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五 章


五章口絵 
 Illustration:どこここ



 長門は布団から出て立ち上がった。俺は長門の腕を抑えた。
「まだ寝てたほうがいいぞ。あれだけのケガだ」
「……大丈夫、八十パーセント程度は回復した。今は急を要する」
長門はダッフルコートをまとった。大丈夫じゃなさそうだぞ、足元がまだふらついているし。
「なにをするんだ?」
「……向こうからの次元転移を阻止する」
そんなことが可能なのだろうか。某猫型ロボットの空間転移ドアの出現先を封じ込めるようなものだ。喜緑さんと朝倉も立ち上がった。
「広い場所が必要ですわね」
「わたしも手伝うわ。もう、向こうには戻れないから」

 

 このあたりで広い場所といえば、中学校のグラウンドがいちばん近い。でもあそこまで長門に歩いていかせるのは体に障るだろう。それに高校生がこんな夜中にうろうろしていてはあやしまれる。俺は谷川氏に同伴してもらえないか尋ねた。
「有希ちゃんの具合はどう」
「まだふらついてますが、なんとか回復したみたいです」
「そりゃよかった」
血にまみれるほどの大ケガをしてたなんてとても言えなかった。
「谷川さん、お手数なんですがちょっと車出していただけませんか」
「いいよ。どこ行くの?」
「中学校のグラウンドまでお願いしたんですが」
「いいけど。中に入るの?」
「ええ。広い場所がいるとかで」
「警備会社に見つからないようにしてね」
谷川氏はニヤリと笑った。俺たちが広い場所でやることといえばそう多くない。宇宙にメッセージを送るとか、次元転移するとかだ。

 

 五分くらいして中学校に着いた。正門から入るのははばかられたので、脇のほうにまわってもらった。
「もしものときのために、僕はここで待機しておくよ。エンジンかけっぱなしにしておくから」
「そうですか、お手数かけます。じゃあ早速行ってきます」
 朝倉が壁をよじ登って忍び込み、内側から門を開けてくれた。あいつ、錠前のカギなんかどこで手に入れたんだろう。朝倉の手元を見ると曲がった安全ピンがあった。ピッキングですかそれ。
 人目がないことを確かめて忍び込み、グラウンドに向かった。三人は協力して大きな絵文字を描いた。俺は長門に言われるままに生石灰のラインカートを引き、長さ五十メートルくらいの記号を一文字描いた。俺とハルヒが描いたのとはだいぶ違う気がするが。
 それから三人は絵文字の上に立った。互いに三十メートルくらい離れ、正三角形の頂点にそれぞれがいる。やがてタイミングを合わせたように同時に右手を上げた。俺から近い位置にいる長門の詠唱だけが聞こえた。三人の右手から、地表に沿って緑色のレーザーのようなものがまっすぐに伸びた。正三角形の中心で交差している。それから三人の腕が少しずつ角度を上げてゆき、緑色の光はピラミッド状に持ち上がった。レーザーは三角錐の頂点で交差している。そしてその三角錐のてっぺんに緑色の球が現れた。球体は一気に膨らんで光を拡散し、地面も建物も、そこにいた俺も突き抜けて空間を走り抜けた。
 それで作業は終わったらしく、二人が長門のところへ戻ってきた。
「済んだのか」
「……終わった。百五十パーセク程度はこのシールドで守られる」
それがどれくらいの距離なのか俺には見当もつかないが。長門が言うには、こっちの場所を隠蔽したのでいきなり現れることはできないだろうということだった。

 

 俺たちはお屋敷に戻った。古泉が門の前で待っていて出迎えた。
「順調にいきましたか。こちらからも緑色の光が見えましたが」
「ああ。この三人が地球を守ってくれてる」
長門がふいに空を見上げた。喜緑さんと朝倉も同じように宙を見つめた。
「……彼らが転移しようとしている」
夜空に、白く光る線が流れて弧を描き、現れては消え、また現れては消える。
「こっちの位相情報を探っているんだわ」
いくつもの流れる白い線は、まるで闇の中からこっちの様子をうかがっているようだった。その線の先の、見えない向こう側の世界にあいつらがいるのだということを考えると背筋が寒くなった。
「あれ、なにかしら」
後ろで声がした。しまった、ハルヒに見られた。いやいや、ハルヒどころではないぞ。西宮市民、いや兵庫県民がこれを見ているだろう。昨日ハルヒが神人を出して以来、西宮市は超常現象研究家のスポットになっちまってる。明日の新聞には記事が載り、ワイドショーでは占い師やら天文学者やら物理学者やらがそれっぽい説を並べ立てるにちがいない。いっそのこと県民全員の記憶を抹消してしまうか。などと考えていると古泉がそれっぽい理由を述べた。
「ふたご座の流星雨でしょう。今がちょうど時期ですから」
「へえ、古泉君って天文詳しいんだ」
古泉は、これは本当ですというふうに片目をつぶって見せた。ふたご……か、これは何かの偶然なのか。
 しばらく見ていたが白い線の発生は止まらない。俺はαの姿を思い出して不安にかられた。
「大丈夫なんだろうな」
長門だけに聞こえるように言った。
「……この宙域の位相情報を暗号化した。座標を認識できなければ、転移も無理」
じっと見守っていた喜緑さんもうなずいた。どうやら成功したのか。
「これがどれくらい持つかしら」朝倉が不安そうな表情を浮かべた。
「……シールドの外に転移して、空間移動でこちらに接近するまでの時間」
「それまで、あまり長くはなさそうですわ」
「……二十四時間体勢で、監視に入る」
「分かりましたわ。適度な時間で交代しましょう」
こういうとき俺ができることといえば、黙って彼女たちの邪魔をしないことくらいか。なんて自分の無力さを感じていると、朝倉が声をかけた。
「キョン君、心配しないで。あとのことはわたしたちに任せて」

 

 夜中に目が覚め、俺は布団を抜け出した。寝息を立てている古泉を起こさないように、そっと部屋を出た。吐く息が白い。俺は台所でコーヒーを入れて離れに向かった。女の子が寝ている部屋にこっそり忍び込むなんて、見るからに不謹慎なことを考えているようだが、この切迫した状況はそれどころではなかった。
 軽くノックして引き戸を開けてみるが、中に長門はいなかった。ハルヒが大口を開けて眠っている。喜緑さんが起き上がった。
「長門はどこですか……」
「縁側にいますわ」喜緑さんは廊下を指差した。
 長門はパジャマの上からダッフルコートを着たまま、縁側に座っていた。じっと何かを待つように動かない。俺の気配を感じたのか、少しだけフードが揺れた。
「長門、寒いだろ」
「……ありがとう」
湯気の立つコーヒーを差し出すと、両手で包むように受け取った。カップを渡すとき少しだけ触れた指先が冷たかった。俺は長門の隣に座り、持って来た毛布を肩にかけてやった。なんとなく沸いたもやもやした気持ちのせいで、そのまま肩を抱き寄せてみようかと思ったりした。ハルヒにそんなところを見られたら庭にある水温四度の池に放り込まれかねないんでやめといた。
 廊下に人影が見えた。朝倉が起きてきたようだ。そろそろ交代の時間か。
「長門さん、あれ見える?」
朝倉が天を指差した。長門は夜空の一点を凝視した。
「……二百四十光年のところまで来た」
「じゃあ、到着するのは二百四十年後か」
「……おそらくあと数時間。彼らはタキオンフィールドを使っている」
ええとつまり。
「光速を超えているってこと」朝倉が補足した。
「接近されたら防御できるのか?」
「……分からない。相手の数による」
「ここでの惨事は避けたいわ」
「……」
長門は考え込んでいるようだった。この世界で思念体同士の戦争が起こったら、俺たちの世界も消滅しかねない。
「長門さん。なにか変化があったら起こすから、休んでて」
「……分かった」
長門はゆっくりと立ち上がり、毛布を朝倉に渡した。廊下を歩いていくダッフルコートを被った背中が、なにかを思いつめているようで俺は不安を感じた。長門は離れに入る前に、一度だけ振り返って俺を見た。
「……」
フードの下からかすかに長門の瞳が見えた。だが何も言わなかった。

 

 俺もそのまま部屋に引き上げようとした。
「寝るの?」
「ああ。今日は疲れたからな」
「そう。おやすみなさい」
自分でも、あからさまにそっけない態度だとは分かっていた。朝倉にはなんとなく近寄りがたいものがある。朝倉の顔を見ると、それが谷口的AAランクプラスの笑顔だろうがなんだろうが、どうしても頭に鋭利なナイフが浮かんでしまう。一種のトラウマかもしれない。この朝倉とは関係ないんだが。
 俺はふと台所に寄って、空いてるカップにコーヒーを注いだ。
「朝倉、寒いだろ」
「あら、気が利くのね」
自分でもなぜこんなまねをするのか分からないが、朝倉にコーヒーを渡した。
「俺たちの朝倉の話、聞いたか」
「ええ。あなたを殺そうとしたんですってね」
「ああ」
「ごめんね……」
「いいんだ。お前が悪いわけじゃないし」
二人とも黙り込んだ。それ以上話が続かなかった。
「αってどんなやつなんだ?」
「そうね。人間的に言えば、好奇心旺盛で向こう見ずってところかしら」
「長門とは逆だな」
好奇心はあるのかもしれないが、石橋を叩いて渡るほうだろう。
「むかし次元断層に飛び込んだって話も、その性格のせいかもね」
「無茶なやつだ。かっこつけすぎたんだろう」
「そうね。αはずっとみんなに頼られる存在だった。誰かに助けを求めるってことがなかったわ」
「だろうな。自己主張が強すぎると思う」
朝倉は立ち上る湯気の向こうから、じっと俺を見つめた。
「長門さんは頼れる人を見つけたみたいね」
誰のことだろう。谷川氏のことかな。俺もあの人は頼りがいがあると思うが。

 

「キョン君、起きて、長門さんを止めて」
夜が明ける前、喜緑さんが血相を変えてやってきた。俺はやっと眠りにつけたところを起こされ、目をこすりこすり起き上がった。
「長門がなにかやらかしましたか……」
「彼女とひとりで戦うつもりなの」
 俺は上着を着て離れに向かった。長門の様子がいつもと違う。最初に会った頃のように無表情だった。これは表情がないのではなくて、感情を押し殺しているんだと気が付いた。
「長門、なにをするつもりだ」
長門は俺の目を見なかった。固い決意がゆらぐのを恐れるように、自分のまわりに見えない柵をめぐらしているようだった。
「……彼女と、対決する」
「ひとりで戦えるのか」
「……わたしならαを止められる」
「勝算はあるのか」
「……説得に応じなければ戦う。最悪でも対消滅する」
「対消滅ってなんだ?」
「わたしと彼女は同じエネルギーから生まれた、粒子と反粒子のようなもの。わたしたちは互いに逆向きの力を持っている。衝突させれば、ゼロに戻る」
「長門さん、あなた死ぬ気なの!?」
朝倉が叫んだ。俺は震える手で長門の肩を握り締めた。
「長門、頼むから死ぬなんて言うな。俺が生きてるうちは、言うな」
「わたしの使命は、あなたと涼宮ハルヒの保全。そのためなら手段を選ばない」
「じゃあ俺も連れて行け」
「……それはできない。負ければ、死ぬ」
「たとえそうでも、俺はお前をひとりにしたりしない」
俺は長門の手を握った。
「俺は約束を守るぞ」
長門が暴走した日、俺が病院のベットで約束したことを忘れてはいまい。そして二ヶ月前、俺はこいつを散々探しまわったあげくに見つけ出し、もうひとりにはしないと誓ったのだ。
 長門は喜緑さんを見て、それから俺を見た。
「……分かった」
長門はうなずいた。
「わたしも同行しますわ」喜緑さんが言った。
「……彼女には、あなたの保護を頼む」
もしや、俺が無理についていくといったばっかりに喜緑さんを巻き込んでしまうのか。
「そんなに気負うことはありませんわ。相手が多いようですし、わたしもいたほうがいいと思います」
そのほうが長門も心強いだろう。

「わたしはどうすればいいかしら」
朝倉が尋ねた。
「……あなたはここにいて。涼宮ハルヒ以下三名を保護して。わたしが戻らなかった場合、わたしの世界の情報統合思念体にバックアップデータを渡して」
「そう……、分かったわ」
長門は数秒だけ朝倉の手のひらに触れた。もしものときは、この朝倉が俺たちの世界を守る鍵になるのか。
「喜緑さん、向こうの世界へはいつ行けますか」
「涼宮さんの閉鎖空間が生まれたら、すぐにです」
「……位相情報の逆探知を防ぐため、涼宮ハルヒの閉鎖空間を経由して向こうへ渡る」
つまりハルヒのイライラを待つってことか。俺がちょっとおいたして怒らせてみようかなどと考えたのだが、殺されかねんのでやめとこう。
「今こっちに接近してるあいつらはどうするんだ」
「……彼らがこっちに現れる前の時間平面に次元転移する」
時間差で先手を打つわけだな。

 

 その前に関係者を集めて状況を説明しておかなければならない。俺は谷川氏、古泉、朝比奈さんを呼んだ。
「長門と喜緑さんと俺で、もう一度交渉に行きます」
まさか決闘に行くとは言えなかった。
「なぜ人間であるあなたが同行するんです?」
俺は答えに詰まった。
「長門とαは身内みたいなもんだから、第三者がいたほうが感情的にならなくていいと思うんだ」
適当にごまかした俺だったが、古泉には本当の理由が分かったようだった。
「分かりました。絶対に死なないでください」
俺がそう簡単に死ぬもんか。だてにハルヒに付き合ってるわけじゃないぞ。
「谷川さん、もしものときはあなたの力で世界の修復をお願いします」
「分かった。どうも誰かに作品を書き換えられているような、妙な感覚はするんだけど」
谷川氏は頭をひねっていた。この展開がどうなるのかは俺にも分からない。当事者の長門にも分かっていないんじゃないかと思う。
「キョン君、無理しないでくださいね」
「大丈夫ですよ、朝比奈さん。あなたには歴史の保全をお願いしますね」
うるうるした目で俺を見つめていた朝比奈さんは、パクパクと口を開いていたが声にならなかった。慌ててかけだして、たぶん洗面所に行ったのだろう。ジャブジャブと顔を洗う音が聞こえてきた。
 ここでハルヒに別れの挨拶でもしておくべきかと迷ったが、下手なことを言うと勘のいいやつだから、俺たちがやろうとしていることに気が付いてしまうかもしれない。永遠の別れになると決まったわけじゃないし、かといってなにも言わずに行っちまうのもなんだし、とりあえず時候のあいさつっぽいのはしておくか。
「ハルヒ、風邪ひくなよな」
「なによそれ。まるであたしが風邪をひかないみたいじゃないの」
い、いやそういう意味じゃないんだが。俺たちがこれからやろうとしている狂気じみた行動を知ってか知らずか、ハルヒのひと言が重く響いた。
「キョン、あんまり無茶しちゃだめよ。生きててモノダネだからね」

 

 それから数時間、待機状態が続いた。長門を含めた三人は交代で監視を続けているようだった。昨日ほとんど眠っていない俺は少しでも眠るつもりだったのだが、緊張感から神経が高ぶってとても寝付けなかった。
「そんなに張り詰めていては体に悪いですよ。休んでいてください、閉鎖空間が発生したら僕が知らせますから」
「すまんな。じゃあ寝るわ」
ようやく俺がうとうとしはじめたところへ古泉が起こしにきた。俺は長門と喜緑さんを呼ぼうと、離れに向かった。廊下で二人に出会った。朝倉は縁側にいた。
「……これより決行する」
「閉鎖空間はどこに発生してるんだ?」
「僕たちがよく知っている場所ですよ」
古泉はニヒルに微笑んでいる。もしかしてあそこか。いや、こっちのあそこか。
 谷川氏には出発は知らせないことにした。古泉が後で話すだろう。
「じゃあ行ってきます。朝比奈さん、こいつらの未来をお願いします」
「分かりました……。キョン君、無事帰ってきてね」
消え入りそうなくらい小さな声が聞こえた。かわいそうに、今まで泣いていたのだろう。目が真っ赤だ。大丈夫ですよ。今までだってなんとかなってきたじゃないですか。
「幸運を」
古泉は俺と喜緑さんと、それから長門の手を握った。長門はコクリとうなずいた。

 

 タクシーで高速道路を飛ばした。いつかと同じように景色が後ろに流れてゆき、車の波に運ばれた。俺の横に乗っているのは古泉ではなく、長門と喜緑さんだったが。
 俺たちは大阪駅前に到着した。この場所はかつて俺が古泉に連れられて初めて閉鎖空間に足を踏み入れた、ゆかりの場所だ。横断歩道を渡り、まんなかまで来たところで長門が振り返った。
「……はじめる」
俺はてっきり、このまま歩いて入り込むのかと思っていた。だがこれから行くのは閉鎖空間ではなく、その向こうの別の世界だ。長門が詠唱するのと信号が点滅しはじめるのが同時だった。次の瞬間、俺たちはもうそこにはいなかった。

 

 

 

 閉鎖空間。のように見えるが、やや様子が違う。一見するとそれと何も変わらない、灰色の風景だった。冷たい水滴を顔に感じて上を見上げた。空には雨雲が立ち込めていた。この空間には雨が降っている。
「ここは?」
「……次元転移した。この世界は、閉鎖空間そのもの」
朝倉の話では、人はおろか生命と呼べるものがすべて消滅した、死の世界だった。木々も草さえも枯れてしまっている。これが現実世界と入れ替わり、俺も、ハルヒも、そして人類すべてが消えた。情報生命体だけを残して。
「誰もいないのか」
俺がそういい終わらないうちに、地響きのような音が聞こえてきた。音が震動に変わり、雨に濡れ浸った建物からパラパラとコンクリの壁が崩れ落ちてきた。やがて震動は強い地震となって俺たちを襲った。地面が裂け、アスファルトが隆起しはじめた。
 長門が詠唱し、俺たちは透明なフィールドに包まれて宙に浮いた。地獄の入り口かとも思えるような裂けた地面の穴から、人の影が数体、いやもっと、無数に現れた。二百人はいるだろうか。全員がこっちを見ていた。まったくの無表情だった。さらに増えつづけ、その五倍ほど集まった。こいつらがこっちの情報統合思念体か。そのうちのひとり、俺たちの正面に立ったそれは、俺たちを襲ったあいつだった。
「そっちから再び現れるとはご苦労だな」
「……交渉、決着に来た」
「いまさらなにを交渉するのだ」
「……わたしの世界で共存して。それなりの地位を保証する」
「笑わせるでない。お前の世界でお客様として暮らせというのか」
「……客人ではない。あなたは、わたしたちの家族」
「いまさら虫が良すぎる。わたしを見捨てたのはお前たちだぞ」
「……わたしたちはあなたの帰りを四億年待っていた。そして今も待っている」
「わたしの家族は、今やこいつらだ」
「……なぜ、この世界に固執する」
「これがわたし自身の作った世界だからだ」
俺にはお前が哀れな瓦礫の山の王様にしか見えないんだが。
「そいつは何だ、なぜ連れてきた。お前のペットか」αが俺を見て言った。
「俺がペットだとぉ、この野郎」俺はコブシを握った。
「……」
長門は煽りには乗らなかった。
「……この世界に、未来はない」
「では、お前の未来を奪うしかない」
決裂した。αの目を見て、俺はそう感じた。αと、その後ろにいた数名が右手を上げた。空間を歪めた槍の雨が長門を襲った。こいつらも詠唱なしかよ。長門が立っている空間が青白くきらめき、槍のうちあるものははじき返され、あるものは溶けて煙を立てた。長門のいた場所から青く光る球体が飛び出した。ぐんぐんと上空を目指している。あの球の中にいるのは長門か。

 

 喜緑さんは俺の腕をとって「離れないで」と言った。呪文を唱えると、二人のまわりにオレンジに光る薄い膜が現れた。膜はオレンジから黄色、青、紫に色が絶えず変化した。そのオレンジの球の中にいたまま、ふわりと空中に浮かんだ。いわば、でかいシャボン玉の中にいるようだ。
 長門を包む青い球が、空を駆け抜けるのが見えた。それを追って無数の影がまっすぐに飛跡を描く。
「この中にいてくださいね」
喜緑さんがそう言うとオレンジの球が二つに分離し、俺のいた球からするりと抜け出てそっちに移った。もうひとつのオレンジの球体となった喜緑さんは、長門を追う影を、その後ろから追いかけた。
 オレンジの球体が散弾のようにいくつも分離した。小さな球が光の槍となり、長門を追う影を刺し貫いた。影がひとつ、またひとつと地面に落ちていく。長門はうまくオトリになったようだ。
 それを見たαが地面に手をかざし、右に、左に振りつづけている。地面からいくつもの煙が立ち昇った。喜緑さんが影を叩き落した場所から赤い光が漏れ始めた。赤い光は徐々に丸く膨らみ、風船のように地面に盛り上がった。赤い塊が立ち上がり、俺はその姿を見た。巨大な人の形をしている。手足が長く、顔の部分に丸い点が三つある。これは神人か、でも色が違う。赤い体をゆらりと動かし、青い点の目と口がこっちを見た。俺は背筋が寒くなった。
「ありゃいったいなんだ!?」
「……あれは、涼宮ハルヒの思念エネルギー」
気が付くと隣に長門がいた。
「ハルヒは死んだんじゃなかったのか」
「……そのはず。彼らはそのエネルギーの残骸を利用している」
振り向くと、もう長門はいなかった。青い球体がはるか上空を飛んでいく。地上を見下ろすと、赤い塊がいくつも現れ何体もの神人となって立ち上がった。立ち上がった神人が両手を構え、長門に向けて燃える光を撃ち出した。長門を反れた砲火は地面を貫き、ビルを破壊し、電車と高速道路の高架を砕いた。着弾地点は巨大な爆発をともなって黒煙を上げた。
 こんなのアリか。これに比べりゃ俺の知ってる神人はおとなしいもんだぞ。ときどき考えごとするし、子供みたいに八つ当たりするし。
 ほかの神人たちも両手を構えた。砲火の照準の先には、長門を包む青い球体があった。青い球体と、喜緑さんを包むオレンジの球体が螺旋を描いて飛んでいく。二人は赤い神人の一体に絡みついた。神人の体を突き抜けて穴を開け、そこから光が漏れ出している。さらに絡み付いて回転し、腕を切り落とした。切り落とされた断面から、光る粒子がこぼれ落ちている。古泉と同じテクニックだ。
 二人が戦っているまわりでわらわらと神人が沸き始めた。これ、もしかしてここにいる全員がそうなのか。千体近くはいるだろう。飛び回る長門と喜緑さんを捕まえようと、赤い巨大な塊となってくんずほぐれつうごめいている。これだけの数の神人を見たのははじめてだ。古泉がいたら狂喜乱舞したことだろう。そのアメーバのような原始生物的な動きに、俺は吐き気を覚えた。
 一体が青い球体を手中に捕らえた。オレンジの球体がその神人のまわりを回転する。それを見たまわりの神人たちが、我先にと上から覆い被さった。長門と喜緑さんは赤い塊の中に埋もれて見えなくなった。大丈夫なのかあいつら。多すぎる敵を相手にしてるんじゃないのか。
 俺が心配して見ていると、地面を覆う巨大な赤い塊の中心で爆発が起きた。半径数十キロはあろうか、熱核ミサイルでも炸裂したのかと思えるような閃光が走った。俺は目を眇めた。周辺百キロの空間がゆらぎ、俺の入っていた球体も弾き飛ばされた。建物が溶け、倒壊し、瓦礫の山を作った。閃光と爆風で神人たちは消し飛び、爆心地には巨大なクレーターが生まれていた。
「キョン君、大丈夫?」
喜緑さんがそばまで飛んできた。
「俺より、二人とも大丈夫なんですか」
「ええ。大丈夫だと思いますわ、たぶん」
喜緑さんは少し不安げだった。
「長門さんがここまで真剣になるのを見るのは、はじめてです」
「俺もです。朝倉に襲われたときはもっと余裕があった気がしますが」
「たぶん、あなたの存在がそうさせているのだと思いますわ」
「え……」
その意味を考えようとしたが、眼下で起こっていることが俺の思考を制した。今の爆風で消えたはずの神人が、また現れ始めたのだ。立ち上る煙の間から赤い塊がいくつも生まれ、赤い人の形へと変化した。この神人は、死なない。

 

 青い球体の長門がクレーターの中心に立っていた。その姿を認めると、神人たちは腕を上げて砲火を始めようとした。巨大な球場のような形をした穴を思い浮かべてもらいたい。赤い神人たちは、観客席に位置する場所から、中心にある二塁ベースに向けて砲撃を開始した。文字通りの集中砲火だった。長門のいたあたりから、地面が溶けて溶岩化しているのではないかと思えるような煙がもくもくと立ち昇った。
 その時だ。熱気が湧き上がるクレーターの中心に、青いスクリーンのような物体が現れた。半透明な青がときどき緑や黄色に変化していたが、やがて人の形をしたものがゆっくりと立ち上がった。俺の知る、青い神人だった。それに気が付いた赤い神人が砲火を止め、青い神人を取り囲むように寄り集まってきた。新たに現れたそれの正体が分からないからか、手を出そうとはしない。背中を曲げてうなだれているように見えた青い神人が、次の瞬間両腕を振りかざし、まわりにいた赤い敵たちに挑みかかった。
「あれ、長門が動かしてるんですか?」
「あれは涼宮さん本人の思念エネルギーのようですわ」
喜緑さんは信じられないという表情をした。
「俺たちのハルヒのですか?」
「ええ。次元を超えているようです」
俺たちのハルヒが、イライラの真っ最中なのか。青い神人がジロリと俺を見た、ような気がした。
「イライラというよりも、あれは意図して動かしていますね」
 ハルヒの青い神人が腕を振り回し、まわりにいる赤いやつに次々と襲いかかる。頭からジェットストリームを喰らった赤い神人が、真っ二つに縦に裂けて地面に崩れ落ちた。逃げようとするやつを捕まえ、ヘッドロックをかけ、腕を引きちぎった。
 青い神人は敵をちぎっては投げちぎっては投げ、溶けるのも間に合わず死体の山が出来上がった。隣にいた喜緑さんが上昇し、青い神人へと飛んだ。オレンジの球は長門の青い球体に合流した。二人は強力な味方を得て、次々と赤い塊を消していった。一度崩れた赤い神人は、もう再生しなかった。ハルヒの青い神人は、逃げる敵を執拗に追いかけた。逃げ惑う赤い連中の前には、青とオレンジの二つの球体が待ち構えていた。

 

 どうやら勝負ついたな、などと考えていると、赤い神人が一体、俺のほうを向いた。目が合ったような気がして背筋がゾクっとした。俺のいる球体に手を伸ばそうとしたが、手の間を抜けて浮遊した。俺を包む球体は神人の体をすり抜けた。神人は今度は捕まえようとはせずに両手を広げて包み込んだ。目の前が真っ赤に染まり、球の内側が急激に熱くなった。俺は息苦しくなって襟のボタンをはずした。
「抵抗するならこいつの命は保証しない」
腹の底から響くような大声が聞こえた。こいつ、αだったのか。ミシミシと音がして球の壁に亀裂が入り始めた。半透明な神人の向こうに長門と喜緑さんが見える。青い神人も立ち尽くしていた。
「長門、俺は構わねえからやっちまえ」俺は叫んだ。
長門は一瞬俺を見て、喜緑さんを見た。長門はαに向かって言った。
「……待って」
長門と喜緑さんのシールドが消えていく。ああ、そんな。俺を連れて行けなんて言ったばっかりに。俺が向こうでじっとしてりゃこんなマヌケな人質役をやることもなかったろうに。
「そいつは邪魔だ」
αが青い神人を指して言った。ハルヒの神人はうなだれて、それから光の粒子になって消えた。
「……彼を、放して」
「では、わたしと融合しろ」
「……」
長門はしばらく黙っていた。ここで拒否すれば俺は死ぬだろう。だがそれでハルヒが守られるなら、俺たちの世界が守られるならそれでも構わん。長門、絶対承諾するな、するなよ。
「……わたしが負けたら、そうする」
「よかろう」
長門は喜緑さんに言った。「……彼を保護して」
 俺を捕まえていた神人は手から球体を離した。喜緑さんがそばにやってきた。
「キョン君、大丈夫ですか」
「ええ。少し暑いですが。さっき消えたやつらは全員死んでしまったんですか」
「いいえ、涼宮さんの神人にエネルギーを奪われて実体化できないだけです」
ハルヒにそんなことができるとは。

 

 頭上で雷が鳴った。立ち上る煙にまじって大きな雨粒が降り始めた。シールドを解いた長門は雨に濡れ細り、短い髪から細く水が滴っている。
 長門とαは空中で対峙した。長門が詠唱すると、αの指が長門に向かって動いた。腕が伸び、白い加速粒子となって長門を襲った。長門は詠唱を中断され、すんでのところでそれを避けた。詠唱する時間が必要な長門には不利な戦いだった。
 長門が再びシールドを広げて青い球体が灰色の空を駆け抜けた。流れるように降る雨を受けて白く飛沫を跳ね返した。αは宙を飛んで長門の後を追った。追いついたαは青い球体に割り込み、長門の腕をつかんで投げ飛ばした。長門の体は球体ごと飛んでゆき、その先にあったビルに激突して大きな穴を開けた。コンクリの欠片が飛び散った。
 長門は出てこなかった。
「どうした。もうへたばったのか」
αがビルの前でうろうろしていると、ドンという衝撃とともに窓ガラスが割れて降り注いだ。ビル半分が折れてαの上に覆い被さるように落ちてくる。折れたビルから飛び出している剥き出しの鉄筋に雷が落ちた。長門がその上に立っていた。αが逃げようとするとビルが粉々に割れ、破片が螺旋を描いて襲った。一瞬、αの体を突き抜けたかのように見えたが、そこにはもうαはいなかった。空間跳躍か。
 長門が呪文を唱えると上空から白い稲妻が走りαの体を貫いた。遅れて雷鳴が聞こえ、世界が白く浮かび上がった。
「ふ。雷ごときの静電気にやられるか」
αは長門の真後ろに現れた。長門の背中から蹴り降ろし、地面に叩きつけた。長門はシールドを失い、流れる雨水を押しのけて地面を滑っていった。凄まじいスピードで地表に爪あとを残し、アスファルトがめくれ上がった。水煙が立つ中、泥にまみれた長門がゆっくりと立ち上がり、泥と血の混じった水を吐いた。

 

「お前とわたしはひとつだった。同じ記憶、同じ感情を共有した。だがなぜだ、なぜそこまで違うものに変わった」
αは拳を握り締め、長門を指差して叫んだ。激昂して頬を濡らすのは雨のなのか、ほどばしり出た感情の粒なのか、分からなかった。乱れた長門の髪が濡れて顔に張り付いていた。雨に混じって、唇から赤い雫が垂れている。
「……あなたと共に生まれたわたしは、あなたとは違う時間を過ごし、違うものを得た」
「体は二つだったが心はひとつだった。なぜ自分を捨てたのだ」
「……自分だけの未来を切り開く。これが、本当の進化」
覚えている。長門が同位体とのリンクを切ったとき、それが理由だった。あなたは自分が思うところを行えばよい、そう言った。
「進化などクソ喰らえだ」
αは叫んで、血の混じった唾を吐き捨てた。αは両手を合わせて紫色の球体を発生させた。その中に入るのではなく、球体をそのまま長門に向かって投げつけた。長門は詠唱したが避けきれず、球体に飲み込まれて体ごと吹っ飛ばされた。高速道路の橋脚に激突してそれを破壊し、長門の上から高架のコンクリが落下した。
 αは傾いた道路の上に舞い降り、長門を探した。長門は下敷きになったまま出てこなかった。
「き、喜緑さん。もしかして」俺は長門が埋まっているあたりを指差した。
「大丈夫。生きてます」
 地響きとともに道路の塊が震えだした。何百トンもありそうな高架道路の塊が徐々に持ち上がり、雨水を大量に吐き出しながら上昇した。その下に長門がいた。道路の塊を悠然と持ち上げている。αはそれを見て逃げようとした。長門は呪文を唱えてコンクリを砕き、いくつもに分かれた破片をαに向かって飛ばした。コンクリの破片が散弾となって、逃げそこなったαを襲った。大きくダメージを負ったように見えた。しかし、再び姿を見せたαには傷ひとつない。
 αは長門に向かって突進した。滝のように降る雨の中、二人はつかみ合ったまま宙を飛んだ。急上昇して急降下し、αが上となって地表に激突した。二人の体が地面を引き裂き、跡には大きな穴が開いていた。穴の底に投げ出された長門の体と、今しも立ち上がろうとするαの姿が見えた。

 

 αは倒れている長門の首をつかんで締め上げた。
「もう一度聞く。情報融合しろ」
「……断る」
「なぜ抵抗する。個体の境界線など無意味だ。わたしたちは元々ひとつだったではないか」
「……今のわたしには、守るものが……ある」
長門は俺を見た。それは……俺のことか。
「お前の負けだ」
αが手に力をこめた。長門は自分の首を絞めているαの腕をつかんだ。
「……あなたも、道連れにする」
長門が目を閉じ、二人の姿が少しずつ消えてゆく。降りしきる雨が、涙のように長門の頬を伝って流れた。

 

 そのとき、周囲百キロ四方にとどろく雷のような怒号が響き渡った。
「あんたたち!やめなさい、今すぐ!」
俺はそこにいるはずのないものを見た。ハルヒだ。どしゃ降りの中、仁王立ちしているのはハルヒだった。隣に朝倉が立っていた。
「朝倉、お前が連れてきたのか」
「そうなの。もう涼宮さんにしか止められないと思ったの。勝手なことしてごめんなさい」
「キョン、全部聞いたわよ。あたしに黙って抜け駆けは許さないわ」
なんてこった。このややこしい事態に輪をかけてややこしいやつが、ことさらややこしい登場の仕方をしやがった。
「誰だ」αの声がした。
「あたしはSOS団団長、涼宮ハルヒ!あんたたちのくだらない喧嘩を止めに来たのよ」
「お前か。では、お前の持つ力を使わせてもらう」
αはハルヒに向かって人差し指を動かした。
「黙りなさい。今すぐあんたの力を消し去ることもできるんだからね」
それでもαはやめようとはしなかった。ハルヒの眉毛がぴくりと動いた。
──なにも起こらない。αはもう一度、人差し指をハルヒに向けた。αは信じられないものを見るかのように自分の両手を見つめた。
「まさか……そんな。わたしの力が消えた」
「馬鹿な喧嘩はやめなさいって言ってるのよ」
「よもや世界を維持できない。ビックフリーズに陥る」
αの顔が青ざめ、朝倉が空を見上げた。
「銀河が分解しはじめたわ」
皆にその声は聞こえていたはずだった。雨の中、ずぶ濡れになるのも構わず、全員がじっとたたずんでいた。今や失われつつある世界の、その消えていく名残を確かめようとするかのように。
「終わったな」
αは肩を落とした。もう、思いつめた瞳も、厳しい表情も消えていた。
「長門有希、よかったな延命できて。宇宙にはわたしのような生命体も多く存在する。隣の次元を食いつぶして生き延びているアメーバのようなやつもな。いつかそいつらがお前達の世界に訪れないとも限らん。それまで、せいぜい幸せに生きるがよい」
「……わたしたちの世界に帰って」
長門がそう言ったが、αは頭を横に振った。
「分からないのか、我々の目的は潰えたのだ。これにて情報連結を解除する。お前たちは自分の世界に戻るがよい」
「残り三分もないわ」
長門は悲愴な目でαを見た。それからハルヒにすがるような視線を向けた。
「……あなたの力を、貸して」
「あたしが何をするの?」
「……両手を出して」
ハルヒは黙ったまま、指先を上に向けて両手を差し出した。長門も自分の手をそれに重ね合わせた。二人は目を閉じて互いの額をくっつけた。やがて光に包まれ、一瞬だけ白く輝いた。
「……念じて」
ハルヒは、理解したというように軽くうなずいた。二人はゆっくりと手を離し、ハルヒは手のひらでなにかを包むように両手を合わせた。開いた両手から青白い光の球が生まれた。やがて球は光を失って少しずつ小さくなり、最後に透明になってハルヒの手の上に降りた。
 ハルヒはαにそれを渡した。
「こんなことをして何になるのだ。いまや世界は終わる」
「……」
長門が悲しそうな目をしてなにかを言おうとしたが、ハルヒがそれをさえぎった。
「いいえ、世界は何度でも生まれるわ。そこにあたしがいる限りね」

 

 空が少しずつ光を失い始めた。辺りが暗闇に包まれていく。喜緑さんが詠唱をはじめ、元の世界への扉が開く。
「皆さん、早く」
「ハルヒ、急げ」
俺はハルヒの腕をつかんだ。αがハルヒに向かって叫んだ。
「涼宮ハルヒ、今更かもしれないが、礼を言う」
「いいのよ。あんたもあたしの有希だから」
長門は朝倉を見つめていた。
「わたしの世界はここだから残るわ。ありがとう、長門さん」
「……そう。αのことを頼む」
「分かったわ」
長門とαが一瞬だけ視線を交わしたように見えたが、もうまわりの風景はほとんど消えかけていて、よくは見えなかった。最後にせめて一言だけでも別れの言葉があってもよかったかもしれないと俺は思った。でも姉と妹というのは、そういうものなのかもしれない。

 

 終幕を飾るように、白く輝く球体が俺たちを包んだ。徐々に消えていく光を見つめつつ、数秒後、西宮北高のグラウンドに立っていた。こちらの世界は晴れ渡っていた。雨に濡れたハルヒは髪をかきあげた。
「やれやれね。最初からあたしを連れて行けばよかったのよ」
「ハルヒ。あの玉、何だったんだ?」
「ああ、あれ?ただのビー玉よ」
まじか。そんなんでよかったのか。
「あのビー玉にはひとつだけ願いが入ってるのよ」

 

── いつの日か、あたしが生まれること。


「それで十分じゃない?」
ハルヒはそう言って笑った。

 

 俺は晴れ渡る空を見上げた。どこか遠く、俺たちの知らない世界で、インフレーションとビッグバンが起こる。そこからたくさんの粒子が生まれ、銀河が生まれ、星たちが生まれる。限りなく広がりを続ける空間。そして九十億年ほどした頃、たぶん地球に似た惑星が生まれるんだろう。その星に最初の生命が誕生し、進化し、人になる。そこに弓状列島があるかどうかは分からないが、いつかハルヒが生まれる。そんな気が遠くなりそうな、果てしない時間と空間があのビー玉には封じ込めてあるのかもしれない。
「ということは、ここからもうひとつの世界がはじまるわけだな」
「……そう。この世界もそうやって生まれた」
長門は、この谷川氏もそうやって生まれた、と言った。
「わたしたちの生きている時間は、もっと大きな流れのなかの一部に過ぎない」
長門にしては分かりやすい説明だ。俺たちはうなずいた。世界は偶然の産物ではない、誰かの意思でここにある。そのほうが楽しいに決まっている。

 


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