「束の間の休息・二日目」の続きです




 真っ暗な空。

 私は一人のドールと相対している。

「ジャンク」
「違う!」

 アリスゲームに勝つのは私。
 そんな私がジャンクであるはずがないのよ。

「あなたは未完成なのよ? それなのにどうしてアリスになれると思うの?」
「うるさいわ。黙って! ……お父様は私にローザミスティカを与えてくださった。私はジャンクじゃない!」

 彼女は私の大嫌いな目で憐れむように私を見る。
 やめて。

 やめて、やめて、やめて。

「水銀燈」
「真紅! あなたは何も解っていないのよ。それで自己満足しているつもり? 笑わせるのも大概だわ」
「水銀燈、あなたは」
「黙りなさい!」

 私は翼をどこまでも伸ばす。
 この空のような黒。強く、何物にも染まらない色。


 真紅――。

「あんたなんて、消えてしまえばいいのよ!」
「水銀……燈……!」

 

「……っ、はぁっ! はぁっ!」
 鞄の蓋を押し上げた。
 辺りは薄暗い部屋の中。まだ夜は明けていない。

「……真紅」

 この夢を何度見ただろう。
 鞄の中に入るたび、私は夢に彼女が出てくることを畏れている。

 そして夢から覚めるたびに、私は彼女を恨んでいる。

「あんたなんて、消えてしまえばいいのよ……」

 私は鞄から出て、ベッドで眠る人物の寝顔を眺めた。
「はしたない寝相」

 けれど、この子が私のミーディアム。
 そして、今日でお別れ。

 

 ――束の間の休息・三日目――

 

 悪夢を見た。

 真っ暗な空。
 あたしは一人の人物と相対していて、そいつは腹立たしくもあたしの手を引いて敷地を駆けていく。
 校舎を壊し続ける青白い巨人。あたしたちはその姿から逃げるように走り続けた。

 振り向いたそいつの顔がまだ瞼の裏に焼きついている……。

 あたしは頭を振って、グラスに注いだ牛乳を一気に飲み干した。
「すごい顔してるわよ、あなた。年頃のレディならもう少し気を遣ったらどうなの?」
 憮然としていたあたしに水銀燈が横から言葉の矢を放った。痛い。
 あたしは後頭部に手を当てて、
「ちょっと嫌な夢を見たのよ。嫌っていうか忘れたい夢?」
「どう違うのよそれ」
「生憎だけど詳細は話せないわ。それなら裸で町内マラソンするほうを選ぶから」
 すると水銀燈は窓際に視線をやって、
「悪夢のひとつくらい誰だって見るわ」
 白皙の横顔は見とれてしまうほど綺麗だった。
 あたしが何も言わずにいると、水銀燈は横目で睨みをきかせ、
「それよりあなた。自分だけ飲みものを持ってきておいて、客人にはもてなさないわけ?」
「あーはいはい。それじゃあんたも飲む?」
 あたしがグラスを差し出すと、
「私はそこいらのペットじゃないのよ?」
 今日もツンデレ全開ね、キョンが見たら何ていうかしら。
「ちょっと待って。すぐに用意してくるから」
 そう言ってあたしは部屋から出た。今日こそは高得点をたたき出してみせるわ。


 ――


「28点ね」
「昨日より落ちてるじゃない! 何で? どうして?」
「自分で飲んでみたら? それと、私はもてなす側の態度や服装も考慮に入れているから」
「そんなのアリ!? 反則じゃないの?」
 朝からハルヒは元気すぎるわ。バケツ一杯の水でもかけたら少しは大人しくなるかしら。
 私はティーカップを置いて床に降りると、壁際まで歩く。
「ちょっと水銀燈? 聞いてんの?」
「聞いてるわよ。少し黙ってなさい」
 端まで来た私は目を閉じて意識を集中した。……力を感じる。
「わっ! 何よこれ? 熱っつつつ!」
 見ると、ハルヒの指輪が煌々と光を放っていた。
「水銀燈? あんた一体……」
 私はさらに集中して翼を出そうとした。しかし――、

「……」

 一枚の黒い羽だけが、ひらりと舞って足許に落ちた。
「どうしてかしら」
「水銀燈?」
 二日前。めぐから離れて街を飛んでいた私は、不意に身体のバランスを崩してこの家に落ちた。
 こんなことはこれまでになかった。ましてミーディアムがいるのに力が使えないはずがない。
 原因があるとすれば、

「……!」
 いない。

「水銀燈? ねぇ、一体何がどうなってるの? ちゃんと説明してったら!」
「メイメイ! どこ!?」
「メイメイ……って何?」
 いつから? 解らない。全然気がつかなかった。


 ――


「私たちローゼンメイデンはそれぞれが固有の人工精霊を持っているのよ。メイメイというのは私の人工精霊の名前」
 水銀燈は説明した。それでもあたしにはさっぱり解らない。
「何だかよく解んないけど、とりあえずそのメイメイってのがいないと困るわけね」
 水銀燈はゆるやかに首肯して、
「今までずっと一緒だったのよ。一体どこへ行ったのかしら」
 彼女の説明によると、人工精霊は蛍火くらいのちいさな輝きを放つ光らしい。にわかには信じられないけど、実際こうして動いて喋る人形が目の前にいるんだから、たぶん本当……なのよね。
「何か手がかりとかないの? よく行く場所とか、こんな習性があるとか、そんなの」
「あなた、メイメイもペットじゃないのよ? そこいらの犬っころと同じに考えてもらっても困るわ」
 なるほどね。つまり主人に似て小難しい性格をしてるってわけか。
「ハルヒ、あなた今何を納得したの?」
「え!? いやぁ何でもないったら! あはははは!」
 あたしはごまかしがてらこう続ける。
「それじゃそのメイメイってのを探しましょう! 正体の見えない不思議よりは簡単に見つかりそうな気がするわ!」
「えぇ?」
 水銀燈は当惑したような表情であたしを見た。あたしはトートバッグを引っ張り出して、
「さ、カモンカモン!」
「…………」
 露骨に躊躇する姿がまたファンシーだわ。あー、正式な団員にしちゃいたいくらいよ。間違いなくキョンよりは魅力的だし。
 すると水銀燈はぽつりと、
「ねぇハルヒ」
「何?」
「あなた、いつでも誰にでもそんな風に接しているの?」
「え、何で?」
 別にそういうわけでもないけど。と思っていると、
「親切はいい結果ばかりを生むわけじゃないわ。覚えておくことね」
 それだけ言って彼女は黒衣を静かに揺らせてバッグに向かった。

 どういう意味かしら。


 ――


「あなたはジャンクなんかじゃない。誰もがアリスにふさわしい輝きを持っている」
 真紅。あなたはそう言った。
 とてもあなたらしいわ。平和主義の幼稚な美辞麗句。
 理想をいつまでも飾り立てて、それが私をいつもかき乱していることに気がつかない?



 いつもと違う鞄の中で、私は思う。

 慈悲は無用。
 そして取るべき行動は簡単。すべてのドールを倒せばいい。
 ローザミスティカを奪えばいい。

 目的のための手段は厭わない。
 めぐが病床の身であろうと、私はその力を使いきってしまえばいい。
 ましてあの子はそれを望んでいた。遠慮することなど何もない。

 それなのに私は病室を離れた。
 前より軽くなった翼は、私を思わぬ場所へ飛ばしてしまった。



「ねぇ水銀燈」
 ハルヒが外側から言った。鞄の中にはまた内部が涼しくなるように余計な施しがなされている。
「何よ」
「メイメイってのが無事見つかったら、あんたは元いたとこへ帰っちゃうのよね?」
「……」
「水銀燈?」
「そうよ」
 この子は勘が鋭いのか鈍いのか解らないわ。
「ね。もしよければ、あんたの気がすむまであたしんとこにいてもいいのよ?」
 ハルヒの言葉は奇妙な響きを伴って私の胸中を揺らす。私は空を見上げ、
「さんざん言ったのにまだ解ってないのね。私があなたをミーディアムにしているのは、単に飛べなくなったからよ。そもそもそれさえなければあなたと私は出会いもしなかった。お解かりかしら?」
 するとハルヒは頷きを返す程度の間を置いて、
「もちろん解ってるわよ。言っとくけどあたしはバカじゃないから。あんたがどう思ってるのかは知らないけどさ」
 私は何も答えなかった。
 こういうのって嫌いよ。大抵はうんざりするような結末が待っているんだから。


 私は誰かを頼ったりも信じたりもしない。そんな弱さは必要ない。


 ――


 水銀燈は何か大きなものを隠している。


 あたしは昔っから人のそういうところを見抜くのが得意だった。
 何でか解らないけど、考える前に直観が教えてくれるのだ。この人には、この場所には何かがある、と。


 その感覚は、今のSOS団のメンバー全員に働いた。
 だからあたしはあの四人をしもべその1~その4としたのだから。
 こんなのは初めてだった。もちろんまだ誰にも言ったことがない。


 特にキョン。
 出会ったときからずっと、あいつには何か大きな大きなものが隠れている気がしてしょうがない。
 いつか何としてでも聞き出してやりたい! って思うけど、無理にとっちめてもデタラメ言うに決まってるわね。アイツは。


「どこ探そっか。あぁそうだ! 交番に行けば遺失物として届出があるんじゃないの?」
「あなたやっぱり前言を撤回したほうが身のためよ。私にはお馬鹿さんにしか見えないわ」
「な……何よ。人が折角提言してあげてるのにさ」
 鞄の中から聞こえる声とのやり取りはとても楽しかった。


 そう。あたしはこのはねっ返りの黒い人形が好きだった。
 感嘆の息が出るほどに綺麗なのに、性格は鋭く問いだ金属のよう。
 植物で言えば…………薔薇。そう、薔薇だわ。
 あんまり薔薇は好きじゃないけど、それでも彼女にいたっては別。


「海」
 水銀燈がぽつりと言った。
「え?」
「あなたに会う前、私は海の辺りを飛んでいたのよ」
 あたしは家の前をハカセくんが不思議顔で通り過ぎるのを愛想笑いしてやりすごし、訊き返す。
「どうしてまた海? 海外逃亡でもしようとしてたわけ?」
「あのね、私は指名手配犯でも何でもないのよ? どうしたらそういう思考回路を持てるのか疑問だわ」
 冗談よ。あたしは人通りがなくなったことを確認して鞄を覗く。
「海ってここから近い場所で合ってる?」
「ええ」
 短く答える水銀燈は、こちらを見なかった。


 ――


 海を見に行ったのは何故か。
 ただの気まぐれだわ。別に理由なんてない。


 茫洋と広がる青を、私はしばらくの間泰然と見ていた。


 次に真紅と会う時は、アリスゲームを始める時。
 そしてそれは遠くない。


 思えば海を見ていた私は私らしくなかった。
 メイメイはそんな私に気がついたのかもしれない。
 そして、気づかれないよう私から離れた。


「んー、見つからないわねぇ。紫色に光ってるのよね? メイメーイ、いるなら出て来なさーい!」
「まだ十分も探していないじゃない。どれだけ短気なのよ」
 人気はまばらだった。ハルヒは競争馬のように浜を疾駆して、大声で精霊の名を呼んだ。
 しかしメイメイは現れなかった。
「本当にここにいるの? 案外道端で転んで落としたとかじゃない?」
「いい加減戯言に付き合うほうの身にもなってほしいわ」
「探し物見つけるのに付き合ってるのはあたしのほうなんだけど」
 ……それもそうね。
「言い忘れていたけど、人工精霊は自在に空を飛べるからもうここにはいないのかもしれないわ」
 私が言うとハルヒは眉を吊り上げて、
「そういう大事なことは早く言いなさいよ。それだと捜査は最初から立て直しじゃないの」
 言質と裏腹に瞳は輝いていた。楽しそうね。
「そう? まぁわくわくしてるのは確かよ」
 本当、元気な子。


 ――


 海を見ながら昼食を取るのなんていつ以来だろう。


 あたしと水銀燈は並んで防波堤沿いに座っていた。
 ここは海水浴場ではないから、夏場でも人はまばらだ。
「水銀燈、暑くない? もし気になるようだったらちゃんと言うのよ。団員の体調を気遣うのもあたしの、団長の役目なんだから」
 あたしがそう言うと、水銀燈はサンドイッチを一口食べて飲み込むだけの間を置いて、
「勘違いしているようだけど、私はお守りを必要とする赤ん坊じゃないの。これまでずっと一人でやってきたのよ? 自分のことくらい言われなくとも管理できるわ」
「ならいいんだけどね」
 ペットボトルの紅茶に水銀燈は15点をつけた。あたしの紅茶は少なくともそれ以上だったのね。


 しばらくの間、微風と潮の香りを鼻に感じていると、
「ハルヒ」
「何?」
 水銀燈は遠くの貨物船の方へ焦点を合わせつつ、
「あなたも昔は仲間を持ってはいなかったんでしょう? ……それと、今と。どっちが好き?」
「え!?」
 手にしていたパンを取り落としそうになって、慌ててつかみ直した。
 何でそんなこと訊くんだろう。嫌なんじゃなくて、彼女がそう訊いてきたことが意外だった。
 あたしは高いところを鳥が旋回するのを見上げて、
「もちろん今よ。約一名を除いて全員が有望株だからね! 水銀燈、もちろんあなたもその中に入っているわ」
 そう言うと水銀燈は意外にも微笑を浮かべた。
 それが皮肉なのか、呆れなのか、あたしには解らなかった。
「勝手に頭数に入れなくていいわ。私はどんな集団にも属すつもりはないから」
 銀色の髪を風が撫でて行く。水銀燈はあたしよりもずっと長い時間を一人で過ごしてきたのだろう。
 彼女はまたこちらを見て、
「でもあなたくらいのお子様なら、仲間の何人かいたほうがいいんじゃない? お遊戯は一人じゃできないでしょうし」
 言葉に棘があっても、口調はむしろ柔らかく感じたのは、あたしの気のせいだっただろうか。
 あたしが手を止めているのに気づいた水銀燈は、
「ほら。さっさと食べてメイメイを見つけなさい。でないと薬指をヤケドするわよ」
 あっという間に態度を元通りに戻ってしまった。……やれやれね。
 あたしは彼女に倣って一秒でモードを切り替えて、
「ま、あたしが探してるんだから豪華客船に乗った気でいればいいわ!」
 立ち上がると胸を叩いた。


 ――


 ハルヒは夕方近くまで熱心に精霊探しを手伝ってくれた。
 それがおせっかいなんて言うつもりはない。


 しかし同時に、私はミーディアムと契約を結んではいけないのだとも思う。


 契約はすなわち信頼の証。
 信頼はやがて親愛を生む。それがドールとマスターの自然な関係。


 私にとってのそれは、ほころびのきっかけとなる弱さでしかない。
 私があの場所を去ったのは、強くありたかったから。


 ……本当にそうなのかしら?


 むしろ、自分自身の弱さを見出さないように、私は彼女から、めぐから逃げた。
 だとすれば弱いのは私のほうだ。


 めぐが歌っていた曲を思い出す。


 儚い旋律。
 朧な歌声。


 他に誰があの子を見ていていられるというのだろう。

 ……帰らなくては。


 ――


「見つからなかったわねぇ。おっかしぃなぁ」
 あたしはすっかり黄昏色に染まった空を見上げて息をついた。
「これだけ探して見つからないなんてね」


「努力が必ず報われると思っているあたりが甘いのよ」
 肩に感じる感触。
 頬に触れるのは、やわらかな髪。


 水銀燈があたしの肩に座っていた。


「水銀燈……?」
「ま、あなたにこれだけの辛抱強さがあったことには感心してあげてもいいわ」
「水銀燈、あんたそれ!」
 見ると、水銀燈の肩のあたりを薄紫色の小さな光が飛んでいた。
「メイメイよ」
「いつ戻ってきたの!?」
「たった今よ。身体が軽くなったと思ったら、この子が帰ってきたわ。後でお灸を据えないといけないようね」
 水銀燈は右手に沈もうとしている夕陽を一度見て、
「あなたに二つ挨拶をしないといけないわね」
「えっ……」
 水銀燈は一度だけ顎を引くと、


「メイメイを見つけてくれてありがとう」


 感謝の言葉。
 思いがけずにそれはあたしの中に心地よく沈みこむ。


「別にあたしが見つけたわけじゃ……」
「あなたが無理矢理私を連れまわしたから、メイメイはここへ戻ってきたのよ。余計な弁解は訊きたくもないわ」
 そう言って水銀燈は後ろ髪を払った。


「もうひとつ。これであなたとはお別れ」


 そうだった。


 水銀燈、あなたは三日限りの限定団員だったものね。
 すっかり忘れていたわ。


「ちょっと暑苦しかったけど、いい息抜きになった、と言えばあなたは満足かしら?」
 そう言うと黒衣を纏った精緻なドールは、言葉ではいい表せない表情を浮かべた。
 見る人によって、それは感想の異なるものだったと思う。
「そ、そうね! まぁあんたはツンデレキャラなんだし、そのくらい言ってくれればあたしとしても合格点ってものだわ!」
 あたしは不意に緩んだ感情のタガが、外れてなくならないように顔を背ける。


 風が巻き起こる。


「……!」


 見ると、真っ黒な翼が水銀燈の背中に現れていた。
 それは確固とした力強さを象徴しているかのように、天に向かって真っすぐに伸びた。


「ハルヒ」
「……な、何!?」
 水銀燈は艶然と笑う。
 そこには最初に見た彼女よりもよほど似合う、凛とした姿があった。


「私ね、湿っぽい挨拶って好きじゃないのよ。人間はそういうのに感動を覚えるらしいけど、私にとってそんなものは三文芝居未満よ」
 空がにわかに青みを帯び始める。
 それはまるで、水銀燈の力に大気が反応しているようだった。
 あたしはただただ彼女に見入っていた。
「だから代わりにあなたに課題を出してあげる」
 そう言うと水銀燈は漆黒の翼で自らを包み、竜巻のように回転する。
「今度もし偶然が起きたときのために、紅茶を淹れる作法をもう少し学んでおきなさい」


 綺麗に、そして幻のように消えてしまった。


「水銀燈!」
 あたしは何もいない空を眺め渡す。

 後からただひとつ、黒い羽が舞い降りた。
 空いていた手でキャッチすると、薬指の指輪が消失していることに気がついた。


「水銀……燈……」


 さよならはあたしだって好きじゃない。
 先に言われちゃ、こっちが形無しじゃないの。


「忘れないわ」


 あたしは無理矢理に片腕で目をこすった。


「ありがとう、水銀燈」


 この夏は、まだ終わっていないのだから。

 

 束の間の休息のあとに、あたしたちはそれぞれの日常へ戻っていく。
 それは普段、決して交わらない平行線なのかもしれない。


 もしかすると、ひとりでに動く人形なんて本当はどこにもなかったのかもしれない。
 真夏の退屈と熱波にあてられたあたしの頭が見せた幻覚と呼べなくもない。

 そう思った時、あたしは机の中に大切に仕舞ってある、真っ黒な羽根を取り出してみる。

 それは、確かにあたしの手に握られている。

 

 あたしは携帯電話を取り出すと、慣れた手つきである人物に電話をかけた。

「……あぁもしもしキョン? ずいぶんご無沙汰だったけど元気してた? 茹だってるようだったら今すぐ電話越しに渇を入れてあげるわよ。……まぁとにかくね、あたしはまだまだ遊び足りないわけよ。それをちょっと再認識したっていうかね。まぁそういうわけだから、SOS団は今日の午後集合します! 持ち物だけど――」

 

 あなたがもしも、薔薇をつかさどる人形に出逢ってしまったら、ご用心を。
 その人形は、あなたにとんだ動揺と、思いもよらぬ契約をもたらすことがある。

 そして何より、あなたにとても素敵な休息をもたらすことがある。



 長い長い日常に紛れ込んだ、束の間の休息を――。



 (おわり)


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