一夏の恋の続き
※エンドレスエイトを前提にお読みください。




わたしのなかのエラーがやまない。
耳鳴りのように、繰り返される彼の声。反復。重複。聞いたことのない声色。震えながら紡がれた古泉一樹の、嘆願。

『長門、さん。聞いて頂けますか』
『忘れて下さって構いませんから。どうか、……最後に一言だけ』 







「―――どうかしましたか?」
日の光が遮られ、手元の本に影が差した。花壇隅に腰掛け思索をしていたわたしに、呼び掛ける古泉一樹の微笑が眼前に。
「失礼、頁が進んでいないようでしたから。心配事ですか?」
声色のトーンから、機嫌の度合いをある程度測れると言ったのは彼の言葉。恐らくそれは正しい。ループする夏季の時空修正を如何にするかという懸案事項を抱えても、その笑みに変化は見られない。
解答を遅らせるわたしに、彼が差し出したのは二本のアイスバー。透明なフィルムが巻きついたそれは、五分三十五秒前に、バッティングセンターでの活動を終えた涼宮ハルヒが彼に買いに行かせていたもの。融け掛けた氷の雫が木のスティックを濡らしている。 

「涼宮さんにお裾分けを頂いたものでね。チョコレート味とバニラ味です。お好きな方をどうぞ」
『涼宮さんに頂いたんですよ。長門さんは、どちらの味がお好きですか?』
齟齬。記憶容量に保存されたログに克明に残る彼の姿との。微笑む彼の、戸惑いを重ねた目線の揺れ方、声の上擦り、平静より高い体感温度――幾つものズレが残存する。無視すべき瑣末な事柄がノイズになる。――あの日わたしが選んだのは、バニラ。けれど彼はそれを記憶していない。

常より心拍数を上げ、困り顔を晒し、わたしと眼が合うと少し急いた様に顔を逸らしていたかつての彼。どれも感知できない、今の古泉一樹のありのまま。トレースしたところで、戻らない明確な差異。
……理由は、分かっている。
すっと上げた面の先で、わたしがバニラを指差したのを眺め、彼がにこりと笑った。
「バニラですね。どうぞ。半分溶けかけていますから、気をつけて」
丁寧に覆いのフィルムをはぐったものを手渡される。こういう他者を気遣い先んじる行動は、いつ何時も彼は忘れない。受け取ったそれを舐めると、舌先に冷たい甘味。わたしが口にする間、彼も自分の手に残ったチョコアイスに口をつける。ほろり、と崩れた液状のチョコレートの甘い匂いが、蒸した夏の風に流れてゆく。
「美味しいですね」
「……」

わたしは、返す言葉を一時、捜した。
繰り返す時の中でわたしは奇妙な自覚をする。定まった枠から食み出た答えの在り処を探すという行為。
――けれど、結局のところ、わたしは何も言わなかった。寄越された沈黙にも大して落胆する様子はなく、世間話をするように、彼は目を細め、語り始めた。彼にとって人に長考を聞かせることは、思考を整理する意味合いもあるということをわたしは知っている。
「そう、……それにしても驚きました。まさか二週間分を、我々が延々ループしていたとはね。どうりで酷い既視感があったと思いました。事象を正確に観測しているあなたがいてくれたことで、状況の把握が早く済んで助かりました。おかげで、こうして対策も講じられる――もっとも、現時点では目処も立っていないことですし、事の解決に我々の出る幕はないのかもしれませんが」
古泉一樹は、歓声を上げている涼宮ハルヒを見、彼女に締め上げられている彼に視点を順に移して、やはり何処か満たされたように笑む。涼宮ハルヒが溌剌と腕を振り上げ、公園のホースシャワーを朝比奈みくるに浴びせかけ、水が浸った衣装を纏った彼女が甲高い悲鳴を上げている様を。これ以上なく穏やかに。

エラーが、また、募る。



『情けない話ですが、…少し、怖いんです。
この時間軸上の僕がリセットされたとき、僕がこの夏に得た感情、想いは…一体何処に行ってしまうのだろう、とね』
珍しいことに、微笑の一片もない真顔で呟いた、わたしをじっと見つめた表情は。
希うように張り詰めていた。 




「……そうは思いませんか、長門さん」
『――忘れたくないんですよ。我ながら女々しいと思います』
「長門さん?」
『すみません、あなたには迷惑なだけでしょうが』
「どうしたんですか、先程から」
『長門、さん。聞いて頂けますか』

あの時間軸上の彼と、現在の彼の差異の理由は明白。この時間軸上の古泉一樹は、熱中症を起こしていない。
それが何故彼の行動形態、精神状況に異なりを齎したのかは分からない。
古泉一樹が熱中症に倒れたシークエンスは二千七百三十一回、そのうち涼宮ハルヒの情報改竄によるループが発覚したのは七百二十九回。

七百二十九回分の彼の声は、今の彼には重ならない。

『忘れて下さって構いませんから。どうか、……最後に一言だけ』

七百二十九回。八月三十一日の夜、彼がわたしに告げた言葉は。

『――僕は、あなたのことが』



「……長門さん」
「なんでも、ない」 

訝しむ古泉一樹は知らない。わたしが蓄積し続ける、エラーのことを、知らない。 


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