残すところを徐々に減らしてゆく夏休みは、涼宮さんによって確実にプランを成し遂げつつ消化されていった。バッティングセンターに行き、花火大会に赴き、ハゼ釣りを楽しみ、肝試しに盛り上がった。
――八月二十九日は、天体観測の日だった。


当日、望遠鏡のセッティングの為に一足早く、僕は長門さんの居住区に失礼することになった。――そうは言っても、立ち寄るのは彼女の私室ではなく屋上。誘導に従って、階段を上る。高層マンションの、拓けた天上地点からの眺めは絶景だった。恒星を求めて仰ぐ空の先、肌に触れて往く風は、夕陽に染め上げられていた紫紺の空が深い闇に色を塗り替えても、まだ生温さを残していた。

「案内ありがとうございます。後は一人で準備出来ますから、長門さんは戻って下さって結構ですよ」
集合予定時刻まではもう少しであるから、じきに涼宮さん達も到着するだろう。担いでいたバッグを下ろしながら、微笑をオプションに、当たり障りない言葉遣いでやんわりと促す。
SOS団で過ごすうちに、腹に決めたことがあった。
夏休みの最後まで、長門さんと『普通』に接する。
どのみち――想いを明かす事は現状に幾許か変化を落とすことになり、それは機関の方針からしても好まざる傾向の筈。そもそもこんな非常事態に、自身の制御しきれない感情の矛先を垂れ流して、うつつを抜かしている方がどうかしているのだ。
森さんは軽快に背中を押すようなことを言ったが、相手が長門さんだとは彼女も考えていなかったからこそ、だろう。毎晩終始そのことばかり考えていた。どうやって「これまで」と変わりない態度を貫くか。おかげで引き続き睡眠時間を満足に取れず、自業自得という四字熟語を、今更に噛み締める羽目になっている。

「……」
沈黙を守る長門さんは、何事かを問うように僕を見ている。
……考えてみれば、じきに全員が集まるだろう時間帯に戻れというのも妙だろうか。
「いえ、そうですね。一緒に皆さんを待ちましょうか」
長門さんは無言の後、僕の提案を妥当と判断してくれたか、小さく頷きを寄越した。それから――それから、どうすればいい。二人きり、黙したきり立ち尽くすなどというのは、これまでの『普通』を目指すならあるまじき場面には違いなく。こういう際の僕なら、そう。可及的速やかに柔和な微笑を繕ってフェミニストらしく声を――
「座りませんか、長門さん。立ち話も何ですから」
何か言わなければの勢いにやられて、思考回路が滅裂になったとしか思えない。
演技を通り越して滑り出た呆れ返るような文句に、自分の首を絞めるとはこういうことだと、よくよく僕は後悔した。これだけ彼女を意識して内心で焦燥にかられているのに、自分から隣り合わせを望むような台詞。愚考極まりない、と言うより既に冷静になれていない。
彼女の方は発言の意図をどう汲み取ったのか、傍のフェンスを背に、言われるがままに腰掛け、此方を見上げてくる。視線は待機モード。
……腹を括るしかなさそうだ。
そっと隣接位置、といっても一人分程度の幅は置いて、長門さんの横へと座る。これまではつかず離れず当たり障りない距離を保っていたため、これほど接近するのも実を言うと久しぶりのことだ。脈拍が信じ難い程に激しい。血管が今、膨張して破裂し僕がこのまま絶命しても僕自身きっと驚かない。
照明は、屋内に繋がるドア付近に備え付けられたものと、夜天に広がる月星、それから夜景に灯る人工的な明かりのみ。陰に在る長門さんは丁度斜め方向からの薄い光を浴びて、肌をいっそう白く浮き上がらせていた。蝉の羽化を知る人になら、喩えが通じるかもしれない。剥がれそうな淡い緑と銀燭をかがやかせたかのような、しわくちゃの羽が伸び上がってゆく、刹那の奇蹟を見るような。

――大袈裟な比喩ではなく、あの日の僕にとっては確かに、そうだったのだ。
熱中症に伏せた僕に降りた白い手と、瞳と。幻想的なまでに澄んでいたあの光景を、瞼の奥底に焼き留めて手放せないでいるのだから。


皆が訪れるまでの間、二人で取り留めのないというには偏りのある話をした。当初は僕が長門さんに好きな曲はありますか、食事はどういったものを、というありふれた問いを重ねていたのだけれど、暫ししてこれは詮索のようだと思い至ると、もう私事を聞く気にはなれなかった。
「確か今回のループは八千……」
「八千八百四十一回に該当する」
「そうでした。僕らはやはり、八千八百四十一回天体観測を同所で行っているのでしょうか」
「涼宮ハルヒが実行したパターン全てではないが、概ねはそう」
「なるほど。それでは過去ループが発覚してからの僕等の行動をお聞かせ願えますか。具体的なアクションがあったのかどうか、ですが」
「過去三千二百十六回は具体案なくループを見過ごした。後の千五十四回は涼宮ハルヒを遊園地、海上公園、展覧会に連れて行く事を含め厳密には四十九通りの対策を練った」
僕が訊ね、彼女が答える。
他愛もない雑談話をするにも、共通の話題の持ち合わせも余裕もなく、事態の終息にどう努めるかに関してを自然と語るに落ち着く。義務的な話題ならどうにか、躍り狂っている心中の想いを外気に触れさせず塞き止めていられそうだった。何処かから地球を見下ろしている火星からも失笑を買うかもしれない。
臆病の虫が住んでいることは、わかっている。踏み出さないのではなく「あってはならない」のだ。なぜなら今は「平常」ではなく、そして長門さんに想いを寄せる僕は時間軸上の一繋ぎの存在でしかなく、そしてだからこそ僕は、


「――怖い?」


雪のようにしんと、空気に溶けるような声が、耳朶を叩く。有り得ない発言を、有り得ない人がした。
機械のようにぎり、と首を傾けて長門さんを凝視した。彼女は美しいままで、その双眸に懐かしい揺らぎを見たような気がした。 

「どうして」 
発した声は渇いていて、倒壊寸前の廃墟に落とし込んだような酷さだった。そして僕は疑問符を呟いたときに、また理解をした。此処に至る「前」の僕、リセットされ感情を清算される以前の僕が長門さんに何かを言ったに違いないということを。何処かのルートの僕が含羞をかなぐり捨て、情けなさ満点の弱音を彼女に吐き零したことがあるのかもしれない。
何にせよ、知られていたのだ。そうに決まっている!

長門さんの腕が不意に、としか言いようがない――伸びて、僕の頬に白皙の手が触れた。彼女が何を意図したのかは不明だったけれど、僕のあらん限りの虚勢が脆く崩れて蒸発するには、十分だった。
どうせリセットされる心なら、ないほうがずっとましだったと。
そんな風に思えない自分が何よりの答えだったのに。 


――ええ、そうなんですよ長門さん。
「情けない話ですが、少し、怖いんです」
固定していた笑みの表情が抜け落ちた。正直な話、現状の僕がどんな顔で言葉を紡いでいるか、まるで分からない。分かりたくもない。
「この時間軸上の僕がリセットされたとき、僕がこの夏に得た感情、想いは…一体何処に行ってしまうのだろう、とね」
告げるつもりのなかった痛みを、抱え切れずに取り溢してしまうなら、いっそ。言葉を切った自身跳ね返る静寂を、このときしかない時間に焦がれるように、僕は無性に愛しく感じた。
「長門さん。――ああ、皆さんが来たみたいですね」

もう、夏が終わることを、噛み締めるように。 
胸中に禁じた最後の言葉を、故意に逸らして、また笑うふりをした。



|