- 四章
時刻は夜11時。俺は自宅にてハルヒの作ってくれたステキ問題集を相手に格闘中だ。
「やばい、だめだ。全然わからん。」
朝はハルヒに啖呵を切ったものの、今では全くもって自信がない。
今の時期にE判定を取るようじゃ、どう考えても結果は目に見えている。
そもそも俺よりも頭のいいあいつが、それに気付かない訳がないのだ。
ただ遊ばれているだけなのか?
…………ハッ!いかんいかん!俺の中の被害妄想を必死でかき消す。
頭を一人でブンブン振っていると、俺の右手に違和感があることに気付いた。
俺の右手はいつのまにか机の引き出しの中に伸びている。
手は引き出しの中の『奴』を掴んでいた。
そのことを俺の頭が理解した途端、俺はバネにはじかれたように机から遠ざかった。
「はぁ、はぁ…」
これ以上ないくらいの恐怖を感じながらも、俺の手はまだ『注射器』を握り締めている。
「何で…何でこんなことになっちまったんだ…」
俺は力なくそれを床に叩き付けた。
- あれは、きのう…
「ど、どうしたの?キョンくん?」
下駄箱で春日が俺をその大きな瞳で見ていた。
その時の俺が普通じゃなかったのは言うまでもない。
「クソ!俺はハルヒを!!バカだ!最低だ!なあ、春日!
明日から俺はハルヒにどう接すりゃいい?!」
突然激昂した俺に、春日は動揺したように言った。
「ちょっ、待って!話は聞くから取り敢えず落ち着いて!場所は…公園でいい?」
ここは公園。俺と春日はベンチで並ぶように座っている。
事情を知らない人が見たらカップルに間違われるかもしれない。
ここで俺が春日の肩に手など回せば完璧だな。だが生憎、俺にそんな余裕はない。
「どうしたの?涼宮さんと何があったの?」
春日とは朝の挨拶以外はほとんど話したこともなかったが、話は本気で聞いてくれるようだ。
俺は今までのことを呼吸をするのも忘れてぶちまけた。
ほとんど話したこともない女子に、こんな長々と話すのは俺のキャラじゃないんだがな。
今はとにかく誰かに話を聞いて欲しかった。春日は俺の話を真剣な目で黙って聞き、
俺がたまに同意を求めると目を優しくさせ、「そうだね」と相槌を打ってくれた。
「どう思う?!」
その最後の言葉を俺が吐き終えると俺の興奮は冷めていった。
が、代わりにいいようのない虚無感が襲って来る。
何もやる気が起きない。ふう、と俺が久々に肺に酸素を運んでいると、
春日は俺の質問には答えず、ベンチからすっと立ち上がった。
「ねえ!今からうちに来てみない!?ほら!いーから、いーから♪」
-
ハルヒにも負けないような笑顔を見せながら俺の手を引っ張る。
「お、おい、どういうことだよ?」
言葉ではこう言ってるが、俺は大した抵抗もせず、フラフラと春日のあとを付いていく。
正直、どういうことかなんてどうでもいい。全てが色褪せて見えていた。
春日の家につくと、すぐにリビングに通された。両親はいないようだ。
「それじゃ、早速あたしの意見をいうね?明日にでも涼宮さんに謝って?
あたしは今までのキョンくんの頑張りを教室でいつも見て来た。
だからキョンくんがその反動で、涼宮さんについ当たっちゃった気持ちもわかるよ。
でも男の子から殴られるってことはあたし達女子にとっては、
とても耐えられないことなの。
好きな男の子からなら尚更…きっと今涼宮さんは泣いてるよ?
お願い!涼宮さんを元気づけられるのは、あなただけなの!」
いつもなら『好きな』の所で何らかの反応をして見せるんだろうが…当然、どうでもいい。
わかってる、わかってるんだ。俺がこれから何をしなければならないのかくらい。
「だけど…俺は自分が怖いんだ。
あいつに会ったら…またあいつを殴っちまうんじゃないかって…」
今の俺は誰がどうみても、とてつもなくヘタレなんだろうな。
さすがにこれは春日も愛想を付かしてしまうか。と思っていると、
「ちょっと待ってて!」
と言ってリビングから出ていってしまった。
「おまたせ!」
戻ってきた春日の手には小さな怪しく光る注射器が握られていた。
夕日の逆光のせいでシルエットになっている春日と注射器はシュールで、とても気味が悪い。
「おい、それ何だよ。」
「ん?かくせーざい♪」
力なく問い掛ける俺の質問に、特に悪びれる様子もなくそう答える。
その態度と質問に対する答えは、俺を動揺させるには十分だった。今日一番の揺れの観測だ。これはさすがに力なく「そうか」で済ますことは出来ない。
「な…な……何を言ってるんだよ!馬鹿らしい!
それをどうするつもりだ?!
俺にヤク中になれっていってるのかよ!」
「何言ってるの?たった一回だけだよ!
今のキョンくんは自暴自棄になっちゃって、自分に全く自信がない状態なの!
そんな、どうしたらいいか分からない時のための、一生で一度だけの切り札!
これさえあればどんどん自信がついてくるんだよ?
まるで自分がスーパーマンにでもなっちゃったみたいに!」
いやいや、まてまて、おい。WHY!?いやマジでWHY!?
「覚せい剤だぞ?!そんなもん一度やったら、
二度と抜け出せなくなっちまうことくらい俺でも知ってる!
悪いな。邪魔した。俺はもう帰る。」
ここにいちゃいけない!そう警告している本能に言われるまま、俺は部屋を出ようとした。
「また涼宮さんを傷つけるの?」
- その言葉に俺の足はいとも簡単に止められた。
「自分が何するかわからない、怖いって言ったのはキョンんだよ?
このまま会っても今の溝がもっと深まるだけ…
涼宮さんのことを想うなら、これを使うべきじゃない?」
何度もいうがこの日の俺は本当にどうかしていた。
たったそれだけの言葉で気持ちが傾いて来やがるんだからな。
「だ、だけど!それを打っちまったら、俺は…」
「依存症なんて意志の弱い人だけ。あたしは知ってるよ?キョンくんがそんなに弱くないってこと。」
確かに、俺は薬物依存など意志が金箔よりも薄い奴がなるものだと思っている。
「それと、キョンくんが、誰よりも涼宮さんを愛してるっていうこと。」
春日は終止、優しい目で言う。でも…だけど…
いや、もしこれを使えばまたハルヒと…楽しい日常を…こんな押しつぶされそうな気持ちも…
「いいの?涼宮さんを泣かせたままで…
また仲良くしたいでしょ?何にもなかったように…」
「何もなかったように…俺は…俺はあいつと…また笑いあいたい…」
「うん、そうだよね。これさえあればその全てが叶うんだよ?」
ああ、藁をもすがりたいとは今の俺のためにあるんだな、なんて思っていると、
俺の口は勝手に動きだした。
「本当に…本当に一回だけなら大丈夫なんだな。」
「それはキョンくん次第だよ。でも…あたしはそう信じてる。」
その言葉を聞き、俺は春日から注射器を取り上げた。
おい、いいのか俺。本当にいいのか?顔からは脂汗が吹き出ている。
脳細胞を除いた体中の細胞がその全総力を結集して、奴の進入を拒んでいる。当たり前だ。
腕に針を刺すだけでも抵抗があるんだ。そのうえ、その針の中には悪名高い奴がたっぷり詰まっているんだからな。
だがその警告すら脳が一喝すると、あっさり解けていった。
腕に針先を添え、深呼吸をし、俺は………刺した。
想像以上の痛みを覚えたため慌ててピストン部分を押す。
次の瞬間、何とも言えない感覚が俺を襲った。…いや包みこんだ。
まるでこの世の全てが俺を受け入れた感覚。酸素は溶け、
俺に混ざっていき、俺も溶けて酸素に混ざっていく。
今、この瞬間のために俺の人生があったのではないかと錯覚してしまうほどだ。
今なら日本の裏側にあるブラジルのニーニョさんが何回ドリブルしたかも分かってしまいそうだ。
いや、その気になれば世界の改変でさえも…
「……ん!キョ…ん!キョンくん!」
ハッ!、意識が飛んでいたようだ。
「どう?キョンくん?」
「ああ、とても清々しい気分だ!」
一瞬春日が顔をしかめた気がした。
「これならきっとハルヒにもちゃんと謝れそうだ!」
- ほんと、依存症とか、何を心配してたんだ?俺は!
俺がそんなもんになるはずない!なんてったって俺は
あれだけハルヒに引っ張り回されたり、耳を疑うようなトンデモ体験をして来たんだ!
今さらそんなんでヒイヒイ言うようじゃ、SOS団万年ヒラ団員の名が廃るぜ!
「そう良かった。あっ、もうこんな時間だね。送って行こうか?」
春日がすっかり調子を取り戻した笑顔で言った。
いつのまにか七時すぎになっていたようだ。
「いや、自転車だし、大丈夫だ。」
「そう、はい!カバン!!」
飛び切りの笑顔で見送りした春日に俺も飛び切りの笑顔で、手を振った。
それから家に帰ってからだ。カバンの中に注射器と粉の入った袋を見つけたのは。
-
いつ入ったんだ。あいつが…入れやがったのか…
「はあ…はあ…」
床の上の注射器が怪しく光っている。
なんで今日あいつに話に行ったとき返さなかった。クソ!あいつ…俺をどうする気なんだ!
いっそ警察に…いや!俺も捕まっちまう!そうしたらハルヒが………
もうハルヒを傷付けたくない!古泉とも約束したんだ!
いや、でもこのままじゃいずれ…よそう、こんな考えは…
それにしても…何だ、この感じは?
昨日は奴を拒んでいた体中の細胞が、今は奴を渇望している。
- もう…逃げられない…
脳細胞があきらめかけたその時、ケータイが鳴りだした。
着信………長門
長門の
名前を見て、俺は心底安心した。今の長門には何の力も無いのにな。
やれやれ…すっかり長門に対して頼り癖がついてしまったらしい。
「もしもし、長門か。」
「そう。」
………沈黙。いやいや「そう。」じゃなくて!そっちから電話をかけて来たんだから、
会話のキャッチボールは長門から投げるべきだろう。
だけど、それが余りにも長門らしくて、俺はまた安心した。
「あなたに謝らなければならないことがある。」
その言葉を聞いて、俺は考えを改めた。なるほど、さっきの沈黙は、
どう切り出すかを考えていたのか。
- 「いや、謝らなければならないことなら思い当たるんだけどな。」
「昨日、私はあなたの涼宮ハルヒへの第一撃目を、阻止することが出来なかった。
感情が………邪魔をした。」
そうだ、いくら長門でも今は普通の女子高生なんだ。俺がいきなりキレて暴れだせば
そりゃ呆然とするだろう。
- 「いや、お前は全然悪くない。逆に俺が謝るべきだ。あのままじゃ、
俺はハルヒをリンチしていただろうからな」
「でも、私があの時もっと早く対処していればこんなことにはならなかった。」
一瞬にして顔が冷や汗でいっぱいになった。こんなことだと?もしかして全部気付いているのか?
「お、おい、俺はもうハルヒとはちゃんとケジメつけたんだ。
- 今日も部室で見てたろ?何だよ。こんなことって。」
「私にはわからない。だからこそ教えてほしい。何があったの?
- とても胸騒ぎがする。あの注射跡は何?」
全てを気付いてるわけではなさそうだ。だけど勘づいている。こいつから胸騒ぎなんて言葉が
- 出てくるとはな。
「だから、あれは献血で…長門、お前は知らないだろうが、俺はハルヒと古泉に約束したんだ。
もう二度とハルヒを苦しめたりしないってな。」
どの口がいってやがる。
「………」
- 無言だ、
- 「そ、そうだ!長門!手、大丈夫か?かなり力入れてたからな、
- ケガ無かったか?」
- 「肉体の損傷は問題ない。ただ…」
- 「ただ、何だ?」
- 今なら長門が電話の向こうで思案している顔が、はっきりと分かる。
- 「あんな思いは…もうたくさん…」
- 俺ははっとした。そうだ、傷ついたのはハルヒだけじゃないんだ。こいつは、長門は
- 俺の暴力を目の当たりにしてしまったんだ。その心の傷は、計り知れない。
- 「ああ、本当にごめんな、もう二度と傷つけない。」
- 「そう、あなたを……信じたい。信じていいの?」
- すがるように聞いて来る長門。ここは瀬戸際だ、全てを話すか、このことは俺の中に秘め、無かったことにするか。
- そうだ、もう二度とやらなけりゃいい!『奴』の誘惑なんかに負けなければ今までどおりの平穏は、
- 守られるんだ
- 「ああ!」
「そう…なら…信じる。」
- そういうと長門は電話を切った。
ふう、この注射器はもういらないな。ありがとう、長門。お前のおかげでこいつの誘惑に、負けずにすんだよ。
何を考えているかしらんが、お前の思い通りになんかなってたまるか!春日!
俺は!俺の欲望に打ち勝つぞ!!
「もしもし?古泉です。お久し振りですね。
実はですね………おお…察しがよろしいようで。そう、機関の創立6周年パーティについてです。
はい、もうそんな時期になるんですよね。
全く、今はもう存在しない機関だというのに。はい、もちろん主催者は今年も、森さんです。
彼女らしいといえばらしいですね。ええ、そこであなたも招待しようということになりまして…………
いえいえ、あなたは今でも、そしてこれからも我々の仲間、いわば同士です。
そろそろ河村のことも、気持ちの整理がついたのではないですか?
…はい、そうですか!それは皆さん喜ぶと思います!
それでは、今週の土曜に。いつもの場所と時間で。
待っていますよ?春日さん?」
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最終更新:2020年06月24日 13:05