俺の名は谷口。探偵だ。しかし正確には、今はちょっと違う。探偵稼業はいったんお休み中なのだ。まあ、いろいろとあってね。

だから一言お断りをした上で、オープニングをやり直そうと思う。では改めて。

 

俺の名は谷口。的屋だ。

誰しも懐かしい思い出の中に残っているはずだ。子どもの頃、夏休みになったら近所の商店街や神社で開かれる夏祭りの記憶が。仲のいい友達同士でさそいあって、暑い日中がなりをひそめた夕蝉の鳴く夕暮れ刻に、親に駄賃をねだって自転車こいで、ワクワクしながらみんなの待つ待ち合わせ場所まで走っていくんだ。妙にはしゃいじゃったりしてな。

くらくらするほど賑わう人ごみの中を、かきわけるようにみんなで進んで行く。道路の脇にはお面やタコ焼き、たまご焼きの出店があって。まず何を買おうか、くじ引きをしようか、それともカキ氷を食べようか。悩みながらもドキドキ胸を高鳴らせて、そこらを走り回るんだ。で、結局焼きそばをみんなで買って公園のベンチに座って食ったりして。

夏の日の縁日。いいねえ。

そういや縁日の日って、早々と店仕舞いするプラモ屋とか駄菓子屋も遅くまで店を開けてて、子ども心に別世界に紛れ込んだような思いがしてたな。懐かしいなあ。

まあ客の気持ちはともかく。的屋を経営する香具師としては、どんな手を使ってでも儲けてナンボの世界だけどね。

 

的屋と一口に言っても様々な業種があるが、俺が今回担当するのは金魚すくい屋だ。紙やらモナカやらを貼ったピーポイで金魚をすくい獲ったら、それを景品としてお持ち帰りできるという、いわゆるアナログ自力クレーンゲーム屋だ。

こいつは縁日の定番だろ? 子ども心にも、金魚とヒヨコとミドリガメのクレーンゲームはまぶしく映るものだ。そういう訳で俺は、病気がどうこう言われている今の時勢にミドリガメはヤバイから、金魚すくい屋をやることにしたわけよ。

 

 

「あら、どうしたのこんなところに水を溜めて」

俺がアパートの前でコンテナに水を張っていると、通りかかった朝倉涼子がそれを見とがめて声をかけてきた。

明日、商店街で縁日があるだろ。そこで俺が金魚すくいの出店を出すことになったんだ。だから、その準備をしているのさ。

「へえ。谷口くん、香具師なんてするんだ。知らなかった。あ、でもそっちの方が似合ってるかも」

どういう意味だよ。ま、いいや。イメージってのは大事だもんな。的屋らしい方が縁日の屋台にはふさわしい。

俺が昨日から天日干しにしている水道水をチャプチャプやっていると、助手の長門が台車を押してやってきた。いつの間にやら、うちに居ついているヤツである。

「………兄貴、金魚が届いた」

おお、ついにきたか。俺はタオルで手をぬぐい、長門が台車で運んできたダンボールを担ぎ上げた。宅急便で金魚が送られるんだから、楽な時代になったもんだ。なんてね。金魚屋やるのは今回が初めてだから、熟練ぶってなんていられないのだが。

長門と朝倉涼子が好奇の目で見守る中、バリバリとダンボールの封をあけると、中には水でパンパンにふくれたでかいビニール袋が入っていた。ちょっとやそっとじゃ破れない、頑強で頼りになる業務用ビニール袋だ。その水の中に、いるわいるわ。400匹の金魚がすいすい泳いでいる。たぷんたぷんと揺れている水は金魚のフンでくすみ、何匹かの金魚が腹を上に見せてぷかぷか浮いている。しかしこれも金魚業界の定めだ。安らかに眠っておくれ。何匹かの金魚。

朝倉涼子と長門さらに顔を近づけて、輝く目で金魚を観察している。

「コレって、どれくらいするものなの?」

そうだな。橙色の金魚が1匹12円で、出目金が15円。ピーポイは1枚が12円。持ち帰り袋は束売りだな。金魚は400匹計算で買ってるから、だいたい5000円くらいかな。ピーポイは300枚あるから、3600円。合計9000円弱。

「この水槽は自前?」

アパートの管理人さんから借りたんだ。だから元手は0円。家にあった食塩をエサの代わりにやるからエサ代も0円。エアコンデンサーも借り物だから0円。ご利用が計画的だろ?

「すごいじゃん。あ、でも採算は考えてるの?」

当たり前じゃないか。利益も考えずに先行投資するかよ。ピーポイ1枚お1人様200円でご案内するから、当日の天気が崩れさえしなけりゃボロ儲けの予感っスよ。朝倉さんもどう? お友達価格で、特別に1回150円にしとくよ。

「あははは…。値引きしても150円なんだ。せっかくだけど、私はパスかな。うちは金魚飼うような設備がないし、すぐに死なせちゃいそうだし」

そう言っていられるのも今のうちさ。祭り当日になれば、あの独特の熱気でテンション上がって「そんじゃせっかくだから1回だけやろうかな~」とか言っちゃうもんだぜ。そうでなきゃ、縁日の金魚すくいなんて儲かりやしない。

「そうかもね。確かに。当日になったら、勢いでやっちゃうかも」

だろ? ま、あまりあてにせず待ってるよ。

「うん、あてにはしないでね。金魚すくいやるとしても、もしかしたら安くて豪華な方の金魚すくいに行っちゃうかもしれないから」

…安い方の金魚すくい? 俺のほかに金魚すくいやる出店なんてあったっけ…?

「あれ、知らなかったの? このむこうのマンションに住んでる探偵さん、誰って言ったっけ。キョン、だったっけ? 朝比奈さんの彼氏。あの人も明日の夏祭りで金魚すくいするらしいわよ。1回100円で」

俺の頭皮をブチ破りアンテナっぽい触覚が突き出るかのような衝撃が、俺の頭脳に走ったね。

エアポンプとピーポイと塩と金魚の請求書を長門に投げて渡し、俺は電光石火の勢いをもって土煙をあげ、駅の方角へむかって走り出した。

 

 

またか、またキョンなのか!? またあのバカップルなのかよ!? いったい何度この俺の生活スタイルに刺激をあたえてくれりゃ気がすむんだあの野郎は!? 絶対ねらってやってやがるぜ! 挑戦だな、これは俺に対する嫌がらせ100%の挑戦にちがいない!

急カーブを弓なりにクリアーする俺のスピードは一向におとろえない。

今日と言う今日はゆるせないね。抗議してやる! 限界だ、押すね! シュプレヒコールだ! そして乱闘だ! 場外乱闘2007夏の陣だ!

おらああああハアハア…、キョン! ハアハアハア…いるなら出てきやがれ! ハアハアハアハア…

「あれ、谷口じゃないか。どうしたんだ、そんなにあわてて」

俺がヤツのマンションの前にたどり着くと、キョンはマンションの横で空気プールにエアをつっこんでいるところだった。

「あ、谷口くん。こんにちは」

やあ朝比奈さん。こんにちは。今日も一段とお暑いですねぇ。やいキョン! お前、明日の縁日で金魚すくいやるんだって!?

「ああ、そうだけど」

キョンが指さす空気プールの中を見て、俺は驚愕したね。空気プールの中には色とりどりの見目鮮やかな金魚たちがスイスイと、活発な幼稚園児なみに元気に泳いでいる。その中には、1匹50円はするんじゃないか級の大物も、威厳をもって漂っている。

……おい、キョン。お前、こいつを金魚すくいで売るのか? いったいいくらの料金でやるつもりだ?

「え? いや、まだそこまで詳しく決めてなかったけど、金魚すくいは1回100円くらいが相場だろ」

…は? なに言ってるのお前。こんな豪華なメンツで1回100円? お前、明日の縁日でなにする気? 慈善事業? チャリティー金魚フェスタでも開催するつもりなの?

そんなナアナア経営で、この厳しい業界で儲けが上げられるものか!

「おい谷口。お前こそなに言ってるんだよ。ちょっと落ち着けって。縁日の夜店っていったら、なんて言うか、いつもの日常とは少し違った非日常みたいなものを演出してお客さんに楽しんでもらうための場所だろ? そういう意味では、お前の言うとおり慈善事業かもしれないな。店に来てくれたお客さんに楽しく遊んでもらう。それが俺たちの喜びにもなるんじゃないか」

喜び?

キョンの言わんとしているところがイマイチ判断できず考え込んでいた俺だったが、しばらく考えて、彼の意図がようやく分かった。そうか。分かりたくもなかったが、恐るべき事実が今発覚した。

要するにこいつは、小学生レベルの価値観でものを考えているんだ。

 

小学生はよく社会の授業の一環として牛乳パックや空き缶、木の枝なんかを組み合わせて玩具をつくり、それをクラス内で、紙で作ったお金で売り買いして金銭感覚を身につける勉強をする。その際、クラスの担任の先生は必ずこう言うんだ。

『おもちゃを売ったお金が多ければいいとか、少なかったらダメというわけではありません』

『売る人は買う人の、買う人は売る人の気持ちになってください』

『みんな仲良く、楽しくお買い物をしましょうね』

 

キョンは、迷いのない真っ直ぐな目で俺を見ていた。その目の奥には、「こいつ、何を言ってるんだ? 先生の言うとおりにしないとダメじゃないか」という、優等生特有の猪突猛進的絶対価値観を信奉する色が見え隠れしている。

俺はがくりとヒザをついた。

なんてこった。

…ダメだ。勝てない。こういう「お父さん、お母さん、先生の言うとおりにしていれば間違いはない」という目上の人の教え信者は、同年代の人間がなにを言っても聞き入れやしないんだ。理由は実に単純明快で、「学校の先生はそんなこと言ってなかった」の1語に尽きる。

大きく育てよ、と言いながら金魚にエサを与えるキョンと朝比奈さんの姿を見て、俺はげんなりして2人に背をむけた。育てるつもりなのかよ。この分だときっとマンション裏か近所の公園には、死んだ金魚のお墓が建立されているに違いない。ヘタすると、金魚の1匹1匹に名前までつけてしまっているかもしれない。だって小学生レベルの脳みそだから。

 

 

夏祭り当日。その日は朝から、太陽ジリジリの夏真っ盛りなド快晴だった。

昨日は嫌なものを見てしまったからやる気がクールダウンしていたが、やらないわけにはいかない。もう金魚の代金は支払っちまったんだ。退くに退けない状況なのである。

倦怠感をひきづりながらアパートの外に出ると、表で長門が金魚のコンテナをチャプチャプしながらなにか言っていた。

どうした。金魚がベリーダンスでも踊ってるのか?

「………兄貴。私こいつに名前つけたよ。ジョセフィーヌ」

そういって長門は、単価15円の出目金を手ですくって俺の目の前につき出した。

俺はそれを手にうけとり、コンテナの中に放り込んだ。単価15円の金魚はすいすいと、約399匹の仲間たちの中にもぐりこんでいった。

どいつ? どの子がジョセフィーヌだって? もう1回俺に紹介してよ。

「………兄貴のいじわる」

あのな、長門。彼女はジョセフィーヌなんて名じゃない。彼女の名前は、出目金っていうんだ。

 

 

 

薄暗くなった空の下、大勢の人たちが道路上を歩いている。時間は夜の20時前だと言うのに、電気提灯や街灯のおかげで、あたりはまだ夕方のような明るさだ。商店街脇にある広い公園のど真ん中にでかでかと矢倉を組み、その上にセットされたスピーカーがワーワーと地元青年会の事務連絡を放送している。

そこらを楽しそうに走り回る子ども。はにかみながら仲間とつれだって歩いていく中学生か高校生くらい集団。愛想笑いみたいに微笑むおっちゃん。浴衣姿のねえちゃん。視界をうめつくすほどたくさんの人たちが皆、思い思いに移動している。がやがやと喧騒うずまく中ぼーっと人の群れを眺めていると、人間ってひとりひとりがやっぱり違う生き物なんだな、と変に感心してしまう。

とにかく熱気がすごい。あと、虫もとんでる。ライトの周辺とか。夏祭りなんだなあ。

「………客、こないね」

ああ、こないね、と長門の言葉に適当な相槌をうつ。まあ、予想はしてたけど。

俺は肩にかけたタオルを弄びながら、呆けたように人の流れに目をむけていた。たまに客はくるが、本当にたまに、だ。集客率は圧倒的に悪い。そりゃそうだ。うちから100m離れたところに、うちの店より安くて質のいい金魚すくい屋があるんだから。好きこのんでわざわざうちに足を運ぶような物好きはいないさ。稀にうちに来る客も、キョンの店のことを知らない人たちなのだろう。

「………1時間半経つけど、元とれた?」

長門の問いに、俺は無言で首を横にふる。笑いたきゃ笑えよ。

 

「あら、ずいぶん金魚がたくさんいるわね」

コンテナを挟んで俺の正面に、髪をアップにまとめた朝倉涼子が座っていた。

こんばーわ、おねーさん。いっかいいかがすかー。いきのいいのがそろっちょるよ。

「やる気ないわね。まったく。ライバル店は繁盛してるって言うのに。しかたないわね。はい、200円」

長門が朝倉さんの差し出した代金を受け取り、代わりに俺がピーポイと受け皿を手渡した。悪いねえ、おねえさん。

朝倉涼子はしばらく難しい顔をして水槽の中でピーポイをぐりぐり動かしていた。

「私ね、今日お姉ちゃんと一緒にきたんだ」

うまく金魚の下をとらえたが、持ち上げる時の力がつよすぎたのか、ポイの紙は真ん中から破れてしまった。

「今の仕事なんだけどね」

朝倉涼子はまた200円を出し、長門に渡した。あじゅじゅしたー。

「アパートでペットが飼えたらなって、時々思うのよね」

朝倉涼子は微妙な力加減というのが苦手なのか、また同じ過ちをおかしてポイの紙をぶち破った。

「梅雨もあがったって言うのに。なんでこんなに蒸し暑いのかしら」

魚影を狙いながらひとりで身の上話を語り続ける朝倉涼子は、結局金魚をとらえることなく800円浪費してくれたのだった。

「あーあ。私って金魚すくいの才能ないのかしら?」

才能っていうか、これは慣れみたいなところもあるし。気にすることないんじゃない? はい、金魚。サービスだぜ。

「5匹もくれるの? いいの?」

いいさ。どうせ残っても、処分に困るだけだし。

 

 

朝倉涼子が帰ってから、ずっと客足は途絶えたままだった。長門、お前も遊んできたらどうだ? ずっとここに居てもヒマなだけだろ。

「………いいの?」

いいもなにも。俺は手伝ってくれなんて言った覚えはないぞ。ボランティアで手伝ってくれたんだろ? ありがとな。後でカキ氷くらいおごるからさ。

「………うん。じゃあ、行ってくる」

いつもの通りゆるゆるとした動きで立ち上がり、長門は俺の方をちょっとだけ見て、ゆるゆると提灯通りの向こうに消えて行った。

俺は頭のうしろで手を組み、背伸びしながらダンボールにもたれかかった。あーあ。どうするかな。元金くらい確保してえなあ…。

なんかしんどい…。ここんとこ、いろいろあったからな……。金魚すくいで頑張ろうと思っても、また計画が狂っちまったし……。ああ。眠い………。

耳朶をうつ喧騒が、いつの間にか俺の頭から消えていた。心地良いまどろみが訪れ、ゆっくりと、俺のまぶたを下ろしていった。

 

 

 

暗い。どこだ、ここは? 俺は自分がなんでこんなところにいるのかも分からないまま、ぐるりと身の回りに目をやった。前も後ろも、右も左も上も下も、なにもない。いや、なにも見えないだけなのかもしれない。暗くて。

身体を動かそうとしても、身体が動かない。どうしたんだ、俺は? 金縛りにでも遭ったのか? それとも性質の悪い誘拐犯にでもさらわれて拘束されちまったのか? やめろよ、うちには身代金なんて用意できる資産はないぜ。

その時、不意に気づいた。足元がおぼつかない。足の裏に意識をやってみるが、いつもは感じられる大地の感覚がまったくない。まるで身体をクレーンでつるし上げられているみたいだ。

俺は腹の底から不安がムクムクとこみあげてくるのを感じた。どこだここは? なんで俺は空中なんかに浮いてるんだ?

いや、ひょっとしてここは水中なのか? でも呼吸はできるよな。うん。いや待て、ひょっとして、呼吸もできていないんじゃないか? そういえば妙に息苦しいような、そうでないような…?

なんなんだ、これは!? 誰か、教えてくれ! 俺はどうなっちまったんだ!?

 

『知りたいですか?』

俺の目の前に、ふっとにやけた顔の男が現れた。自分の手も見えないくらい真っ暗な闇の中に、ぽつっと古泉一樹がうかんでいた。

なんなんだ、これは? お前が俺に、何かしたのか?

唐突に現れたのと同じく、古泉一樹は唐突に闇の中へ溶暗していった。するとその向こうに、人の背中が見えた。ずいぶん遠くだ。50mは離れているだろうか。数人の人間が俺に背をむけて歩いている。

待ってくれ、おい!? そこの人たち、ここはどこなんだ? 教えてくれ。振り向いてくれ!

俺が呼びかけるとその人たちはようやく俺の存在に気づいたのか、後ろを振り返った。

 

涼宮ハルヒ。古泉一樹。朝比奈みくる。国木田。喜緑江美里。

その5人の他にも見覚えのあるようなないような、曖昧な顔が並んでいる。よく見ると、その数人のさらにむこうにも、たくさんの人間が並んでいた。そして、その全員が一様に、俺を見ている。ぞっとした。

なんなんだよ!? なんで俺を無表情な顔で見てるんだ?

俺の隣を、すっと誰かが通りすぎた。視線をうごかす。キョンだった。風が流れるように、すーっと、キョンが俺の横を通りすぎる。

お、おい、待てよ。どこへ行くんだ、キョン?

そしてその時、俺は気づいた。俺の前に控える無数の人たちは俺を見ていたんじゃなかった。全員、キョンを見ていたんだ。俺の隣をキョンが通り過ぎた時、無表情な集団は視線をキョンに釘付けにしたまま、他を見向きもしない。俺なんて眼中にないって感じだ。

おいキョンってばよ!? お前がどこへ行こうと勝手だが、せめて俺の状況をなんとかしていけよ。そう思ったが、キョンは依然流れる水のように前進をつづけるだけだ。

 

『兄貴。兄貴も、わたしを置いてむこうに行っちゃうの?』

背後からの小さな声に身をふるわせ、振り返る。俺のすぐ後ろには、悲しげな表情の長門有希が立っていた。

俺が、あっちへ? なんで?

キョンの身体は見えない力に引き寄せられるように、前へ前へとすべっていく。

俺の手に、ひやりとした感触が走った。長門から目を離し、自分の手に視線をうつす。

『助けてよ。谷口くん』

顔を伏せた朝倉涼子が、俺の手をぎゅっと握っていた。顔を伏せているからその表情までは分からないが、朝倉涼子の声は怯えたように震えていた。

やりきれない気持ちになる。小刻みにふるえる肩を抱いてやろうと手を伸ばしかけ、俺は気づいた。

そうだ。俺、身体が動かないんだった。

『ねえ』

キョンの身体が、もう光の向こう側にまで達しようとしていた。

『ねえ』

 

 

 

「ねえってば」

急激な五感に身体をうち震わせ、俺は飛び上がった。びっしょりと汗ばむ自分の身体を手で確認し、周囲に目を配る。行き交う人々。まぶしい街灯。金魚の泳ぐコンテナ。

……夢か…。ふう…。変な夢みたな。

「起きたかい?」

コンテナの向こう側で、髪の長い女性がきょとんとした顔で俺を見ていた。やべ! 寝ちまったんだ、俺! 客の前だってたのに。

「なんかうなされてたみたいだけど、大丈夫かな? キミ、悪夢でも見たのかな?」

悪いね、ちょい疲れがたまってて眠っちまったんだ。あんたひょっとして、お客さん?

髪の長いその女性はにこっと笑い、手のひらに載せた200円を差し出した。

「1回、200円だよね?」

寝顔をみられた気恥ずかしさも手伝って、俺は照れ笑いを浮かべて無言でその女性にピーポイと受け皿を渡した。

 

「よ~し。がんばるにょろ」

言うが早いか、その女性はえいっとピーポイを正面から水に勢いよくつっこんだ。その衝撃でぱっと紙が裂けてしまった。

ちょっと、姉さん。そんなに強くつっこんだら、すぐ破けちまうって。あーあ、残念。

「え、そうなの? 知らなかった! う~ん、もっと頑丈な紙だと信じてたのに」

いやいや。どこの店でもそんなもんだって。姉さん、ひょっとして金魚すくい初心者かい?

鶴屋でいいっさ、と言ってその女性は八重歯を見せて笑った。つられて俺も笑ってしまった。変わった人だな。

「金魚すくいって初めてなんだよね。何かコツとかあるのかい?」

鶴屋さんはぐっと身をのりだして、その大きな瞳で俺の目を覗き込んだ。思わず俺は後ろへのけぞってしまう。その拍子にバランスを崩し、ダンボールの山へ頭からつっこんだ。ばらばらと音を立てて積んでいたダンボールが瓦解する。

「あっはははは。何やってるんだい? ひょっとしてそのアクション、客サービスぅ?」

いや、違う。これは、あれだ。あれだよ。目覚めの体操。

人の顔色をうかがう猫のような好奇にあふれる目つきで小首をかしげた鶴屋さんは、おなかを抱えてけらけらと笑いだした。
「なにその体操~? おっかしい。キミって変わった健康法を生活にとりいれてるんだねぇ。ジャッキー・チェンもビックリっさ!」

な、なんでだよ。ジャッキー。

ここまで笑われるとさすがに周囲の目が気になるところだが、なぜだろう。鶴屋さんの笑い声を聞いていると、まあいいか、という気分になってくる。不思議な人だな。

 

鶴屋さん、金魚すくい初めてだったのか。知らなかったこととはいえ、失礼しました。これ、サービス。もう1回やりなよ。今度は気をつけてね。

「え? いいのかい? お金はらわなくても?」

いいよ。どうせ客もいないしさ。もうそろそろ店を閉めようと思ってたんだ。最後の客ってことで、気が済むまでやっていきなよ。金はいらねえ。とっときな。

「粋だねぇ。けっこう好きだよ、そういうの」

にひひと笑い、鶴屋さんはシャツのそでを腕まくりして受け皿を手にした。

そして、またピーポイを勢いよく水面に、正面からつっこんだ。

 

 

鶴屋さんが12枚目のピーポイを豪快に破る頃には、だいぶ縁日の路上を行きかう人の数も減っていた。時計は21時を指していた。

一挙手一投足にオーバーともいえるリアクションを見せる鶴屋さんを見ていると、こっちまで楽しくなってくる。キョンに出し抜かれたことも赤字が出たことも、何もかも忘れて俺たちは2人でけらけら笑いながらピーポイを破りまくっていた。こうなってくるともう、金魚をすくうことなどどうでも良くなり、いかにポイの紙を破るかがおかしくてしかたなくなっていた。人間、テンション上がったらそんなもんだ。

「あ~あ。とうとう1匹も金魚すくえなかったよ…」

眉を八の字にまげて、鶴屋さんは立ち上がった。

そろそろ帰るのかい?

「うん。もうこんな時間だし」

俺は手持ちの網でコンテナの中の金魚を10匹ほどまとめてすくい獲ると、それを手提げビニールに流し込んだ。

はい、これ。敢闘賞だ。やるよ。よくピーポイ23枚も破ったもんだ。感心したよ。見上げた根性だ。

「いいのかい? 私、最初の200円しか払ってないよ?」

言ったろ? もうこれで店は仕舞いなんだ。残したってしかたないんだよ。

鶴屋さんは受け取ったビニール袋の中を、しばらく無言でまじまじと見つめていた。

「……きれい。金魚って、すごいきれいだね…」

そんなに珍しい物でもないだろ。メダカほどじゃないが、日本中どこででも手に入る魚だと思うけど。

「私の故郷には、こんなきれいな魚はいなかったからね。とっても嬉しいよ!」

ふーん。ま、いいや。そんだけ気にいってくれたんなら、こっちも本望だ。正直いってさっきまではさ、金魚すくいなんてやるんじゃなかったって後悔してたけど。今はそうでもない。やってよかったな、て思ってる。儲けなんてなくてもさ。鶴屋さんに喜んでもらえただけで、俺は満足だ。

「私もっさ。ありがと」

しばらく俺と鶴屋さんは、無言で視線をあわせていた。その後、2人で少しふきだした。

 

「めがっさ楽しかったよ、谷口くん。お礼に、私がキミにとってもいいこと教えてあげるっ!」

余ったピーポイをダンボールに放り込むため、後ろの倒れたダンボールに目をやった。

「今日の21時27分。公園の真ん中に建ってる矢倉に近づいたらダメにょろよ? いい? 絶対に。お姉さんとの約束っさ」
え?

ダンボールを片手に、俺は再び鶴屋さんに視線を戻す。

 

しかしそこには、誰もいなかった。

あれ? 鶴屋さん? どこ行った?

コンテナ越しに路上に首を出し、きょろきょろと周りを見回してみたが、どこにも鶴屋さんの姿は見えなかった。人もまばらで見通しも良い場所なのに。おかしいな。

「………兄貴、どうしたの?」

ああ、長門か。いや、なんでもない。

「………店、早めに閉めるの? じゃあ約束通り、カキ氷おごって」

ん? ああ、そんな約束してたな。いいぜ。何がいい? イチゴか? メロンか?

「………みぞれ。練乳いり」

はいはい。

俺は苦笑しながら、片付けもそこそこに夜店を離れた。氷屋が閉まっちまう前に、長門にカキ氷をおごってやらないといけないし、俺自身も祭りを少しは楽しみたいしな。後片付けなんて、後でいくらでもできる。

 

 

 ───21時27分。公園の真ん中にある矢倉に近づいたらダメにょろよ? いい? 絶対に。お姉さんとの約束っさ

なんのこっちゃ。

 

 

 

  ~つづく~


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