俺の名は谷口。的屋だ。いや、的屋だったと言うべきか。さっきまで的屋だったが、店仕舞いしてしまったんだから、的屋とはいえないな。的屋じゃなくなったんだから、元の探偵に戻ったということになるのだろう。
では改めて。俺の名は谷口。探偵だ。
俺はバイト料代わりの練乳みぞれカキ氷を長門におごってやり、ぶらぶらとそこらを歩いていた。祭りの終り近くというのはやはり寂しいもので、人通りのまばらになった道路沿いを見ていると、ああもう夏も終わっちまうのか。という似合いもしないセンチな気持ちがわいてくる。夏は終わっても、夏の暑さはいっこうに納まらないのにな。
「………兄貴はこれからどうするの?」
さあ、どうしようかな。とりあえず、たまご焼きでも食べながら考えるさ。俺、お祭りに来たらたまご焼きは絶対買うようにしてるんだ。焼きたてのたまご焼きって、縁日にでも来ないと食べられないじゃん? 焼きそばとかお好み焼きとかタコ焼きは食べたくなったらすぐ食べられるけど、焼きたてたまご焼きって簡単には手に入らないだろ? 希少価値だよ。レアフードだからな。たまご焼き屋も最近は見なくなったし。
「………綿菓子もね」
作りたての綿菓子も縁日の出店くらいじゃないと手にはいらないよな。そういえば。でも俺、いい年だし。綿菓子なんてガラでもないから、パスでいいや。
「………私は食べたい」
お前な……ここぞとばかりにたかってくるな。
「………あと、金魚すくいも」
金魚すくいはもうたくさんだろ? 金魚がほしいんなら、後でいっぱいやるよ。100匹くらい。遠慮するな。余ってるんだ。
「………そうじゃなくて。もうひとつの金魚すくい屋の方」
なに言ってるんだよ。あんなところへ行けるわけないじゃないか。あれこそ諸悪の根源、いろんな意味での商売敵の巣窟だぞ。あんなところへ行きたいなんて、お父さんは許しませんよ。
「………ケンカはいけない。仲直りしないと」
俺はズボンのポケットに手をつっこんだまま立ち止まり、長門の横顔に目をやった。
お前。ひょっとして俺とキョンのこと心配してたのか?
わずかに眉をひそませて俺の顔を見上げる長門の顔を見ながら、俺は変に照れくさくなって目線をそらした。やれやれ。まさかこんなガキにまで気を遣わせてしまってたなんて。
あのな、長門。俺とキョンがいがみあっているのは、昨日今日に始まったことじゃないんだぞ。なんていうか、犬猿の仲のくせに腐れ縁っていうか、言葉で説明しづらいが、俺とあいつはこれでけっこうバランスがつりあってるんだ。俺としてはバランスとれなくなってもいいんだが、不思議にこれで安定しちゃってるんだよ。だからケンカしたって「まあこんなのいつものことだ」と思っていられるから、わざわざ細かいことまで気にすることはないんだ。
「………ケンカするほど仲がいいって言うこと?」
違う。断じて仲はよろしくないぞ。言ってみれば、磁石の同極同士っていう感じ?
「………臭い物をくさいと分かっていても、ついついニオイをかいでしまう、という感じ?」
お、ちょっと近づいたぞ。しかし意味がよく分からない。そして残念ながらたとえが悪い。だれが臭い者だ。
だいぶダラダラと歩いていたつもりだったが、早くも屋台群の端っこまで来てしまった。ここで祭提灯のすだれは途切れている。やっぱ屋台あっての縁日だよな。屋台が無くなると、そこを境目に祭と日常の隔たりがはっきり別れているようで、やっぱり寂しい気がする。ここから先へ行ってしまうと、もう今日という日が終わってしまうようだ。
しかしこっから先へ進むわけにはいかない。さっさと家に帰ってしまいたい気分ではあるのだが、店を片付けないといけないし。
もう長門は帰れよ。夜も遅いし。
「………うん。それじゃ」
今日はありがとうと控えめに手をふって、ぼんやりとした街灯の光の向こう側へ去っていく長門を背中を眺めていると、やはり1日がもう終わってしまったのだな。という気になってくる。とうとう今日は失敗したまま終わってしまったのか……。
長い人生、そんな日もあるさ。だろ? そんなことでいちいちヘコんでられないぜ。
どうしよ。このまま本当に店の片付けに戻ろうかな。コンビニでおでんでも買ってこようかな。どうしよう。
「あら、谷口くん。店にいないとおもったら、こんなところにいたの。もう店仕舞い?」
やあ朝倉さん。奇遇だね。こんなところで逢うなんて。これも運命ってやつかな? さっき会って別れたばかりだけど。
「そうかもね。運命なんて言ったら大げさだけど」
いやいや。きっと運命に違いないよ。長門も帰ったことだし、運命ついでにこれから一緒に祭りを見て回らない?
「縁日、もうすぐ終わっちゃうわよ?」
いいさ、それでも。始まる前でも終わる間際でも、祭りは祭りさ。一応、まだ屋台だって開いているし。人が少なくなったぶん、かえって歩きやすくなっていいや。
「そうかもね。それじゃ。せっかくだし、谷口くんに案内してもらおうかな?」
あ、そういや朝倉さん、お姉さんと一緒に来てたんだっけ? お姉さんは?
「いいのよ。お姉ちゃんなら、彼氏と二人で先に帰ったもの」
すこし寂しげにそう言うと、朝倉涼子は照れ隠しのように微笑んだ。ああ、置き去りにされちまったわけか…。とんだ運命だな。
しかし、こう言ったらなんだが、好都合。これで心置きなく朝倉さんと2人で縁日を見て回れるってわけだ。
「そうね。私もひとりでどうしようかと思ってたところだし」
さびしい男と女が、しめやかに終わっていく夏祭りの路上で出遭ってしまったんだ。長くのびた影に孤独をさとり、よせる波のように2人よりそえば、ゆれる提灯の明かりも絡みあう指をおぼろげに照らしだす。てな風情だ。
「いやな言い方するわね…。まさか変なこと考えてるわけじゃないでしょうね」
変なことってなんだよ。俺はいたって健全なことしか考えていないぞ。それじゃあ、お手々つないで行きましょうか。
「やーよ。谷口くん、口ぶりがいやらしいんですもの」
ああ、ごめんなさい。冗談です。謝るんで勘弁してください。だから訴えないでください。お願いします。
俺の必死の謝罪が功を奏したのか、朝倉涼子はくすりと笑って歩き出した。
「冗談よ。行きましょう」
一緒に行こうと言ってはみたものの。さっきまで金魚すくい屋でポイの紙を破り捨てることに執念を燃やしていた俺と違って朝倉さんは、もうあちこち見て回っているんだろうな。さあ、どうするべきか…。こういう時は男が積極的にリードするものだと相場が決まっているが、このままだとイニシアチブを朝倉さんに奪われっぱなしだ。
でもこのまま朝倉さんの先導について行くというのも楽でいいかも。いやいや、やはり俺が男らしく彼女を楽しませてやらないと。そして積もりに積もったマイナスイメージを払拭しなければ。
かといって、終わりかけの縁日でどう盛り上がれというのか。うーむ、これは難問だ。
「もうすぐ花火の時間よね。公園に行きましょう」
そうだ、花火という手があった。まだまだイベントは残ってたんだな。神はやはり俺を見捨ててはいなかったのだ。ところで今日、花火なんてあったっけ?
「知らないの? 電柱や掲示板に貼ってあったポスターにも書いてあるじゃない。21時20分から公園で打ち上げ花火をやるって」
アイヤ知らなかった。なんだ、去年はそんなイベントなかったじゃないか。青年会め。俺に黙っていやがったな。ずるいぜ。
「キミが知らなかっただけじゃない?」
そうです。はい。面目ない。いや、マジで面目ない…。
「そこまで落ち込まなくても。そんなこともあるわよ。谷口くん、金魚すくいの店の準備に熱中してたみたいだし。気づかなかったのね」
ううぅ、フォローありがとうございます。なんて言うか、地元人として立つ瀬がない…。
その時、あたりがネオンのようにぱっと明るくなったかと思うと、腹の底をふるわせる音が周囲にひびきわたった。
空を見上げると、華々しい光の玉が暗い夜空にかき消えて行くところだった。ああ。花火だ。本当に花火なんてあったんだ。長門にも教えてやりたかったな。
「あ、もう花火が始まっちゃったみたい! 急ぎましょう!」
駆けだした朝倉さんの後を追うように、俺もつられて走り出した。
ま、いいや。別に無理して男がリードしようとしなくても。性別なんて関係ない。その場のノリで行ける人が、みんなを引っ張っていけばいいのさ。
その時ふと頭の片隅に、鶴屋さんの別れ際のセリフが浮かんできた。
───21時27分。公園の真ん中にある矢倉に近づいたらダメにょろよ? いい? 絶対に。お姉さんとの約束っさ
何があるのか知らないが、朝倉さんが行っちまったんだ。行かないわけには、いかないさ。
道路に人通りが少なくなったと思ったら、みんなこっちに移動していたのか。公園の内外はたいそうな混み具合だった。
遠くの方から花火を遠望している人もたくさんいるが、やはり花火は打ち上げ間近で見上げながら眺めるのが大胆で豪快で磊落だとみんな思っているのだろう。
どん、と音をたてて、また一つ空中で輝く火花が四散した。やっぱ夏はこれだよな。
時計を見ると、針は21時23分を指していた。
「きれい…。花火っていいよね」
時計から目を上げると、朝倉涼子の顔が花火の光を受けて白く輝いていた。夜闇の黒と火花の白い光に照らされ、まるで名のある画家が描いた単色絵画のようで、とても美しかった。花火っていいよね。
「朝倉さん。谷口くん。2人も来てたんだ」
誰かに呼びかけられ、ふり返る。そこには浴衣姿の朝比奈さんと香具師姿のキョンが立っていた。
こんばんは、朝比奈さん。奇遇ですね、こんな時間にお会いするなんて。『夜』なのに『朝』比奈さん、なんっちゃって。
「うふふふ。もう、谷口くんったら~」
「……なにが面白いんだ、そのダジャレの」
うるさい黙れキョン公。面白くもないダジャレなんてのは百も承知。会話の流れの潤滑油にいちいち横槍を入れるなんて、なんて野暮ったいヤツだろうねまったく。
「ふ~ん、そうなんだ」
じと目というのだろうか。椎名誠的な表現をするならワニ目というのだろうか。妙な具合に目を細めた朝倉さんが、わざわざ俺の顔を覗き込むように視線をおくってくる。
な、なんスか? 俺、なにか不謹慎なことでも口走りましたか?
「私の名前も『朝』倉なんだけどな。私、谷口くんに今日2回も会ったのに、そんなダジャレ1回も言われてないんだけど?」
そうでしたっけ。まあ、仕方ないっスよ。今さっき思いついたシャレなんだし。な、なんスか? なんでそんなに睨むんスか?
「睨んでなんていないわよ。もう。いいわ」
何か知らないが、朝倉さんはカリカリした様子でそっぽ向いてしまった。どうしたんだ? そういえばさっきから変にイラついているような感じだったな。いつからだったかな……。そう、この公園に来た時くらいから……
その時。ひやりとした感覚が俺の手に走った。朝比奈さんの浴衣姿とキョンのアホ面から視線を離す。
後ろ手に、朝倉涼子が俺の手首をにぎっていた。そっぽ向いてるから、彼女がどんな顔をしているのかまでは窺い知れない。
俺は背筋に冷水をかけられたよな既視感がして、小さく身震いした。
今のこの状況。俺が見た夢の中の様子に似ている。さっき見た夢の中の映像。そこでも俺は不意に朝倉涼子に手をにぎられ、ふるえる声でこう言われたんだ。
───助けてよ。谷口くん
バカバカしい。夢の中の出来事を、現実世界にあてはめるなんて。気が滅入ってるのかね。今日は厄日かもしれないな。朝倉さんに手をにぎられたのはラッキーだが。
どん、と雷が落ちたような音をたて、赤い花火が夜空にさいた。その一瞬の火花の中で、俺の視界の隅に古びた公園のアナログ時計が残影のように映った。
その針は、21時27分を指していた。
どん、と耳元で大太鼓が打ち鳴らされたような音がした。ひゅるるる…ぱっと花火が夜闇を照らし出す。誰もがそう思ったに違いない。
しかし大太鼓の音の後に起こったのは、非日常的な光景と群集の悲鳴だった。公園の中心にそびえたつ矢倉が、突然ぐらりと傾いだかと思うと、ばきばきという乾いた音をたてながら崩れ落ちてきた。
蜘蛛の子を散らすように、というのだろうか。花火見物に集まっていた観客たちは声をあげながら逃げていく。
俺は事態を把握しきれていない頭で、俺の手をぎゅっと握ったまま動かない朝倉涼子の肩をだいて反射的に逃げ出した。まるで金縛りに遭ったかのように身じろぎしなかった朝倉涼子も、俺に引きづられると正気にもどったように歩き出した。あたり一面に、逃げ惑う群集の声が大音量であふれかえっていた。
「朝比奈さん!」
切羽詰ったキョンの声に驚き振り返ると、朝比奈さんがその場にへたりこんで固まっていた。まずい。腰でもぬかしたのか!?
すぐさまキョンが朝比奈さんを抱え上げるが、とっさのことでうまく持ち上がらない様子だ。俺も手伝うべきかと一瞬迷ったが、俺が今やるべきことは他にある。悔しいが、朝比奈さんの保護はお前に任せたぞ、キョン!
完全にバランスを失った矢倉が、まるで悲鳴のようにスピーカーのハウリングを起こしつつこっちへ倒れてくるのが目に入った。巨大なモンスターがのしかかってくるかのような威圧感だ。
朝倉涼子をかばいつつ、俺はなりふり構わず駆け出した。
背後で大きな質量をもつ物体の、盛大に砕け散る音が耳に届いた。
公園脇の街路樹の根元まで走って行き、俺は倒れこむように歩道に座り込んで後ろを振り返った。公園内には土煙がもうもうと舞っており、夜の暗さと相まってなにも見えない。
周囲は統制のとれていない大勢の人たちの喧騒に満ちていた。当然だ。花火見てたらいきなり矢倉がたおれてきて、あやうく押しつぶされるところだったんだ。誰だって興奮するさ。
俺の隣では、呆然と朝倉涼子が公園の土煙を眺めつつ脱力したように立っていた。
俺はその場で深呼吸を2,3度行い、理性で興奮をおさえこみ立ち上がった。まだ少し、足がふるえている。
キョンと朝比奈さんが無事逃げられたかが気になり、あたりに目をやった。しかし周囲一面、避難民やら野次馬やら判別できない大勢の群集で埋めつくされていて、とても2人を探し当てられるような状況ではない。すぐに事態収拾のため、警察もやってくるだろう。さらに人探しは難しくなる。
朝倉さん、ここから離れよう。後のことは警察なり何なりに任せて。
俺と朝倉さんは金魚すくいの屋台に戻り、道具をまとめてテントを折りたたんでいた。
俺はもうだいぶショックからも立ち直っているんだが、朝倉さんの方はまだ浮かない顔つきをしたままだ。まだ逃げ遅れた朝比奈さんとキョンのことが気になっているんだろうか。
朝倉さん、大丈夫? 気分でも悪いか?
「……ううん。大丈夫よ。いきなりのことだったから、まだちょっとショックが残ってるだけ」
そっか。そうだよな。ビックリするよな。俺も久しぶりにどきどきしちゃったもん。どうせドキドキするならトキメキで胸を高ならせたかったもんだが。世の中思い通りにはいかないものだ。
「ごめんね。私が花火にさそったりしたばっかりに。こんなことになって…」
朝倉さんのせいじゃないさ。それに、朝倉さんも俺も怪我ひとつ無いんだ。気にすることなんてない。
テントは青年会に返し、金魚をいれていたコンテナも青年会の管理する倉庫に放り込んできた。俺は残った小物道具を箱につめこみ、自転車の後ろに載せて運搬していた。
自転車のハンドルを持って自転車を押しながら、少ししめっぽい夏の夜風を受けて歩いていた。その隣を朝倉さんが無言で歩いている。
「…………」
てっきり朝倉さんのナーバスも一時的なもので、少したてば「怖かったね~!」と笑って言えるようになるだろうとタカを括っていたんだが。彼女のショックは俺の想像以上に深いものらしい。実は朝倉さんって、俺の想像以上にデリケートな人だったんだな。口には出せないが。
なあ、朝倉さん。
「……なに?」
あん時はどうしようかと思ったけど、無事だったんだしさ。そう落ち込むこともないと思うぜ。
「心配してくれてるの? ありがと」
小さくそう言って無理矢理、微笑む朝倉涼子の笑顔が痛々しく感じられた。
なんなら、『朝』まで一緒に居てやろうか? 『朝』倉さんだけに。
てっきり笑うか変な顔して反論してくるとばかり思って覚悟を決めていたが、朝倉さんは俺のさむいダジャレを聞いても特に反応を示さず、きょとんとした表情で俺の顔を見ていた。なんだよ。そんな顔して見るなよ。照れるじゃないか。
何か変な物でもくっついてるんじゃないかってくらい、しばらく俺の顔を見ていた朝倉さんだったが、徐々に肩をゆらし、笑い始めた。
「うふふふ。ははは。おっかしい。なに? 公園で私がダジャレ言ってくれなかったって言ったこと、ひょっとしてまだ根に持ってたの?」
なんだよ。悪いかよ。けっこう俺ってナイーブなんだぜ。
「あはははは。ごめんなさい。気にしなくてもいいのに。ああ、笑いすぎて涙でてきちゃった」
朝倉さんはムッとした顔の俺の肩をたたき、小指で目の涙をぬぐった。やめてくれよ。そういう仕草みてるとドキドキしちゃうだろ。
何がそんなにおかしいのか知らないがひとしきり笑った後、朝倉涼子はごめんなさい、と呟いて俺の肩に額をあずけた。
なんだよ。ごめんって。いいさ。気にしてないから。人に笑われるのには慣れてるし。
しばらく無言で朝倉さんは俺の肩に頭をくっつけていた。俺としては何がなにやら分からず困ってしまうわけだが、困ったまま、小刻みにゆれる朝倉さんの両肩を見ていた。
「私の家、ここから近いんだ。ありがと、送ってくれて」
静かにそう言って、朝倉さんは軽い足取りで歩き始めた。
「またね」
手を振り、朝倉涼子は閑静な路地を走って行った。
その後姿が見えなくなった後でも、俺はまだわずかに心臓の動悸がおさまりきっていなかった。収まれ、俺の心拍数。
不思議な夜だった。風がふいても、まだ朝倉涼子の香水の残り香が鼻腔にのこっているような気がした。
縁日の次の日。郵便受けに入っていた新聞を広げ、コーヒーを飲んでいると、地方欄に昨日の21時27分の件が載っていた。
1晩経った今でさえ、あの時の記憶は鮮明に残っている。炸裂する花火の打ち上げ音。ゆるやかに傾いで倒れてくる矢倉台。土煙。生々しい。
新聞によると、あの1件は不幸な偶然が重なった上での事故だったらしい。なんでも、空に打ち上げようとした花火の発射台が誤って倒れてしまい、それが矢倉に命中してしまった。矢倉は矢倉で、支柱の木の一本が腐っていて、花火の衝撃にたえきれずポッキリいってしまったらしい。
俺の脳内に、ふっと涼宮ハルヒと古泉一樹の姿が浮かんだ。どうも最近、都合のいい偶然話をみかけると、奴らの顔を思い出してしまう。
事故ってのは多かれ少なかれ、こういった不幸な偶然が重なって起こるものなんだ。いちいちヤツらのせいじゃないかと疑ってかかっても詮無いことだろう。
新聞によればあの事故で、負傷者が1名出たらしい。事故が起こった経緯よりも、俺としてはむしろその負傷者1名の方に「偶然」を感じるね。
この事故での負傷者1名とは、キョンのことだ。詳しいことは分からないが、昨夜聞いた話では、キョンは朝比奈さんをかばって矢倉の直撃を受け、腰に打撲症、大腿骨骨折の重傷を負ってしまったらしい。
見上げた根性だ。そして、よくやったとキョンを褒めてやろうと思う。いくら気にくわないヤツだとはいえ、朝比奈さんを守った上での名誉の負傷だし。
それに知り合いが入院するってのは、相手が誰であろうと気分のいいものじゃないんだ。
今キョンは市民病院に入院中で、朝比奈さんが付き添いに行ってるそうだ。入院費は青年会がなんとかするだろう。
俺はキョンの見舞いの品に、甘口キムチがいいか辛口キムチがいいか思案しながら立ち上がった。もういっぱいコーヒー飲んでから出かけよう。
「砂糖は入れるかい? ブラックばっかじゃ身体に悪いっしょ?」
台所から、コーヒーメイカーを手にした明るい笑顔の女性が現れた。
「やあ。昨日ぶりだね谷口くん。新聞読んでたから、邪魔しちゃ悪いと思って勝手にあがらせてもらっちゃったよ」
俺は寝癖のついた頭をぼりぼりしながら、クエッションマークの浮かぶ脳みそでその女性に目をむけていた。……誰だっけ。見覚えが……あ、そうか。鶴屋さんだ。
じゃあ、砂糖抜きで。
「はい、どうぞ」
あ、ども。うーん、この舌を刺激する酸味がたまらない。
で、今日はどのようなご用向きで?
「昨日もらった金魚なんだけどさ。ホームセンターに行ってもエサの種類が多すぎてなにを買ったらいいか分かんないんだよ~。どの種類のエサをあげればいいのかな?」
ああ、基本的になんでもいいっスよ。ゆっくり水中に沈んでいくタイプのエサがいいかも。
「いやあ、金魚を飼ったことがないからさ。全然分からなかったんだよね。ありがと!」
いやいや。お役にたてて何よりっス。そんじゃ、また。縁と機会があればお会いしましょうぞ。
ふーん、とうなって鶴屋さんは俺を観察するように見た。
なんスか?
「いやね。てっきり昨日のことをいろいろ訊かれるんじゃないかって思ってたのに、訊かれないからさ。何か調子がくるっちゃうっていうかさ~」
訊きたいことならいっぱいあるけど、全部教えてくれるの?
「うん。教えたげるよ」
俺はコーヒーを飲み干し、テーブルの上にカップを置いた。
やっぱ、やめときますわ。余計なことまで聞いて変なことに巻き込まれたくないんでね。
「ふーん。キミって、けっこう賢いんだね」
賢くなんてないっスよ。賢かったら、もっといい生活してますよ。
古泉も似たようなこと言ってたしな。
───知りたいですか?
いくら知的好奇心から知りたいことでも、それで今の平穏無事な生活を失ってしまいかねないってリスクは大きすぎる。
「たとえば、谷口くんが知らない間に日本の税制度が変わって、消費税が値上げされてしまったとするよ。消費税が5%だと思っていたのに、実は10%になっていた。買い物をする時、カウンターで清算する段になっても、キミは消費税が値上げされたいたことに気づかなかった。どう? 知らず知らずのうちに予定以上の出費をしていたとしても、キミは幸せかい?」
カップから口を離すと、鶴屋さんが妙な話をふってきた。
知らない間に金を想像以上に搾取されてしまうのはイヤだな。それに、税が値上げされたことを知らなけりゃその後の消費生活にも関わってくるし。そういう意味では不幸…かな?
「知らないよりも知っておいた方がいいってことは世の中にたっくさんあるけどさ。やっぱ知らない方が幸せなこともあるんだよね。消費税の値上げのたとえで言えば、キミは知らず知らずのうちに予想よりも多い税をとられていることになるけど、それは知らないからこそあれこれ考えずにいられるのっさ。もし多くお金がとられていることに気づいてしまったら、消費税を値上げした政治家を恨んでみたり、買い物にかかる出費を嘆いて暗澹とした気分になったりするんじゃないかな。そうなったらば、やっぱ不幸だと思わない?」
そう言われれば、そうなるかもね。知らぬが仏っていうことわざもあることだし。
「消費税が値上げされたら、それを知っても知らなくても、お金をとられることに変わりはないんだし。むしろ知らなければ、余計なことに神経を使わずに平穏に暮らしていけるじゃないか」
強引な話ですね。
「まあ、たとえ話だしさっ。物事を知ることは必ずしも幸せにつながるとは限らないけれど、知らないということは幸せにつながるのだよ」
無知=幸福ってことですか? まあごくごく一部の意見には同意しますけど、物を知るということは大事ですよ。情報を仕入れる上で、有用な情報化不必要な情報化を選り分けることができないから、不幸をしょいこむことにつながるということはあるだろうけど。
「知らないでいられるってことは、けっこう幸せなことだよ」
とまあ小難しい話はここまで。疲れるしさ。と言って鶴屋さんは俺の背後にまわると、背中をぽんと叩いてまたけらけらと笑った。
「ま、事情を知りたくないっていうんなら無理に教えることもないかっ。でも、もしこっち側の秘密が知りたくなったならいつでも言っておくれ。可能な限り教えてあげちゃうよ」
それだけ言うと、鶴屋さんは手を大きくふって玄関へと降りていった。靴、そこにあったのか。
「あ、そうだ。谷口くん。ひとつだけ。キミがどれだけ私の言うことを信用するかは別問題として、忠告しておいてあげるよ」
ドアを開け、今まさに部屋から出て行かんとしていた鶴屋さんが、肩越しに振り返った。
「朝倉涼子にゃ気をつけな」
バタン。と音をたててドアが閉まった。
出て行く間際の鶴屋さんの笑顔が、なぜか古泉のにやけ顔とかぶって見えた。あのスマイルって、なにかのスラングなのだろうか。
───朝倉涼子にゃ気をつけな
頭の中に、夕べの朝倉涼子の走り去る後姿が浮かんできた。
確かに、知らなきゃよかったよ。鶴屋さんも余計なことを教えてくれたもんだ。
ため息をつき、俺は寝癖を直して靴を履いた。
コンビニで日本産甘口キムチを買って、キョンの見舞いにでも行こうと家を出た。
~完~
<次回予告>
谷口「まったく。鶴屋さんが変な忠告するから気になって気になって」
鶴屋「あっははは! ごめんよ谷口くん。キミの心の純真な部分を傷つけちゃったかな?」
谷口「…んなこたないですけど。ま、いいか。俺はこれから仕事あるんで。立派な社会人として」
鶴屋「おー、そういえばキミは探偵さんだったんだね~。仕事って、なになに?」
谷口「それは教えられませんよ。職務上知りえた情報を部外者に横流しすることはできなんでね」
鶴屋「え~と、ふむふむ。部屋に盗聴器がしかけられてないかどうかの調査? うん?」
谷口「うぉい! なに勝手に重要文書に目を通してるの!? ダメよダメダメ、ダーメダメよ!」
鶴屋「重要な物なら、無造作に接客テーブルの上に放り出しておくことは感心しないにょろよ?」
谷口「金庫に入れようと思ってたら鶴屋さんがいきなりどこからともなく現れたんじゃないスか」
鶴屋「で。誰の盗聴するの?」
谷口「……俺が盗聴するわけじゃないんスよ?」
谷口「次回、ゴシップ探偵、谷口 ~かわいいあの子は売れっ子マジシャン~」
鶴屋「谷口くん、マジックなんてできるのかい?」
谷口「いや、俺はできませんけど…。そういや鶴屋さんがいつの間にか俺の部屋に入ってきてたのってマジック? 全然気づかなかったんスけど」」
鶴屋「マジックだよ。種も仕掛けもあるのさっ! こう、窓にね、ガムテープを貼ってナイフで切れ目をいれて一気にハンマーでぽこっと」
谷口「それ不法侵入じゃないスか! 窓から入ろうが玄関から入ろうが不法侵入には変わりない……ああ、うちの窓が!」