四 章

 

四章口絵

Illustration:どこここ

 


 

 目の前に白い球体が現れた。光が消えて人の影らしきものが残った。その影を見て、俺はおぞましい記憶が蘇った。長い髪、まっすぐに見通す瞳、機敏な身のこなし、鋭利なナイフ。
「朝倉か!」
忘れもしない、二度も殺されかけたあいつだ。俺はとっさに身構え、手近にあった竹ぼうきを持ち上げてそいつに振りかぶった。
「待って」長門が俺を制した。「……これは、朝倉涼子ではない」
「えっ」
俺は振り下ろしかけたほうきを頭の上で止めた。見下ろすと、そいつは自分の頭を守って縮こまって怯えていた。こいつは、朝倉じゃない。なおも警戒する俺に向かって、そいつはゆっくりと顔を上げた。
「や、やめて……。それを降ろして」
「お前は誰だ」
俺はほうきを地面に降ろした。そいつは俺をじっと見つめ、危険がないことを知ってやっと立ち上がった。
「わたしは情報生命体β-022」
「朝倉とは別人か。どう見ても朝倉と同じ姿なんだが」
「そっちのわたしは朝倉っていう名前なの?じゃあ、そう呼んでいいわ」
「β-022ってことは、お前は複数いるのか」
「わたしの世界では情報統合思念体はある個人から別の個人が派生するのよ。だからこういう名前なの」
つまり、コピーか。
「失敬ね。あなただってコピーでしょうに」
朝倉はムッとしたように言った。まあ、言われてみればそうだ。
「……あなたの目的はなに」
「αがこっちに来たでしょう?」
「……襲撃を受けた」
「ごめんね。彼女、焦ってるの」
「……なにがあった」
見る限り、この朝倉に敵意はなさそうだ。こっちにはヒューマノイドインターフェイスの二人と、それにハルヒもいるんで手は出さないだろう。
「立ち話もなんだ、とにかく中に入れ」
俺は朝倉を屋敷の中に招いた。なにかあった場合、長門と喜緑さんが作った結界の中のほうが有利だ。

 

 自分ちでもないのに勝手に客を呼び込んだりして、俺はまたおばあちゃんに謝らなくてはならない。
「おばあちゃん、たびたび申し訳ないんですが、また友達が増えてしまいました」
「あれあれ、ベータちゃんかい。よく来たね」
「え、おばあちゃん知り合いなんですか」
ヒューマノイドに知り合いがいるなんて、どういう知己なんですか。
「前にね、あなたたちを探して訪ねてきたの」
「まあおあがりよっ。最近はいろんなお客様が見えて、あたしゃ嬉しいさ」
 お茶を出してくれるというので、座敷に案内しようとしたところにハルヒと出くわした。ハルヒはそこにいるはずのないやつの姿を見てギョッとしたようだった。
「ええと、ハルヒ、紹介する。朝倉だ」
朝倉はなにか懐かしむようにハルヒを見た。
「あれ、朝倉?あんた、こっちの世界に来てたの?カナダに行ったとばかり思ってたわ」
「あの……わたしはあなたの知ってる朝倉さんとは違うの」
「ハルヒ、こいつは見た目は朝倉だけど、別の朝倉なんだ」
「ふーん。なんだか分からないけど。他人の空似にしては似すぎね」
「双子のようなものだと思ってくれたらいいわ」
朝倉は苦笑した。

 

 谷川氏は新たに増えた朝倉を見て笑った。
「あれれ、朝倉さんじゃないか。まるでオールスターだね。あといないのは誰?」
ええっと、俺の妹と谷口と国木田くらいですかね。あいつらはどうでもいいですが。
「この朝倉、俺たちの朝倉ではなくて別世界から来てるらしいんです」
「なんてことだ。もうひとりの有希ちゃんと同じ異世界かい」
「詳しくはこれから朝倉に尋ねるところなんですが、ハルヒには聞かせないほうがいいかと」
文庫のことも、情報生命体αに襲われたこともハルヒには話していない。どう説明すればいいのか、そもそも説明するべきかも分からない。俺たちがまだ正確なところを把握していないというのもある。なのでハルヒには、この朝倉の話は聞かせるべきじゃないと判断した。
「分かった。なんとかするよ」
すべてを説明しなくても事情を理解してくれるところは頼もしい。谷川氏はおばあちゃんになにごとか耳打ちしていた。おばあちゃんは割烹着を脱ぎながら言った。
「ハルヒちゃん、これからケーキを受け取りに行くんだけど、ついてくるかい?」
「もっちろん行くわ」
ハルヒが口を半月のように開いて言った。ケーキで釣れるなんて安いもんだな。
「ナガル、車を貸しておくれ」
おばあちゃんは谷川氏からキーを受け取った。それを聞いて、運転なんかして大丈夫ですか、とでもいうように全員がおばあちゃんを見た。おばあちゃんは腕まくりして親指を立てた。
「あたしゃこれでも国際A級持ちさっ。近頃じゃクラッチのない、へなちょこ車ばっかりだけどね」
知らなかった。もしかして合気道なんかもやってませんか。

 

 ハルヒ以外の全員が揃ったところで、朝倉に尋ねた。
「αってのは何者なんだ」
「わたしたちの世界の創始者、と言うべきかしら」
 数億年前、αは次元断層を越えて別の次元に出た。いや、流れ着いたというべきだろうか。まだ若い銀河で、そこには情報統合思念体も人類も、およそ知的生命体と呼べるものは存在しなかった。αは自分の情報をコピーし、自らを頂点とする情報統合思念体の組織を作った。
「でもわたしたちには致命的な欠陥があったの」
「欠陥?」
「非ヘテロ的発生は多様性がないのね。ひとつの要因ですべてが崩壊しかねないわけ」
つまり、分かりやすく教えてくれ。
「同じコピーを繰り返しているだけでは、同じ病気にかかって全滅しかねないということですね」
古泉が解説した。
「そう。それで、αは経験値から構成情報を書き換える仕組みを作った」
「……それは、自律再構成のこと」
「そうよ。でも、統計的に一定範囲のものしか生まれないという欠陥は回避できなかったのね」
島国で育った民族の血が濃くなるってやつと同じだな。
「まさかそれだけの理由で俺たちを侵略しようとしてるわけじゃあるまい」
「まだ先があるのよ」
 あるとき銀河の片隅で、地球型惑星に知的生命体の因子が芽生えた。二足歩行し道具を使うようになった人間である。αたちはその星を観察し、文明が発生するきっかけを作った。約十万年で現在の水準に達した。
「わたしたちの地球環境のことね。わたしたちは知的生命体そのものを作ることはできない。でも発生の確率を計算することはできるわ」
「僕たちの世界では百十万年もかけたのに、十万年で作ったとおっしゃるんですか」
それが短いのか長いのかは俺には分からんが。
「αはいつだってせっかちなのよ。十分に成熟する時間を待てないのね」

 

 人類の文化や技術は、思念体の意図もあって急速に成長を遂げた。そして誰も予想していない事態が起こった。突然変移のごとく妙な力を持った子供が生まれた。涼宮ハルヒである。
「最初は危険因子と見なされたわ。手に負えなくなる前に処分してしまおうという意見もあったんだけど、思念体の一部が止めたの。もしかしたら、わたしたちの進化を次の段階に進めるヒントがあるんじゃないかって」
そのへんはうちらと同じよね、という感じで長門と喜緑さんは顔を見合わせた。
「わたしたちは涼宮さんの能力を伸ばす方向で介入したの」
 涼宮ハルヒが十三歳になったとき、自分を取り巻く事実に気がついた。自分は誰かに観察されている、人生をコントロールされている、ということを自覚したのだ。なぜそれがバレたのかは分からない。そして宇宙に向かってメッセージを発信した。東中グラウンドに描いた、あの絵文字である。ただし“わたしは、ここにいる”ではなく“ここにいるから来い”だったらしいが。
「わたしが地球上で涼宮さんの保全を任されていたんだけど。それからというものはもう、なだめたりすかしたりの連続だったわ」
その苦労は分かる。俺と長門、古泉と朝比奈さんの四人はウンウンとうなずいた。どこの世界にいってもハルヒは世話を焼かせるんだ。
「そっちの世界でも苦労したんだな」
「わたしたちは涼宮さんに手取り足取り世話を焼きすぎたのね。今考えれば、自然発生した彼女の能力なんだから、自然の淘汰に任せればよかったのよ」
次の朝倉の言葉は、意外なひと言だった。
「涼宮さんには願望を実現する能力がある。でも、同時にバランスを取る能力も備わっている」
古泉がほぅと感嘆の声を上げた。
「僕たちにはその考え方はありませんでした。貴重なご意見です」
「結果論だけどね」
「そっちのハルヒはどうしているんだ。元気なのか」
「今は存在しないわ……」
全員が驚いて朝倉を見た。朝倉はうつむいた。
「あれは連鎖だったの。キョン君が消えて、涼宮さんが暴走した」
「暴走って、なにがあったんだ」
朝倉は少し黙り、ひと呼吸置いて口を開いた。
「涼宮さんが自分の記憶からジョンスミスの名前を消したの。最初から存在しなかった、と」
「それだけでか」
「そこから連鎖がはじまったの」
歴史に矛盾が生じ、致命的な次元断層が起こった。その結果、俺が消えてしまうことに。断層のため、過去に戻ってフォローすることもできなかった。俺が消失したことでハルヒは自分の能力に気がついた。暴走したハルヒは自らの存在を消した。
「なにが間違っていたのか分からない。わたしたちは介入すべきではなかったのかもしれない。今となってはどうにもならないわ」
「あの、ジョンスミスって誰なんですか」
古泉が口を挟んだ。こいつは知らされていないんだった。朝比奈さんの頭のまわりにも疑問符が回っているようだ。あのとき気絶していた朝比奈さん(小)はたぶんまだ知らない。おそらく長門は知っているだろう。どう言ったものか俺が答えあぐねていると、谷川氏が口を開いた。
「ジョンスミスってのは、まあ、言ってみればハルにゃんの白馬の王子様だね」
「ロマンチックですね」
そうだったんですか。ってどうでもいいだろそんなこと。
 超能力者の能力も消えてしまったために神人のエネルギーが臨界点に達し、閉鎖空間が現実世界を覆い尽くしてしまった。そして現在、αの力だけで銀河の消滅を食い止めている。
「その力がなかったら、数分で銀河は消滅するわ」

 

 全員が押し黙った。向こうの世界ではハルヒどころか人類すら存在しない。消えちまったんだ。ハルヒが自分のいない世界を作っちまった。それを維持するやつを残さなかったために世界そのものが存続できないという矛盾をも生み出したのだ。そして今や銀河そのものが消えようとしている。
「……それが、わたしたちを侵略しようとする理由か」
長門が話を元に戻した。重要なテーマはむしろそっちだった。
「そうなの。直接あなたたちの世界に接触しようと試みたんだけど、やたらガードが固くってね」
文庫本も時空震もこいつらの仕業だったんだな。
「でもわたしは、無意味な戦いは避けるべきだと思うのね」
「……」
「穏便に交渉する余地はあると思うの。結果的に上書き支配するとしてもね」
この朝倉が恐ろしいことを平気で口にする様子を見ていると、案外俺たちの知る朝倉と変わらないのかもしれない。
「そろそろ帰らなきゃいけないわ」
 言うだけ言うと、朝倉は腰を上げた。てっきりここに泊まると思っていたのだが、こいつには自分の居場所があるようだ。
「それから、ここに来たのはわたしの独断専行だから。もし彼女の逆鱗に触れたら消されちゃうかもね。そのときはごめんね」
名前にある022という数字の意味は、そこにあるのかもしれない。長門はなにを思ったのか朝倉に近寄り、右手を差し出した。
「……手を、出して」
「わたしのバックアップを取るつもり?そんなことをして何になるというの?」
「……分からない。でも、ほかに方法を思いつかない」
「いいわ」
朝倉は承知して左手を出した。二人の手はほんの一瞬触れただけだった。
「……無事を祈る」
「ありがとう」
こいつは、俺たちの朝倉が長門に消されたという過去を知っているのだろうか。あるいは長門のその記憶が、朝倉の保存を促したのだろうか。
 朝倉は庭に下りてこっちを見た。かるく手を振って「じゃあね」とだけ言った。朝倉の体を包むように白い球体が生まれ、やがて消えた。詠唱はなかった。

 

 明かされた事実に誰も口を開かない。どうコメントしていいのかすら分からない。古泉が沈黙を破った。
「……これは恐るべき事態ですね。僕たちの世界でも十分起こりえることです」
「けど、俺たちのハルヒは自分の能力を知っても暴走していないぜ」
サンタを呼び寄せたのが暴走っていうんなら、今までのハルヒは台風とハリケーンとサイクロンを合体させたくらいの嵐だ。
「重要なのはあなたの立場です。あなたがいなくなってしまったら誰も涼宮さんを止めることはできないでしょう」
「俺はハルヒのストッパーなのかよ」
「そうです」
あっさりと返ってきた答えに俺は頭を抱えた。やっと分かった、前から謎だった俺の存在意義はそれだったのか。
「落ち着いてくださいキョン君。わたしたちの世界は谷川さんが作っているわけですから、彼次第ということになりますわ」
喜緑さんがニコニコして谷川氏を見た。彼女の目は、面白半分に変なこと書いたらタダじゃおきませんからね、と言っているようだった。谷川氏は疲れたように肩を落とし、ひとことだけ呟いた。
「モノを書くってのは、因果な商売だね……」


 朝倉は現状を伝えただけで、なんの解決の糸口も残さなかった。正直なところ、だからどうしろっての、というのが俺たちの気持ちだった。
 朝比奈さんがお茶のおかわり注いでくれた。しばらく黙ってお茶をすすった。
「……彼女と話してくる」
ずっと考え込んでいた長門がぼそりと言った。
「向こうの世界に行くのか」
「……朝倉涼子から位相情報を読んだ」
さっきバックアップを取るとか言ってたのは、本当はそれが目的だったのか。それも戦略か。
「行ってなにをするんだ」
「……元々αはわたしたちの世界にいた。戻るよう話してみる」
「そう簡単にいくだろうか」
「その気があったなら、向こうから話を持ちかけてくるでしょう」喜緑さんが言った。
確かに、いきなり襲ってくるあたりは、もう最初から話し合う余地などないことを見せているようなもんだ。
「……わたしには、彼女の考え方が分かる」
「あいつはお前の姉だったな」
「……そう。論理構造は似ている」
もし話し合いで解決できるならそれに越したことはないが。古泉が不安な表情をした。
「長門さんとはだいぶ考え方が異なるように見受けられますが」
「……それは、性格の違い。わたしの頼みなら、聞くかもしれない」
結局俺たちがあれこれ考えるより、長門と喜緑さんで最善の方法を取ってもらうのがいいというのが、人間どもの一致した意見だった。だが長門はけして事態を楽観視しているわけではなかった。
「……もしものときは全員、元の世界に戻って。情報統合思念体は防衛体制を整える必要がある」
「分かりましたわ」
長門はポケットからジャラジャラとビー玉を取り出した。ビー玉ではなくて素粒子球だっけ。
「……三人にひとつずつ渡す。緊急時にはこれを潰して向こうに戻って」
長門は俺と古泉、朝比奈さんに渡した。
「長門、無理すんなよ。こじれそうになったら深追いしないで帰って来い」
「……分かった」

 

 外はそろそろ陽が傾いてきていた。長門は靴を履いて庭に下り、喜緑さんに向かって言った。
「……三分以内に戻ってこなければ、わたしたちの世界へ退避。彼らの脅威を情報統合思念体に警告して」
「分かりましたわ」
「……あとを、頼む」
喜緑さんはうなずいた。長門が右手を上げて詠唱し、白い球体に包まれ、そのまま上空へ浮かんだ。光が八方に散ったかと思うと、そこには影も形も残っていなかった。

 

 俺は庭のベンチに腰掛け、じっと時計を見た。全員が庭の、長門が消えたあたりを見つめていた。この三分間は俺の人生で最も長い時間な気がする。仮に三分が過ぎても、もう五分だけ待ってくれと俺はごねるだろう。その五分に何の意味もないことは分かっているのだが。
 二分が経過した。何も起きない。三分まで残り十五秒のところで喜緑さんが言った。
「来ましたわ。キョン君、下がって」
俺が立ち上がって三歩下がると、庭の上空に二度稲妻が走った。ちょうど池の真上だ。一瞬だけ白い球体が現れ、人の影が見えた。そこにいるのは一人ではないようだ。球体が消えるとそのまま池に落ち、水の中に足を突っ込んだ。一人が立ち、もうひとりを両手で抱えている。立っているのは朝倉と、抱えられているのは長門だった。長門は血にまみれ、片目をハンカチでおさえていた。
「朝倉、長門になにをした、なにがあったんだ」俺は思わず叫んだ。
「キョン君、落ち着いて。とにかく手当てを」
喜緑さんが俺を抑えた。朝倉は長門を抱えたまま、ジャブジャブと水の中を歩いて池の縁へ上がった。足元を、透明な雫と赤い雫が混じりあって流れた。
「布団の用意を」
朝倉は言った。俺は座敷の押入れから布団を引っ張り出した。血がついてしまうがかまうものか。俺は朝倉の腕から長門を引き取り、布団に横たえた。俺の両腕にべっとりと着いた血を見て、救急車を呼ぶべきかと考えた。だが宇宙人製アンドロイドは医者の手には負えないだろう。それに喜緑さんと朝倉がいる。この二人がなんとかしてくれるはずだ。
「長門、絶対死ぬなよ」
「右目が失明していますわ」
喜緑さんがハンカチを取ろうとすると、長門の体がビクンと動いた。
「キョン君、見ないほうがいいわ」
そのほうがよさそうだ。「すいません、俺、血を見るのがダメなんです」
 前にも似たようなシーンに出くわしたが、あのときはそれどころじゃなかった。それにあのときの長門の意識はしっかりしていて、体に穴が開いてもちゃんと会話していた。あのときの俺は、長門にどこかしら超人的な強さを感じていて、必要以上にオロオロすることもなかった。だがこの長門はぐったりと力なく横たわり、意識があるのかないのか、呼びかけてもなにも応えない。今回はいろいろと事情が違っていて、長門にとっても厄介な状況なのだと俺は分かった。あのときは襲われた朝倉に、今回は助けられるということも含めて。

 

 誰の出入りもないように、俺は門番のように襖の前に立っていた。谷川氏と古泉、それから朝比奈さんには長門の具合が悪いとだけ話しておいたが、朝比奈さんにあの状態の長門を見せたら真っ青になって卒倒するだろう。とりあえず意識が戻るまでは面会謝絶とした。
「キョン君」
襖が少しだけ開いて、喜緑さんが顔を出した。手で招いている。
「インターフェイスの状態はだいぶ回復したのですけど、まだ意識が戻らないの」
「助かるんですよね」
「ええ。わたしたちは物理的に死ぬということはないんですけれど、相手が相手ですから」
「どうなるんです」
「敵が情報生命体なら、情報を失うでしょう」
ええと、つまり。
「わたしたちの体の構成は情報で成り立っているので、情報そのものが損傷を受けると機能不全になるんです」
「記憶喪失みたいなものですか」
「ええ。記憶だけではなく思考も、人格も」
「そんな。長門じゃなくなるってことじゃないですか」
「お互いにバックアップを取り合っていますから、多少の損傷は補填できるのですけれど……」
喜緑さんはそれ以上何も言わず、部屋の中を指した。中へ入ると布団に長門が眠っていた。包帯でも巻かれているのかと思ったが、血の跡もケガの跡もなかった。その横には朝倉がうつむいて座っていた。
「朝倉、なにがあったのか教えてくれ」

 

── 以下、朝倉から聞いた話だ。

 

 長門はひとり、あいつらのただなかに乗り込んだ。情報統合思念体の全員が集まった。
「ひとりでやってくるとは、勇猛なのか無謀なのか」
「……話し合いに来た」
「我々の目的は伝えたはずだ。お前たちが承諾しようがしまいが結果は変わらん」
「……共存の道もあるはず」
「わたしはこの組織を解体するつもりはない」
「生き残ることが優先するはず」
「知ったような口を利くな。お前に何が分かる」
「……わたしはずっとあなたの後ろで、あなたの情報をもらっていた。わたしには、あなたの考えが分かる」
「それがどうした。お前は安全なところで情報を得たのだろう。現場で危険な目に会っているわたしの気持ちが、お前に分かるか」
「……わたしはずっとあなたを見ていた。同じ感情を持っていた」
「だがお前はわたしを見捨てた」
「……見捨てたのではない。あれは事故だった。あなたが消えて、わたしはひとりで生きなければならなかった」
「よかったじゃないか。いい厄介払いができただろう」
「……わたしは、唯一の肉親を失った」
その言葉を聞いて、αは黙った。
「……わたしの世界に、戻って」
「そんなことをするくらいなら始めから上書きを挑んだりしない。この世界は、わたしが自ら作り上げたのだ。拡大はあっても縮小はしない」
「……もう一度、あなたと過ごしたい」
「では、自分の世界を捨てて我々に加われ」
「……それは、できない」
それが最後の言葉だった。次の瞬間、長門は全思念体から集中砲火を浴びた。αに匹敵する力を持っているにもかかわらず、長門は反撃しようとはしなかった。攻撃を避けつづけ、なんとか交渉の余地を模索していた。思念体のひとりが長門を地面に縛りつけた。長門の足がコンクリートに張り付いた。それを見て全員がいっせいに長門を串刺しにした。
 見かねた朝倉が円筒状のシールドを何重にも張って長門を保護した。目くらましの閃光を発したあと、縛り付けられた長門の足をその地面ごと引き剥がした。朝倉は傷だらけの長門を抱えて空間移動し、彼らから十分な距離を置いてから次元転移した。あいつらは一瞬なにが起ったのか分からず、数秒間、朝倉が介入したことすら気づかなかったことだろう。

 

「彼らは最初から長門さんを餌食にしようと待ち構えていたわ」
餌食というのは、長門の持っている膨大な量の情報のことだと朝倉は言った。長門の持つ情報を元に、俺たちの世界へ乗り込むつもりだった。そうすれば情報統合思念体も易々と征服できる。
 あいつらはどうも俺の知る情報統合思念体とはだいぶ性格が違うようだが。やたら好戦的というか、攻撃的というか。
「あなたは自分の世界が消え去ろうとしているとき、理性を保っていられるかしら」
しばらく考えたが、朝倉の質問は俺には高度すぎて簡単に答えを出せるようなものではなかった。
「お前だけは理性的なんだな」
「それがわたしの仕事」
αをトップとするこいつらの組織には派閥がない。その代わりに、バランスを取るための存在が朝倉なのだという。すでにバランスを取るだけのパワーも思索も尽きたようだが。
「とんでもない事態だったんだな」
「まるで集団リンチだったわ」
「長門を助けてくれて礼を言うよ」
「いいのよ。でもわたしはもう、向こうへは戻れないわね」
裏切り者がのこのこ戻ったりしたら、即時消去されるだろう。
「お前にはすまなかったが、俺たちと一緒に来いよ。向こうの朝倉をそのまま引き継げばいい」
「それもそうね……」
誘いにあまり気乗りしないのか、朝倉はうつむいたままだった。

 

「キョン、いるの?」
襖の向こうからハルヒの声がした。帰ってきたらしい。
「ハルヒ、ちょっと待て」
叫んだが間に合わなかった。襖がガラリと開いてハルヒが顔を覗かせた。
「あら、有希どうしたの」
さあて、どう説明したらいいんだ。
「昨日湯冷めして風邪を引いたらしいんだ」
かなり適当で妥当な言い訳をした。今が冬でよかった。ハルヒが入ってきて長門の額に触れた。
「そうなの。熱はないみたいね」
「ああ。さっき医者に連れて行って注射を打ってもらった。寝てるから、そっとしといてくれ」
「分かったわ。あたしになにかできることある?」
こいつにできることか……。
「なんでもないただの風邪だしな。早く治るよう願い事でもしといてくれ」
「分かったわ」
今のは気休めに言ったつもりだったのだが、このセリフを言ってしまって相手がハルヒであるということの意味にハッとした。本人には本気として伝わったようだ。ハルヒの願い事も、地球の自転が逆になるとか冬に桜が開花するとか突飛なものではなくて、こういう誰かの役に立つものなら大歓迎なのだが。

 

 俺は長門の枕もとにじっと座っていた。しんと静まり返った部屋のなかで、ときどき寝息が聞こえる。この小柄な女の子は、世界を救おうと必死で戦っている。なにか見返りがあるというわけでも、誰かに頼まれたというわけでもないのに。この世界にヒーローの称号が許されるとしたら、まずこいつに与えられるべきだろう。ナイトの称号でもいい。

 

 クリスマスの当日だというのに、部屋の雰囲気は暗かった。黙ってはいたが、古泉はなにか重大な事件が起こったことをうすうすと感じ取っていたようだし、朝比奈さんにもこの重苦しい雰囲気は伝わっているようだった。
 おばあちゃんが晩飯の用意ができたと言いに来たが、みんなに先に食ってもらった。せっかくのケーキだったが、俺はこいつの目が覚めるまで待っていてやりたい。
 ハルヒの願い事が叶ったのかどうか、夜九時頃になって長門が目を覚ました。
「長門、気がついたか。俺が分かるか」
長門はじっと俺を見つめた。
「……」
いい兆候だ。いつもの長門だ。喜緑さんと朝倉の顔を見ると、起き上がって宙を見つめた。
「……情報統合思念体が存在しない」
「長門さん、ここは平行世界ですわ」
「……なぜ、朝倉涼子が存在する」
「わたしはあなたの知っている朝倉涼子ではなくて、別世界の情報生命体なのよ」
長門は少し考え込んでいた。珍しくこめかみを押える仕草をした。それ、もしかして俺のマネか。
「……記憶野に少し障害がある。時系列が一致しない」
そりゃそうだろう。俺でさえ、ここ数年に起こった出来事のせいで混乱気味なのだ。
「……あなたの記憶を、分けて欲しい」
「俺の記憶?いいが、どうやるんだ」
長門は俺の頭を両手で抱えるように持ち、顔を近づけた。まさか、こないだみたいに額にキスをするんじゃないだろうな。ほかの二人がじっと見ている。これはかなり恥ずかしいぞ。だが額に感じたのは唇ではなくて、長門の額だった。目の前に長門の顔が迫り、俺はどこを見ていいのかわからず目を閉じた。
 長門はゆっくりと顔を離した。
「もう、いいのか」
「……ありがとう」
少しだけ頬が朱に染まっているのは気のせいだろうか。

 


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最終更新:2007年08月19日 18:53