだか分からず、切れた電話を見つめる。疑問符は尽きない。
これは何の、誰の、示し合わせなのだろうか。「彼」にはやり残すなといわれ、彼女からは急な連絡。これが最後の機会と言わんばかりに。
麻痺しかけていた感覚が自分の中に、彼女の冷涼な声に触れたことで蘇った。自問自答もせず一切を放擲していたから、最も初歩的な自身の欲求と、真正面から向き合えずにいた。逃避する言い訳を機関やエンドレスサマーに押し付けていただけだ。僕は本当に、気付くのがいつも遅い。
マンションを飛び出した。体裁すら繕わなかった。鬱屈と溜め込んでいたものを薙ぎ払ってでも、走るなら、今しかなかった。 


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