「できれば、〝彼〟や涼宮ハルヒ、朝比奈みくるには黙っていて欲しい。」

 長門さんに教科書を貸した後の英語の授業の最中、僕はいつかの様に僕の教科書を抱きかかえた長門さんの台詞を何べんも反芻していた。 最初は、長門さんの教科書は一体どこへ行ってしまったのか、本当に盗まれてしまったのだろうか、では、一体だれが? などと、一通り考えてはいたのだが、思考は確実に先ほどの会話へ流されていく。

「涼宮ハルヒや〝彼〟は私に対して、少し過保護すぎると思われる面がある。 盗難されたと決まったわけではない、騒ぎを大きくしたくない。 第一、涼宮ハルヒが何かしらの怒りを覚えると、それはすなわち……あなたの苦労に繋がる。 それはいや。 朝比奈みくるは隠し事に向いていない。 それが彼女のいいところ。」

 喋り方は相変わらず淡々としていたがその内容は、SOS団のメンバーのことをよく見て考えて、
なおかつ、自分が周りからどのように思われているか、ちゃんと理解しているものだった。 かつての彼女ならば、自分が何かの被害を受けたことに〝彼〟や涼宮さんが怒りをあらわにする理由が分からなかっただろう。
そして、何より僕のことを心配してくれたことが嬉しかった。 閉鎖空間の拡大にともなる世界崩壊ではなく、僕の苦労を心配してくれたことがどうしようもなく嬉しかった。 そして、その後、長門さんが白くて細い長門さんの指を口元に持っていき、

「2人だけの秘密。 禁則事項。」

と、言ったのを思い出すと、あれからもう15分以上の時間が経過しているにも拘らず、ボン!と湯気が出そうなくらい顔が赤くなるのを感じる。
 
 あれは、可愛かった。 今思い起こせば、少し長門さんの口角が上がっていたような気がする。 僕の、妄想かもしれないけれど。 ……いや、そんなことはどうでもいい。
 僕が頷くと、長門さんはちいさく、ありがとう、と言った。 それが何故か、耳に甘く響いた。 


しかし、最近の長門さんは、本当に饒舌だ。 いや、一般的に考えると彼女は激しく無口、という状況のままだろう。
けれど、以前のそれこそSOS団発足当時の長門さんに比べれば、冗談を言ったり、僕をからかったり、
涼宮さんや〝彼〟と一緒になって僕にいたずらを敢行したり、朝比奈さんにお茶のリクエストをしてみたり、僕の言葉の揚げ足を取ったり、本当によく喋る様になったと思う。 あれ、僕ばっかり酷い目にあっているような。 ……気のせいだろう。 気のせいと言うことにしておこう。
 
「この単語の発音は、日本語では後方に来ているが、実際は前半、この2番目のoに来る。
 センターのイントネーション問題でもよく出題される単語だ。 よく覚えておけよ~。」

 正直、先生の話なんて右から左だ。 ノートも真っ白。 あとで山田くんに写させてもらおう。

 秘密。 2人だけの、秘密。 僕と長門さんだけの秘密。 僕が抱えている秘密ならたくさんある。 それこそ、星の数ほどだ。 〝彼〟にも言っていない『機関』の裏事情、僕の過去。 涼宮さんに対しては正体やら、目的やら、そのほかにもいろいろ隠し事がある。 

 『機関』の中でも、部署が違ったり、考えにずれがある派閥に対してはやっぱり秘密はあるし、
森さんが楽しみに冷やしてたプリン食べちゃったのは実は僕、という個人的なものまである。
ちなみに、新川さんが買ってきたワラビ餅を勝手に食べてしまったのは、圭一さんだったりする。
そんなたくさんの秘密の中の一つだと言うのに、長門さんとの約束は、随分と意味のあるもの様に感じた。 

秘密、ひみつ、ヒミツ。

  長門さんの教科書がなくなってしまったと言うのに不謹慎ではあるけれど、秘密と言う言葉が、こんなにもワクワクするものだと感じたのは、小学生以来だ。 しかも、その記憶も段々劣化し始めている。
今まで過ごしてきた年月の中で、ただの古泉一樹だった時間と、超能力者古泉一樹だった時間と、どちらが長いと聞かれたら、 間違いなく、ただの古泉一樹だった時間のほうが長いと答えるが、自信はない。
数字で見れば確実な12年と4年の年月の差が、その内容の濃度の違いのせいであやふやになてしまっている。
今更、ただの古泉一樹に戻りたいなんてさらさら思わないし、今の自分に自信を持ち始めているのも事実だ。
しかし、その分、僕は確実に、ただの古泉一樹であることを忘れてしまっていた。
長門さんとの秘密の約束は、そんな僕を、一気にただの古泉一樹に戻してしまったのだ。
長門さんとの秘密だからかもしれない。 いつも寡黙な、長門さんとの初めての約束だからかもしれない。
だから、こんなにもワクワクするのかもしれない。 すごく楽しい。 心臓が煩い。 でも、すごく心地いい。
ああ、僕も人間なんだな、と、意味不明なことを考えてしまう。
 
 暦の上では、とっくの昔に秋になっているはずの炎天下の中、薄い窓ガラスの向こうで蝉だけが僕の心臓と同じくらい騒いでいた。

「よーし、今日はここまで! 次回小テストするからな、勉強しとけよ~」

 いつの間にか終わった授業のあとの騒がしさの中、僕は、廊下側にある山田くんの席へと向かった。
先ほどの時間、上の空でとり損ねたノートを写させてもらうためだ。 そして、教科書を返しに来るであろう長門さんを待つためである。 9組の次の授業が日本史なのだ。 また前回、前々回のように山田くんに大声で呼ばれなどしたら、僕は恥しさのあまり穴を掘ってでも隠れたくなってしまうだろう。 それだけは、ごめんこうむりたい。

「山田くん、ちょっといいですか?」

「んお? なに、古泉。 なんか用か? 言っとくが英語教えてくれってのは勘弁してくれよ。 俺は英語と国語はさっぱりなんだ。」

「知ってますよ。 理数系教科しか取柄が無いって散々ご自分で仰っていましたから。 そうじゃなくて、さっき授業のノート、写させてくれませんか? ボーっとしてたものでとり損ねまして。」

「……長門か。」

「ちがいます。」

「分かりやすいな、お前。」

そう言ってニヤニヤ笑う山田くんに、僕は首をかしげる。 よく〝彼〟は、僕の顔はいつも笑っていて表情が読めないと怒り出すのに。 僕自身でも、ポーカーフェイスは得意なつもりだ。 ポーカーは、お世辞にも強いとはいえないけれど。

「ま、どうでもいいけどさ。 ほら、ノート。 写すんだろ。 字が汚いとか言って怒んなよ。 お前よりマシだ。」

「悪かったですね、字が汚くて。」

「汚いって言うか、乱暴なんだよ。 そんな外見の癖にさ。 お前のテストの採点するセンコーたちはすげーな。」

 余計なお世話だ。 僕自身、そのことにはちゃんと考えていてこれからは長門さんの字をお手本に丁寧に書いていこうと決めたところなんですから。

 そんなことを考えていたら、教室前の廊下にこの炎天下だというのに涼しげな雰囲気が漂ってきて、思わずそちらの方に視線を向けた。 それと同時に、僕の鼓膜を打つ、凛とした声。

「古泉一樹。」

「……長門さん。 あ、教科書を返しに来てくださったのですね。 すみません、急がせてしまって。」

「いい。 もともと借りているのは私の方。 そして、あなたの次の授業が日本史なのだから、すぐに返すのは当然。 あなたが謝る必要はどこにも無い。」

「確かにそうかもしれませんが、そうお気を使わずとも構いませんよ。 授業が終わってすぐ来てくださったのでしょう?」

「他に用事がなかっただけ。 そう急いではいない。」

「そうですか。」

「そう。」 

ああ、会話が続きません。 しかも、真横からまたニヤニヤした視線を感じます。 いい加減飽きませんか。
思わず、ちらりとそちらを向くと、山田くんはばちんとウィンク。 その目は確実にこう言っている。

『俺の存在は、空気だと思え!』

思えるか! と、言わせて頂けるとありがたいのですが。

「……ノート。」

 突然、僕と山田くんの目と目の会話を遮るように、長門さんが広げられた僕と山田くんの英語のノートを指差した。
そこには男子2人のお世辞にも綺麗とは言えないアルファベットや日本語が並んでいる。 2人して、下敷きも定規も使わないからノートはがたがただ。

「……はい?」

「なぜ、休み時間にノートを写しているの?」

あー、それはですねぇ。 適当な言い訳を並べようとしている僕に言葉を繋げさせず、それを遮るおせっかいな声。

「それがなー、古泉の奴、さっきの時間、長門のこと考えててノート取れなかったとか言うんだぜ。」

なんてことを言ってくれるんですか! たしかに、長門さんの秘密にワクワクしていたのは事実ですが、その言い方じゃまるで――

「……本当?」

「……………。」

 何も、言えなかった。 馬鹿とでも、なんとでも言ってください。
あんな風に見上げられて嘘が言えるほど、僕は大人じゃないし、本当のことが言えるほどの勇気もない。

 長門さんは、何も言わない僕に、そう。 と一言つぶやいてから、僕と山田くんを交互に視線を送った後、失礼する、と言って背中を見せた。
そのとき、ほんの小さな、僕にやっと聞こえるくらいの小さな声で159ページとだけつぶやいて、ちょっとした急流に流されるように6組がある方向へと去って行ってしまう。

 日本史の授業が始まるまで、あと3分を切った。

<続く>

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最終更新:2020年03月08日 17:30