六 章

 

Illustration:どこここ


 

 

お屋敷まで歩いて戻ると、谷川氏が出迎えてくれた。
「やあ、無事に帰ってこれたんだね」
「キョン君……もうこっちの世界に帰ってこないかと思った」
朝比奈さんが俺の顔を見るなり抱きついてきた。これは困った。またハルヒが荒れるぞ。
「あ……ダメダメ。こんなところを見られたらまた同じ穴の二の舞です」
「朝比奈さん、それ意味分からないですよ。それにもう見られてます」
「みくるちゃん、あたしのキョンを独り占めしちゃだめよ!」
ハルヒまでが首に巻きついてくる。でも朝比奈さんは引き下がらなかった。
「あなたの思い通りにはさせささません!んにゅにゅ」
俺は美女二人に抱きつかれ、困ったような嬉しいようなどっちとも言えない表情で翻弄させられていた。それを見て谷川氏がニヤニヤしている。これ、もしかしてあなたの書いたシナリオですか。長門が横でイライラと三人を見ていた。
「……連結、解除する」
次の瞬間、体重がゼロになった感覚に襲われ、目の前から朝比奈さんとハルヒが消えた。俺は数メートル横に瞬間移動していた。長門が袖を引っ張っている。

 

 などと妄想しつつ顔の筋肉を緩ませていると、目の前の風景が突然ぼんやりしてきたことに気が付いた。
「キョン君、顔が赤いわ」
「あらほんと、キョン熱があるわ」ハルヒが俺の額に触れた。
「……風邪、ひいたから」
いかん、ハルヒが二人に見える。お前らも同位体か。

 

 それから丸一日、俺は高熱の風邪で寝込んだ。おばあちゃんを含む四人の美女が入れ替わり看病してくれ、お粥やらおろしリンゴやらを食べさせてくれた。
「今冷ましてあげますからね。ふー。はい、あーんして」
「あーん」
 子供の頃、病気をするとおふくろがよく看病してくれた。食べたいものはないかと聞かれると、決まって季節はずれの果物を言ったものだ。熱でぼんやりとしたまま、たまにはこういうのも悪くはないなと考えた。ってお前、古泉だったのかよ!
「あ、だめですよ。まだ寝てなくては」
どうでもいいがその、おばあちゃんのエプロンはやめろ。

 

 病み上がりにもかかわらず、お屋敷では二日遅れのクリスマスパーティが開催された。クリパというより忘年会だが。俺がまだふらふらしているので延期してはどうかと提案する者もいたのだが、今日やらないでどうする、というハルヒによって強行されることとなった。俺はハルヒがもらってきたというサンタの服を着せられて、ぶり返して熱が出そうな顔がますます赤い顔になった。なんか芸をやれと言われたが、風邪を引いたサンタという迫真の演技でしのいだ。
 古泉のトナカイが言った。
「世界は無事救われたわけですね」
「ある意味では、な。結局向こうの世界は消滅したが」
「生き延びる世界あれば滅ぶ世界あり、ですか」
「ああ。俺たちのハルヒは安定していてよかったな」
「それはあなたのおかげですよ」
古泉は俺に向かってシャンパングラスを掲げた。キザなところは相変わらずだ。

 

 宴もたけなわ、おばあちゃんと調子っぱずれなハルヒのカラオケと、長門の謡いの唸り声が響いた。長門、なんで高砂なんか知ってるんだ。まあ祝い事だからあながち場違いではないが。それとハルヒ、シャンパンにしては色が濃くないかそれ。一生酒は飲まないとか言ってたやつがなんでビール飲んでるんだ。
「いいじゃないのクリスマスなんだし。あそうだ、帰ったら卒業記念パーティをしなくちゃねえ。キョン、会場を用意しといてね」
やっと十二月が終わるってときにもうそんな話をしてんのか。って俺、かなり時系列が混乱してるな。

 

 翌朝、俺たちは二日酔いの頭を抱えつつお屋敷の掃除をした。世話になったこの数日間のせめてものお礼のつもりだった。谷川氏にもおばあちゃんにも、礼を言い尽くせないほどだ。縁側を雑巾がけしながら、たぶんもう来ることはないだろうと思った。結局俺たちのモデルになった人物には会わなかったが、彼らにもよろしく伝えてもらいたい。なにがあっても元気に生きろ、と。

 

 俺たちは長門の詠唱で元の世界に転移し、それから朝比奈さんのタイムトラベルで二月に戻った。庭の空間から俺たちの北高グラウンドに出た。谷川氏は見えなくなるまでいつまでも手を振っていた。おばあちゃんもそこにいた。さようなら、もうひとりの鶴屋さん。

 


 グラウンドに着いた俺たちは、地元にいながら春の甲子園への出場を指をくわえて見ているだけとなった野球部連中のどまんなかに現れた。野手が唖然と俺たちを見、バッターが空振りし、キャッチャーミットからボールがこぼれた。コーチがメガホンを持ったままディレクターズチェアから転げ落ちた。またこいつらかという視線にチクチクと刺されながら、俺たちはマウンドを通り抜けた。どうもお騒がせしてすいませんねぇ。
「今日は何日だ?」
「……こっちを出て、五分後」
「あたし……吐きそう」
まだタイムトラベルに慣れていないらしいハルヒが、両手で口を抑えて水道に向かった。それ、二日酔いじゃないのか。
 喜緑さんはそのまま家に帰るというので、ここで別れることにした。
「皆さん、お疲れ様でした」
「いえいえ、いろいろ助けていただいてありがとうございました」
あれだけの活躍をしたにもかかわらず、喜緑さんは疲れひとつ見せずににっこり笑って手を振った。

 

 俺たちは一旦部室に戻った。当然だが、部屋の様子はホコリひとつ変わっていなかった。
 部屋のまんなかに、ハルヒの文庫本が落ちているのに気付いた。
「これ、まだ残ってたんだな」
俺はかがんで文庫を手にとり、パラパラとめくってみた。そこにはなにも書かれておらず、目に眩しいほどの真っ白なページしかなかった。
「中身がないな。もしかして谷川さんになにかあったんじゃないか」
「僕たちが既定事項を書き換えてしまったんじゃありませんか」
「……本は存在する。未来が白紙になっただけ」
見知らぬ世界から送られてきた俺たちの未来は、未確定のものになったわけか。
「じゃあ谷川さんが書いた既定事項は消えてしまったんですか」朝比奈さんが心配そうな顔をした。
「いいんじゃないですか。元々誰が書いたのか、本人にも分からなかったくらいだし」
ニワトリと卵のパラドックスから開放されてほっとしてることだろう。

 

 ハルヒが青い顔をして部室に入ってきたとき、長門がドアの鍵をかけた。その場にいた全員がビクッとした。俺には長門がなにをするつもりなのかは分かっていた。
「……全員に話がある」
「有希、鍵なんかかけていったい何?」
「……情報統合思念体が記憶を消せと言っている」
「どういうことなのそれ」
「……向こうとこちらでの情報の交錯は、論理的な矛盾が生じる危険性がある」
前にも聞いた、同じ理由だ。三つの世界と時間を行き来して、俺も混乱気味だ。
「長門さんのおっしゃるのは、こっちの世界にいる僕たちが、向こうの世界のことを知っていてはまずい、ということなんです」
「そういうことらしいんだ、ハルヒ」
「……こちらの世界は、向こうの世界からの派生でなければならない。情報は一方通行でしか許されない」
「実は前にも同じことがあってな、朝比奈さんと古泉の記憶を消した」
「そうだったんですか?」
古泉はちょっとばかりムッとしたようだった。
「ああ。こないだは一方的に消してしまったんだ。すまん」
「ひどいわ、って言っても覚えてないからしょうがないですね」
「ごめんなさい、朝比奈さん」
俺は両手を合わせた。朝比奈さんは苦笑していた。この人は朝比奈さん(大)に脳をいじられるのを何度か経験しているからな。
「そう……。なら、しょうがないわね」
「それに知ってはいけない未来のことも、少し知ってしまったし。仕方ないですよね」
朝比奈さんが残念そうに言った。
「よく分からないけど。知らないほうが幸せになれるなら、それでいいわ。消してちょうだい」
長門はそれを合図と見たのか、片手を上げて詠唱をはじめた。
「ちょっと待て長門」
「……なに」
「それはハルヒにやらせよう」
前回、強制的に記憶を消したことで、長門の呪文を使うのは少し気持ちが咎めた。今回は皆の総意であってほしい。
「涼宮さんが、どうすれば記憶を消せるんですか?」
「ハルヒがそう願えばそうなるだろ」
「なるほど、その手がありましたか。涼宮さんの力をもって全員の記憶を消してしまうというわけですね」
「そうだ」
「あたしにそんなことできるの?」
「涼宮さんが望めば、そうなりますよ」
「あんたたち、それでいいの?」
全員がうなずいた。
「で、具体的にどうするの?」
「みんな、手を繋いでくれ。それからハルヒが念じればいい」
ハルヒ、俺、長門、古泉、朝比奈さんの順で輪になって手を繋いだ。
「ねえ、みんなちょっと目を閉じてくれない?」
目を閉じた。俺の左にいる長門が握る手に力をこめた。鼻の先にふっとかかる息を感じて目を開けると、ハルヒの顔がそこにあった。
「あんたも目を閉じなさいよ、ジョンスミスさん」
唇に温かい感触を感じた。あの夜と同じ唇の味。禁じられた名前で呼ばれたのと、この意味不明なキスをされたことで、俺はパニックに陥り固まったまま動けなかった。

 

 それからハルヒは唱え始めた。
「今から三つ数えると、あたしたちはすべてを忘れる。
 谷川のことも、向こうの世界で起きたことも、なにも覚えていない。
 あたしは未来人も宇宙人も、超能力者も、異世界人も知らない。
 あたしは、自分が持っている力を知らない。

 

 三、二、一、……」

 

数秒間、そのままじっとしていた。部屋を充たしている空気と時間が止まった。

 

「ちょ、ちょっとキョン、なんで手なんか繋いでんのよ」
「あら、ほんとだ。わたしたち、なにやってるんですか?」
「……?」
「僕たちいったいなにをしてるんでしょうね」
古泉が苦笑した。軽く咳払いして手を離した。長門は自分の右手をじっと見ていた。俺は右手にハルヒの、左手に長門の手の、それから唇に柔らかいなにかの名残りを感じていた。
「とにかく!明日は市内不思議パトロールをやるんだからね。遅れたら、死刑よ」
へいへい、またですか。もう俺たち、やることなくなってきたんじゃないのか。急にマンネリ化の空気に包まれた俺たちは、とりあえず解散することにした。朝比奈さんが、今日は自分がコスプレをしていないことに首をかしげていた。
 部室のドアを開けて外に出たとき、背中に視線を感じて振り返った。長門がじっと俺を見つめていた。分かっている、俺は人差し指を口に当てて、なにも言うなと制した。ハルヒは、俺の記憶を消さなかった。長門にもそれが分かったのだろう。こいつらと過ごしたこの数日間の記憶は忘れたくない。ハルヒのその気持ちは痛いほど分かる。それはただの記憶じゃなくて、皆で共有した感情やら経験やら時間やらが詰め込まれた思い出なのだ。
 いつか遠い未来に、この禁則が解けたらハルヒにも話してやろうと思う。── そう、とりあえずは宇宙人、未来人、超能力者、それから異世界人を従えた涼宮ハルヒの冒険談を。

 


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