「束の間の休息」の続きです。

 


 

 静かな部屋。
 光が射し込んでくる。

 歩いてくるのは男の人。
 ……私はその人を知っている。

 愛している。


 誰よりも強く。

 強く。


「水銀燈! できたわよ! さぁじゃんじゃん召し上がってちょうだい!」
「うるさいわ。あなたは近所の犬以下? 折角の紅茶が台無しになるじゃないの」

 朝が来た。
 誰かの家で夜を明かしたのなんて何万時間ぶりかしら。

 私はティーカップを手に取った。
 次の季節に先立って紅い色をした水面。
 そこに映った私はどんな顔をしていたかしら?

「52点」
「だぁーっ! これで38回目よ!? どんだけ評価が厳しいわけあんた!?」

 涼宮ハルヒ。
 私の期限付きミーディアム。


 ――束の間の休息・二日目――


「水銀燈。今日は市内不思議探しツアーをするわよ!」

 朝食が終わって、私は本棚にあった童話を手に取っていた。
 その矢先にハルヒが放った一言がこれ。

「不思議探しツアーですって?」
 私が言うと、ハルヒは鷹揚に頷きを返す。
「その通り。まず団員になったものが通るべき洗礼といっても過言ではないわ」
 一人得心したかのように勝手に話を進めている。待ちなさいよ。
「あなた。その得体の知れないツアーとやらに私を巻き込むつもり?」
「巻き込むんじゃないわ。これは団長命令で、あんたは団員なんだから。従うのは当然でしょ?」
 ウィンクが妙に様になっていた。……真夏ね。頭が痛くなるわ。この季節は大嫌いよ。
「断るわ」
 私がそう言うとハルヒは、
「どうして!? 信じられないわ! 水銀燈。あんた一生の半分を棒に振ってるわよ?」
 意味が解らないわ。どうしてこの灼熱娘の申し出を断ると寿命が半分になるの。

 それからハルヒは延々、懇々と私に説教を始めた。同時に私は自分を三回は呪っていた。
 これが休息だなんて言ったのは誰?


 ――


「……というわけで、いざ出発!」
 燦爛と輝く太陽! 大気に反響する蝉の声! どこまでも突き抜ける青空!

「夏だわ!」
「…………」

 水銀燈はあたしのトートバッグの縁から恨みがましい視線を送ってきた。
「何? テンション低いわねあんた」
「……今すぐ戻りなさい。さもないとあなたの綺麗な肌が傷つくわよ?」
「あ、それじゃぁこの指輪、ずーっとしてることになっちゃうけどいいのね?」
 あたしが流し目を送ると、水銀燈は一瞬、けれど確実に当惑してそっぽを向く。
「……直射日光と過度の熱は私の身体を痛めるの。そんな簡単なことも解らないの? あなた」
 ぐっ。上手いこと言うじゃないの。けどあたしだってそうそう容易く折れたりはしないのよ。
「だーいじょうぶ! 今日はお店とか建物の中を中心に巡るから」
 あたしはそれだけ言って第一歩を踏み出した。水銀燈はまだ何か言いたそうにしていたものの、一度だけバッグの縁を叩いて引っ込んだ。
 ほんとに典型的なツンデレドールね、彼女。

 夏休みは折り返しに入ったところだった。
 このところのSOS団は夏期休業状態で、それというのも有希やキョンがしばらく家を空けるなんて言い出したからだ。
 有希はまだしも、肩書きなしの平団員であるキョンまで長期休暇を取るなんて腹立たしいったらないわ。

「いい天気ね」
「へ?」
 不意に水銀燈が言った。あたしはマヌケな声を出してしまう。
 バッグの縁に両腕をついて、遠くの入道雲を見る水銀燈は、
「これだけ晴れていると、大抵の悩みなんか霧消すると思わない?」
「えっ」
 すると水銀燈は不敵に笑って、
「けど私、太陽って大嫌いよ。こういう天気にはしゃいでるお馬鹿さんを見るのもね」
 それきり中に引っ込んだ。
 ほんとに気難しい人形なのね。……そういうの、嫌いじゃないわよ。
 あたしは空いている方の手を大空に突き上げて、
「それじゃあこれより、夏期臨時市内探索を開始します!」


 ――


 暑い。

 そして鞄の中は涼しい。

 それというのもハルヒが冷たい飲み物や保冷材とやらを入れているから。
 ……余計なおせっかい。

 私はタオル越しにわずかな冷気を感じつつ、鞄の隙間から覗く夏の空を見上げる。

 太陽なんて大嫌い。
 明るいものは全て無くなってしまえばいい。私の羽で切り裂いてあげるわ。

 今は使えないけれど。

「ねぇ水銀燈?」
 視界の外から声がする。黙っていられないのかしらこの子は。
「何よ」
「あたしも太陽ってそんなに好きじゃないのよ?」
「嘘おっしゃい」
「あ、バレた?」
 ハルヒの苦笑顔が目に浮かぶようだった。
「ま、人それぞれかもね。あんたが太陽嫌いだからって、好きになりなさいよなんてあたしは言わないから」
 ハルヒはそれだけ言うと、さっきより機嫌よく歩みを進めたようだった鞄の中の揺れがわずかに大きくなる。
 それで自己満足しているのかしら。だとしたら本当に子どもね。

 子ども。

 ……この子は優しい。
 そして、そんな側面を見るほどに、私はめぐを思い出す。

 同じ空の下、今も白い病室で横になっている、かよわい少女。


 ――


 しばらく歩いて、最寄の駅から電車に乗った。
 鞄の中から呟くような水銀燈の声がする。
「あなた、どれだけ遠出する気なの」
「そうでもないわよ? 今日くらい自転車使ってもよかったんだけどね。こっちのほうが――」
 あたしは半自然的に口をつぐんだ。あぁしまった。
 そう思ったのも遅かった。水銀燈に感付かれてしまったらしい。
「いいこと。覚えておきなさい。私は誰かに同情されるのが一番嫌いなのよ。いい? 一・番・嫌い」
 本当に賢い人形だ。
 その通り。電車を使ったほうが涼しいからあたしはこのルートを選んだのだ。
 こんなに綺麗な人形を傷めて平気でいられる人間のほうがどうかしてるってものよ。
 顔を上げると、近くにいた主婦っぽいおばさんに不審な目で見られた。まぁ鞄に向けて喋ってたら痛い人扱いもされるか。
 あたしは一度だけ、腹話術の真似事のようにして水銀燈に語りかけた。
「すぐに着くから」

 この三ヶ月。
 主に休日を中心に、わがSOS団は市内の不思議を探してきた。
 あたしの期待と裏腹に、これまでのところ成果は上がっていない。

 けれどあたしはこれっぽっちも後悔していない。
 今までのSOS団での日常に不満が全くないわけでもないけれど、まだまだこの先も色んなことができる。
 あたしはそう信じている。

 だから今日も集合場所に行く。
 臨時の団員と一緒に。


 ――


 鞄の入口に切り取られた景色を見上げていた。
 どこへ向かうか判然としない不安は、あの青く深い海を思い出させる。
 手を伸ばしても決して上がれない。皮肉に陽光が遠くに見えて、どこまでも沈んでいった。あの時……。

 お父様はどうして私を助けたのだろう。
 どうして私にローザミスティカを与えたのだろう。

 未完成の、私に。

「水銀燈。水銀燈!」
 ハルヒの声。外気が熱を帯びていることに気がついた。
 私はそっと鞄の縁に飛び上がる。見ると、駅の近くらしかった。まばらに人々が往来している。
「なぁにここは?」
「ここがいつものSOS団の集合場所なのよ! 休日は時間までにここに来て、最後の人は罰金を払うわけ」
 ハルヒは太陽を二つ増やすような瞳の輝きとともに言った。私は正視しきれずに顔を背ける。
「あなた。どこまでもままごとが好きなのね」
「今日はね水銀燈。特別にあたしが奢ったげる。SOS団臨時団員加入を祝してね!」
 聞いちゃいないわ。……自信満々。そのパワーはどこから来ているの?

 ハルヒは一度、私に目線をよこした。
 綺麗な瞳。

 大嫌いな瞳。

 私は何も言わずに鞄の中に戻る。
 ハルヒは「それじゃいざ喫茶店へ!」と言って行進を始めた。

 あなたの瞳はよく似ているのよ。
 私が永遠に憎み続ける彼女に。

 真紅――。


 ――


「マスター! アイスコーヒーと紅茶! あとフルーツケーキ二つっ!」
 あたしは胸を張って宣言した。もうすっかりここの人たちとは顔なじみだ。
「ちょっと」
「何、水銀燈?」
「どういうつもりよ」
「どういうつもりって何が?」
「この状態よ!」
 水銀燈は立ち上がりかけて、慌てて元の体勢に戻った。

 今日はいつものテーブル席ではなく、カウンターの一番隅にあたしは座っていた。
 水銀燈を壁際に座らせて。

「大丈夫! いざって時はあたしが誤魔化してあげるって!」
「そういう問題じゃないでしょう!」
 立腹しつつも大声を出すわけにはいかない水銀燈はもうこの上ないくらいにチャーミングだったけれど、それを指摘したら今度こそ契約解除されかねないわね。
「おや、それは人形かい?」
 マスターがコーヒーと紅茶をカウンターに置きつつ言った。
「そうなんです。とっても珍しい人形で、えーっと名前は……」

「ローゼンメイデン」

 思わぬ方向から声がかかって、あたしは背中ごと攣りそうになった。
「ゆ、有希!?」

 長門有希。SOS団の無口っ子にして文芸部員。少し変わってるけど、そこがあたしの目を引いた。
「……どうしてここにいるの!?」
 あたしが問うと、有希はこちらを向いてわずかに首を傾けて、
「散歩」
「そ……そう」
 さんぽ。サンポ。散歩。……あぁ、散歩ね。
 何かツッコミを入れるべきところなのに、あたしは別のことを有希に訊いていた。
「有希、どうして知ってるの?」
 水銀燈の話では、ローゼンメイデンは世界に七体しかないとても珍しい人形のはずだった。噂にだってそうそうお目にかかれるものじゃないはずなのに。
「昔、本で読んだことがある」
 ……どこまで物知りなのだろう、この子は。


 ――


 私は気配を感じていた。

 すぐ近くにドールがいる。
 けれどここから見える場所には何もない。それに、今の私は自由に動くわけにいかない。

 誰かしら。
 真紅じゃないことだけは解る。何万時間経とうとあの匂いは忘れない。

「っていうか有希、田舎に行ってるんじゃなかったの?」
 少女の声が聞こえる。
 目の前にいる臨時ミーディアムの存在をようやく思い出した。
「帰ってきた」
 さっきからハルヒは友達らしい別の少女と話している。
 有希、といったかしら?
 ハルヒ以上に奇妙な印象を受けるのは、ただ単に口数が少ないから?

 ハルヒは数分の間有希という少女と話して、やがて相手のほうが帰っていった。
 気配が消えた……。

「今のが有希。SOS団の知識の泉なのよ」
 ハルヒが自慢の娘を紹介する母親みたいに、喜色満面で告げた。
「あなたに目をつけられたのが運の尽きだったわね、あの子」
「……ほんとに可愛げないわね。もう少し愛想持ったほうがいいわよ。水銀燈」
 私は人目が集まっていないことを確認して、一口だけ紅茶を飲んだ。
「76点ね」
 するとハルヒは頭をガクッと落として、
「今言ったこと聞いてた?」

 彼女、おそらくいずれかのドールと一緒にいた。

 一体誰と?


 ――


「有希さん?」
「……なに」
「今水銀燈がいたの、気づきました?」
「……」
「気づいてたでしょう。……危ないところだった」
「……」
「あれが涼宮ハルヒさんですか?」
「そう」
「なかなか楽しい人でしたね」
「……?」
「あんな水銀燈は初めて見ました。真紅には……言わないほうがいいのかな」
「……」
「あの、有希さん?」
「なに」
「もう少し……その、愛想、持ったほうがいいような……」
「……?」
「……はぁ」


 ――


「なかなか不思議ってないものよねぇ。三ヶ月粘って釣果ゼロなのが何よりの証拠よね」
 あたしはデパートの食品売り場にある試食のコロッケを頬張った。
「こんなところにおかしな何かがあるなんて本気で思ってるの? どれだけおめでたい頭してんのよあなた」
「あのね水銀燈。あたしが思うに、不思議っていうのは普通の人が生活してる場所にこそ存在してるのよ。それで、普通の人には見つけられないの。だから表面上はないことになってるのよ。解る?」
 水銀燈は十秒近く返答しなかった。
「……やっぱりおめでたいわよ。あなた」
 褒め言葉と受け取っとくわ。

「あら?」
「おや」
 書籍コーナーに行くと、古泉くんとばったり出くわした。
「古泉くんじゃない」
「ご無沙汰していました」
 古泉くんは慇懃に頭を下げた。高校生らしからぬ礼節のわきまえぶりよね、いつもながら。
「涼宮さん、今日はお一人ですか?」
「え? えぇまぁ……そうね」
 古泉くんは手に取っていた新刊ミステリのハードカバーを元に戻して、
「もし退屈しているようでしたら、どうですか? 少しお茶でも」
 人好きのする笑みで清涼感を振りまく姿。普通の女の子ならクラリときそうね。
 あたしは半瞬迷ったものの、すぐに水銀燈の存在を思い出して首を振った。
「遠慮しておくわ。今日はちょっと用事があるからね」
「それはそれは」
 穏健な微笑は先月の孤島で執事役をやってた……新川さんだったかしら。あの人を思い出すわね。
 古泉くんは最後まで礼儀正しく振舞ってあたしに手を振った。
 ん。何か思ったんだけど忘れちゃったわ。
「ハルヒ。今のはどなた?」
「水銀燈! こんな人の多いところで出てきちゃだめじゃないの!」
 あたしが囁くと、水銀燈はそれでも気にせず古泉くんの背を見つめている。さいわいにして人目は集まってないわね。よし。
「どうしたのよ?」
「お父様……」
「え?」
「いいえ、こっちの話よ」
 それきり大人しく引っ込んだ。何だったのかしら? お父様? さっぱり解らないわ。


 ――


 さっきの彼。
 お父様を思い出させたのはなぜかしら?
 確かになかなかの顔立ちだったけれど、お父様自身とは似ても似つかないわ。
 もっと他に、お父様を想起させる何かがあった……。

「ハルヒ」
「今度は何?」
「あれはあなたの彼氏?」
 そう言うとハルヒはあからさまに当惑して、それから全力で首を振った。犬みたいよあなた。
「違うからね! あたしは恋愛なんてフザけたものに興味ないの! それにキョ――」
 そこまで言ってまた猛烈に首を振った。あんまり回転してると頭が飛んでいくわよ。
「とにかく違うの! 解ったわね! 団長に余計なこと訊いたら罰則を課すわよ!」
 キョって何かしら。
「まぁ、私にはどうでもいいことだけど」
 本当に賑やかな連中。
 けれど、あなたたちがしているのは所詮――、

 おままごと。

 ……真紅。
 あなたは解っているのかしら?

 アリスゲームは舞台劇じゃないの。
 一度始まれば、ただひとつのドールしか残ることは許されない。
 なのにあなたは馴れ合いばかり。綺麗ごとばかり。

 虫唾が走る。


 ――


「結局何にも見つからなかったわねぇ」
 夕方。あたしは自室で団扇をはためかせていた。
「あなた正気なの? 今すぐ行くべきは病院じゃないかしら」
「そうよね。ひとりでに動く人形なんてものがいるはずないし、もしかしたらあたしは真夏の輻射熱に当てられてるのかも」
 使い古しのマットみたいにくずおれる。
「水銀燈。不思議ってどこにあるのかしら」
「どうしてそんなに不思議なことにこだわるのよ」
「そのほうが楽しいからよ」
「あなた、今は楽しくないの?」

 今……?

「私がいるのに憮然とされたんじゃ心外よ。たまにはその猛獣みたいな威勢を沈めたらどうなの? クールダウンって言えば解るかしら」
 クールダウン?
「そう。この際だから言うけれど、昼間っからあなた暑苦しいのよ」
「な、何よ!?」
 この茨人形……!
「あーら。図星だもの、うろたえても仕方ないわね」
「…………」
「どうしたのかしらー。お子様に辛辣な提言は堪えちゃった?」
「……そうよね」
「え?」
 あたしはすっくと立ち上がる。
「そうよね! 今を楽しまないで何を楽しめって言うのよ。問題は最後に何が残るかなんだわ。結果が出ればそりゃ文句ないけど、何にもならなかった時こそ過程を大切にすべきなのよ!」
 水銀燈、いいこと言うじゃないの!
「え……? あなた。私の言ったことの意味本当に解ってるの?」
「もちろんよ! そうね、この夏はまだまだ遊び足りないわ!」


 ――


 そう言ってハルヒは部屋から出て行った。
 何を企むつもりかしら。もしかして私、火炎にガソリンを注いじゃった?

 外を見ると、夕陽がようやく家屋の隙間に沈むようだった。
 夜になれば、私は少しばかりの安寧を取り戻せる。

 壁を隔てて爆発音のような声が轟く。

「あー水銀燈! 紅茶いるー!? つ・い・でだから淹れてあげるけど?」
 ついでですって!?
 あなたのやる気は認めるけれど、紅茶を入れる作法はまだまだよ。

「……」
 不意に風が髪を撫でる。
 カーテンが朱色と黒の二色で構成された景色を縁取っている。

 二日目が終わろうとしている。

 束の間の休息。
 この短い遑が終われば、私はまたもとの世界にもどっていく。

「水銀燈ー? 聞いてるの? ねぇ!」
「解ったから待ちなさい。それじゃ近所の子ども未満よ。私は全面的に四才未満お断りなの」
「聞こえないわよ! とにかくこっちに来て!」

 私は肩をすくめた。
 こんなに息の合わないマスターは金輪際お断り。

 けれど――、

「今は楽しくないの?」


 似合わない自問に、私は答えられたかしら。


「今行くわよ! うるさい子ね!」

 そう言っていつもより不自由に、私は宙に浮いた。


 あと一日きりのマスターの元へ。

 

(おわり)


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