懐かしむにもこそばゆい記憶が一つ、ある。
三年前、突如芽生えた力に慄き、戦いに明け暮れねばならぬ生涯を嘆き、周囲に対して心を閉ざした中学一年の春。機関に迎え入れられてからもそれは変わらず、無愛想とよく称された、拗ねた物分りの悪い子供であった僕。寄せられる微笑さえ、甘言を弄して手酷く裏切られる前兆のように思い、孤独に身を固くしてさえいれば己だけは護れると――そんな、保身じみた考え方で、自己を哀れんでいた。そんな僕の顔を覗き込んで、彼女、出遭った頃から上司であった森園生は笑った。
「つまらない顔ね」
彼女の笑みは今思い起こしてみても夢ではないかと疑うくらい、慈愛に満ちたものだった。母親のように、薄い唇から紡がれる声は優しかった。
「確かに貴方は可哀相ね。運命を呪うなら好きなだけ呪いなさい。それでも貴方は選ばれ、神人を狩る力を与えられた、その事実はどう足掻こうと変移し得るものではないわ」
 蹲っていた僕の頬を両手で挟み込み、額に軽く額をぶつけて、森さんは告げた。
「戦いなさい、古泉。貴方の能力を枷に、世界安定の為に利用する私たちのエゴを罵るならそれも構わない。だけれど、忘れないで。私たちは貴方たち超能力者を護るために此処にいるの」


機関の為に生き、死ぬ覚悟まで捧げた。機関は決して善意の集まりの温いホームではなかったけれど、自分という存在が、其処に在る事に意味を見出せたことは確かだった。
携帯のコールにて相手が出るのを待つ間、降り積もる罪悪感が、極稀にある。
浮かぶのはSOS団の団員達――快活に、破天荒に、予想外の事を巻き起こす太陽のような涼宮さんを初めとして、いつも振り回されながらも涼宮さんの傍に居る彼や、いそいそと健気に団に奉仕して笑顔を浮かべる朝比奈さん。それから、静謐で深い双眸に、ふとしたときに追ってしまう白い立ち姿の、彼女。悟らざるを得ない感情の名前。出来る限り喪失を避けたいと望むようになり始めた、大切な空間。
――どうして、よりによって「今」なのだろう。近頃の既視感の正体が漸く明らかになる段階に立ち入って、初めに思ったのは、そんな私情だった。

先日、熱中症で倒れた日の事を思い浮かべているうちに、電話が繋がった。

『……今日は、遅かったわね』
「――定時報告の前に、困った事態が判明したものですから」
向こうで柳眉を潜める森さんの姿が想像出来る。
『その口振りからすると、涼宮ハルヒ絡みと考えていいようね。……話しなさい』
僕は出来る限り詳細を説明する為に、口を開いた。つい数時間前、朝比奈さんによって齎され、長門さんによって保証された「切り取られた八月」、エンドレスサマーの全容。

始まりは、朝比奈さんからの着信だった。かろうじて声が聞き取れる程度の、既に泣きの入った声は解読に苦労した。兎に角会って見なければまともな話も聞けそうになく、場所だけを打ち合わせ集合し、その際に長門さんにも連絡を入れた。もしかしたら、という予感が内にあってのことだったのだが案の定。
彼女は、総てを知っていた。

『ふうん、延々ループね。まるで気付かなかったわ』
「涼宮さんの近い立場にいる程、気付き易くなっているようです。このことに気付いた僕らは、これでも六千回を数えるそうですよ」
『そう。……その六千回で、打開策は見つからなかったわけね』
「そういうことになりますね」
苦笑が重なった。機関への報告義務として報せはしたものの、今回の件に機関が活躍できる場面はないだろうと僕は考えていた。涼宮さんの内面的な問題、それも本人の意識の埒外にあるような事柄を左右できるとしたら、「鍵」たる彼くらいのものだ。
『こっちでも会議してみるけど、余り具体的な解決法を提示するのは無理でしょうね。貴方は涼宮ハルヒと出来る限り行動を共にし、策を練りなさい』
「了解しました」
既に、日数も残り少ない。六千回無理が続いたことを思うと、簡単にはいかないだろう。今回の時間軸がリセットされるだろうことも当然考慮に入れなければならない。あらゆることがまたゼロから書き起こされ、再び同じ道を辿る夏の日が巡る。
ふと、思った。この想いも、繰り返されてきたのだろうか。あの白い手に触れられた午後、立ち尽くしたなら声が嗄れるまで干乾びそうな暑さの中、添えられた指先と、清涼な二つの瞳。 

『古泉。――貴方、恋煩いでもしてるの?』 

……正直な話、息が止まった。

突拍子もないとはこのことだ。なるべく低音を取り繕って反論にならない突っ込みを返そうとするが、何処かムキになったような声色になる。
「……何処からそういう話になるんですか」
『様子がおかしいからよ。これいくらい――と言える様なレベルの事態でもないけれど、涼宮ハルヒの引き起こす凡その状況には随分慣れていたでしょう。夏の繰り返しが判明して、それだけで貴方が参ってるなんて考えにくいもの』
「いえ、それは――」
昔から、目線を合わせて「戦いなさい」を命じられたあの日から、僕は隠し立てが出来ない。森さんにだけは。
尻すぼみになる弁解を一蹴した、森さんの笑い声が耳に響く。
『いいじゃない。幸せなことよ。その人から眼が離せなくなるような恋、学生らしく青春じゃないの』

今度こそと返り言を言おうとした矢先に、僕をからかうように一方的に切れた通信に、溜息が漏れる。言い逃げもいいところだ。
携帯を閉じて、ポケットにしまいこみ眼を伏せた。
幸せなこと――そう、なのかもしれない。眼から離せなくなる、何時でも彼女の姿を探してしまう。眩暈のように焼き付いた光景。蝉の声。白い光。綺麗な眼差し。 

……気がついたのが、平時であったのなら。
いずれリセットされる想いを抱えて、残りの日々をどう過ごせばいいのだろう。忘れた数だけ僕はまた得るのだろうか、彼女への感情をループする数だけ。それともこれは一過性のまぐれ当たりのようなもので、次の時間軸の僕はこの想い総てを無くしているのかもしれない。
小刻みに震える手を、携帯を握っていた自分の手の汗ばみを自覚して、は、と自嘲した。常に余裕綽々として微笑み物事をこなす、古泉一樹はそうあらねばならないのに、情けない限りだ。

分かっていた。震える自分自身で、気付いていた。
――僕は忘れたくなかったのだ。 


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